異世界結婚!?~妖怪に嫁いだ女~

咲 カヲル

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1話

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古いお寺のような建物を見下ろしている。
瞬きをした次の瞬間、見えていた景色が変わった。
薄暗く埃臭い部屋の隅で、顔を隠すように、少女が、膝を抱えている。
その小さな肩が、微かに震えている。
少女は、声を殺して、泣いているのだろう。
そっと、手を伸ばし、少女の頭に触れようとするが、触れられない。
今度は、声を掛けようと、視線を向けた瞬間、眩しい程の光が、少女を包み込んだ。
眩しすぎて、目を開けていられない。
腕で顔を庇い、光が静まるのを待った。
瞼を閉じても、明るく感じる程の光は、どれ程続いたのだろうか。
光が弱くなるのを感じ取り、徐々に、閉じていた瞼を開けると、少女の前に人のような影が現れた。
瞬きをした瞬間、また景色が変わる。
今まで横から見ていた光景が、目の前に広がった。
少女の姿へと変わり、驚きと困惑が入り交じる。
顔を上げ、ろくに涙も拭かず、逆光となり、顔も姿も分からない人を見上げる。

『どうした?』

頭の中に、直接、声が響くように聞こえる。
とても低く、優しく、そして、何よりも暖かい声の主は、見上げている人なのだろうか。

「おじいちゃんが…しんじゃ…って…ままが…ままがぁ…う…うぅ…ふぅ~~うっうぅ…ふぅっ…ふぅっ」

悲しくなり、また声を殺して、目を伏せ、涙を堪えていた。

『…泣くな』

優しく触れられた頭から、強張っていた気持ちが、楽になっていく。
いつの間にか、その膝に顔を埋め、唇を噛んで泣いていた。

『…淋しいのか?』

流れる涙の跡を消すように、首を左右に振る。

『…悲しいのか?』

また首を振ると、しばらくの間、鼻をすする音だけが、室内に響いた。

『辛く、苦しいのだな?』

しばらくして、発せられた言葉に、小さく頷く。
また、無言になり、布が擦れる音が聞こえ、柔らかく、暖かな手が、頭の上に乗せられた。
次第に、体の力が抜け、徐々に、眠気が襲ってくる。

『…眠いのか?』

頭を優しく撫でる手は、あの人に、似ている。

『一緒にいてやる。だから…もう、泣くな』

顔を上げ、相手を見つめる。
だが、その顔は、その背に背負う光に因って見えない。

「ほんと?」

『あぁ』

「…ずっと…?」

その肩が、ビクッと震え、また、鼻水をすする音だけが、湿気った室内に響く。

『…分かった。ずっと一緒にいよう』

瞬きをすると、さっきと同じように、少女たちを横から見ていた。
少女は、涙を溜めたまま、ニッコリと、嬉しそうな笑顔を見せた。

『だから、もう泣くなよ』

2人の姿が、光に包まれ、眩しさに瞼を閉じると、今度は、何も見えない程の暗闇が現れた。
次の瞬間、ジリリリと、耳障りな目覚ましの音が聞こえ、閉じていた瞼を開けた。
上半身だけを起こし、ベットの横のローチェストの上を手探りする。
根源である目覚まし時計が、コツンと、指先にぶつかり、けたたましく鳴り響く音を止めた。
重たい体を起こし、目を擦りながら、ベットから足を降し、冷たい床に足裏がヒヤッとした。
ベットから一気に立ち上がり、のそのそと歩く後ろ姿は、中年親父のように見えるだろう。
冷蔵庫の食パンを1枚取り出して、レンジに入れ、トーストのボタンを押し、浴室に向う。
着ていた物を脱ぎ捨て、頭から、熱いシャワーを浴びた。
手短に全身を洗い、スッキリした顔で、シャワーを止めると、ドアを開けた。
湯気が、脱衣場の中を充満していく。
その中で、適当に、全身を拭き、チェストから、下着を取り出して、身に付けた。
そのまま脱衣場を出て、トーストをかじって脱衣場に戻る。
下着姿のまま、トーストを食べながら、ドライヤーを乱暴にかける。
器用に、口だけを動かし、トーストを食べ続け、全てを飲み込むと、髪は、乾ききっていないが、ドライヤーを止めた。
口に歯ブラシを突っ込み、ブラウスの袖に腕を通した。
ブラウスのボタンを留めながら、歯を磨き、制服のスカートを履く。
歯磨きを続けていると、今度は、携帯のアラームが鳴り響く。
歯磨きを終わらせ、脱衣場を出て、テレビ台の上にある充電器から、携帯を外し、アラームを止めて鞄を持った。
玄関先で、ブレザーを着ながら、靴箱の上の小物入れから、鍵を持ち、革靴を履く。
玄関を開け、外に出ると、鍵を掛けて、ブレザーのボタンを留めながら、コンコンと、靴音を響かせ、軽快に階段を降りた。
コツコツと、短い距離を足早に歩き、駐輪場から、自転車を取り出した。

