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六
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執事に手伝われながら、アスベルトの準備が終わると、モーガンは、ベットから降りた。
「ご飯、一緒にどう?」
「僕は、もう食べたよ」
「早いね」
「坊っちゃんが遅いのですよ」
「仕方ないでしょ。書類の処理してたんだから」
執事は、湯気の上がるカップを手元に置き、アスベルトの前に食事を置いた。
「ドルト様が、ルアンダに来訪した時は、もっと、沢山の書類を処理しておりましたよ」
「年齢が違うでしょうが。年齢が」
「そうですねぇ。確かに、ドルト様が、十五、六歳の頃は、よく、城を抜け出して、城下町で遊んでおいででしたね」
「父上らしいね」
「しかし、しょっちゅう、問題を起こしておりましたので、皇太后から、お叱りを受けてらっしゃいました」
「それ考えると、母上は寛大だよね。男は、問題の一つや二つ、起こしても、当然って言ってくれるし」
「ルアンダにいらっしゃった頃、イザベラ様も、何かと問題を起こしていたようでございましたからね」
「あ~、なんか聞いたことあるかも。スターナ叔母上をイジメたご令嬢を懲らしめたとか」
嬉しそうに微笑んで、モーガンは、食事をするアスベルトを見つめた。
「私めも、スターナ様から聞き及んだだけですので、詳細までは、存じ上げませんが、イザベラ様が幼い頃は、とても大人しく、メイア様やお母上様の後ろに隠れていたような、淑やかなお嬢様だったそうです。それが、いつからか、あのように、活発になられたそうです」
「活発になり過ぎでしょ」
「しかし、イザベラ様は、他の誰よりも、お優しく、家族思いなのだとも、スターナ様は、仰っておりました」
「まぁね。でも、好きな人や大切な人の為に、自分の帰る家さえ、壊しちゃったのは、やり過ぎだと思うけど」
「時には、残酷な決断をせねばなりません。人の上に立つということは、とても孤独なのでございます」
モーガンは、二人を見つめながら、グッと唇に力を入れた。
「でも、母上も、父上も、全く寂しくなさそうだけどね」
「今は、お嬢様と坊っちゃんがいらっしゃいますからね」
「そう?僕には、みんながいるから、大丈夫なように見えるけど」
「そう言って頂けると、とても幸せにございます」
和やかな雰囲気で、話してる二人を見つめていたモーガンは、拳を握り、視線を落とした。
「…ガン、あまり思い詰めないでよ?」
「へ?」
視線を上げたモーガンに、アスベルトは、困ったように、眉尻を下げ、優しく瞳を細めて、ニコッと笑った。
「僕ね?昨日は、あんな風に言ったけど、ガンが、恵まれてる変わりに、色んなことを我慢してたのを知らなかったんだ。だから、ごめんね?凄く酷いこと言ったと思ってる」
モーガンが、瞳を大きく開くと、アスベルトは、瞳が見えなくなる程、ニコッと笑った。
「ガンは偉いよ。たった一人で、二人からの重圧に耐えてるんだから」
「…僕ね?ローデンやデュラベルと、仲良くしてるけど、それは、あの二人となら、何をしても許されるからなんだ。でも、二人にも、家族のことを話したのは、小さい頃に、一回だけなんだ。その時、“王族なんだから当たり前だろ”、“王子なんだから我慢だよ”って言われて。二人は、王子である僕との関係を望んでいて、二人は、将来、王家の家臣になる為、親の後を継ぐ為に、僕が必要で、二人とって、僕は、それ以上でも、それ以下でもない。そう思ったら、僕は、王子であって、僕は、それ以外、誰にも、必要ないんだって」
モーガンの頬をツーっと涙が落ちると、アスベルトと執事は、悲しそうに瞳を細めた。
「だから、父上と母上の言うことを聞いていれば、良いんだって思ってたんだ。昨日、アスに言われて、僕は、生まれた時から、ずっと、父上や母上、ローデンやデュラベル、この国の、王子っていう、人形に、なってた、んだなって」
「ガンは、人形なんかじゃないよ」
モーガンが下を向いて、ポロポロと涙を流すと、アスベルトは、隣に立って、その背中を擦った。
「周りが、ガンを人形のようにしてるだけで、ガンは、人形じゃないよ。こうして、苦しんでるんだから」
泣き顔のまま、モーガンが、顔を向けると、アスベルトは、優しく瞳を細めた。
「これからは、僕が、話聞いてあげるよ。悲しいときや苦しいときは、一緒に考えて、悩んで。嬉しいときや楽しいときは、一緒に喜んで、笑って。寂しいときは、一緒に泣いてあげる」
「…どうして…」
涙で潤んだ瞳を細めて、唇を噛んだモーガンを見つめて、アスベルトは、ニカッと笑った。
「僕にとって、ガンは、大事な友達だから、当たり前でしょ?」
「…アス…」
「微力ながら、私も、お力添えをさせて頂きます」
「…ロムさん…ありがと…ほんとに…ありがと…」
アスベルトが腕を広げると、泣きながら、ジーッと見つめたモーガンは、その腹に額を付けた。
しゃくり上げながら、モーガンは、声を殺して泣き、アスベルトは、その背中を優しく擦った。
「今日は、何もかも忘れて、ガンの好きなように過ごそう。付き合うからさ」
何度も頷くモーガンを見下ろして、アスベルトが、優しく瞳を細め、嬉しそうに微笑んでいると、執事が、ニコニコと笑いながら、紅茶を淹れ直した。
「そうしてらっしゃるのを見ると、小さい頃の坊っちゃんが思い出されますね」
モーガンが、アスベルトに額を付けたまま、執事に視線を向けると、テーブルに湯気の上がるカップが置かれた。
「城下町に行く度、ご自分の身分が孤独であると知り、皇子である重圧に耐えきれず、ドルト様とイザベラ様に、寂しい悲しいと言って、今のモーガン様のように、泣いては」
「ロム、余計なこと言わないでよ」
「余計なことではございませんよ?」
「余計だから。それに、子供のときのことなんて、恥ずかしいんだから、人に話さないでよ」
「皆、子供の頃は、よく泣くのですから、恥ずかしがることなどございません。ドルト様は、皇太后を困らせるくらい、我儘放題で、しょっちゅう、泣いていらっしゃいました。お坊ちゃんもですが」
「だからロム」
「それに比べたら、モーガン様は、とても大人しい、お子様でしたのでしょうね」
「僕は、二人に、嫌われたくて」
「モーガン様、親というのは、そう簡単に、自分の子を嫌いにはなりません。特に、母親は、何があろうと、誰かを敵に回そうとも、必ず、お子様をお守りするものです」
ニコニコと、優しく微笑む執事を見つめて、モーガンは、王妃を思い浮かべた。
「…一回、母上に、魔法が上手くできないから、授業が辛いんだよねって言ったら、“王子は、そんなことで、弱音を吐いてはいけない”って言われたんだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「実は、その時の魔法の先生に、“王子なのに、こんなこともできないのか”って馬鹿にされてて、どうすれば上手くなるのか、教えてと言っても、“王子でしたら、ご自分でお分かりになりますでしょ?”って」
二人の眉がピクンと動き、アスベルトは、眉間にシワを寄せた。
「その方は、人に教える事が出来ない“糞”のような、お人ですね」
執事の汚い言葉に、モーガンの涙が、ピタッと止まった。
「でも、みんな、僕に、才能がないって」
「そんな奴らは、ただのゴミだよ。ゴミ」
「そうです。ゴミの言ってる事を真に受けてはいけません」
「でも」
「ガン、なんなら、僕と一緒に習う?」
「…え?」
「それは、名案にございます。流石は坊っちゃん」
「でしょ?」
拍手する執事に、得意げな顔をするアスベルトを見つめて、モーガンは、何度も瞬きをした。
「いいの?僕、本当に下手くそだよ?」
「ご心配には及びません。我、ウィルセンで技術を教える者達は、とても優秀でございますので」
「それに、ウィルセンだと、それぞれの個性にあった授業をするし、できないからって、馬鹿にするようなヤツもいない」
モーガンの瞳が、大きく揺れ、キラキラと輝くと、アスベルトと執事は、ニコッと笑った。
「モーガン様の頑張りを褒めはしますが、貶めるような事は、決してございません」
「ちょうどいいから、剣術も習おうか」
「それでしたら、主剣魔法もいかがでしょうか?」
「しゅけん、まほう…?」
「昨日、二人に付き合ってあげた時に、最後にやってたやつだよ?」
モーガンが何度も頷くと、アスベルトは、その腕を掴んだ。
「とりあえず、見せてあげるよ」
「その前に、ちゃんと、お食事を終わらせ下さい」
「そうだね。ちょっと待ってて。ロム、フェルミナ連れて来てよ。あと、僕の予備の練習着と訓練用の剣も準備して」
「かしこまりました」
〈…ウィーン〉
