【完結】紅茶が冷める前に━余命僅かな王弟とお飾り妻の秘めやかな恋━

花草青依

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1章 紅茶は冷めて

3





 その夜、私は眠れないでいた。
 胸の奥で、諦めきれない想いがくすぶっていたから。クリフへの想いを捨てると決めたのに、自分が自分で嫌になる。

 目を閉じて、何とか眠ろうとしても無駄だった。夜更けになっても気持ちが晴れず、ベッドの上でじっとしているのも、いい加減、気が滅入ってきた。
 私は思い切ってベッドから降りると、庭を目指して歩いた。外の空気を吸えば、うんざりとした気持ちも少しは落ち着くだろう。そう思ったからだ。

 軋む階段をなるべく音を出さないように降りて、夜の廊下を歩く。そして、前庭に続く扉を開けて、庭へと出た。
 まず初めに感じたのは青臭い草の香り。夜露に濡れた草の匂いが立ちのぼり、ひんやりとした風が頬を撫でた。

 幼い頃、クリフと走り回ったこの庭は、今はただ、シンシアと彼の笑い声が響くばかり。
 私は目を閉じて、その音を振り払った。

 ━━心を空にしなければならない。

 片想いを封じて、婚姻を選ぶ。
 責任を果たさず、叶いもしない恋を追い続ければ、いつかきっと後悔する。私は自分にそう言い聞かせながら、夜の庭をゆっくりと歩いた。







 それから数日後、王宮からの迎えが来た。
 堅苦しい儀礼も、華やかなやり取りもなく、ただ静かに用意された馬車に乗り込む。
 窓越しに見える街並みが遠ざかるにつれて、私の中で一つの区切りが下ろされていく気がした。

 長い馬車での移動を終えて、王宮にたどり着くと、私はすぐに応接室に招かれた。
 重厚な扉をくぐり、深紅の絨毯を踏みしめる。
 静寂の中、聞こえてくるのは時計の針が刻む音だけ。
 そこに、ラルフ殿下がいた。
 亜麻色の髪に鋭さを感じさせる灰色の瞳。
 中性的で美しい彼を前にして、私は息を呑んだ。こんなにも美しい人と私が同じ空間にいても良いのか。そんな疑問が一瞬、頭を過った。
 けれど、すぐに我に返った。これからの私の行動で、家族の行く末が決まるのだ。美しい男に呆けている場合ではないのだ。
 私は案内されるがままに、彼の体面のソファーに腰をかけた。
 
「はじめまして。スタンリー伯爵令嬢」
 殿下は静かに言った。
「はじめまして。今日はお招きいただき、ありがとうございます」
 私の返答が気に入らなかったのだろうか。彼は私の顔をじっと見つめるだけで、言葉をかけてくれなかった。

 そんな中、侍女がお茶を出してきた。
 紅茶のみずみずしい香りが部屋の中にふわりと漂う。明るいオレンジ寄りの色合いからして、葉茶はニルギリだろう。
 手を付けて良いものかと迷う中、殿下が、白く細い指で静かに白磁のカップを持ち上げた。何気ないその仕草に、どこか儚い影のようなものが感じられる。

 彼は噂通り、長くないのかもしれない。そんな風に思えてならない。そんな人と結婚をしても、本当に良いのだろうか。
 彼を見ていると、決心が揺らいでいく。けれど、断ることもできず、私は彼をじっと見つめることしかできなかった。

 カチ、カチ、カチ……

 どれほどの時が経ったのだろう。
 時計の針の音は、相変わらず部屋の中に鳴り響く。部屋の隅に控えた使用人達は微動だにせず、前を見つめるだけ。
 そして、目の前にいるラルフ殿下は、私を見つめるだけで何も言わない。けれど、その瞳からは、私の決断を望んでいるかのような意志を感じた。