「おはよう。凜華ちゃん」

「おはようございます」

近所のおばさんと挨拶しながら、自転車に跨り、ペダルに足を乗せる。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

ペダルを踏み込み、いつもと同じ学校までの道のりを走り抜ける。

「おはよ」

学校に近付く程、同じ制服を着た人が増えた。

「おはよう」

挨拶しながら、学校の駐輪場に、自転車を止めて、校舎に向かい、足早に歩いた。
下駄箱で、靴を取り替えていると、後ろから声を掛けられた。

「寺西。おはよ」

振り返ると、クラスメイトの五月女幸彦(サオトメユキヒコ)が、立っていた。

「おはよう」

「プリントやった?」

「なんの?」

「前に渡されたプリントだよ」

「あれ?今日提出だっけ」

「なに?忘れてたのかよ」

「まぁ、なんとかなるよ」

そんな他愛のない事を話ながら、教室に向かい、並んで階段を登る。
雑談をする女子。
雑誌を広げて盛り上がる男子。
後ろのドアから入り、その賑やかな教室内を通り抜け、窓際の一番後ろの席に座り、鞄からプリントを取り出した。
進路希望調査。
プリントを机に置いて、頬杖を着いた。
にらめっこをするように、じっとプリントを見下ろした。
開いていた窓から風が、流れ込んみ、髪を揺らした。
眩しい程の太陽。
まだ少し冷たい風。
視線を向けた外の景色に、不意に、頭の中に、今朝の夢が、鮮明に浮かんできた。
古いお寺のような建物。
薄暗く、埃臭い室内。
そこで泣く少女。
顔の見えない人影。
誕生日を迎え、18歳になってから、あの夢を頻繁に見るようになった。

「おっはよう!!」

大きな声が聞こえ、ドキドキと、小さく心臓を鳴らしながら、平常を装って横を向くと、友人の一条舞子(イチジョウマイコ)が、ニコニコと満面の笑みを携えていた。

「どうした?」

舞子は、机に置いてあるプリントに、視線を向け、鼻で溜め息をついた。

「そんなさ~。マジで、悩まなくていいんじゃない?」

またプリントに視線を向け、鼻を小さく鳴らすと、舞子は、また鼻で溜め息をついた。

「進路なんて、変わるもんでしょ。私なんか、父さんの会社の後継ぎって書いたけど、本当に後を継ごうなんて、思ってないし。それに、これって夏休みが終わったら、また、書かされるらしいから、今は、なんとなくでいいんじゃない?」

「そっかぁ」

「そうだよ。それよりさ。昨日の…え~。マジでか~。また、あとでね」

チャイムが鳴り、舞子は、手を振り、自分の席に戻ったいく。
小さく手を振って、鼻で、小さな溜め息をつき、外に視線を向けた。

『ずっと一緒にいよう』

夢の中で聞こえた声が、また聞こえた気がした。
視線を下げ、校庭を見下ろすと、校舎の木陰の中に人影が見えた。
肩の辺りまで伸びた金髪は、太陽の光を跳ね返す程、輝いていた。
肉食獣のような鋭い目元が、柔らかく弧を描き、優しく微笑んでいる。
距離があるのに、すぐ側で、見つめ合っているような感覚に陥り、周囲の雑音が消え、そこが、2人だけの世界のように感じる。

「…し…て…らに…寺西…寺西凜華(テラニシリンカ)!!」

「はっはい!!」

突然聞こえた声に、立ち上がりながら、返事をすると、担任の佐藤隆也(サトウタカヤ)が、教台に立っていた。

「外を見てもいいが、アホ面はやめろ」

周りから、クスクスと、笑い声が漏れ、恥ずかしさで、頬に熱が集まり赤くなる。
その顔を上げていられず、机に視線を落とした。

「…すみません」

小さな声で謝罪をし、椅子に座り直して、横目で、窓の外に視線を戻す。
そこに、あの人は、もういない。
小さく、首を傾げると、また隆也の声が飛ぶ。

「寺西~。調子悪なら保健室行けよ~」

教台の上から降りようと、名簿を持った隆也に、首を傾げたのが、見られたらしく、首を振り、ニコッと、笑みを浮かべた。
だが、その無理に浮かべた笑みは、とても弱々しい。
隆也は、ため息をつき、仏頂面になって、教室から出て行った。
座ったまま、両腕を伸ばして、机にうつ伏せになると、舞子と幸彦が近付いてきた。