執事が鏡の前に立ち、手を翳すと、鏡面が揺れ、スーッと映る景色が変わった。
「すぐに、戻って参りますので、それまで、坊っちゃんは、お食事を。モーガン様は、ゆっくりお過ごし下さい」
頭を下げてから、執事が鏡の中に消えるのを見つめ、モーガンが、ポカンと、口を半開きにして、間の抜けた顔をしていると、アスベルトは、クスクス笑った。
「凄いでしょ?アレが通面鏡」
「話は聞いてたけど、ほんとに、一瞬なんだね。凄いなぁ」
「でも、結構、魔力使うんだよね」
「そうなの?」
「一人ならいいんだけどさ、大人数になると、結構大変なんだよ。魔力を持ってる数人で起動させて、魔力が無かったり、弱い人を先に通さないと、途中で閉じちゃうんだよね」
「閉じたら、どうなるの?」
「鏡の中に閉じ込められる」
パクパクと、料理を口に運ぶアスベルトに向かって、モーガンは、ギョッと驚いて、瞳を大きく開いた。
「まぁ、開いた誰かが、もう一回、開けば出て来れるんだけどね」
「壊れたら、どうなるの?」
「片方が無事なら出れるから大丈夫だよ。ウィルセンに設置されてるのは、ちゃんと管理されてるから、壊れないし」
「でも、ちょっと怖いね」
「まぁね。ガンは、魔力あるから、使い方覚えたら、いつでも行き来できるよ」
「できるかな?」
「やらない内から弱気になったらダメだよ?なんでもやってみて、ダメだったらダメで、別の方法を考えればいいんだから」
「そっか。そうだよね」
アスベルトが、食事を終わらせて、カップを傾けると、モーガンも、カップを傾け、一気に中身を飲み干した。
「…よし。あとで教えてね」
「もちろん」
〈…ウィーン〉
アスベルトが、ニコッと笑うと、鏡から中年女性と二人のメイドを連れて、執事が戻って来た。
「お待たせ致しました。準備が整いました」
「ありがとう。彼女は、侍女のフェルミナ、彼はモーガン。僕の」
「ご友人様でございますね?ロムから、お話は聞き及んでおります。モーガン様、本日は、私共が、お世話させて頂きます」
「宜しくお願いします」
スッと立ち上がり、頭を下げたモーガンを見つめ、侍女は、ニコッと笑った。
「早速、始めますよ。トロント、カニュラ」
「はい」
「失礼致します」
「え?へ!?わぁ!!」
「待て待て!おい!」
驚いた顔をするモーガンと顔を真っ赤にしたアスベルトは、メイド達に、あれよあれよと脱がされた。
「だから!いつも言ってんだろ!自分で脱ぐって!」
「いつも申し上げておりますが、坊っちゃんのお支度が、遅いからでございますので、仕方ございません」
「だからって脱がすなよ!」
「そんな騒ぐお暇がございましたら、早くお足をお上げ下さい」
「っ!自分で履く!」
「…愛されるのも、大変なんだね」
着替え終えたモーガンが、困ったように、眉尻を下げて、苦笑いすると、アスベルトは、驚いた顔をした。
「いつの間に」
「普通に手足動かせば、早く終わるよ?」
「…いやいやいや。そんな子供じゃないんだから」
「僕、子供の頃から、自分で着てたんだ」
執事とメイドに、身なりを整えられながら、モーガンが、苦笑いを浮かべると、四人は、眉尻を下げた。
「だから、ちょっと新鮮。それに、やってもらうと、こんなに早く着替えられるんだね。寝坊した時に便利そう」
「ガンでも、寝坊するの?」
ニコッと笑ったモーガンを見て、アスベルトは、首を傾げながら、侍女達にされるがまま、手足を動かした。
「するよ?実は、今日も、ちょっと寝坊したんだ」
「ウソだ~」
「本当だよ?だから、今日の朝食は、一人だったんだ」
「王と王妃は?」
「父上とは、たまに夕食の時に一緒だけど、ほとんどは、母上と二人だけ。寝坊したら、お互い、一人で食べる感じかな」
「寂しゅうございますね」
執事が、スッと肩に手を置くと、モーガンは、顔を見上げて、ニコッと笑った。
「仕方ないんだよ。二人共、忙しいから。それに、食事の時は、あまり話しないから、一緒でも同じなんだ」
「では、次に寝坊した際は、こちらに、いらっしゃって、坊っちゃんと二人で、お食事するのはいかがでしょうか?」
スッと立ち上がった侍女の後ろに、二人のメイドが並んで立ち、執事が侍女と並んだ。
「私共は、いつでも、モーガン様を、お待ちしております」
「…ありがとうございます。その時は、アスも、よろしくね?」
「当たり前でしょ?二人で食べよう」
アスベルトがニカッと笑うと、モーガンは、ほんのり頬を赤くしながら、嬉しそうに瞳を細めた。
「ありがとう」
「おっし。んじゃ、行こうか」
「坊っちゃん、その前に、モーガン様の魔力を安定させませんと」
「あ~そうだった。ガン、リリに魔力の使い方教えた時に、僕が言ってたの覚えてる?」
「想像することが大事なんだよね?」
「そう。んじゃ、僕と魔力交換してみようか」
「…わぁ…凄い」
「ガンも、僕に魔力を流してみて?」
コクンと頷き、モーガンが、手のひらに集中すると、アスベルトの眉間にシワを寄せた。
「押し出すんじゃなくて渡す感じ」
モーガンが、コクンと頷き、瞳を閉じても、アスベルトの眉間のシワは消えない。
「もうちょっと優しく。弱くしないで。だから、押し出すんじゃなくて」
モーガンの額に汗が浮かび、焦り始めると、アスベルトは、その手を優しく握った。
「少し休もうか」
瞳を開き、顔を上げたモーガンの膝が、カクンと折れ、体が傾くと、アスベルトが、その肩を支えた。
「大丈夫?」
「だい、じょうぶ。ちょっと目が」
「モーガン様、お座り下さい」
メイドが置いた椅子に座らせ、アスベルトが、膝を着いて、モーガンの顔を覗き込んだ。
「今日は、やめようか?」
「大丈夫。少しすれば落ち着くから」
「モーガン様、無理をされてはいけません」
「そうです。ご無理をされては、体に悪ぅございます」
「今日が、ダメでも、明日があります」
「毎日、少しずつやれば、出来るようになりますから」
「僕、ウィルセンに行って、みんなが見てる景色を一緒に見たいんだ」
弱々しく、ニコッと笑ったモーガンを見つめて、アスベルトが、困ったように微笑んだ。
「なら、少し休んでから、もう一回やってみよう?それでダメなら、今日は、別のことしよう」
「ありがとう」
「では、お茶をご用意致しましょう」
アスベルトも、椅子に座り直すと、メイド達が、二人に、湯気の上がるカップを差し出した。
「ありがとう」
「…ねぇ、アス、もう一回やろう」
カップを持ち上げたアスベルトが、視線を向けると、モーガンは、ソーサーを持つ手を見つめていた。
「そんな、すぐじゃなくても」
「今やりたい」
「じゃ、このままやってみようか」
互いに、メイド達に、カップを渡すと、アスベルトが椅子を動かし、向かい合うように座り、モーガンと手を合わせた。
「無理そうならやめるんだよ?」
「分かってるよ。大丈夫」
モーガンが、スッと瞳を閉じると、アスベルトは、パチパチと何度も瞬きをした。
「…ガン、そのまま、右手だけに移して、そしたら、僕も、左手に流すから、それを自分の中で混ぜて」
スーッと、モーガンの瞳が開き、キラキラと輝きを放った。
「ちゃんとできたじゃん。もう大丈夫だね」
自分の手を見つめて、そっと握ると、モーガンは、ニコッと笑った。
「素晴らしいです」
「お上手です」
「器用でらっしゃるのですね」
「モーガン様は、才能が、おありのようでございますね」
「…そこまで言われると、ちょっと、こそばゆいね」
「初めてなのに、二回目で、できたんだから、褒められて当たり前でしょ?」
「そうなのかな?」
「とても優秀でございます」
「坊っちゃんなんか、何度やっても出来なかったんですよ?」
「トロントだって、できなかったでしょ」
「坊っちゃんったら、トロントと一緒に泣いてたんですよ?」
「カニュラ!それは言わないって」
「カニュラやトロントが出来ても、坊っちゃんが出来ないと、泣き喚いて」
「ロム!」
「そんなに怒鳴るなんて、坊っちゃんは、まだまだ、坊っちゃんなのですねぇ」
「お前らなぁ!」
アスベルトが顔を真っ赤にして、大声を出しても、三人が、ニコニコと笑っているのを見て、モーガンは、腹を抱え、涙を流しながら、ケタケタと大きな声を出して笑った。
「ごめん。なんか、おかしくて、つい」
ふぅ~と、大きく息を吐き、モーガンが、ニコッと笑うと、アスベルトは、乱暴に、ガシガシと頭を掻いた。
「まぁ、その、僕だって、そんなんだったけど、なんとかなったから、ガンも、なんとかなるよ」
「坊っちゃんは、ドルト様やイザベラ様に、何度も泣きつい」
「もう分かったからやめて。僕、死にそう」
アスベルトが、両手で真っ赤になった顔を隠して、背中を丸めると、モーガンは、アハハハと大きな声で笑い、四人は、優しく瞳を細めて微笑んだ。
「坊っちゃん、モーガン様の魔力も安定しましたし、そろそろ、向かわれてはいかがでしょうか?」
