58 / 64
第三部
9.永い夢を見ている
しおりを挟む
マネージャーに連絡して聖のスケジュールを確かめると、思ったとおり、聖はしばらくオフだと言う。
司は聖の怪我と病状の説明をして、このまま回復するまで自分の部屋で静養させる、と告げた。
司の方には取材とCMの撮影が入っていたが、司は有無を言わせない強い口調で、聖がよくなるまでは休むと断言して電話を切った。
聖の熱は丸三日間、下がらなかった。
それは長い間の心身の疲労を、すべて吐き出すような熱だった。
四日目の朝、目を覚ました聖は、カーテンの隙間から新しい朝陽が差し込む部屋を見回して、自分の寝ているベッドの脇に頭をつけて座ったまま眠っている司を見つけた。
熱にうなされていた間も、誰かが側にいて、額のタオルをかえたり、身体の汗を拭いたり薬を飲ませてくれたことは覚えている。
その誰かが、司だということも充分に理解していた。
7年前あんなふうに別れ、二ヶ月前にも司を傷つけた自分が、こんなふうに優しくしてもらう権利はないと思う。
もう自分たちには同じ未来もない。
本当は、すぐにここを出て行くべきだとわかっている。
けれど、聖には、自分から何かの行動を起す気力が残っていなかった。
この場を動けない。司の側を。
すべてを諦めると逆に、自分の心を偽ることが出来ないものなのだと知って、光の中で聖は笑う。
起き上がることは出来なかったので、手だけを伸ばして司の髪に触れた。
「司……」
起さないようにそっと名前を呼ぶ。
「ありがとう…」
眠っているから言える。
「側にいてくれて…ありがとう」
微笑しながら、聖の目尻からこめかみに向かって涙が一筋滑り落ちた。
指で触れているのが本当に司だということを確認する儀式のように、聖はもう一度「司」と呼んだ。
聖の熱が下がると司は、聖に物を食べさせることに熱中した。
すっかり弱った胃ははじめはスープすら受け付けず、飲み込んでは吐いてしまい、司は七分粥からはじめ次は五分粥、そして全粥と、気長に聖の胃を馴らしていった。
「ほら、聖、口開けて。あーん、って」
「いいよ、もう。自分で食えるって」
「だーめ、さっきスプーン落としたろ?熱いから火傷しちゃう。ほら、病人は大人しく言うことをきいて」
僅かな時間に二人は、離れていた数年間の隙間を埋めるように、相手を側に感じていた。
「あ、あつ…」
熱い粥が、唇の端の傷に滲みて聖は顔を顰めた。
「ゴメン。痛かった?まだ、治らないんだな、ここ」
見せて、と言いながら顎をつかんで聖の顔を上向かせる。
唇の上を指で撫でるように、司は聖の傷を確かめた。
その状態でふと目と目が合って、二人は熱いものに触れてしまったときのように驚いて身体を離す。
けれど、それからまた少し時間が立つと、たとえば聖の前髪が伸びたと理由をつけては、司は聖に触れずにいられなかった。
少しでも聖に近づき、その身体に触れたいと思った。
指先で存在を確かめるだけでは物足りない、抱きしめて、口づけて、体温や匂いを感じたいとも思った。
けれど、乱暴に聖を抱いた日のことがしこりになって司は気持ちにブレーキをかけた。
あんなふうに、二度と聖を抱いてはいけないと思っている。
聖の体調が元に戻ると、二人にはもう一緒にいる理由がなくなったが、司は聖を置いて仕事に行くことが出来なかった。
「司、おまえ仕事行けよ。オレはもう大丈夫だから」
いつの間にか二人はまた以前のようにお互いを名前で呼ぶようになっていた。
「でも…、おまえはこれからどうするつもり」
「どうするって、事務所に籍のある以上、言う通りにするしかない」
聖をまた事務所に戻すことに、司は不安を隠せない。
最近になってまた聖が身体を使った営業で仕事を取っていたことを、事務所は知りながら黙殺していたふしがある。
『美神君がとってきた仕事を後輩のグループにまわされて…』
と、達也から聞いて以来、司はそんな疑いを持っていた。
「聖、おまえは本当にまだ、芸能界でやっていきたいの」
その質問に、聖は驚いた顔をする。
「今でも、他に行くところがないと思ってる?」
数年前、聖が、自らの命を絶とうとしたときも、司は聖に同じことを聞いた。