 私は胸に秘めた痛みを押し込めて、彼を見据えた。決意を形にする時が来たのだ。
「私は王命に従い、あなた様と結婚を致すつもりです」
「そうか」
 彼は使用人に目配せをすると、侍従の一人が茶封筒を持ってやって来た。それを私に手渡すと、彼は元の位置へと戻って行った。

「条件に問題がなければサインをして欲しい」
 彼はそう言うと、小さな咳をした。それを鎮めるかのように、彼はお茶を飲んだ。
 私はその様子を視界の端に収めつつ、封筒を開けた。
 中に入っていたのは、婚姻に関する注意事項が書かれていた紙。
 一枚目は前もって教えられていた、借金の引き受けと家族への支援金について。
 私は軽く頷くと、二枚目をめくった。それに目を通して、思わず顔が強張る。

 そこに書かれていたのは、ラルフ殿下が亡くなった後の私の取り扱いだった。
 速やかに籍を抜き、王宮を去る。財産については一切の受け渡しを行わない。また、殿下の品位を汚さないために今後10年は結婚をせずに過ごすようにと書かれていた。

「これは……?」
 殿下のお茶を飲む手が止まる。
「書かれている通りだよ。君と僕との結婚条件」
 彼は冷たくあしらうように言うと、再びお茶を飲み始めた。

 私はもう一度、書類に目を落とした。
 ラルフ殿下の死後を想定するだなんて、彼の余命が幾ばくもないという噂を肯定したも同然だった。
 それに、死んだ後に離婚をし、10年間も再婚を阻むだなんて、私はやはり、何かの“目的”のための道具と見なされているのだろう。

「嫌ならサインしなくていい」
 殿下は静かに言った。
 灰色の瞳が私を射抜くかのように見つめる。
「都合の良い条件だけじゃなくて、残念だったね」
 どこか他人事のように謝られる中、私は三枚目をめくった。そこにあるのは、契約書の署名欄で、すでに彼のサインはされていた。後は、私が名前を書くだけ。それで、この結婚は成立するのだ。

「ペンを下さい」
 私は使用人に向かって言った。
 侍女の一人が、羽根ペンを手に、私のもとへやって来る。
 私はそれを受け取ると、テーブルに書類を置いてサインをした。
「どうぞ」
 私は契約書をラルフ殿下に差し出す。
 彼の灰色の瞳が私と契約書を交互に見る。

 私はそれを眺めながら、ようやく紅茶に手を付けた。
 すでにぬるくなったそれは、フレッシュさが損なわれていて、渋味と酸味が出始めていた。

 ━━紅茶は熱いうちに飲むのに限るわ。

 そう思いながら静かに飲み干すと、受け皿にカップを戻した。
 ラルフ殿下は書類を封筒に戻すと従者にそれを預けた。

「君は気にならなかったの?」
「何をでしょうか」
「あの条件の数々。……いや、そもそも、この婚姻そのものの目的について」
 私はふっと鼻で笑っていた。
「興味が全くないわけではありませんが、私にはこれ以上ない程の見返りがありましたので。断る理由を見つける意味などないのです」
 私の答えに彼は目を伏した。

 一拍の間が空き、時計の針が再び耳に付いた。
 彼の視線は、彼がわずかに残した紅茶に注がれているようだった。すぐに飲まなかったせいで、白磁のカップの内側には茶渋が付いている。

「そうか」
 ラルフ殿下の一言で、私は視線を上げた。
「僕は、君を愛することはないだろう」
 それはこちらも同じだ。そんな想いを飲み込んで、「はい」とだけ答えた。
「では、僕が死ぬまでの間、妻としてよろしく頼むよ」
 彼はそう言って手を差し出した。

 この握手に一体、何の意味があるのだろうか。
 そう思いながらも、彼の白い手を握った。彼の手は見た目の印象通り冷たくて、それでいて少し汗ばんでいた。
 その汗は緊張からなのか、あるいは病ゆえなのか。けれど、私にはどうでもいいことだった。
 私は唇を上げて微笑むと、その手を離した。それから、義務感に身を委ねて、「よろしくお願いします」と答えたのだ。
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