「そうだね。じゃ、行こうか。ガン、こっちにおいで」
モーガンが、アスベルトの隣に立つと、四人は、二人の後ろに並んだ。
「いい?さっきみたいに、通面鏡に魔力を流すんだ。今回は、みんなで、一緒にやるから、少しくらい、弱くても大丈夫だから」
「分かった」
「それじゃ、いくよ?」
二人が鏡面に手を翳すと、四人も、後ろから通面鏡に手のひらを向けた。
〈…ウィーン〉
「立ち止まらないで、真っ直ぐ歩くんだよ?」
「分かった」
「んじゃ、行こう」
アスベルトが鏡の中に入ると、モーガンも、同じように、鏡に向かって歩いた。
一瞬、周りが見えなくなる程、眩しくなったが、モーガンが、真っ直ぐ歩くと、すぐに景色が変わった。
青と白で、洗礼された部屋をグルッと見渡し、モーガンは、大きなため息をついた。
「…ここは?」
「僕の部屋」
「アスの?へぇ。凄く綺麗だね?」
「そりゃ、みんなが掃除してくれてるからね」
「坊っちゃんのお部屋の掃除は、とても大変なんですよ?」
「そうそう。本とか、何回片付けても、すぐバラバラにして」
「二人共、あまり文句ばかり言ってると、坊っちゃんが泣きますよ?」
「泣かないから」
プクッと頬を膨らませて、腕組みしたまま、プイッと顔を反らしたアスベルトを見て、モーガンは、クスッと笑い、窓の外に視線を移した。
「見てもいい?」
「いいけど、ただの庭で何もないよ?」
窓に近付き、外を見たモーガンは、サイフィスと違う景色に、嬉しそうに、瞳を細めた。
「…ここがウィルセン…美しい」
小鳥が飛び回り、青々とした木々の葉が、キラキラと輝き、太陽の光が大地に降り注ぐ。
「サイフィスとは大違いだね。全てに、活気が満ち溢れてるみたい」
「これから行くところは、もっと凄いよ」
「本当?」
「本当。今から訓練所に行くよ」
「突然、僕が行っても平気なの?」
「平気へーき。サイフィスと違って、ウィルセンの騎士は、誰でも歓迎してくれるから」
キラキラと瞳を輝かせるモーガンに、アスベルトは、ニカッと笑って、扉を指差した。
「早く行こう。色んなとこ見たいでしょ?」
パーっと明るい笑顔を浮かべて、モーガンが小走りで、アスベルトの隣に並ぶと、執事と侍女が扉を押し開けた。
〈ガチャ〉
「行ってらっしゃいませ。坊っちゃん、モーガン様、楽しいひとときを」
「行ってらっしゃいませ」
四人に見送られて、アスベルトの案内で、モーガンが訓練所に向かうと、辺りに、男達の野太い声が響き渡った。
「何やってんだ!集中しろ!集中!」
「へっぴり腰になってるぞ!もっと腰入れろ!」
半裸状態の男達が、重そうな木箱を持ち上げたり、走り回っていたりしているのを見つめて、モーガンは、口を半開きにした。
「…これって」
「今は、基礎体力をつける時間なんだよ」
何度も頷いて、汗を流しながら、綱を昇ったり、木にぶら下がってる男達を見渡しながら、モーガンは、首を傾げた。
「あれは?あれは、何してるの?」
「一通りの訓練が終わったら、高ぶった気持ちを落ち着けるのに、あんな風に、木陰で休むんだよ」
瞳を閉じて、胡座を組み、背筋を伸ばして座り、微動だにしない男達を見つめて、モーガンが、何度も頷くと、アスベルトは、その手を引いた。
「行こう」
「へ?」
「僕らもやろう」
「…え、無理だよ。僕、そんなに体力」
「ないならつける。一緒にやれば、あっという間だから。まずは走る!」
「待ってよ!」
アスベルトの後を追って走り始めたモーガンは、しばらくすると、息が上がり始めた。
「待って、アス、ちょっと、苦し」
「もう?まだ始めたばっかだよ?」
二人は、同じように長く走ってるはずが、アスベルトは、まだ余裕があった。
「しんどい」
「ガン、本当に体力無いね」
「坊っちゃんは、分かってねぇなぁ」
「何が」
「その子、初めてでしょうに」
「初めての子が、十分も走れれば凄いですよ」
「僕は、みんなと同じに走ったじゃん」
「みんな違うんですよ」
「そうそう。その子には、その子の歩幅があるんです」
「坊っちゃんと一緒だと、次が辛くなるから、俺らと一緒に終わらせてもいいんだよ?」
首を振って、モーガンが隣に並ぶと、アスベルトは、ニコッと笑った。
「もう少し。な?」
モーガンが、コクコクと頷くと、男達も一緒になって走り始めた。
「んじゃ俺らも」
「下向いたら、苦しいから、顔上げて」
「ちゃんと前見てないと転ぶぞ」
「胸張れ。んで、少し前に」
「背中伸ばしてぇ」
「上手い上手い」
「あそこの木まで行こう」
「あそこに井戸があるぞ」
周りの男達の声を聞きながら、モーガンと走っていたアスベルトも、無言になり、息が上がり始めた。
「お?そろそろ、坊っちゃんも苦しいか?」
「ぅる、さい」
息切れしながらも、隣のモーガンに視線を向けたアスベルトを見て、男達は、ニヤッと笑った。
「よ~し。最後だ」
「あの木まで」
「全力で」
「走り抜けー!」
周りが速度を上げると、アスベルトも速度を上げ、モーガンも、奥歯を食いしばりながら、一気に速度を上げた。
バタバタ、ドタドタと、砂煙を舞い上げながら、全力で走り抜けると、足がもつれたモーガンが倒れそうになるが、逞しい腕に抱えられた。
「やったなぁ」
「走りきれたぞ」
「頑張れたな」
「凄いぞ」
「偉いぞ」
男達に褒められながら、背中を擦られて、モーガンは、膝に手を置いて、必死に息をした。
「大丈夫か?」
「初めてだもんな」
「深呼吸、深呼吸」
「ゆっくりでいいぞ」
「吸ってぇ、吐いてぇ、吸ってぇ、吐いてぇ」
声に合わせて、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出して、呼吸が整うと、モーガンは、額の汗を乱暴に拭った。
「こら。坊っちゃん、座るなって」
「むり、あし、しんどい」
「毎回、やってるでしょうに」
「しんどい、もんは、しんどい、の」
「ほら。彼は、もう次いけますよ?」
「いつまで待たせるんですか」
「なんで」
「体の使い方だろ」
息切れして、座ってるアスベルトを見て、モーガンが首を傾げると、後ろから皇帝が現れた。
「帝国の聖光なる」
慌てて、モーガンが挨拶をしようとすると、皇帝は、手のひらを見せて静止させた。
「今の君はアスの友だ。ならば、俺はアスの父。アスが友達を連れて来ただけだ。そうだろ?」
「…はい。お邪魔しております。ドルト陛下」
皇帝が、優しく瞳を細めると、モーガンは、瞳を輝かせながら、ニコッと嬉しそうに微笑んだ。
「どうだ?ウィルセンの騎士達は」
「凄いです。皆さん、凄く速くて。途中で、何回も、やめたくなりました」
「だが、辞めずに最後までやり遂げた。それこそ、凄い事なんだぞ?」
「そんなことありません。皆さんが、一緒だったので、できたようなもんです。僕なんて」
「それでも、投げ出さず、やり遂げたのは、モーガン自身が続けたからだ。苦しくても、続ける事に意味がある。それが出来たのは、誰かの力ではなく、モーガンの力だ」
皇帝の手が、スッと、頭に乗せられ、モーガンは、瞳を大きく開いた。
「良くやり遂げた。偉いぞ」
皇帝の手が、頭を優しく撫でると、モーガンは、ほんのり頬を赤くして、嬉しそうに微笑みながら、静かに瞳を閉じた。
「それに比べて、アスは、いつまでへたばってるんだ」
「へたばってないし」
「なら、さっさと立て。モーガンは、座りもしなかったぞ」
立ち上がったアスベルトが、モーガンの隣に並ぶと、唇を尖らせた。
「体力無いんじゃなかったのかよ」
「最初は、辛かったんだけど、みんなに言われた通りにしたら、そこまで苦しくなくなったんだよね」
「体の使い方が分からなかっただけだろ。それが使いこなせれば、アスよりも、モーガンの方が、体力的に余裕があったんだ」
アスベルトと視線を合わせて、何度も頷くモーガンをジーッと見つめ、皇帝は、ニコッと笑った。
「ちゃんと扱い方を覚えれば、魔法も、剣術も、モーガンの方が、上手くなるかもしれないな」
モーガンの大きくなった瞳が、キラキラと輝き始めると、アスベルトも、ニコッと笑った。
「やったな。これで、キアとの婚約に、一歩前進だな?」
「アス、それは」
「ほぉ?それは初耳だ。一体、いつから、キアと婚約を?」
「いえ、あの、婚約の話は、まだ」
「まだ?まだって事は、これからって事か?」
「それは」
「ガンの片想いだもんな?」
「アス!」
「ほぉほぉ。それでそれで?強くなって、キアの気を引こうとでも?」
ジリジリと迫る皇帝から、逃げるように、モーガンは、少しずつ後退りした。
「陛下?落ち着いて下さい。僕は、そんなつもりじゃ」
「ならば、何故、強くなろうと?」
「それは、アスの提案であって、僕に、他意は」
「アスに唆されて、キアと一緒になる為に、強くなろうと思ったんじゃないか?」
「それは、その」