芸能界以外の生き方もあると、そう言った司に、聖は「自分には他に生き場所がない」と答えた。
「オレを、こんなオレを、必要としてくれる人がテレビ画面の向こうにいるんだ。知らない誰かがオレを見て元気になってくれたり、幸せを感じてくれる。誰かがオレを必要としてくれるから、オレは今まで生きてこれた」
「聖……」
聖の、そんな想いをはじめて聞いた。
司は切なくなった。
そんな頼りないものに縋って生きてきたという聖が、哀れだった。
「…幻なんだよ、そんなものは勘違いだ」
自分たちは、作り物の笑顔を売り物にしている偽者の偶像だ。
そんな作られた偶像を崇拝する者もまた、一瞬の幻でしかない。
「おまえは、永い夢を見ていたんだ」
我慢出来なくなって、司は聖を腕に囲った。
「…司?」
「いい加減、夢から醒めろ。おまえは存在しないものを掴もうとしている。オレなら、いつだっておまえの側にいたのに。どうして、オレを認めてくれないの」
聖は、抗うことなく司の腕の中でじっとしている。
聞いているのかいないのか、ただ耳に心地いい司の声を聞いていたいというように、じっと。
「オレはもうおまえを、誰にも傷つけさせたくない。こんな嘘ばかりの世界において、おまえが傷つくのを見たくない」
包んだ身体から離れて、その肩をしっかり掴み、聖の瞳を真剣な表情で覗き込んで司は必死に想いを訴えかえる。
「聖…」と、今までと違う口調で名前を呼んだ。
「二人で、遠くに行こう」
その言葉を、司が思いつきで言ったのではないとわかる。
司の中でその想いはもう以前から強くあったのだと、その声からも真摯な眼差しからもわかる。
「…遠くに?」
「ああ、二人で。なにもかも、捨てて。誰もオレたちのことを知らない世界で、二人だけで生きていこう」
世界の果てで二人で生きる。
それが叶ったらどんなにいいだろう。
瞳の一番奥で見つめ合って、やっとそこに生きる場所を見つけたように安らいだ気持ちで、二人はそっと唇を重ねた。
長く離れたままだった唇で、溢れそうな想いを紡ぐように、ただ優しい口づけを交わした。
司は聖の怪我と病状の説明をして、このまま回復するまで自分の部屋で静養させる、と告げた。
司の方には取材とCMの撮影が入っていたが、司は有無を言わせない強い口調で、聖がよくなるまでは休むと断言して電話を切った。
聖の熱は丸三日間、下がらなかった。
それは長い間の心身の疲労を、すべて吐き出すような熱だった。
四日目の朝、目を覚ました聖は、カーテンの隙間から新しい朝陽が差し込む部屋を見回して、自分の寝ているベッドの脇に頭をつけて座ったまま眠っている司を見つけた。
熱にうなされていた間も、誰かが側にいて、額のタオルをかえたり、身体の汗を拭いたり薬を飲ませてくれたことは覚えている。
その誰かが、司だということも充分に理解していた。
7年前あんなふうに別れ、二ヶ月前にも司を傷つけた自分が、こんなふうに優しくしてもらう権利はないと思う。
もう自分たちには同じ未来もない。
本当は、すぐにここを出て行くべきだとわかっている。
けれど、聖には、自分から何かの行動を起す気力が残っていなかった。
この場を動けない。司の側を。
すべてを諦めると逆に、自分の心を偽ることが出来ないものなのだと知って、光の中で聖は笑う。
起き上がることは出来なかったので、手だけを伸ばして司の髪に触れた。
「司……」
起さないようにそっと名前を呼ぶ。
「ありがとう…」
眠っているから言える。
「側にいてくれて…ありがとう」
微笑しながら、聖の目尻からこめかみに向かって涙が一筋滑り落ちた。
指で触れているのが本当に司だということを確認する儀式のように、聖はもう一度「司」と呼んだ。
聖の熱が下がると司は、聖に物を食べさせることに熱中した。
すっかり弱った胃ははじめはスープすら受け付けず、飲み込んでは吐いてしまい、司は七分粥からはじめ次は五分粥、そして全粥と、気長に聖の胃を馴らしていった。
「ほら、聖、口開けて。あーん、って」
「いいよ、もう。自分で食えるって」
「だーめ、さっきスプーン落としたろ?熱いから火傷しちゃう。ほら、病人は大人しく言うことをきいて」
僅かな時間に二人は、離れていた数年間の隙間を埋めるように、相手を側に感じていた。
