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第1章 SONATA

op01.昔、一人の旅人が(1)

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 春の新芽を思わせるような若葉の瞳がうっすらと開く。

「んん……」

 まだ冬には遠いとはいえ、早朝の空気はもう肌寒い。小さく身震いすると、毛布というには頼りない布切れをたぐり寄せてもう一度目を閉じようとして──、リチェルは寝床の中でぱちりと丸い瞳を開いた。

 もう朝だ。

 雑多に積まれた荷物の奥にある小さな寝床はまるで動物の巣のよう。
 ごそごそと這い出す様はさながら小鼠のようだ。だけどリチェルにとっては寝床があるというだけで有難い。一年前までは倉庫の隅で寝ていたから、冬になるととても寒くて大変だったのだ。

 サイズの合わない不揃いな服に着替えて申し訳程度に裾を整える。柔らかな亜麻色の髪は絡まりやすくて朝はいつも大変だ。何とか手櫛でとかすと、簡単に後ろで一つに縛って髪を隠すように上から帽子をかぶる。それだけで少女の支度は事足りる。
 
 チラリとベッドで寝息を立てる部屋の主に目をやるが、起きる気配はなかった。ホッと胸を撫で下ろして、リチェルは部屋の扉を優しく閉めた。
 階段をパタパタと駆け降りて、外へ出る。朝の空気はひんやりと冷たくて、吸い込むと身体の中がスンと透き通っていくみたいだ。どこまでも透明で息苦しさを感じない空気はリチェルを丸ごと受け入れてくれているようで、この時間だけは深く息を吸っても許される気がした。



   ◇



「遅いよ! どこほっつき歩いてたんだ!」

 いつものように薪を両手に抱えて厨房の裏に回ると、もう使用人達は起き出していた。
 台所を担当するメイドが、リチェルと目が合うなり怒鳴り声をあげた。いつもと同じ時間のはずだが、きっと今日は彼女が起きるのが早かったのだろう。だからといって以前早く来て待っていたら、朝っぱらからウロチョロするなとどやされたので、運が悪かったのだと諦める。
 ごめんなさい、と大人しく謝って薪を差し出すと引ったくるように掻っさらわれた。
 
「謝れば良いってもんじゃないよ。いつも人形みたいに謝るばっかで、ちっとは人の子らしく反省の色を見せろって言うんだ。ほら、さっさと卵をもらってきな! それが終わったら厩舎に行けってさ。今朝の人手が足りないんだとさ」

 はい、と返事をしてリチェルは押し付けられた籠を受け取った。黙って言うことを聞けば、それ以上は何も言われないことを知っている。

「今日は昼からお客様がお見えになるから、そのみすぼらしい姿が目に入らないよう楽舎に引っ込んで顔を出すんじゃないよ。絶対だよ」

 楽舎、とはリチェルが寝泊まりしている建物の名称だ。つまり外に出るな、ということらしい。みすぼらしい、という言葉を強調して投げられた侮蔑にも先刻の言葉通り人形のようにこくりと頷いて、リチェルはその場から小走りで遠ざかる。

 孤児院からこの街、アーデルスガルトの領主であるクライネルト家に引き取られてもう三年。明らかな差別も、粗雑な扱いももう慣れてしまった。
 今はもう、こうして下働きしか出来ないリチェルを置いてくれているだけで十分だと思う他はない。



 厩舎で出た大量の洗い物の手伝いを終えると、もう日は随分と高くなっていた。
 厨房で朝食の残飯をもらうと、リチェルは足早に楽舎へと戻った。と、建物の前までたどり着いたところで足を止める。建物の中からヴァイオリンやチェロの調律の音が響いていた。
 そして──。

「……あ」

 上階の開け放たれた窓から、微かに歌声が聞こえてきた。ずっと無感情だったリチェルの瞳に一瞬光が灯る。

 艶やかなアルト。

 何度聞いても美しいと思う、リチェルの聞き慣れた、そして耳にしたことのある唯一の歌姫の声に束の間聴き惚れる。

(……いけない)