「そんなに、キアが欲しいなら、もっと強くならねばなぁ?どれ。俺が、直々に、相手してやろう」
「それは、大変、光栄なんですが、またの機会にぃっ!」
〈ビュン〉
皇帝が、剣を抜きながら振り抜くと、同時に屈み込んだモーガンの頭の上を風が吹き抜けた。
「どうした?早く剣を抜け」
皇帝の赤い瞳が、怪しく輝くのを見て、モーガンは、一気に走り出した。
「待て!」
「イヤだ!」
「なら諦めろ!」
「もっとイヤだ!」
「なら死ぬ気で逃げろ!」
〈ビュン!ブン!ブォン!〉
剣を振り回す皇帝に追われ、モーガンが、必死に逃げ回り、箱や木など、障害物を難なく避けるのを見て、アスベルトは、指先で唇を撫でた。
「…あの子、凄いですね」
「だよね?普通に、壁飛びしてるし」
「皇帝の剣筋をちゃんと避けれてますし」
「逃げてるのが、もったいないくらいです」
「あんなに動けるのに、なんで逃げるんだろう?」
「剣の扱い方を知らないのでしょう」
「グレームス団長、おはようございます」
騎士団長が現れ、アスベルトの隣に並ぶと、逃げ回るモーガンを見つめた。
「あ~そうかも。ガン、まともな奴らに教わってなかったみたいだし」
「なるほど。それで、サイフィスから連れて来たんですか?」
「まぁね。ロムから聞いた?」
「はい。なんとも、不遇な扱いを受けていたようで」
「それで?グレームス卿なら、どうする?」
「そうですねぇ。私でしたら、まずは」
木箱を掴んだ手が汗で滑り、モーガンの体が、大きく傾き、砂煙を舞い上げて転がると、皇帝が、剣を掲げながら、一気に距離を縮めた。
〈キィン!〉
「…何してる。グレームス」
皇帝と対峙し、モーガンを庇うように背を向けた騎士団長を見て、アスベルトは、嬉しそうに微笑んだ。
「ドルト様こそ、何をしてるのですか?」
「そこのガキが生意気にも、キアとの縁談を画策してるようでな。今の内に、現実を見せてやろうとしていたのだ」
「それはそれは。大変、聡明ですね」
得意げな顔をする皇帝を見つめ、騎士団長は、ニコッと笑った。
「しかし、この子も、ドルト様と同じ、一人の女性を想い、決断したのでしょう?何故、ドルト様がやっていた事が、この子には許されぬのでしょうか」
「俺は、自国で」
「この子の国は、ウィルセンのように、誇れる指導者が居ないのですよ?その中で、力を得る事は出来ません」
〈キーン!〉
グッと押し黙り、皇帝が、瞳を細めると、騎士団長は、剣を弾き飛ばした。
「自分の身分もありながら、他国に来てまで、前に進もうとする。そんな子に刃を向ける姿は、ただ傲慢にも、新芽を毟り取ろうとする子供のようですよ」
「しかし、キアは、まだ」
「可愛さのあまり、そんなに囲っていては、お嬢に嫌われますよ?それに、坊っちゃんだって、他所のお嬢ちゃんとこで、色々、やらかしたらしいじゃないですか」
「それは」
「坊っちゃんなんか、相手の屋敷で暴れたのでしょう?それに比べれば、とても大人しく、良い子ではないですか」
「そんな大人しい奴に、キアを守れるものか」
「だから、こうして、強くなる為に来たのでしょう?ちゃんと分かってるじゃないですか」
「だからと言って、相手の家に来てまで」
「それこそ、凄い事でしょう。自分の情けない姿が、お嬢に知られるかもしれないのに、ここまで来たんですから」
「しかし」
「なら聞きますが、もし、ご自分が、この子と同じ環境であったなら、どうしますか?同じ事をしたんじゃないですか?坊っちゃんと年が近く、隣国の王子でありながら、必死に進もうとし、身分も関係なく、自ら進んで学ぼうとするのが、どんなに難しい事か。ましてや、留学ではなく、一個人として、単身で来てるのですよ?それが、どんなに危険な事か。そう考えれば、余計、この子の決断を」
「だーーーー!!分かった分かった。全く、俺は皇帝なのに、お前らは、俺のやる事に文句ばっか」
「今のドルト様は、坊っちゃんの父親なのでしょう?皇帝陛下ではありませんからね。怖かったろ?立てるか?」
剣を鞘に入れ、騎士団長が手を差し出すと、モーガンは、その手を掴み、ゆっくり立ち上がった。
「すみません。ありがとうございます」
顎を擦りながら、モーガンを見つめる騎士団長は、悲しそうに瞳を細めた。
「ずいぶん、体に負担が掛かってるようだ。この年で、そんなに負荷を背負わされていたなんて、かわいそうに」
誰もが、モーガンを見つめて、悲しそうに瞳を細めた。
「だが、今ので、かなり自由に体を動かせるようになった。次は、その固くなった体を柔らかくしよう。お前ら、坊っちゃんと一緒に、この子の面倒も頼んだぞ」
「あの、僕が、一緒しても、いいんですか?」
モーガンが、不安そうに瞳を揺らすと、騎士団長は、優しく、ニコッと微笑んで、その頭に手を乗せた。
「もちろんだ。ウィルセンの騎士団は、強くなろうする者を無下にしない。皆、歓迎するさ」
騎士達が、ニカッと笑うと、モーガンは、瞳を大きく開いた。
「まぁ、心の狭い坊っちゃんの父親は、君を敵視してるようだがね」
騎士団長が、肩越しに、チラッと、腕組みしたまま、仁王立ちしている皇帝に視線を向けると、モーガンも、不安そうに瞳を揺らして見つめた。
「そんな顔しなくても大丈夫。君の英断を受け入れるくらいの器は、多分、持ってると思うから。受け入れないなら、受け入れないで、周りがほっとかないさ」
騎士達が腕組みして、モーガンの周りに立つと、皇帝は、グッと唇に力を入れてから、大きなため息をついた。
「分かった。モーガンは、アスと一緒に、お前らに任せる。だから、そんな睨むな」
「やったな。ガン」
「ありがとうございます」
隣に並んだアスベルトが、ニカッと笑うと、モーガンも、嬉しそうに瞳を細め、静かに閉じた。
「だが!訓練だけだぞ!キアに縁談など」
「それじゃ、リリちゃんとの縁談も断られるわね」
青いマーメイドドレスを着た皇后が現れると、アスベルトから笑顔が消え、皇帝は、慌てて近付いた。
「ベラ、それは」
「母上、どうして」
「だって、そうでしょ?王子が、キアの事を想って、必死になっても、父親のドルが、こんな感じなのよ?リリちゃんは、一人娘、しかも、父娘二人だけの家族。アルベル公にとって、リリちゃんは、目に入れても痛くない程、大事な愛娘のはずよ?そんなリリちゃんをくれって言われるのよ?皇太子だろうが、なんだろうが、アスが、どんなに必死になろうが、ダメに決まってるでしょ」
皇后が、頬に手を添えながら、唇を尖らせると、皇帝は、苦笑いを浮かべたまま、頬をヒクヒクさせた。
「そこは、アルベル公の父親としての」
「一介の公爵であるアルベル公の方が、寛大なのかしら?アナタは皇帝なのに」
「それは」
「アルベル公のように、父親なら、娘の幸せを願わなきゃ。ね?」
皇后が、ニコッと笑うと、皇帝は、頭を掻きながら、視線を泳がせた。
「ね?ドル?願うわよね?」
「分かったよ。今後の王子を見て考えるから」
「娘の為を考えられる父親。とっても素敵よ?ドル」
皇后が頬に触れると、その体に抱き着き、スリスリと、頬擦りする皇帝を見つめ、モーガンが、困ったように、苦笑いした。
「良かったわね?これから大変だけど、頑張ってね?」
皇后がウィンクすると、モーガンは、頬をほんのり赤くしながら、嬉しそうに微笑んで、コクンと頷いた。
「それじゃ、そろそろ時間だから、私達は行くわね。行きましょう?ドル」
「あぁ。俺が居ない時に、キアと会うんじゃないからな。いいな?」
「…会わせる気ないくせに」
騎士達が、ボソッと呟いたが、ピョンピョンと、ハートマークを飛ばしながら、皇后と仲良く手を取り合って、並んで去って行く皇帝を見送り、アスベルトは、ため息をついた。
「ごめん。父上が、ここまで器が小さいと思わなかったよ」
「大丈夫だよ。それに、僕らも、娘ができたら、あんな風になるかもしれないし」
「…僕、無理かも」
「僕も。彼女に似てたら、余計かも」
「男親とは、そんなもんですよ」
「にしても、ドルト様は異常だけどな」
「確かに」
「そういえば、団長のとこもでしたよね?」
「私は、娘の意思を尊重するよ」
「流石は、我らの団長」
ニコニコと笑う騎士団長を見つめて、モーガンは、キラキラと瞳を輝かせた。
「…僕、団長さんみたいな男になりたいな」
「だよな。カッコいいよな」
アスベルトも、キラキラと瞳を輝かせると、騎士の一人が、二人の耳に顔を寄せた。
「団長の娘さん、女流魔剣士なんだよ。並の男じゃ敵わないくらい、強いんだけど、娘さんの理想が、自分よりも強い人なんだと」
「…それ、無理なんじゃ」
「だから、団長は、あんな風に言えんだよ。娘より強いってなると、団長くらいにならなきゃないから」
「なるほど。娘も強くすればいいのか」
「まぁ、その子が、どうするかにもよるんじゃないかな?」
「それなら、小さい内から」
「リリアンナに怒られるよ?」