「あ、あつ…」
熱い粥が、唇の端の傷に滲みて聖は顔を顰めた。
「ゴメン。痛かった?まだ、治らないんだな、ここ」
見せて、と言いながら顎をつかんで聖の顔を上向かせる。
唇の上を指で撫でるように、司は聖の傷を確かめた。
その状態でふと目と目が合って、二人は熱いものに触れてしまったときのように驚いて身体を離す。
けれど、それからまた少し時間が立つと、たとえば聖の前髪が伸びたと理由をつけては、司は聖に触れずにいられなかった。
少しでも聖に近づき、その身体に触れたいと思った。
指先で存在を確かめるだけでは物足りない、抱きしめて、口づけて、体温や匂いを感じたいとも思った。
けれど、乱暴に聖を抱いた日のことがしこりになって司は気持ちにブレーキをかけた。
あんなふうに、二度と聖を抱いてはいけないと思っている。
聖の体調が元に戻ると、二人にはもう一緒にいる理由がなくなったが、司は聖を置いて仕事に行くことが出来なかった。
「司、おまえ仕事行けよ。オレはもう大丈夫だから」
いつの間にか二人はまた以前のようにお互いを名前で呼ぶようになっていた。
「でも…、おまえはこれからどうするつもり」
「どうするって、事務所に籍のある以上、言う通りにするしかない」
聖をまた事務所に戻すことに、司は不安を隠せない。
最近になってまた聖が身体を使った営業で仕事を取っていたことを、事務所は知りながら黙殺していたふしがある。
『美神君がとってきた仕事を後輩のグループにまわされて…』
と、達也から聞いて以来、司はそんな疑いを持っていた。
「聖、おまえは本当にまだ、芸能界でやっていきたいの」
その質問に、聖は驚いた顔をする。
「今でも、他に行くところがないと思ってる?」
数年前、聖が、自らの命を絶とうとしたときも、司は聖に同じことを聞いた。
芸能界以外の生き方もあると、そう言った司に、聖は「自分には他に生き場所がない」と答えた。
「オレを、こんなオレを、必要としてくれる人がテレビ画面の向こうにいるんだ。知らない誰かがオレを見て元気になってくれたり、幸せを感じてくれる。誰かがオレを必要としてくれるから、オレは今まで生きてこれた」
「聖……」
聖の、そんな想いをはじめて聞いた。
司は切なくなった。
そんな頼りないものに縋って生きてきたという聖が、哀れだった。
「…幻なんだよ、そんなものは勘違いだ」
自分たちは、作り物の笑顔を売り物にしている偽者の偶像だ。
そんな作られた偶像を崇拝する者もまた、一瞬の幻でしかない。
「おまえは、永い夢を見ていたんだ」
我慢出来なくなって、司は聖を腕に囲った。
「…司?」
「いい加減、夢から醒めろ。おまえは存在しないものを掴もうとしている。オレなら、いつだっておまえの側にいたのに。どうして、オレを認めてくれないの」
聖は、抗うことなく司の腕の中でじっとしている。
聞いているのかいないのか、ただ耳に心地いい司の声を聞いていたいというように、じっと。
「オレはもうおまえを、誰にも傷つけさせたくない。こんな嘘ばかりの世界において、おまえが傷つくのを見たくない」
包んだ身体から離れて、その肩をしっかり掴み、聖の瞳を真剣な表情で覗き込んで司は必死に想いを訴えかえる。
「聖…」と、今までと違う口調で名前を呼んだ。
「二人で、遠くに行こう」
その言葉を、司が思いつきで言ったのではないとわかる。
司の中でその想いはもう以前から強くあったのだと、その声からも真摯な眼差しからもわかる。
「…遠くに?」
「ああ、二人で。なにもかも、捨てて。誰もオレたちのことを知らない世界で、二人だけで生きていこう」
世界の果てで二人で生きる。
それが叶ったらどんなにいいだろう。
瞳の一番奥で見つめ合って、やっとそこに生きる場所を見つけたように安らいだ気持ちで、二人はそっと唇を重ねた。
長く離れたままだった唇で、溢れそうな想いを紡ぐように、ただ優しい口づけを交わした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
53
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる