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2章 スミレの花は咲いて
20
“ラルフ殿下の余命は残り僅か”
それは、既知の情報で、私にとってはどうでもいいことのはずだった。
テーブルにまで伸びた影が、またぐらぐらと揺らいだ。木の枝にはいつの間にか小鳥が乗っていて、丸っこい影が二つ加わっていた。
ぴぃぴぃと鳴く声が、部屋に響き渡る。
ラルフ殿下は、俯きがちになっていた私の顔を覗き込んで、視線を合わせてきた。
「……知っていたよね? 僕の命が短いって」
「ええ……。勿論」
私を騙すような形になっていなかったことに安堵したのだろう。ほっと息を吐く音が聞こえた。
しかし、私はそれとは反対に、言いようのない苦しさを感じた。胸を締め付ける痛みに戸惑い、手をかざしてみても、それは治まることはなかった。
「ねえ。どうして、そんなに驚いているんだい?」
そう問われても、私はすぐに答えられなかった。
私は黙ったまま頭の中で気持ちと考えを整理していた。そうしている間に、テーブルの影がやけに目に付いた。
小鳥がもう一羽を置いて、羽ばたいてしまった。もう一羽はすぐには飛び立てなくて、取り残されてしまったようだ。
影から目を離して視線を上げる。
目の前のラルフ殿下は、私を見ていた。灰色の瞳には心配の色が浮かんでいる。初めて会った時に感じた冷たさはどこにもなかった。
━━ああ、そうか。彼はもう、私の中で他人ではないんだわ。
一時は、毎日のように部屋に通い、数時間も話続けていた仲だ。たどたどしかったはずの会話は、いつの間にか、弾むのが当たり前になっていて。私達は気の置けない間柄になっていたのに、なぜ、気付かなかったのだろう。
いや、違う。気付かなかったのではなく、気付きたくなかったのだ。
いつものように仕事に行ったきり、帰って来なかったお父様。彼は、仕事で遠方に行けば、数ヶ月後にささやかなお土産を持って帰って来ていた。それが当たり前だったのに。
それが、パタリといなくなった。事故が報道され、死を知らされても、二度とお父様には会えないという実感が湧かなかった。いつか、玄関先から「ただいま」と明るい声が聞こえてくるのではないかと思いさえした。
でも、実際には、そんなことが起こるはずもない。彼は死んだのだ。そして、生き返らせる方法もない。
かつて、この世界にいたという魔法使いすら、死人を蘇らせることはできなかったという。偉業を成し遂げた彼らの魔法でさえ、そうできないのなら、ただの人がお父様を蘇らせるはずなどない。
だから、私はもう、二度とお父様と会えない。微笑んでもらうこともできない。話をすることも、部屋の中でだらけている姿を見ることも、もう、ないのだ。
親しい人との永遠の別れを、私はもう一度体験することが約束されている。その現実を、私は見たくなかったのだ━━
「ディアナ」
彼が私を呼び、頬に触れられて、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
「僕の死を想像して悲しくなったのかい?」
私は手のひらで涙を拭いながら、頷いた。
「そうか。君は、僕の死を悲しんでくれるんだね」
彼は立ち上がると、私の傍に来た。そして、優しく私を抱きしめたのだ。
私は彼にしがみつき、子供のように泣いた。
「嫌なことを言ってごめん」
あなたは何も悪くない。想像力が足りなかった私の問題だ。
お父様が亡くなった悲しみと家計の困窮、そして、叶うはずのない恋。目の前の現実が苦しくて、私は深く考えずにラルフ殿下のもとに逃げ出して来た。彼を好きにならないだろうと高を括って。
だから、今、その皺寄せが来たんだ。
「わた、しもっ、でんかが、すきですっ」
嗚咽のせいで、上手く言えなかったけれど、それでも、私は、自分の気持ちを口にした。
私は、ラルフ殿下が好きだ。
それは、クリフに向けていたような、身を焦がすほどの激しい恋ではない。けれど、彼の誠実さと優しさに、私は確かな好意を抱いている。
今すぐに過去を忘れきれなくても。それでも私は、殿下との穏やかな日々を選びたいと思った。
「ありがとう」
彼の大きくて冷たい手が、私の頭を撫でた。
「これからはもう、『お飾り妻』だなんて言わないでね?」
私はこくこくと頷いた。
もう自分を「お飾り妻」と思うのはやめる。
それは、私が私を騙すための言葉だったのだと、今なら分かる。「お飾り妻」と名乗ることで、私は彼とは深い間柄になるはずがないと思い込ませていたのだ。
私は顔を上げて、彼の顔をじっと見つめた。涙で視界がぼやける上、まぶたが腫れ上がっているせいか、上手く目が開けられない。彼は今、どんな表情をして私を見ているのだろう。
「殿下」
「うん?」
「少しでも、ながく、生きて……」
涙のせいで、言葉が詰まる。
伝えたい気持ちを上手くしゃべれなくて、もどかしい。
彼には、幸せな人生だと、満足して終わりを迎えてもらいたい。そして、残りの人生を穏やかに過ごして欲しい。
それから、少しでも長く、同じ時を過ごしたい━━
彼の指先が、頬を伝う涙に触れた。