「それはイヤだ」
騎士が、ゲラゲラと大きな声で笑うと、モーガンも、クスクスと笑った。
「ご飯、一緒にどう?」
「僕は、もう食べたよ」
「早いね」
「坊っちゃんが遅いのですよ」
「仕方ないでしょ。書類の処理してたんだから」
執事は、湯気の上がるカップを手元に置き、アスベルトの前に食事を置いた。
「ドルト様が、ルアンダに来訪した時は、もっと、沢山の書類を処理しておりましたよ」
「年齢が違うでしょうが。年齢が」
「そうですねぇ。確かに、ドルト様が、十五、六歳の頃は、よく、城を抜け出して、城下町で遊んでおいででしたね」
「父上らしいね」
「しかし、しょっちゅう、問題を起こしておりましたので、皇太后から、お叱りを受けてらっしゃいました」
「それ考えると、母上は寛大だよね。男は、問題の一つや二つ、起こしても、当然って言ってくれるし」
「ルアンダにいらっしゃった頃、イザベラ様も、何かと問題を起こしていたようでございましたからね」
「あ~、なんか聞いたことあるかも。スターナ叔母上をイジメたご令嬢を懲らしめたとか」
嬉しそうに微笑んで、モーガンは、食事をするアスベルトを見つめた。
「私めも、スターナ様から聞き及んだだけですので、詳細までは、存じ上げませんが、イザベラ様が幼い頃は、とても大人しく、メイア様やお母上様の後ろに隠れていたような、淑やかなお嬢様だったそうです。それが、いつからか、あのように、活発になられたそうです」
「活発になり過ぎでしょ」
「しかし、イザベラ様は、他の誰よりも、お優しく、家族思いなのだとも、スターナ様は、仰っておりました」
「まぁね。でも、好きな人や大切な人の為に、自分の帰る家さえ、壊しちゃったのは、やり過ぎだと思うけど」
「時には、残酷な決断をせねばなりません。人の上に立つということは、とても孤独なのでございます」
モーガンは、二人を見つめながら、グッと唇に力を入れた。
「でも、母上も、父上も、全く寂しくなさそうだけどね」
「今は、お嬢様と坊っちゃんがいらっしゃいますからね」
「そう?僕には、みんながいるから、大丈夫なように見えるけど」
「そう言って頂けると、とても幸せにございます」
和やかな雰囲気で、話してる二人を見つめていたモーガンは、拳を握り、視線を落とした。
「…ガン、あまり思い詰めないでよ?」
「へ?」
視線を上げたモーガンに、アスベルトは、困ったように、眉尻を下げ、優しく瞳を細めて、ニコッと笑った。
「僕ね?昨日は、あんな風に言ったけど、ガンが、恵まれてる変わりに、色んなことを我慢してたのを知らなかったんだ。だから、ごめんね?凄く酷いこと言ったと思ってる」
モーガンが、瞳を大きく開くと、アスベルトは、瞳が見えなくなる程、ニコッと笑った。
「ガンは偉いよ。たった一人で、二人からの重圧に耐えてるんだから」
「…僕ね?ローデンやデュラベルと、仲良くしてるけど、それは、あの二人となら、何をしても許されるからなんだ。でも、二人にも、家族のことを話したのは、小さい頃に、一回だけなんだ。その時、“王族なんだから当たり前だろ”、“王子なんだから我慢だよ”って言われて。二人は、王子である僕との関係を望んでいて、二人は、将来、王家の家臣になる為、親の後を継ぐ為に、僕が必要で、二人とって、僕は、それ以上でも、それ以下でもない。そう思ったら、僕は、王子であって、僕は、それ以外、誰にも、必要ないんだって」
モーガンの頬をツーっと涙が落ちると、アスベルトと執事は、悲しそうに瞳を細めた。
「だから、父上と母上の言うことを聞いていれば、良いんだって思ってたんだ。昨日、アスに言われて、僕は、生まれた時から、ずっと、父上や母上、ローデンやデュラベル、この国の、王子っていう、人形に、なってた、んだなって」
「ガンは、人形なんかじゃないよ」
モーガンが下を向いて、ポロポロと涙を流すと、アスベルトは、隣に立って、その背中を擦った。
「周りが、ガンを人形のようにしてるだけで、ガンは、人形じゃないよ。こうして、苦しんでるんだから」
泣き顔のまま、モーガンが、顔を向けると、アスベルトは、優しく瞳を細めた。
「これからは、僕が、話聞いてあげるよ。悲しいときや苦しいときは、一緒に考えて、悩んで。嬉しいときや楽しいときは、一緒に喜んで、笑って。寂しいときは、一緒に泣いてあげる」
「…どうして…」
涙で潤んだ瞳を細めて、唇を噛んだモーガンを見つめて、アスベルトは、ニカッと笑った。
「僕にとって、ガンは、大事な友達だから、当たり前でしょ?」
「…アス…」
「微力ながら、私も、お力添えをさせて頂きます」
「…ロムさん…ありがと…ほんとに…ありがと…」
アスベルトが腕を広げると、泣きながら、ジーッと見つめたモーガンは、その腹に額を付けた。
しゃくり上げながら、モーガンは、声を殺して泣き、アスベルトは、その背中を優しく擦った。
「今日は、何もかも忘れて、ガンの好きなように過ごそう。付き合うからさ」
何度も頷くモーガンを見下ろして、アスベルトが、優しく瞳を細め、嬉しそうに微笑んでいると、執事が、ニコニコと笑いながら、紅茶を淹れ直した。
「そうしてらっしゃるのを見ると、小さい頃の坊っちゃんが思い出されますね」
モーガンが、アスベルトに額を付けたまま、執事に視線を向けると、テーブルに湯気の上がるカップが置かれた。
「城下町に行く度、ご自分の身分が孤独であると知り、皇子である重圧に耐えきれず、ドルト様とイザベラ様に、寂しい悲しいと言って、今のモーガン様のように、泣いては」
「ロム、余計なこと言わないでよ」
「余計なことではございませんよ?」
「余計だから。それに、子供のときのことなんて、恥ずかしいんだから、人に話さないでよ」
「皆、子供の頃は、よく泣くのですから、恥ずかしがることなどございません。ドルト様は、皇太后を困らせるくらい、我儘放題で、しょっちゅう、泣いていらっしゃいました。お坊ちゃんもですが」
「だからロム」
「それに比べたら、モーガン様は、とても大人しい、お子様でしたのでしょうね」
「僕は、二人に、嫌われたくて」
「モーガン様、親というのは、そう簡単に、自分の子を嫌いにはなりません。特に、母親は、何があろうと、誰かを敵に回そうとも、必ず、お子様をお守りするものです」
ニコニコと、優しく微笑む執事を見つめて、モーガンは、王妃を思い浮かべた。
「…一回、母上に、魔法が上手くできないから、授業が辛いんだよねって言ったら、“王子は、そんなことで、弱音を吐いてはいけない”って言われたんだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「実は、その時の魔法の先生に、“王子なのに、こんなこともできないのか”って馬鹿にされてて、どうすれば上手くなるのか、教えてと言っても、“王子でしたら、ご自分でお分かりになりますでしょ?”って」
二人の眉がピクンと動き、アスベルトは、眉間にシワを寄せた。
「その方は、人に教える事が出来ない“糞”のような、お人ですね」
執事の汚い言葉に、モーガンの涙が、ピタッと止まった。
「でも、みんな、僕に、才能がないって」
「そんな奴らは、ただのゴミだよ。ゴミ」
「そうです。ゴミの言ってる事を真に受けてはいけません」
「でも」
「ガン、なんなら、僕と一緒に習う?」
「…え?」
「それは、名案にございます。流石は坊っちゃん」
「でしょ?」
拍手する執事に、得意げな顔をするアスベルトを見つめて、モーガンは、何度も瞬きをした。
「いいの?僕、本当に下手くそだよ?」
「ご心配には及びません。我、ウィルセンで技術を教える者達は、とても優秀でございますので」
「それに、ウィルセンだと、それぞれの個性にあった授業をするし、できないからって、馬鹿にするようなヤツもいない」
モーガンの瞳が、大きく揺れ、キラキラと輝くと、アスベルトと執事は、ニコッと笑った。
「モーガン様の頑張りを褒めはしますが、貶めるような事は、決してございません」
「ちょうどいいから、剣術も習おうか」
「それでしたら、主剣魔法もいかがでしょうか?」
「しゅけん、まほう…?」
「昨日、二人に付き合ってあげた時に、最後にやってたやつだよ?」
モーガンが何度も頷くと、アスベルトは、その腕を掴んだ。
「とりあえず、見せてあげるよ」
「その前に、ちゃんと、お食事を終わらせ下さい」
「そうだね。ちょっと待ってて。ロム、フェルミナ連れて来てよ。あと、僕の予備の練習着と訓練用の剣も準備して」
「かしこまりました」
〈…ウィーン〉
執事が鏡の前に立ち、手を翳すと、鏡面が揺れ、スーッと映る景色が変わった。
「すぐに、戻って参りますので、それまで、坊っちゃんは、お食事を。モーガン様は、ゆっくりお過ごし下さい」