「大丈夫か?」

また、小さく鼻を鳴らすと、2人は、心配そうに眉を寄せた。

「保健室行く?」

「行かない」

「無理すんなよ?」

「大丈夫だよ」

体を起こすと、舞子は、机に手を着き、前のめりになって顔を近付けた。

「大丈夫じゃない!!凜華は、頑張りすぎなんだよ。放課後とか、休みの日も、バイトしてんでしょ?」

「マジ!?」

「知らないの?」

「初めて知った」

「ダサ。そんなんだから、モテないんじゃない?」

「うっせぇ。週、何日?」

「週、五…くらい?」

「マジかよ。ちゃんと寝てんのか?」

「寝てるよ。それより、1限目ってなんだっけ?」

「数学だよ?」

「マジか。連続で、隆也先生は、イヤかも」

「そういえば、宿題やった?」

そんな風に、3人で雑談をしていたが、徐々に、気分が悪くなり始めた。

「凜華?大丈夫?」

「大丈夫」

「かなり顔色悪いぞ?保健室…」

「大丈夫だって」

チャイムが鳴り、2人が戻って行くのを見送り、数学の準備を机の上に置くと、隆也が、教室に入って来て、すぐに授業が始まった。
しばらくは、授業を聞いていることが出来たが、もう限界だった。

「先生」

呼び掛けながら、手を挙げると、数式を書いていた隆也が振り返り、数人の生徒も視線を向ける。
その中には、あの2人の視線もあった。

「なんだ?」

「気分が悪いので、保健室行ってもいいですか?」

「…あぁ。いいぞ」

立ち上がろうとした瞬間、めまいで視界が歪んだ。
ガタンと、音を発てながら、机に手を着いたが、目の前がボヤけ、薄暗くなり始めた。

「寺西!!大丈夫か?」

「…はい」

かなり小さな声で、返事をしたが、あっという間に、視界が暗くなり、意識が途絶え、冷たい教室の床に倒れてしまった。

「寺西!!」

「凜華!!」

幸彦と舞子の声と周囲のざわつきが、重なる中、走り寄った足音に、ぐったりする体を抱き上げた。
一気に走り出すと、教室内が騒がしくなる。
重く熱くなった体が、振動で大きく揺れる。
だが、その振動が心地よく、荒くなった呼吸が、耳に伝わる心音に、少しずつ落ち着く。

『…ンカ…リンカ…』

誰かが呼んでる。
瞼を開けようとも、とても重く、上がらない。
そこに、急に光が溢れ、その中に、人影が浮かぶ。

『迎えに来たぞ』

手を差し出したように、人影が動くが、眩しい光の中では、ハッキリと見ることが出来ない。

『リンカ』

ぼんやりする頭に、その手が触れた。
その冷たい手に、熱が奪われていくようで、体が少しずつ楽になる。
重たく感じた瞼も、徐々に軽くなり、静かに持ち上げると、そこには、校庭にいた人が、優しい微笑みを携えていた。
その隙間から燃え盛る炎のような赤い瞳が、小さく揺れている。
その口元が、静かに開かれた瞬間、ガラガラと、戸が開く音が響いた。
瞬きをすると、そこにいた彼の姿は、消えていた。

「凜華」

カーテンを捲り、舞子と幸彦が、顔を出した。

「大丈夫?」

視線を向け、上半身を起こそうと動き、2人は、慌てて近付いた。

「無理すんなよ」

「そうだよ」

2人に支えられるように座り、周りを見渡してみたが、2人以外は、誰もいない。

「今の…人は?」

2人は、顔を見合わせると、舞子は、眉を寄せたまま、不思議そうに、首を傾げた。

「誰かいたの?」

「男の人。2人が入って来たら、いなくなったけど」

何度も、瞬きする舞子に向かい、幸彦が、首を傾げた。

「誰もいなかったよな?」

「うん…」

「うそだぁ」

「どんな奴?」

「こう…肩よりも少し短い金髪で、猫の目みたいに、目尻が少し上がってて、瞳の色が赤いけど、優しそうな人」

「五月女くらいの長さ?」

幸彦の髪も、真っ黒で肩よりも短い。
だが、何かが違う。

「ん~。五月女君よりも、こう、襟足だけが、長かったような気がする」

「そんな人、学校にいないと思うけど」

「そう…だよね。寝ぼけてたのかな」

一瞬、窓の外に視線を向けると、木の影で、何か動いたような気がしたが、すぐに、心配する2人を見上げた。
その後、保険医が戻り、熱を計ると平熱に戻っていた。
体のダルさや熱っぽさもなく、3限目から、普通に授業を受け、休み時間や昼食は、舞子や幸彦と、話をしながら一緒に過ごした。
午後の授業も、難なく終わり、放課後になると、幸彦と舞子に、遊びに誘われたが断った。
靴を履き替えようと、下駄箱を開ける。

