持て余した微熱の欠片

黒井透

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大川環の見解(推薦)

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 鉄矢君は私の友人である真弓の弟だ。
 初めて会った時、彼は中学一年生だった。当時から身体だけは私よりも大きかったが、中身はほとんど小学生みたいなものだったので、幼い頃から弟が欲しかった私にとっては可愛がるのに丁度良い相手だった。
 一緒に遊ぶことは滅多になかったものの、家にお邪魔する度に話しかけていたので、今では慕われていると言える程度には仲が良い。
 そんな親戚の子供のような立ち位置にいる彼が、何と私達の高校に現れた。
「環さん!」
 テニスコートのフェンスの向こうから名前を呼ばれた時には、その声が彼のものだとすぐには分からなかった。彼がそんな所にいるとは思わなかったし、私の記憶に無い男らしい声だったからだ。
「わお、鉄矢君じゃん」
 久しぶりに彼の方から話しかけてくれたことへの嬉しさで、私は先輩の目も気にせずに駆け寄ってしまった。隣に真弓のいない彼と、部活中の私。何ともへんてこな取り合わせだ。果たしてどんなテンションで接するのが正しかったのやら。
「突然すみません。時間を取らせるのもあれなので、とりあえずこれを受け取ってもらえますか?真弓に内緒で相談したいことがあるんです」
 彼は妙にハキハキと用件を告げると、フェンスの隙間から紙切れを捩じ込んできた。私はそれで何となく大体の事情を察する。
「オーケイ、任された。後で連絡する」
「ありがとうございます!それでは失礼します」
 せっかくなのでそのまま立ち話でもしようかと思ったが、彼は深々と頭を下げるや否や立ち去ってしまった。高校という空間の居心地の悪さもさることながら、部活中の私に気を遣ったのだろう。
 何はさておき、良くここまでやって来たものだ。あの満足げな笑顔。目的は果たしたと言わんばかりだ。たった数十秒のやり取りのためだけに移動時間の一時間を費したと見える。
 一体何の相談なのか気にはなったが、私は答えの出ないことを考えるのが嫌いなので、コートに戻って五分足らずで彼の登場をすっぱりと忘れた。
 そして思い出した頃には、彼からもらった紙切れーー彼の連絡先は洗濯機の中だった。
(あちゃー、やらかした)
 私は彼のことを軽視していた訳ではなく、むしろこれを機に仲を深めようと目論見んでいた。普段とは違う、頼れるお姉さんとしての一面を披露するつもりだったのだ。
 それがまあ、何とお粗末な結果か。自分の軽薄さに苦笑してしまう。
(大事な話なんだろうなぁ)
 先程は考えが及ばなかったが、彼は私の部活の活動日など把握していない。つまり、会える保証も何もないのに訪ねてきたということだ。下手をすると昨日以前にも来ていた可能性すらある。
 他に頼る当てもなく、縋るような思いだったに違いない。その期待を裏切るような真似をしてしまった。
 決して自慢出来る話ではないが、こういう時、私の頭の回転は早い。
(オーライ、私は良い先輩だ) 
 筋書きはこうだ。受け取った紙は、失くさないように上着のジッパー付きのポケットに保管しておいた。その上着をいつもの習慣で部室に置いてきてしまったのだが、相談の内容がどうしても気になったので、自宅の番号を調べて電話を掛けた。
 我ながら見事な出来栄えだった。些細な嘘を加えただけで、彼を傷つけないどころか誠意すら感じさせる、淑女の対応へと早変わりだ。真弓が電話付近に居た場合のことを考えて、親御さんに私の名前を復唱されないように注意すれば完璧だろう。
 そうと決まれば早速行動開始だ。
「あのさ、前田君に取り次いでもらえないかな?」
 まずは茉莉に電話を掛け、私の連絡先を前田君に伝えてもらう。前田君は真弓と同じ中学出身らしいのだ。私とは面識が無いも同然の関係だが、女の子からの頼みを無下に断るような男ではない。
 それに私は知っている。私は、ちょっとだけ可愛い。
 しばらく待つと、前田君から着信があった。
「急にごめんね、どうしても真弓の家族とこっそり連絡を取りたいんだ」
 これしか手段が無いのだという切羽詰まった雰囲気を装い、図々しさを覆い隠す。いわゆるぶりっ子というやつだ。ぶりっ子は心の化粧。冬子には否定されるが、私は何ら恥じるような行為ではないと考えている。
 言葉をオブラートに包むのが優しさなのと同じように、声色を使い分けるのも歴とした一つの礼儀だ。
『それなんだけど、うちの中学って連絡網が無かったんだよ』
 順調に進むかと思われた計画は、思わぬ所で頓挫した。
「そうなの!?」
『必要ないって意見が過半数超えたからさ』
「あー…今って個人情報の扱いに関してうるさいもんね…」
 情報化社会の弊害というやつらしい。盲点だった。これでは私の人脈も形無しだ。
 ここまでしておいて何の収穫もないのも癪なので、通話を終える前に「今度茉莉を含めて遊ぼう」と口約束を取り付けておいた。そのうち誰か男の子を紹介してもらうとしよう。
 さて、連絡手段が得られなかった以上は、彼の家へ直接行って話すしかない。
(ここで鉄矢君に恩を売っておくのもありか)