頭を下げてから、執事が鏡の中に消えるのを見つめ、モーガンが、ポカンと、口を半開きにして、間の抜けた顔をしていると、アスベルトは、クスクス笑った。
「凄いでしょ?アレが通面鏡」
「話は聞いてたけど、ほんとに、一瞬なんだね。凄いなぁ」
「でも、結構、魔力使うんだよね」
「そうなの?」
「一人ならいいんだけどさ、大人数になると、結構大変なんだよ。魔力を持ってる数人で起動させて、魔力が無かったり、弱い人を先に通さないと、途中で閉じちゃうんだよね」
「閉じたら、どうなるの?」
「鏡の中に閉じ込められる」
パクパクと、料理を口に運ぶアスベルトに向かって、モーガンは、ギョッと驚いて、瞳を大きく開いた。
「まぁ、開いた誰かが、もう一回、開けば出て来れるんだけどね」
「壊れたら、どうなるの?」
「片方が無事なら出れるから大丈夫だよ。ウィルセンに設置されてるのは、ちゃんと管理されてるから、壊れないし」
「でも、ちょっと怖いね」
「まぁね。ガンは、魔力あるから、使い方覚えたら、いつでも行き来できるよ」
「できるかな?」
「やらない内から弱気になったらダメだよ?なんでもやってみて、ダメだったらダメで、別の方法を考えればいいんだから」
「そっか。そうだよね」
アスベルトが、食事を終わらせて、カップを傾けると、モーガンも、カップを傾け、一気に中身を飲み干した。
「…よし。あとで教えてね」
「もちろん」
〈…ウィーン〉
アスベルトが、ニコッと笑うと、鏡から中年女性と二人のメイドを連れて、執事が戻って来た。
「お待たせ致しました。準備が整いました」
「ありがとう。彼女は、侍女のフェルミナ、彼はモーガン。僕の」
「ご友人様でございますね?ロムから、お話は聞き及んでおります。モーガン様、本日は、私共が、お世話させて頂きます」
「宜しくお願いします」
スッと立ち上がり、頭を下げたモーガンを見つめ、侍女は、ニコッと笑った。
「早速、始めますよ。トロント、カニュラ」
「はい」
「失礼致します」
「え?へ!?わぁ!!」
「待て待て!おい!」
驚いた顔をするモーガンと顔を真っ赤にしたアスベルトは、メイド達に、あれよあれよと脱がされた。
「だから!いつも言ってんだろ!自分で脱ぐって!」
「いつも申し上げておりますが、坊っちゃんのお支度が、遅いからでございますので、仕方ございません」
「だからって脱がすなよ!」
「そんな騒ぐお暇がございましたら、早くお足をお上げ下さい」
「っ!自分で履く!」
「…愛されるのも、大変なんだね」
着替え終えたモーガンが、困ったように、眉尻を下げて、苦笑いすると、アスベルトは、驚いた顔をした。
「いつの間に」
「普通に手足動かせば、早く終わるよ?」
「…いやいやいや。そんな子供じゃないんだから」
「僕、子供の頃から、自分で着てたんだ」
執事とメイドに、身なりを整えられながら、モーガンが、苦笑いを浮かべると、四人は、眉尻を下げた。
「だから、ちょっと新鮮。それに、やってもらうと、こんなに早く着替えられるんだね。寝坊した時に便利そう」
「ガンでも、寝坊するの?」
ニコッと笑ったモーガンを見て、アスベルトは、首を傾げながら、侍女達にされるがまま、手足を動かした。
「するよ?実は、今日も、ちょっと寝坊したんだ」
「ウソだ~」
「本当だよ?だから、今日の朝食は、一人だったんだ」
「王と王妃は?」
「父上とは、たまに夕食の時に一緒だけど、ほとんどは、母上と二人だけ。寝坊したら、お互い、一人で食べる感じかな」
「寂しゅうございますね」
執事が、スッと肩に手を置くと、モーガンは、顔を見上げて、ニコッと笑った。
「仕方ないんだよ。二人共、忙しいから。それに、食事の時は、あまり話しないから、一緒でも同じなんだ」
「では、次に寝坊した際は、こちらに、いらっしゃって、坊っちゃんと二人で、お食事するのはいかがでしょうか?」
スッと立ち上がった侍女の後ろに、二人のメイドが並んで立ち、執事が侍女と並んだ。
「私共は、いつでも、モーガン様を、お待ちしております」
「…ありがとうございます。その時は、アスも、よろしくね?」
「当たり前でしょ?二人で食べよう」
アスベルトがニカッと笑うと、モーガンは、ほんのり頬を赤くしながら、嬉しそうに瞳を細めた。
「ありがとう」
「おっし。んじゃ、行こうか」
「坊っちゃん、その前に、モーガン様の魔力を安定させませんと」
「あ~そうだった。ガン、リリに魔力の使い方教えた時に、僕が言ってたの覚えてる?」
「想像することが大事なんだよね?」
「そう。んじゃ、僕と魔力交換してみようか」
「…わぁ…凄い」
「ガンも、僕に魔力を流してみて?」
コクンと頷き、モーガンが、手のひらに集中すると、アスベルトの眉間にシワを寄せた。
「押し出すんじゃなくて渡す感じ」
モーガンが、コクンと頷き、瞳を閉じても、アスベルトの眉間のシワは消えない。
「もうちょっと優しく。弱くしないで。だから、押し出すんじゃなくて」
モーガンの額に汗が浮かび、焦り始めると、アスベルトは、その手を優しく握った。
「少し休もうか」
瞳を開き、顔を上げたモーガンの膝が、カクンと折れ、体が傾くと、アスベルトが、その肩を支えた。
「大丈夫?」
「だい、じょうぶ。ちょっと目が」
「モーガン様、お座り下さい」
メイドが置いた椅子に座らせ、アスベルトが、膝を着いて、モーガンの顔を覗き込んだ。
「今日は、やめようか?」
「大丈夫。少しすれば落ち着くから」
「モーガン様、無理をされてはいけません」
「そうです。ご無理をされては、体に悪ぅございます」
「今日が、ダメでも、明日があります」
「毎日、少しずつやれば、出来るようになりますから」
「僕、ウィルセンに行って、みんなが見てる景色を一緒に見たいんだ」
弱々しく、ニコッと笑ったモーガンを見つめて、アスベルトが、困ったように微笑んだ。
「なら、少し休んでから、もう一回やってみよう?それでダメなら、今日は、別のことしよう」
「ありがとう」
「では、お茶をご用意致しましょう」
アスベルトも、椅子に座り直すと、メイド達が、二人に、湯気の上がるカップを差し出した。
「ありがとう」
「…ねぇ、アス、もう一回やろう」
カップを持ち上げたアスベルトが、視線を向けると、モーガンは、ソーサーを持つ手を見つめていた。
「そんな、すぐじゃなくても」
「今やりたい」
「じゃ、このままやってみようか」
互いに、メイド達に、カップを渡すと、アスベルトが椅子を動かし、向かい合うように座り、モーガンと手を合わせた。
「無理そうならやめるんだよ?」
「分かってるよ。大丈夫」
モーガンが、スッと瞳を閉じると、アスベルトは、パチパチと何度も瞬きをした。
「…ガン、そのまま、右手だけに移して、そしたら、僕も、左手に流すから、それを自分の中で混ぜて」
スーッと、モーガンの瞳が開き、キラキラと輝きを放った。
「ちゃんとできたじゃん。もう大丈夫だね」
自分の手を見つめて、そっと握ると、モーガンは、ニコッと笑った。
「素晴らしいです」
「お上手です」
「器用でらっしゃるのですね」
「モーガン様は、才能が、おありのようでございますね」
「…そこまで言われると、ちょっと、こそばゆいね」
「初めてなのに、二回目で、できたんだから、褒められて当たり前でしょ?」
「そうなのかな?」
「とても優秀でございます」
「坊っちゃんなんか、何度やっても出来なかったんですよ?」
「トロントだって、できなかったでしょ」
「坊っちゃんったら、トロントと一緒に泣いてたんですよ?」
「カニュラ!それは言わないって」
「カニュラやトロントが出来ても、坊っちゃんが出来ないと、泣き喚いて」
「ロム!」
「そんなに怒鳴るなんて、坊っちゃんは、まだまだ、坊っちゃんなのですねぇ」
「お前らなぁ!」
アスベルトが顔を真っ赤にして、大声を出しても、三人が、ニコニコと笑っているのを見て、モーガンは、腹を抱え、涙を流しながら、ケタケタと大きな声を出して笑った。
「ごめん。なんか、おかしくて、つい」
ふぅ~と、大きく息を吐き、モーガンが、ニコッと笑うと、アスベルトは、乱暴に、ガシガシと頭を掻いた。
「まぁ、その、僕だって、そんなんだったけど、なんとかなったから、ガンも、なんとかなるよ」
「坊っちゃんは、ドルト様やイザベラ様に、何度も泣きつい」
「もう分かったからやめて。僕、死にそう」
アスベルトが、両手で真っ赤になった顔を隠して、背中を丸めると、モーガンは、アハハハと大きな声で笑い、四人は、優しく瞳を細めて微笑んだ。
「坊っちゃん、モーガン様の魔力も安定しましたし、そろそろ、向かわれてはいかがでしょうか?」
「そうだね。じゃ、行こうか。ガン、こっちにおいで」
モーガンが、アスベルトの隣に立つと、四人は、二人の後ろに並んだ。
「いい?さっきみたいに、通面鏡に魔力を流すんだ。今回は、みんなで、一緒にやるから、少しくらい、弱くても大丈夫だから」