「…え」

靴の上に、二つ折りになった紙が、置かれていた。
周りを見回して、その紙を取り出して、開こうとした。

「寺西?」

声を掛けられ、驚きながら、視線を向けると、鞄を持った幸彦が、1人でいた。

「五月女君…」

「どうした?」

「何でもない」

ぎこちなく笑い、隠すように、紙をブレザーのポケットに押し込んで、靴を履き替える。

「じゃぁねぇ」

「あ。寺西」

呼び止められても、振り返らず、小走りで、駐輪場に向かう。
不意に、駐輪場の近くにある木が、視界に入り、足を止めた。
優しく吹き抜ける風が、キラキラと、輝く金色の髪を拐う。
後ろ髪だけを長く伸ばし、緩く束ね、赤い瞳が細く見える。
暖かく優しい微笑みに、視線を奪われた。
見つめ合っていると、また2人だけの世界になったような感覚になる。
そんな世界に浸っている時、肩を叩かれ、驚きながら、振り返った。
そこには、舞子が、不思議そうに首を傾げていた。

「どうしたの?」

「さっき、話した人がいたの」

「どこ?」

「あそこ…」

木陰を指差したが、その姿は、もうそこにない。

「誰もいないじゃん」

「そんな…確かにいたのに…」

「凜華…本当に大丈夫?」

「舞子…」

「今日は、バイト休んだら?」

「大丈夫…って今何時!?」

「え?今…4時半だけど」

「ヤバい!!じゃね」

「あ!凜華!!行っちゃったよ…」

舞子を残し、駐輪場から自転車を取り出すと、急いで、バイト先に向かい、ペダルを踏む。
時間ギリギリで、バイト先の飲食店に着き、慌ただしく準備をし、タイムカードに打刻をして働き始めた。
普段ならば、22時まで働く。
社員に、声を掛けられた。

「寺西さん。もうあがって」

「はい」

タイムカードを機械に入れ、退刻時間を印字する。
21時15分。
時間を見て、溜め息をつきそうになるが、飲み込んで、着替えを始める。

「お先に失礼します」

「お疲れ」

他の社員は、定時ギリギリまで、働かせてくれるが、この社員の時だけは、定時前に帰される。
適当に挨拶をして、店を出て、自転車を走らせる。
家の近くにあるコンビニに寄り、一番安くて、大きいお茶の紙パックを手に持つ。
弁当やおにぎりが乗った棚の前に移動し、不意に、いなり寿司が視界に入った。
じっと見つめてから手に持ち、会計を済ませ、レジ袋を自転車のカゴに入れ、周囲を見渡す。
ずっと、誰かに見られてる気がするが、周りを見ても、誰もいない。
その状況に、恐怖を感じ、全速力で、自転車を走らせた。
駐輪場に自転車を止め、階段を一気に駆け上がる。
壁に張り付きながら、玄関を見て、そこに、何もないことを確認する。
階段や廊下、周りも、キョロキョロと、見渡して誰もいないのを確認した。
いつの間にか、止めていた息を一気に吐き出し、鍵を取り出して、玄関の前に立つ。
鍵穴に、鍵を差し込んだ瞬間、後ろに気配を感じた。
顔を横に向けて、横目で後ろを見ると、黒いコートに野球帽を深く被り、マスクで、口元を隠した人が立っていた。
背中に、冷や汗が吹き出し、口が、カラカラに渇き、喉が、張り付いたように声が出ない。
体が動かず、呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
恐怖で、小さく震え始めると、その手が伸びてくる。
瞬きをした瞬間、目の前に、あの金髪が揺れていた。