 なけなしの義務感と目一杯の打算に背を押され、私は家を飛び出した。到着予定時刻は午後九時。健全な中学生なら、外出中や就寝済みということはあるまい。
 十曲程鼻歌を歌い終えた頃に、彼の部屋を視界に捉えた。幸いにも電気が付いている。用意しておいた靴下を丸め、窓を目掛けて思い切りぶん投げると、三発当てた所で彼が姿を現した。手を振る私にギョッとした顔を見せると、これ見よがしに上着を羽織って今から行くという合図をくれる。
 そうして出てきた彼に事情を説明してやると、罪悪感が芽生える程に感謝された。何て可愛い子だ。いつか悪い女に引っ掛かるのではないかと少し心配になる。
 そこで、一つの可能性に気が付いた。
(この子、私を好きになっちゃうんじゃないか…?)
 中学二年生の彼にとって、女の子が家を訪ねてくることは一大イベントのはずだ。夜に家を抜け出してこっそり会うというのも、何処となく背徳的で刺激のあるシチュエーションだろう。
 何よりその相手は三つも歳上のお姉さんで、『心配で思わず会いに来た』という殺し文句まで携えている。これではまるで据え膳を出されているようなものだ。熱っぽい想像を掻き立てられない方がおかしい。
 恋の痛手は惚れた人間の自己責任、というのが私の持論だが、だからと言って純情な中学生を傷付けるのは本意ではなかった。
 自分で撒いた種だ。これはもういっそのこと、花々しく実らせてやるべきだろうか…?
「俺あの時、冬子さんに一目惚れしちゃったんです」 
 私を現実に引き戻したのは、彼のそんな誇らしげな一言だった。
 何を言われたのかを頭が理解した直後、反射的に体が腕を折り畳み、寒さを堪えるように胸を引き絞った。
 続いて、心が熱を放つ。
(うわあ、 私バカじゃないの!?)
 私は高校二年生だ。弁明するまでもなく、中学二年生との情事を本気で空想した訳ではない。
 しかし、彼の相談の内容が恋の悩みだと分かった途端、不覚にもほんの少しだけがっかりしてしまったのだ。心の底に彼への期待が眠っていたという事実に、この場から走り去りたい程に恥ずかしくなる。
 何が頼れるお姉さんだ。中学生相手に色気を誇るちっぽけな女、それが今の私だ。自分自身に抱いていた大人のイメージは、もはや黒歴史でしかない。今夜はベッドで枕を抱いてのたうち回ることになりそうだ。
(ええい、誤魔化せ誤魔化せ!)
 私は動揺の本当の理由を悟られないように取り繕いながら、先日彼が真弓の部屋にやってきた時のことを思い返した。
 あの日、彼は初めて冬子と対面するなり、ほとんど視線を送ることなく顔を背けてしまった。冬子は同性から見ても溜め息が出るような女だ。第二次性徴期を迎えたばかりの彼にとっては、目に毒以外の何物でもなかったのだろう。興味と羞恥の板挟みになっているのが丸分かりだった。
 しかし、本当に劇薬として機能していたとは驚きだ。そうなると、私を通して冬子と仲良くなりたい、というのが彼の相談の内容か。
 私個人と遊んだこともないのに仲介役を頼んでくるなど、虫の良い話だと思わなくもないが、それ以上に手段を選ばない姿勢を好ましく感じる。私は消極的な男が大嫌いなのだ。高校生にもなってナンパの一つも出来ない腑抜けと比べれば、彼の方が余程見込みがある。
 そもそも、同じように前田君を利用しようとしていた私にどうこう言えた義理ではない。
「それで、手紙を書いて渡したんですけど、あっさり振られちゃって」
 どう応えてやろうかと画策していた私の耳が、聞き流せない一文を捕らえた。
「待って。手紙って、ラブレター?いつ渡したの?」
 思わず上擦った声で口を挟むと、一目惚れから一時間のうちに告白にまで至っていたことを告げられ、唖然とさせられた。彼は異性の話をするのも恥じらうような初心だったはずだ。 男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが、いくら何でも変わり過ぎだろう。
 それだけ冬子に心酔しているということなのか。
(いや、問題は彼じゃなくて、冬子だ)
 彼も彼だが、冬子も冬子でらしくな
かった。冬子は大人っぽく見えて意外と夢見がちな女で、ラブレターには憧れに近い感情を抱いていたはずだ。いくら相手が恋愛対象外の中学生だとは言え、即座に部屋まで押しかけて切り捨てるなど、余りにも不自然だ。
 これはもしかしたら、冬子が彼の告白に動揺していた証拠なのではないか?
 真弓の部屋に涼しい顔で戻ってくるためには、無理をしてでも彼との関係に決着をつけるしかなかった。そう考えると話の流れがとてもしっくり来る。
 要するに、彼にとっては朗報なことに、完全に脈無しという訳ではないのかもしれない。
(これは使えるな)
 何だか興味深い展開になってきた。こうなると、二人を引き合わせる方向で考えなくては。
 友情を差し置いて義理を優先するなど、冬子に対して冷たいようだが、男女の仲を取り持つのは氷と相場が決まっている。それに私は大好きな人を甘やかす程に子供ではない。
 冬子が彼から逃げているだけなのだとしたら、向き合わせるのが私の役目だ。
 さて、そうと決まれば早速行動開始だ。
「鉄矢君、君には私に口説かれてもらうよ」
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