「分かった」
「それじゃ、いくよ?」
二人が鏡面に手を翳すと、四人も、後ろから通面鏡に手のひらを向けた。
〈…ウィーン〉
「立ち止まらないで、真っ直ぐ歩くんだよ?」
「分かった」
「んじゃ、行こう」
アスベルトが鏡の中に入ると、モーガンも、同じように、鏡に向かって歩いた。
一瞬、周りが見えなくなる程、眩しくなったが、モーガンが、真っ直ぐ歩くと、すぐに景色が変わった。
青と白で、洗礼された部屋をグルッと見渡し、モーガンは、大きなため息をついた。
「…ここは?」
「僕の部屋」
「アスの?へぇ。凄く綺麗だね?」
「そりゃ、みんなが掃除してくれてるからね」
「坊っちゃんのお部屋の掃除は、とても大変なんですよ?」
「そうそう。本とか、何回片付けても、すぐバラバラにして」
「二人共、あまり文句ばかり言ってると、坊っちゃんが泣きますよ?」
「泣かないから」
プクッと頬を膨らませて、腕組みしたまま、プイッと顔を反らしたアスベルトを見て、モーガンは、クスッと笑い、窓の外に視線を移した。
「見てもいい?」
「いいけど、ただの庭で何もないよ?」
窓に近付き、外を見たモーガンは、サイフィスと違う景色に、嬉しそうに、瞳を細めた。
「…ここがウィルセン…美しい」
小鳥が飛び回り、青々とした木々の葉が、キラキラと輝き、太陽の光が大地に降り注ぐ。
「サイフィスとは大違いだね。全てに、活気が満ち溢れてるみたい」
「これから行くところは、もっと凄いよ」
「本当?」
「本当。今から訓練所に行くよ」
「突然、僕が行っても平気なの?」
「平気へーき。サイフィスと違って、ウィルセンの騎士は、誰でも歓迎してくれるから」
キラキラと瞳を輝かせるモーガンに、アスベルトは、ニカッと笑って、扉を指差した。
「早く行こう。色んなとこ見たいでしょ?」
パーっと明るい笑顔を浮かべて、モーガンが小走りで、アスベルトの隣に並ぶと、執事と侍女が扉を押し開けた。
〈ガチャ〉
「行ってらっしゃいませ。坊っちゃん、モーガン様、楽しいひとときを」
「行ってらっしゃいませ」
四人に見送られて、アスベルトの案内で、モーガンが訓練所に向かうと、辺りに、男達の野太い声が響き渡った。
「何やってんだ!集中しろ!集中!」
「へっぴり腰になってるぞ!もっと腰入れろ!」
半裸状態の男達が、重そうな木箱を持ち上げたり、走り回っていたりしているのを見つめて、モーガンは、口を半開きにした。
「…これって」
「今は、基礎体力をつける時間なんだよ」
何度も頷いて、汗を流しながら、綱を昇ったり、木にぶら下がってる男達を見渡しながら、モーガンは、首を傾げた。
「あれは?あれは、何してるの?」
「一通りの訓練が終わったら、高ぶった気持ちを落ち着けるのに、あんな風に、木陰で休むんだよ」
瞳を閉じて、胡座を組み、背筋を伸ばして座り、微動だにしない男達を見つめて、モーガンが、何度も頷くと、アスベルトは、その手を引いた。
「行こう」
「へ?」
「僕らもやろう」
「…え、無理だよ。僕、そんなに体力」
「ないならつける。一緒にやれば、あっという間だから。まずは走る!」
「待ってよ!」
アスベルトの後を追って走り始めたモーガンは、しばらくすると、息が上がり始めた。
「待って、アス、ちょっと、苦し」
「もう?まだ始めたばっかだよ?」
二人は、同じように長く走ってるはずが、アスベルトは、まだ余裕があった。
「しんどい」
「ガン、本当に体力無いね」
「坊っちゃんは、分かってねぇなぁ」
「何が」
「その子、初めてでしょうに」
「初めての子が、十分も走れれば凄いですよ」
「僕は、みんなと同じに走ったじゃん」
「みんな違うんですよ」
「そうそう。その子には、その子の歩幅があるんです」
「坊っちゃんと一緒だと、次が辛くなるから、俺らと一緒に終わらせてもいいんだよ?」
首を振って、モーガンが隣に並ぶと、アスベルトは、ニコッと笑った。
「もう少し。な?」
モーガンが、コクコクと頷くと、男達も一緒になって走り始めた。
「んじゃ俺らも」
「下向いたら、苦しいから、顔上げて」
「ちゃんと前見てないと転ぶぞ」
「胸張れ。んで、少し前に」
「背中伸ばしてぇ」
「上手い上手い」
「あそこの木まで行こう」
「あそこに井戸があるぞ」
周りの男達の声を聞きながら、モーガンと走っていたアスベルトも、無言になり、息が上がり始めた。
「お?そろそろ、坊っちゃんも苦しいか?」
「ぅる、さい」
息切れしながらも、隣のモーガンに視線を向けたアスベルトを見て、男達は、ニヤッと笑った。
「よ~し。最後だ」
「あの木まで」
「全力で」
「走り抜けー!」
周りが速度を上げると、アスベルトも速度を上げ、モーガンも、奥歯を食いしばりながら、一気に速度を上げた。
バタバタ、ドタドタと、砂煙を舞い上げながら、全力で走り抜けると、足がもつれたモーガンが倒れそうになるが、逞しい腕に抱えられた。
「やったなぁ」
「走りきれたぞ」
「頑張れたな」
「凄いぞ」
「偉いぞ」
男達に褒められながら、背中を擦られて、モーガンは、膝に手を置いて、必死に息をした。
「大丈夫か?」
「初めてだもんな」
「深呼吸、深呼吸」
「ゆっくりでいいぞ」
「吸ってぇ、吐いてぇ、吸ってぇ、吐いてぇ」
声に合わせて、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出して、呼吸が整うと、モーガンは、額の汗を乱暴に拭った。
「こら。坊っちゃん、座るなって」
「むり、あし、しんどい」
「毎回、やってるでしょうに」
「しんどい、もんは、しんどい、の」
「ほら。彼は、もう次いけますよ?」
「いつまで待たせるんですか」
「なんで」
「体の使い方だろ」
息切れして、座ってるアスベルトを見て、モーガンが首を傾げると、後ろから皇帝が現れた。
「帝国の聖光なる」
慌てて、モーガンが挨拶をしようとすると、皇帝は、手のひらを見せて静止させた。
「今の君はアスの友だ。ならば、俺はアスの父。アスが友達を連れて来ただけだ。そうだろ?」
「…はい。お邪魔しております。ドルト陛下」
皇帝が、優しく瞳を細めると、モーガンは、瞳を輝かせながら、ニコッと嬉しそうに微笑んだ。
「どうだ?ウィルセンの騎士達は」
「凄いです。皆さん、凄く速くて。途中で、何回も、やめたくなりました」
「だが、辞めずに最後までやり遂げた。それこそ、凄い事なんだぞ?」
「そんなことありません。皆さんが、一緒だったので、できたようなもんです。僕なんて」
「それでも、投げ出さず、やり遂げたのは、モーガン自身が続けたからだ。苦しくても、続ける事に意味がある。それが出来たのは、誰かの力ではなく、モーガンの力だ」
皇帝の手が、スッと、頭に乗せられ、モーガンは、瞳を大きく開いた。
「良くやり遂げた。偉いぞ」
皇帝の手が、頭を優しく撫でると、モーガンは、ほんのり頬を赤くして、嬉しそうに微笑みながら、静かに瞳を閉じた。
「それに比べて、アスは、いつまでへたばってるんだ」
「へたばってないし」
「なら、さっさと立て。モーガンは、座りもしなかったぞ」
立ち上がったアスベルトが、モーガンの隣に並ぶと、唇を尖らせた。
「体力無いんじゃなかったのかよ」
「最初は、辛かったんだけど、みんなに言われた通りにしたら、そこまで苦しくなくなったんだよね」
「体の使い方が分からなかっただけだろ。それが使いこなせれば、アスよりも、モーガンの方が、体力的に余裕があったんだ」
アスベルトと視線を合わせて、何度も頷くモーガンをジーッと見つめ、皇帝は、ニコッと笑った。
「ちゃんと扱い方を覚えれば、魔法も、剣術も、モーガンの方が、上手くなるかもしれないな」
モーガンの大きくなった瞳が、キラキラと輝き始めると、アスベルトも、ニコッと笑った。
「やったな。これで、キアとの婚約に、一歩前進だな?」
「アス、それは」
「ほぉ?それは初耳だ。一体、いつから、キアと婚約を?」
「いえ、あの、婚約の話は、まだ」
「まだ?まだって事は、これからって事か?」
「それは」
「ガンの片想いだもんな?」
「アス!」
「ほぉほぉ。それでそれで?強くなって、キアの気を引こうとでも?」
ジリジリと迫る皇帝から、逃げるように、モーガンは、少しずつ後退りした。
「陛下?落ち着いて下さい。僕は、そんなつもりじゃ」
「ならば、何故、強くなろうと?」
「それは、アスの提案であって、僕に、他意は」
「アスに唆されて、キアと一緒になる為に、強くなろうと思ったんじゃないか?」
「それは、その」
「そんなに、キアが欲しいなら、もっと強くならねばなぁ?どれ。俺が、直々に、相手してやろう」
「それは、大変、光栄なんですが、またの機会にぃっ!」
〈ビュン〉
皇帝が、剣を抜きながら振り抜くと、同時に屈み込んだモーガンの頭の上を風が吹き抜けた。