 ぼうっとしていた。カゴを抱えなおして、すぐに建物の中へと駆け込む。
 朝と違って建物の中は人の気配であふれている。昼の演奏会の為に足を運んだ楽団員たちの声だ。

「あ、おい! リチェル!」

 建物に入るなり、名前を呼びつけられてびくりとリチェルは身をすくませた。汚い言葉には慣れても、大声で名前を呼ばれた瞬間はいつもヒヤリとする。用事があるならまだいい。だけど呼ばれるうちの半分は憂さ晴らしなのだ。
 開け放しのドアから、三ヶ月ほど前に入った若い団員が不機嫌な顔を覗かせた。

「お前さ、この間頼んでた衣装の繕いどこやった? ほつれてたの直せって言ってあっただろ!?」

 団員の言葉にホッとする。どうやら今回は用事の方らしい。

「その服なら直して、物置の衣装棚の上に置いてあります」
「えぇ? そういう事は早く言えよ! ったく、直した服の場所も言えないのかよ。本当鈍臭いなお前」
「すみません」

 もちろん、今帰ってきたばかりのリチェルには衣装の置き場所を知らせる暇などない。だって今の今まで家の手伝いをしていたのだ。だけど口答えをしたら今度は何の言いがかりをつけられるかは分からないから、リチェルは大人しく頭を下げる。
 それ以上罵声は飛んでこなかった。顔を上げると、楽団員の表情を伺う。

「あの……」

 下がっていいでしょうか、と言いかけたリチェルに団員は面倒くさそうに舌打ちした。

「何ぼうっとしてんだよ! 今すぐ取ってこい!」
「……っ、はい」

 ペコリともう一度頭を下げて、リチェルはパタパタと衣装を取りに行く。本当は用事もあるので早く部屋に戻りたいのだが、拒否する選択肢はリチェルにはない。衣装を取って団員に届けるとリチェルは今度こそ、階段をパタパタと急ぎ足で駆け上がる。
 目当ての部屋の前で一呼吸おいて、扉を軽くノックすると開ける。

「イルザさん、ごめんなさい。遅くなりました」

 リチェルの声に窓辺で気怠そうに頬杖をついていた女性がつ、と顔を上げた。

「本当、ずいぶん待たせるじゃないか。ずいぶんと偉くなったもんだね? リチェル」

 艶のある声で吐き捨てたのは、クライネルト音楽団唯一の女性である歌い手のイルザだ。片側にまとめたブルネットの髪を撫で付けて、狭く雑多なこの部屋には不似合いな真っ赤なドレスの下で足を組みかえる。
 そばに駆け寄ると、リチェルは朝食のカゴをイルザの近くに置く。ふん、と息をついて、イルザはカゴの中のパンを取り出すと無造作にちぎって口に運ぶ。

「アンナだろう。あのバアサンにまた何か急に言いつけられたのかい? アンタはともかく私の朝食を忘れるなんざ、ついに耄碌しちまったかね」
「…………」

 何も言えずにリチェルは黙り込む。声をかけたのは別のメイドだが、厩舎の手伝いに行くようリチェルを充てがったのは台所をまとめているアンナだろうという気はした。だが、それをとやかく言える立場にリチェルはない。
 パンを一つ食べ終えると、イルザは長い指でカゴをリチェルの方につっと押した。

「残りはお食べ。どうせ朝から何も食べちゃいないだろう」

 差し出されたカゴに目を瞬かせて、リチェルはイルザを見る。

「でも」
「昼から歌うからね。あんまり腹に物を入れるわけにはいかないんだよ」

 そう言ってイルザは立ち上がる。
 演奏会では軽い食事も用意される。こんな硬いパンではなく本邸のシェフが作った料理が出るし、イルザもそれを口にできるのかもしれない。だとしたら大丈夫だろうとリチェルは有り難く残りのご飯を受け取った。
 
「今日は屋敷で演奏会があるんですか?」

 階下に楽団員達が集まっていたと言うことはそうだろう。細かいことはリチェルは聞かされていないが、昼に本邸にお客様が来られると言っていたから関係があるのだろう。

「何だい、誰かに聞いたのかい?」
「お屋敷にお客様が来られるから、今日は本邸に来ないようにと」

 リチェルの言葉にハッとイルザが吐き捨てる。

「そのメイドだってどなた様が来るのかなんて分かっちゃいないだろうにね。偉そうに。笑わせるね」

 イルザは一通り喉の奥で笑った後、チラリとリチェルを一瞥して、そうさ、と短く答えた。言動とは裏腹に機嫌が良いのか、いつもならしてくれないお喋りをしてくれる。

「本邸で茶会があるのさ。ご当主様は自邸の演奏会にはお熱だからね。自前の楽団を自慢する良い機会だから気合いが入ってるのさ。アンタも今日は本邸の周りをウロチョロするんじゃないよ。当主様はもちろん奥方様の目に触れたら一大事だ。アンタ近頃坊ちゃんに随分とちょっかい出されてるみたいじゃないか」
「…………」