「…っつ!!」

小さな声に、背中の向こうに、視線を移すと、不審者の手が掴まれ、赤黒く色を変え始めた。

「コイツは私のだ」

その手を軽く押したように見えたが、不審者は、背中を塀にぶつけた。

「消えろ」

不審者が、ヨロヨロと立ち上がり、走って逃げて行く。
その背中が見えなくなった瞬間、足から力が抜け、ヘナヘナと、その場に座り込み、下を向いた。

「…大丈夫か?」

目の前に、差し出された手を伝い、視線を上げると、あの優しい微笑みがあった。

「あっありがとうございます」

その手を借りて、ゆっくり立ち上がった。

「礼はいらない。許嫁を助けるのは、当たり前の事だ」

「イイナズケって…」

「やっと一緒にいれる」

「…はぁ?」

「約束しただろ?ずっと一緒にいてやるって。やっと、見付けたぞ。リンカ」

訳が分からず、固まっていると、首を傾けながら、徐々に、徐々に顔が近付く。

「…うそでしょ?」

体を反らし、聞き返してみるものの、その答えは、返ってこない。

「リンカ」

赤い瞳が目の前まで迫り、その左手が、頬に触れられた。
また、二人だけの世界になったように、周囲が静かになった。

「リンカ…」

「いっ!いやっ!!」

その頬を平手打ちして、怯んだ隙に、急いで鍵を開けた。
部屋に逃げ込み、鍵とチェーンを掛け、玄関先で、何度も、深呼吸を繰り返した。。
呼吸が落ち着き、小物入れに鍵を戻し、革靴を脱ぎ捨てた。
真っ暗な中、壁を手で探り、スイッチを押した。
パチンと音と共に、パッと部屋が明るくなる。
廊下に荷物を置き、ブレザーを所定の位置に下げた時、放課後、ポケットに、押し込んだ紙が、カサっと、音を立てた。
紙を取り出し、荷物を持って部屋の中に入り、テーブルに、レジ袋を置こうと視線を向けると、椅子に、フワフワとした毛並みが見えた。
犬のようなの生き物が、椅子に座り、顔を上げた。

「いきなり、平手打ちはないだろう。痛かったじゃないか」

「い…い…い…」

「なんだ?」

「いやぁーーーーーー!!」

夜の空に叫び声を響かせ、持っていた鞄を投げ、レジ袋も投げ付けた
犬のような生き物は、体を揺らして、それらを避け、近付こうとした。

「ちょっと待って!!リンカ!!話を…」

「いや!!」

「待て!!リンカ!!」

「来ないでよ!!」

しばらく、騒いで、喚いてを続けながら、部屋中を逃げ回っていたが、次第に疲れ、ペタンと、その場に座り込んだ。
大人しくなると、犬のような生き物が、そろそろと近付いた。

「リンカ。頼むから話を…」

「来ないで!!来ないでよ!!」

近くにあったクッションを掴み、目を閉じて、投げようとすると、手首を掴まれた。
驚きで、目を開けると、そこには、、さっき、金髪の人が、怒ったように、目尻を吊り上げていた。

「聞け」

地を這うような低い声で、静かに告げられたが、その威圧感に、恐怖で震えそうになる。
それを我慢し、大人しくなると、少し目元を緩めて、優しい表情に戻った。

「大丈夫だから…もう泣くな」

いつの間にか、涙が溢れ、頬を流れ落ちていく。
優しく暖かな声色に、懐かしさを感じ、振り上げた腕を静かに下ろした。

「だ…れ?」

「稲荷だ」

「い…なり?」

「昔、よく一緒にいたんだぞ?」

「…知らない…」

「古寺で、幼いリンカが、泣いていた時に…」

それは、夢の話であった。
確かに、今の声色は、夢の中で聞いた声、そのものだが、服装が、全く違っていた。
夢で見た人は、袴姿だった。
服を見つめると、稲荷という人は、自分の体を見下ろした。

「あぁ」

瞬きをすると、その人の服装が、変わっていた。

「これでいいか?」

結んでいた髪を解き、袴姿の稲荷は、夢の人と似ているが、瞬きすると、そこには、犬のような生き物がいた。
驚いて、その生き物を見下ろしていると、自分の体を見て、申し訳なさそうに、頭を下げた。

「…すまん」

しばらく、その姿を見つめていたが、袖で涙を乱暴に拭き、投げた荷物を拾った。

「リンカ?」

クッションをあったの場所に戻す。

「怒ってるのか?」

レジ袋をテーブルに置いて、鞄をベットの横に置く。

「それとも、私の姿が、衝撃だったか?」

部屋着のスウェットを持って、脱衣場に向かう。

「婚約者が、妖怪では…」

一緒になって、脱衣場に入ろうとした生き物の目の前で、バタンと、大きな音をさせながらドアを締める。

「リンカ~。開けてくれ~。リンカ~。お~い」

その声を無視して、脱衣場にある洗面台で、乱暴に顔を洗った。
そのまま、顔を上げて、洗面台に、備え付きの鏡を見ると、泣いたせいで、白目が、真っ赤になっていた。
ため息をついて、チェストから、適当にフェイスタオルを取り出す。
乱暴に拭き、着替えを済ませ、脱衣場を出ると、さっきの生き物が、勝手に、荷物を漁っていた。

