持て余した微熱の欠片

黒井透

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片野冬子の対応(手解き)

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 男子中学生にとって、姉というのは最も身近な異性であると同時に、最も異性としての魅力を感じない存在であると聞く。
 私には兄がいないが、仮に美形で私を溺愛する兄がいたとしても、恐らくはそれと同じ答えを出していただろう。
 どれだけ上等な品種であろうと、毎日食べる米に特別な感情を抱くことはない。要するにこれはそういう話だ。
 しかし、米に慣れ親しんでいるからこそ、他の米にも抵抗無く食指が動くのだということを、私は見落としていた。
 言うなれば、私は彼にとって理想の米だったのだ。
「鉄矢、私の部屋にお茶とお菓子持ってきて。三人分ね」
 真弓が居間に顔を突っ込んでそう要求を告げると、中から不機嫌そうな返事が聞こえてきた。声変わりが済んでいるのかどうなのか分からない、高くも低くもない男の声。彼がどんな顔をしているのか覗き見してみたくもあったが、早々に戻ってきた真弓に促されて私は環と共に二階へと上がった。
 真弓は、学校では場を和ませることに長けたおっとりとした性格で通っている。しかし彼とのやり取りを鑑みる限り、なかなかの内弁慶のようだった。
 きっと彼は真弓のせいで歳上の女性に幻滅しているだろうと思ったが、渋々と部屋へやってきて私を見た時の反応は全く正反対のものだった。
 私は決して洞察力に優れてはいないし、ましてや自惚れが強くもないが、それでも目が合った瞬間に確信した。
(…あ、こいつ私に惚れたな)
 彼は素知らぬ顔でテーブルに茶と菓子を置きつつ、立ち上がり際、名残惜しそうに再度視線を送ってきた。流し目かよ、様になってんじゃねーか、と妙にツボに入ってしまった私は、うっかり口元を綻ばせてしまった。それが決定打となったのだろう。
 彼は怒りとも恐怖とも取れるような驚きに顔を染めると、一目散に部屋から退散していった。
「何あいつ、態度悪い」
「緊張してたんじゃない?」
 真弓と環は、私と彼の一幕に気が付かなかったらしい。この時に二人から言及されていたら、今の私と彼の関係はなかったかもしれない。
 それから一時間くらい談笑した所で、私はトイレへ行くために真弓の部屋を出た。途中にあった部屋の扉が少しだけ開いていたので、不自然にならない程度に歩く速度を落としてみると、中からこちらを注視していた彼と目が合った。やはり流し目だったが、先程と違ったのは私に気付いた時点で露骨に顔ごと向けてきた所だ。
 ああ、ヤバイな、これはマジだな、と思った。近所のボクシングジムにいる連中と同じ雰囲気を感じたからだ。身長は明らかに私より低かったが、目付きは完全に猛禽類のそれだった。
 私は用を済ませると、いつもより入念に手を洗って時間を稼いだ。これから歳下の男に懸命に口説かれるのかと思うと、柄にもなくソワソワしてしまったのだ。
 そして、意を決してトイレの扉を開けた私を、誰もいない空間が出迎えた。
(来ないのかよ!)