「どうした?早く剣を抜け」
皇帝の赤い瞳が、怪しく輝くのを見て、モーガンは、一気に走り出した。
「待て!」
「イヤだ!」
「なら諦めろ!」
「もっとイヤだ!」
「なら死ぬ気で逃げろ!」
〈ビュン!ブン!ブォン!〉
剣を振り回す皇帝に追われ、モーガンが、必死に逃げ回り、箱や木など、障害物を難なく避けるのを見て、アスベルトは、指先で唇を撫でた。
「…あの子、凄いですね」
「だよね?普通に、壁飛びしてるし」
「皇帝の剣筋をちゃんと避けれてますし」
「逃げてるのが、もったいないくらいです」
「あんなに動けるのに、なんで逃げるんだろう?」
「剣の扱い方を知らないのでしょう」
「グレームス団長、おはようございます」
騎士団長が現れ、アスベルトの隣に並ぶと、逃げ回るモーガンを見つめた。
「あ~そうかも。ガン、まともな奴らに教わってなかったみたいだし」
「なるほど。それで、サイフィスから連れて来たんですか?」
「まぁね。ロムから聞いた?」
「はい。なんとも、不遇な扱いを受けていたようで」
「それで?グレームス卿なら、どうする?」
「そうですねぇ。私でしたら、まずは」
木箱を掴んだ手が汗で滑り、モーガンの体が、大きく傾き、砂煙を舞い上げて転がると、皇帝が、剣を掲げながら、一気に距離を縮めた。
〈キィン!〉
「…何してる。グレームス」
皇帝と対峙し、モーガンを庇うように背を向けた騎士団長を見て、アスベルトは、嬉しそうに微笑んだ。
「ドルト様こそ、何をしてるのですか?」
「そこのガキが生意気にも、キアとの縁談を画策してるようでな。今の内に、現実を見せてやろうとしていたのだ」
「それはそれは。大変、聡明ですね」
得意げな顔をする皇帝を見つめ、騎士団長は、ニコッと笑った。
「しかし、この子も、ドルト様と同じ、一人の女性を想い、決断したのでしょう?何故、ドルト様がやっていた事が、この子には許されぬのでしょうか」
「俺は、自国で」
「この子の国は、ウィルセンのように、誇れる指導者が居ないのですよ?その中で、力を得る事は出来ません」
〈キーン!〉
グッと押し黙り、皇帝が、瞳を細めると、騎士団長は、剣を弾き飛ばした。
「自分の身分もありながら、他国に来てまで、前に進もうとする。そんな子に刃を向ける姿は、ただ傲慢にも、新芽を毟り取ろうとする子供のようですよ」
「しかし、キアは、まだ」
「可愛さのあまり、そんなに囲っていては、お嬢に嫌われますよ?それに、坊っちゃんだって、他所のお嬢ちゃんとこで、色々、やらかしたらしいじゃないですか」
「それは」
「坊っちゃんなんか、相手の屋敷で暴れたのでしょう?それに比べれば、とても大人しく、良い子ではないですか」
「そんな大人しい奴に、キアを守れるものか」
「だから、こうして、強くなる為に来たのでしょう?ちゃんと分かってるじゃないですか」
「だからと言って、相手の家に来てまで」
「それこそ、凄い事でしょう。自分の情けない姿が、お嬢に知られるかもしれないのに、ここまで来たんですから」
「しかし」
「なら聞きますが、もし、ご自分が、この子と同じ環境であったなら、どうしますか?同じ事をしたんじゃないですか?坊っちゃんと年が近く、隣国の王子でありながら、必死に進もうとし、身分も関係なく、自ら進んで学ぼうとするのが、どんなに難しい事か。ましてや、留学ではなく、一個人として、単身で来てるのですよ?それが、どんなに危険な事か。そう考えれば、余計、この子の決断を」
「だーーーー!!分かった分かった。全く、俺は皇帝なのに、お前らは、俺のやる事に文句ばっか」
「今のドルト様は、坊っちゃんの父親なのでしょう?皇帝陛下ではありませんからね。怖かったろ?立てるか?」
剣を鞘に入れ、騎士団長が手を差し出すと、モーガンは、その手を掴み、ゆっくり立ち上がった。
「すみません。ありがとうございます」
顎を擦りながら、モーガンを見つめる騎士団長は、悲しそうに瞳を細めた。
「ずいぶん、体に負担が掛かってるようだ。この年で、そんなに負荷を背負わされていたなんて、かわいそうに」
誰もが、モーガンを見つめて、悲しそうに瞳を細めた。
「だが、今ので、かなり自由に体を動かせるようになった。次は、その固くなった体を柔らかくしよう。お前ら、坊っちゃんと一緒に、この子の面倒も頼んだぞ」
「あの、僕が、一緒しても、いいんですか?」
モーガンが、不安そうに瞳を揺らすと、騎士団長は、優しく、ニコッと微笑んで、その頭に手を乗せた。
「もちろんだ。ウィルセンの騎士団は、強くなろうする者を無下にしない。皆、歓迎するさ」
騎士達が、ニカッと笑うと、モーガンは、瞳を大きく開いた。
「まぁ、心の狭い坊っちゃんの父親は、君を敵視してるようだがね」
騎士団長が、肩越しに、チラッと、腕組みしたまま、仁王立ちしている皇帝に視線を向けると、モーガンも、不安そうに瞳を揺らして見つめた。
「そんな顔しなくても大丈夫。君の英断を受け入れるくらいの器は、多分、持ってると思うから。受け入れないなら、受け入れないで、周りがほっとかないさ」
騎士達が腕組みして、モーガンの周りに立つと、皇帝は、グッと唇に力を入れてから、大きなため息をついた。
「分かった。モーガンは、アスと一緒に、お前らに任せる。だから、そんな睨むな」
「やったな。ガン」
「ありがとうございます」
隣に並んだアスベルトが、ニカッと笑うと、モーガンも、嬉しそうに瞳を細め、静かに閉じた。
「だが!訓練だけだぞ!キアに縁談など」
「それじゃ、リリちゃんとの縁談も断られるわね」
青いマーメイドドレスを着た皇后が現れると、アスベルトから笑顔が消え、皇帝は、慌てて近付いた。
「ベラ、それは」
「母上、どうして」
「だって、そうでしょ?王子が、キアの事を想って、必死になっても、父親のドルが、こんな感じなのよ?リリちゃんは、一人娘、しかも、父娘二人だけの家族。アルベル公にとって、リリちゃんは、目に入れても痛くない程、大事な愛娘のはずよ?そんなリリちゃんをくれって言われるのよ?皇太子だろうが、なんだろうが、アスが、どんなに必死になろうが、ダメに決まってるでしょ」
皇后が、頬に手を添えながら、唇を尖らせると、皇帝は、苦笑いを浮かべたまま、頬をヒクヒクさせた。
「そこは、アルベル公の父親としての」
「一介の公爵であるアルベル公の方が、寛大なのかしら?アナタは皇帝なのに」
「それは」
「アルベル公のように、父親なら、娘の幸せを願わなきゃ。ね?」
皇后が、ニコッと笑うと、皇帝は、頭を掻きながら、視線を泳がせた。
「ね?ドル?願うわよね?」
「分かったよ。今後の王子を見て考えるから」
「娘の為を考えられる父親。とっても素敵よ?ドル」
皇后が頬に触れると、その体に抱き着き、スリスリと、頬擦りする皇帝を見つめ、モーガンが、困ったように、苦笑いした。
「良かったわね?これから大変だけど、頑張ってね?」
皇后がウィンクすると、モーガンは、頬をほんのり赤くしながら、嬉しそうに微笑んで、コクンと頷いた。
「それじゃ、そろそろ時間だから、私達は行くわね。行きましょう?ドル」
「あぁ。俺が居ない時に、キアと会うんじゃないからな。いいな?」
「…会わせる気ないくせに」
騎士達が、ボソッと呟いたが、ピョンピョンと、ハートマークを飛ばしながら、皇后と仲良く手を取り合って、並んで去って行く皇帝を見送り、アスベルトは、ため息をついた。
「ごめん。父上が、ここまで器が小さいと思わなかったよ」
「大丈夫だよ。それに、僕らも、娘ができたら、あんな風になるかもしれないし」
「…僕、無理かも」
「僕も。彼女に似てたら、余計かも」
「男親とは、そんなもんですよ」
「にしても、ドルト様は異常だけどな」
「確かに」
「そういえば、団長のとこもでしたよね?」
「私は、娘の意思を尊重するよ」
「流石は、我らの団長」
ニコニコと笑う騎士団長を見つめて、モーガンは、キラキラと瞳を輝かせた。
「…僕、団長さんみたいな男になりたいな」
「だよな。カッコいいよな」
アスベルトも、キラキラと瞳を輝かせると、騎士の一人が、二人の耳に顔を寄せた。
「団長の娘さん、女流魔剣士なんだよ。並の男じゃ敵わないくらい、強いんだけど、娘さんの理想が、自分よりも強い人なんだと」
「…それ、無理なんじゃ」
「だから、団長は、あんな風に言えんだよ。娘より強いってなると、団長くらいにならなきゃないから」
「なるほど。娘も強くすればいいのか」
「まぁ、その子が、どうするかにもよるんじゃないかな?」
「それなら、小さい内から」
「リリアンナに怒られるよ?」
「それはイヤだ」
騎士が、ゲラゲラと大きな声で笑うと、モーガンも、クスクスと笑った。
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