「ひへんは、ふぁほっはは?」

口いっぱいに、いなり寿司を頬張る姿を見て、盛大な溜め息をついた。

「サイテーだ…」

そう呟き、冷蔵庫の残りご飯で、お茶漬けを作り食べ始めた。
お茶漬けを食べ終えて、紙パックのお茶をマグカップに、注いで飲んでいると、一気に飲み干した。

「…なんなの?」

「稲荷だ」

「違う。アンタは、何処から来て、なんで、ここにいんの」

「何処って…そこから」

その生き物の視線の先を見ると、窓が開いていた。

「ちゃんと締めてたのに…どうやって、開けたのよ」

生き物に向き直って、睨み付けた。

「…普通に」

その答えに、呆れて、何も言えなくなった。

「もういい。なんで、ここにいんのよ」

「なんでって…ちゃんと、伝えたじゃないか」

「聞いてないし」

「履物の所に、書き置きがあったはずだが…」

さっきの紙切れをの存在を思い出し、中身を確認すると、訳の分からない落書きがしてあるだけだった。

「なにこれ。ただの落書きにしか見えない」

「約束したじゃないか」

「約束って何よ」

「幼いかったリンカが、泣きながら“一緒にいろ”と言って、私は、“ずっと一緒にいよう”と約束したんだ」

「ワケ分かんないし。大体、アンタは、何なの?」

「稲荷だ」

「だから違う!!」

「妖狐だ」

「だから、名前…」

「狐だ。妖怪の狐で、妖狐」

「はぁ?呆れた。人ん家に勝手に入って、何が妖怪の狐よ。大体、このご時世、そんな事…」

「本当なんだ!!…信じてくれないのか?」

顔を横に向けて、ため息をつき、横目で生き物を睨んだ。

「信じられるワケないでしょ?こうして、動物と話をしてる事さえ、信じられないんだから」

「だが、現に私は、妖狐なんだ。その証拠に、リンカの前で、変化(ヘンゲ)したり、姿を消して見せただろう」

その日1日の出来事を思い返す。
確かに、突然、消えたり、目の前に現れたり、服装が変わったりしていた。
だが、このご時世、手品師やマジシャンが、簡単にやっている。

「無理ね。その瞬間を見てないんだから、何か仕掛け…」

ボンと音と共に、生き物の周りに、煙が、一瞬だけ立ち込めると、その中から、さっきの人が現れた。

「これでも、信じてくれないか?」

驚きながらも、その人の周りに、さっきの生き物がいないかを確認した。
テーブルの下や椅子の下にはいない。
その人の周りをグルグルと回り、探したがいないのに、何も考えられなくなり、力なく椅子に座った。

「あの頃…私は、よく、人を騙して、楽しんでいたんだ。通行人に道を尋ねるフリをして、水を掛けて、逃げたり…車の前に、この姿のまま、飛び出して、止まらせ、元の姿になって、逃げたり…」

「逃げてばっか」

「あの日も、私が住みかにしていた古寺に、入って行くリンカを見て、バカにしてやろうと思って後を追った」

そこで、声を殺し泣く姿に近付いた。
泣き疲れ、眠っている隙に、元の姿に戻り、脅してやろうとすると、起きるや否や、慌てたように、古寺から飛び出し、走り去ってしまった。
それを追い、黒と白の幕が張られた家に、真っ黒な服装で、老婆に手を引かれて、入って行くのを見た。

「そこから、古寺に向かって、走る後ろ姿を見た時、私は、何とも言えない感情を抱えた。そして、それから私は、古寺に、リンカが、来るのを楽しみにした。だが…ある日…リンカは…来なくなってしまった…何故だ…何故なんだ!!何故…来なくなってしまったんだ…」

テーブルに肘を着き、頭を抱えた。

「そんな事、言われても…全然、覚えてないし」

頭を抱えていた手に、拳を作り、テーブルの上に置いた。

「リンカが、いなくなってからも、私は、リンカの事ばかり、考えていた。この感情が、分からずに戸惑った。それから、色んな、動物や人の話を聞いていく内に、これは、“愛”と言う物だと知り、私は、リンカを愛しているのだと分かった。そして、リンカも、きっと、あの時から、私の事を愛してくれていたのだと知った」