 思わずオーバーリアクションを取りかけた所で、眼前にある部屋の扉が開いた。中から現れた彼は、恐らく内心私以上にソワソワしていたのだろうが、表情は真剣そのものだった。
 私は負けじと飄々とした態度で彼に声をかけた。
「テツヤ君だっけ?さっきはありがとうね」
「あ、いえ、お構いなく」
「どういうことだよ、無視しろってか」
 口を開いた瞬間にしどろもどろになった彼は、全く的外れな社交辞令を返してきた。お陰でつい素に戻ってツッコミを入れてしまい、彼の出鼻をくじいてしまった。
 別に口説かれたかった訳ではないのだが、沈黙されてしまうと反応に困ってしまう。相手の意図に気付かない振りをして立ち去るというのも後味が悪い。
 ここは歳上としてリードしてやるべき場面だろう。そう思い、私は彼に助け舟を出すことにした。
「なあ、レディの入った直後にトイレを使うものじゃないぞ」
「え?」
「トイレへ行こうと思ったんじゃないのか?」
 部屋を出てきた理由を問い詰めると、彼は思い出したかのように私の元へ一歩踏み出してきた。どうやらタイミングを見計らっていただけで、覚悟はとうに決まっていたらしい。
 手に持った紙切れを差し出しながら、彼は幼いながらに重みのある声で言った。
「受け取って下さい。俺の気持ちです」
「ん?」
 私が言葉のニュアンスに疑問を感じている間に、彼は一礼して部屋へと戻っていってしまった。渡された紙を開いてみると、そこには彼の連絡先ーーだけではなく、よくぞここまで書いたものだと感心する程の分量で、私への想いが綴られていた。
(うわぁ。若いな。凄いな。どうするんだこれ)
 余りにもストレートでパンチの効いた求愛に、私は本気で心を乱された。
 偶然を装って現れ、軽く話をして、冗談半分にデートに誘う。そのくらいの可愛いアプローチをされることまでは想像していたが、ここまではっきりと好意を示されることは頭になかった。
 彼は真弓の弟だ。適当にあしらって凝りを残したくはないし、何より純情な中学生を傷付けたくはない。
(んー、参ったなぁ)
 いつまでも廊下に突っ立っていても埒が明かないため、私はとりあえず部屋で手紙を読み返しながら考えることにした。ベッドに腰掛け、一文一文に込められた想いを紐解いていく。
 要約すると、彼は私を見た瞬間に初めて『美しい』という感情を知り、私のことをいつまでも見ていたいと思ったので、今日この後真弓に内緒で二人で過ごす時間を作って欲しいという内容だった。
 男勝りで愛想の無いことで有名な私だが、この時ばかりは乙女の顔になっていたと思う。自分の心臓の音が聴こえたのは久しぶりの体験だった。
「なあ、滅茶苦茶恥ずかしいんだけど、どうしたらいい?」
「俺に聞かないで下さい…」
 からかいではなく心からの問い掛けだったのだが、彼は膝を抱え込んで顔を伏せてしまった。ついさっき書いたばかりの力作のラブレターを隣で熟読されたのだから、無理もない。そもそも私が押し入った時点で彼は放心状態だったのだ。
 数分前までの鋭さが見る影もない姿に、私はつい嗜虐性をくすぐられてしまった。攻撃は最大の防御だ。動揺を悟られないためには、こちらからガンガン攻めるしかない。
「手紙、ありがとう。凄いよお前。ここまでグイグイ来られると流石にちょっとトキめいたよ。でも私、想いは直通口にして欲しいタイプなんだ。やり直しをお願いして良いか?」
「勘弁して下さいよ…」
「おいおい、二人で過ごす時間が欲しかったんだろう?退屈させるんだったら、もう行くぞ?」
 建前を前面に押し出してみると、彼はすぐさま顔を上げて私へと向き直った。その射抜くように真っ直ぐな目付きは、とても彼を三つも年下の中学生だとは思わせない。度胸の瞬発力だけは本当に素晴らしい男だった。
(さて、どんな言葉が飛び出すかな)
 手紙に書かれていたのは良く言えば詩的な表現だったが、悪く言えば大袈裟な表現ばかりだった。要するに等身大の彼の想いではなかったのだ。文字という背伸びの手段を奪われた彼が、一体どんな言葉を発するのか、とても興味があった。それ次第では一度くらいならデートに応じてやっても良いとさえ思うくらいに。 
 もちろん、やり直しという言葉を額面通りに受け取って、手紙の内容を復唱するようなら話は別だ。