そして、彼は肯定も否定もせず、涙を拭い続けたのだ。
それは、既知の情報で、私にとってはどうでもいいことのはずだった。
テーブルにまで伸びた影が、またぐらぐらと揺らいだ。木の枝にはいつの間にか小鳥が乗っていて、丸っこい影が二つ加わっていた。
ぴぃぴぃと鳴く声が、部屋に響き渡る。
ラルフ殿下は、俯きがちになっていた私の顔を覗き込んで、視線を合わせてきた。
「……知っていたよね? 僕の命が短いって」
「ええ……。勿論」
私を騙すような形になっていなかったことに安堵したのだろう。ほっと息を吐く音が聞こえた。
しかし、私はそれとは反対に、言いようのない苦しさを感じた。胸を締め付ける痛みに戸惑い、手をかざしてみても、それは治まることはなかった。
「ねえ。どうして、そんなに驚いているんだい?」
そう問われても、私はすぐに答えられなかった。
私は黙ったまま頭の中で気持ちと考えを整理していた。そうしている間に、テーブルの影がやけに目に付いた。
小鳥がもう一羽を置いて、羽ばたいてしまった。もう一羽はすぐには飛び立てなくて、取り残されてしまったようだ。
影から目を離して視線を上げる。
目の前のラルフ殿下は、私を見ていた。灰色の瞳には心配の色が浮かんでいる。初めて会った時に感じた冷たさはどこにもなかった。
━━ああ、そうか。彼はもう、私の中で他人ではないんだわ。
一時は、毎日のように部屋に通い、数時間も話続けていた仲だ。たどたどしかったはずの会話は、いつの間にか、弾むのが当たり前になっていて。私達は気の置けない間柄になっていたのに、なぜ、気付かなかったのだろう。
いや、違う。気付かなかったのではなく、気付きたくなかったのだ。
いつものように仕事に行ったきり、帰って来なかったお父様。彼は、仕事で遠方に行けば、数ヶ月後にささやかなお土産を持って帰って来ていた。それが当たり前だったのに。
それが、パタリといなくなった。事故が報道され、死を知らされても、二度とお父様には会えないという実感が湧かなかった。いつか、玄関先から「ただいま」と明るい声が聞こえてくるのではないかと思いさえした。
でも、実際には、そんなことが起こるはずもない。彼は死んだのだ。そして、生き返らせる方法もない。
かつて、この世界にいたという魔法使いすら、死人を蘇らせることはできなかったという。偉業を成し遂げた彼らの魔法でさえ、そうできないのなら、ただの人がお父様を蘇らせるはずなどない。
だから、私はもう、二度とお父様と会えない。微笑んでもらうこともできない。話をすることも、部屋の中でだらけている姿を見ることも、もう、ないのだ。
親しい人との永遠の別れを、私はもう一度体験することが約束されている。その現実を、私は見たくなかったのだ━━
「ディアナ」
彼が私を呼び、頬に触れられて、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
「僕の死を想像して悲しくなったのかい?」
私は手のひらで涙を拭いながら、頷いた。
「そうか。君は、僕の死を悲しんでくれるんだね」
彼は立ち上がると、私の傍に来た。そして、優しく私を抱きしめたのだ。
私は彼にしがみつき、子供のように泣いた。
「嫌なことを言ってごめん」
あなたは何も悪くない。想像力が足りなかった私の問題だ。
お父様が亡くなった悲しみと家計の困窮、そして、叶うはずのない恋。目の前の現実が苦しくて、私は深く考えずにラルフ殿下のもとに逃げ出して来た。彼を好きにならないだろうと高を括って。
だから、今、その皺寄せが来たんだ。
「わた、しもっ、でんかが、すきですっ」
嗚咽のせいで、上手く言えなかったけれど、それでも、私は、自分の気持ちを口にした。
私は、ラルフ殿下が好きだ。
それは、クリフに向けていたような、身を焦がすほどの激しい恋ではない。けれど、彼の誠実さと優しさに、私は確かな好意を抱いている。
今すぐに過去を忘れきれなくても。それでも私は、殿下との穏やかな日々を選びたいと思った。
「ありがとう」
彼の大きくて冷たい手が、私の頭を撫でた。
「これからはもう、『お飾り妻』だなんて言わないでね?」
私はこくこくと頷いた。
もう自分を「お飾り妻」と思うのはやめる。
それは、私が私を騙すための言葉だったのだと、今なら分かる。「お飾り妻」と名乗ることで、私は彼とは深い間柄になるはずがないと思い込ませていたのだ。
私は顔を上げて、彼の顔をじっと見つめた。涙で視界がぼやける上、まぶたが腫れ上がっているせいか、上手く目が開けられない。彼は今、どんな表情をして私を見ているのだろう。
「殿下」
「うん?」
「少しでも、ながく、生きて……」
涙のせいで、言葉が詰まる。
伝えたい気持ちを上手くしゃべれなくて、もどかしい。
彼には、幸せな人生だと、満足して終わりを迎えてもらいたい。そして、残りの人生を穏やかに過ごして欲しい。
それから、少しでも長く、同じ時を過ごしたい━━
彼の指先が、頬を伝う涙に触れた。
そして、彼は肯定も否定もせず、涙を拭い続けたのだ。
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