「…はぁ?」

「だから、私は、リンカを探した。リンカを私の嫁として…」

「ちょっと待て!!」

手のひらを見せるように、目の前に突き出し、話を止めさせた。

「それ、小さい頃の話でしょ?私とアンタが、同じ気持ちって、アンタが、思ってるだけだし。私は、思ってないし。てか、そんな約束した覚えないし、そんな事知らない」

その顔を見ると、とても淋しそうに、歪められた。

「…忘れたのか?…私と過ごしたあの日々を…忘れてしまったのか?」

「えっと…あの…まぁ。とにかく、私は、そんな約束してないから。分かったら、もう私に近付かないで」

椅子から立ち上がり、開いている窓に、フラフラと向かっていく。

「…え。ちょっと?」

顔を横に向けてから、一瞬、視線が合うと、小さく微笑んで、窓から飛び降りた。
窓に駆け寄り、外を見下ろすと、さっきの生き物が、こっちを見上げてから、走り去って行った。
その体は、外灯の光を浴びて、金色に光っていた。
昨夜は、寝ることが出来ず、いつもと変わりなく、学校に来たのだが、体が重く、動くのが辛かった。
机に寝そべるようにしていると、幸彦と舞子がやって来た。

「凜華…」

「大丈夫か?」

微かに首を縦に動かすが、その姿は、とても大丈夫には見えない。
その後も、心配されながら、授業を乗り越え、放課後を迎えた。
駐輪場に向かう途中、何かに群がる女子生徒たちがいた。