「あなたの名前を、教えて下さい」
 彼は姿勢を正すと、迷いの消えた声でそう尋ねてきた。私は彼と初めて会った時と同じように、口元を綻ばせながら答えた。
「片野冬子」
 この瞬間、私は少しだけ彼のことを気に入っていた。そう、名前だ。あの手紙には私の名前が足りなかったのだ。最もやり直さなければならないのはそこだった。
 勢いに任せて行動するばかりかと思いきや、押さえるべき所を押さえるだけの美意識はあったらしい。一切下がらない視線といい覚悟の感じられる声といい、少なくとも私への情熱だけは信じてやっても良さそうだった。
「冬子さん」
 彼は私の方へと身を乗り出し、今までに見た一番の男らしい顔で、何の装飾もない想いを吐露した。
「俺とキスしませんか」
「女舐めんな馬鹿野郎」
 私はノータイムで切り返した。予想していた言葉と一字一句違わなかったことに、実は物凄く笑いそうになっていたのだが、流石に堪えて真剣な声を出すように努めた。
「可愛いねキスしようよって、最底辺のナンパだぞ」
「そんな…!ナンパなんかじゃないですよ!俺は真剣です!」
「同じだよ。覚えとけ?初対面の人間への告白はただのナンパだ。お前の場合、デートをすっ飛ばしてる分ナンパよりも質が悪い」
 ナンパ以下、と断じられたことが余程ショックだったのだろう。この世の終わりのような顔をした子供がそこにいた。
 少々言い過ぎてしまったかと流石に胸を痛めたが、ここで切り上げてしまってはただの全否定で終わってしまう。きちんと最後まで導いてやらなければならない。
「そりゃ、嬉しかったよ。でもそれは手紙の話だ。お前が手紙を一心不乱に書き上げて、勇気を振り絞って渡してくれた一大イベントの話だ。お前自身は特別でも何でもないんだよ。何のてらいもなく気持ちをそのままぶつけられても困る。お前、私が初対面の男にキスを迫られて、喜ぶような女に見えるか?」
「見えません。そうですよね。調子に乗りました。ごめんなさい」
「よろしい。なら仕切り直しだ。一分やるから後ろを向いて深呼吸しろ」
 彼は罰が悪そうに頭を下げたままだったが、まだチャンスがあることに心無しか希望を持ったようだ。機敏に方向転換をすると、馬鹿正直に全力の深呼吸を始めた。
 この時、隣りの部屋から真弓達の声が微かに聞こえてくることに私は初めて気が付いた。もしや自分の声もあちらに届いていたのではないか、どう言い訳をしようか、と別の懸念に気を取られている間に、彼は落ち着きを取り戻していた。
 そして渾身の第二の矢が放たれた。
「俺と付き合って下さい」
「お前は何を聞いていたんだ」
 今度は私がうなだれる番だった。ああ、ヤバイな、これはマジだな、と思った。数ヶ月前に男に入れ込んでいた真弓と同じ雰囲気を感じたからだ。姉弟揃って他人との温度差に鈍感な性格らしい。
「え、違いました!?」
「どうしてそれが正解だと思ったんだよ。おかしいだろ。ことごとくデートをすっ飛ばすんじゃねえよ」
「だって、付き合ってもいないのにデートなんて…」
「何でだよ!?逆だろ!?お前、デートしてる奴らが全員両想いだと思ってるのか!?」
「いや、そこまでは思ってませんけど、デートに誘う時点でこっちの気持ちは相手にバレてるんだから、同じじゃないですか…?」
「同じじゃねえよ。お前、私が初対面の相手と付き合うような女に見えるのか?」
「…見えません」
「次が最後だ。ビシッと決めてみせろ」
 段々と自分が馬鹿なことをやっているように思えてきて、私は呆れを露わにしながら乱暴にまくし立てた。彼にもそれは伝わったらしく、気持ちを切り替えるのに掛けた時間は数秒だった。
「冬子さん、俺とデートして下さい」
 ストレートで、シンプルで、それ故に嬉しくて一考の余地のある誘い文句。ようやく待ちわびていたものを得ることが出来た。
 嗚呼、それだ。それが聞きたかったのだ。初めからそれをくれていれば、こんなにも心を乱すことは無かったのに。
 私はベッドから下りて両足を揃えると、今までに見せた一番の女らしい所作を添えて、何の装飾もない想いを吐露した。 
「ごめんなさい」
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