「通れない」

道が、その群れに塞がれていて、駐輪場に行けない。

「凜華?」

振り返ると、不思議そうに首を傾げた舞子がいた。

「どうしたの?」

「あれ」

群れを指差すと、舞子も、視線を向け、嫌そうな顔をした。

「何あれ」

「分かんない」

「何かいんの?」

「ここからじゃ見えないね」

背伸びをして、人の山が、何に群がっているか、覗こうとしたが、人が、多すぎて見えない。

「よし」

舞子は、一番外側に、いた女子生徒の肩を叩いた。

「なんかあるの?」

「何か分かんないけど、可愛い犬がいるみたいよ」

「どんなの?」

「金色で、ちっちゃくて、可愛いらしいの。それで、尻尾が、フサフサしてるんだって。私も見たい~」

女子生徒は、また、人の群れに戻った。
昨夜の生き物の姿が、頭を過ぎった。

「ちょっとすみません」

「凜華!?」

驚く舞子を残して、人の群れを掻き分けて進む。

「ちょっと!!押さないでよ!!」

「割り込まないでよ!!」

意気込んで、人の山に入ったが、すぐに、舞子の場所に、吐き出されてしまった。

「痛っ」

「大丈夫!?」

吐き出された勢いで、尻餅を着くと、舞子が、近寄って、声を掛けてくれた。
腰をさすりながら、また、人の山を見ると、足の間から、少しだけ、金色の物体が見えた。

「イナリ!!」

名前を呼ぶと、その金色の物体は、女子生徒の足元をすり抜けるように、動き始めた。

「きゃ!!」

「どこ?」

「危ない!!」

「ちょっと!!どけてよ!!」

最後の一人の足元から、飛び出してきた稲荷を抱き止め、持ち上げて顔を見た。

「大丈夫?」

稲荷は、クゥンと、鼻を鳴らして、フサフサの尻尾を振った。

「なに?」

「あの娘のペット?」

「さぁ」

「ズルくない?」

「私も触りたい」

人の群れから、ヒソヒソと、話し声が、聞こえ始めた。

「ちょっと!!凜華!!それ、凜華の?」

「え?あ…うん」

立ち上がり、女子生徒たちに向かって、頭を下げる。

「お騒がせしました」

一瞬、人の山は、黙ったが、すぐにまた、騒ぎだした。

「ねぇー!!触らせて!!」

「私も!!」

「抱っこさせて!!」

「私も抱っこしたい!!」

今度は、こっちに向かって、人の群れが押し寄せて来る。

「あの…」

「お前ら、何してんだ?」

その時、後ろから隆也が現れ、近付いてきた。
隆也を見上げると、いつもの寝ぼけたような顔で、見下ろされた。

「先生…あの…」

隆也に、じっと見下ろされ、言葉が出なくなった。

「寺西。動物は、校内に持ち込むな」

「…すみません…」

下を向いて謝ると、今度は、女子生徒たちに視線を向けた。

「お前らも、騒いでないで、さっさと帰れ」

「え~~~~」

女子生徒たちから、残念そうに声が上がると、そこにいた女子生徒を散らすように、手を振りながら、後ろに隆也が移動した。

「ほお~。今度のテストは、赤点でいいんだな」

「ひっど~い」

「おぉ。何とでも言え。今すぐ、帰らない奴は、覚悟しろよ」

女子生徒は、散って、さっきまでの騒がしさが、嘘のように静かになった。

「寺西」

「はい」

「お前も覚悟しろよ」

「…はい。すみませんでした」

「ちょっと隆也!!」

「先生を付けろ」

「今のは、凜華が悪いんじゃないし!!あの人たちが、勝手に…」

「舞子」

隆也に向かって、抗議する舞子の言葉を遮った。

「追い払ってもらったんだから。じゃ、先生。有難うございました。舞子も。じゃね」

稲荷を連れて、駐輪場に向かう。

「隆也」

「先生を付けろ。先生を」

「凜華に酷い事したら、訴えるからね」

「しねぇよ」

「…はぁ?」

「寺西に、んな事しねぇよ」

「サイテーだ」

「何とでも言え」

カゴに、鞄と稲荷を入れて、自転車を走らせる。

「…相変わらずだな」

小さくなる背中に呟き、隆也は、校舎に向かった。
それを見送った舞子が、自転車を押して、校門に向かう。

「一条?」

校門を出るところで、帰ろうとしていた幸彦が、舞子に、後ろから声を掛けられた。
舞子が振り返ると、幸彦が、小走りで近付いた。

「遅くね?」

「どうでもいいでしょ」

「なんで、機嫌悪いんだよ」

並んで歩く幸彦に、舞子は、さっきの事を話した。

「マジでか。寺西は、大丈夫だったのか?」

「尻餅着いてたけど、隆也が来て、その人たち、追い払ったら、そのまんま、バイト行ったよ」

「なんだかな。そうゆう時は呼べよ」

「呼んでも、何にも出来ないじゃん」

「うっせーよ。じゃな」

「ばいば~い」

分かれ道に差し掛かり、二人は、別々の道を帰っていく。
そのまま、バイト先に向かい、社員や人に見付からないような場所に、稲荷を隠した。

「絶対、ここにいてね」

稲荷に念を押し、店に入ると、その日も、昨日と同じ社員が出勤していた。
定時前に、タイムカードに押し、さっさと着替えると、適当に挨拶を済ませ、足早に店を出て、稲荷の所に向かった。

「イナリ?」

顔を出した稲荷をカゴに乗せ、家の近くのコンビニで、いなり寿司を二つ買って帰宅した。
稲荷を抱えて、階段を駆け上がり、急いで、玄関の鍵を開けた。
素早く、家に入り、乱れた呼吸を整える。
それから、稲荷を下ろし、いつも通り、電気を点けた。
レジ袋を置くと、稲荷は、椅子に乗り、テーブルに前足を着いて、身を乗り出し、袋の中に顔を突っ込もうとした。

「待て!!」

稲荷が、大人しく、椅子に座り直したのを確認し、鞄をベットの横に置いた。
普段着に着替えて、洗濯機を回してから戻り、稲荷の前に、蓋を開けて、いなり寿司を置いた。

「どうぞ」

稲荷は、口いっぱいに、いなり寿司を頬張り始めた。
台所から、マグカップと紙パックのお茶を持って来て座り、いなり寿司を食べる。
食べ終わってから、ガラスコップに注いだお茶を稲荷の目の前に置き、自分のマグカップにも注いだ。

「なんで、あんな所にいたの?」

人の姿になって、お茶を飲んでいた稲荷は、コップをテーブルに置いて、視線を泳がせた。

「リンカに…会い…たくて…」

ため息をついてから、稲荷を見ると、悪い事をして、怒られた子供のように、手を膝の上に、置いて下を向いていた。

「もう来ないでね?」

勢い良く、顔を上げた稲荷に微笑むと、その表情が、少しずつ緩み、安心したように、目を細めた。

「学校には、もう来ないでね?」

何度も頷く稲荷に、笑いが込み上げくる。

「昨日は、どこに行ったの?」

「…茂みに隠れながら、ここをずっと見てた」

「茂みって、駐輪場の近く?」

微かに頷いた稲荷は、大きな体を出来る限り、小さく縮めて下を向いた。

「行く所ないの?」

稲荷は、顔を上げずに、静かに頷いた。

「古寺が、壊されてから、住みかに出来そうな場所を探したんだが、なかなか、見付からなくて。仕方なく、茂みや物陰を転々と…」

「そっかぁ…見付かるまで、ここにいる?」

また勢い良く顔を上げた稲荷は、嬉しそうで、不安そうな複雑な表情をした。

「…い…いの?」

小さな声で聞く稲荷に、両手を広げて見せる。

「しょうがないでしょ。追い出して、死なれて、呪われでもしたら、イヤだし」

頬が少し、赤くなって、微かに涙を溜めた稲荷は、急に、動物の姿になって飛んできた。

「リンカー!!大好きだーー!!」

立ち上がって受け止めよとした瞬間、人の姿になった稲荷が、抱き付いてそう叫んだ。

「リンカ~」

「ちょっと!!やめてっ!!っ!!イナリ!!」

頬擦りをして、チュッと音を発てて、頬に唇を押し当てられ、顔が真っ赤になった。
こうして、妖怪の狐、稲荷との同居が始まった。
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