 イルザの言葉にリチェルは黙り込んだ。それこそ軽はずみにリチェルが意見していいことではない。その沈黙を鼻で嗤って、イルザはスルリと立ち上がる。

「とにかく、その格好で賓客の前に出られたら、領主様のお屋敷には乞食がいるのかと目を疑われちまう。アンタの格好ときたらまるで野鼠のようさ。大人しくしとくことだね」

 イルザの言う通りだ。
 
 クライネルトはこの町の領主だ。
 その本邸にブカブカの古着を来たリチェルのような娘がうろついていれば悪目立ちするだろう。
 自邸での茶会であれば、きっとそれなりのお客様を招いているだろうから、制服も着ていない使用人が目に触れないようにするのは当然だ。質の悪いメイドを雇っているのかと笑い物になってしまう。あのメイドが念を押していたのは単なる嫌味かもしれないが、間違いではない。
 
「あ、そうそう。リチェル」

 何かを思い出したのか、部屋を出ようとしていたイルザが振り返った。はい、と返事をしたリチェルにイルザが顎でベッドの方を指す。

「この間の演奏会でドレスの裾が少し破れちゃったから繕っといておくれよ。そのベッドに置いてあるやつ」
「分かりました。いつまでに必要ですか?」
「明後日の夜には。糸代は一緒に置いてあるからね。お釣りはきちんと持って帰ってくるんだよ」
「はい」
「今日は遅くなるけど、ドレスはベッドからどけておいておくれよ」
 それだけ言うと返事を待たずにイルザは部屋を出ていった。
「…………」

 階下に降りていくヒールの音が聞こえなくなると、リチェルは朝食のカゴをどけて、イルザのベッドに置かれたドレスの裾のほつれを確認する。ドレスのしつらえは繊細で、リチェルでは直せるものと直せないものがある。良かったこれなら直せそうだ、とホッと息をつくがすぐに顔を曇らせた。

(明後日の夜……)

 リチェルはイルザの部屋に居候している身だから、明後日の夜までに仕上げて手渡すのはさして問題ではない。ただ糸は今日買いに行かないといけない。出てはいけないとは言われたけれども、出なければドレスは直せない。
 イルザがそれを分かっていたか分かっていないかなんて考えるだけ無駄だ。分かっていても考えないのが彼女なのだ。出るなという警告と、明日までに仕上げろという要求は彼女の中では成立しうるものだろう。

(……行こう)

 楽舎と呼ばれるこの建物は本邸の裏にあり、見つからないように街へ抜ける裏道はある。明日は明日で本邸で何を言いつけられるか分からないので、今日行った方がいい。
 窓の外でガヤガヤと人の声が聞こえる。いつの間にか階下でかすかに聞こえていた楽器の音が止んでいた。きっともう本邸へと向かうのだろう。
 イルザは今日は遅くなると言っていたから、屋敷の晩餐会に参加してくるのだろうか。もしかしたら夜も演奏会があるのかもしれない。

「…………」

 ザワザワと人の声が遠ざかる。残された建物はシン──としていた。その沈黙に、先程まで聞こえていた楽器の音が、残響のようにリチェルの脳に響いた。
 
 どんな曲が演奏されるのだろうか。

 そんな疑問が、心にポツリと浮かんだ。
 この建物では本格的な練習は行われていなくて、今日のような本邸での演奏会の前に個人が調律や最終確認の練習をしているくらいだ。昔はここでセッションも行われていたが、先代が亡くなった後しばらくしてパタリとなくなった。本邸に音が響いてうるさいという理由で奥方がここでの練習を禁止したらしいと人づてに聞いた。

 お茶会ではきっとたくさんの演目が奏でられるのだろう。
 リチェルの知らない曲ばかりで、中にはきっと素晴らしい音が溢れているに違いない。

「……わたしも、聞きたいな」

 ぽつりと、本音がこぼれ落ちる。
 楽団員達が何度か弾いているのを聞いたことはあるけれども、一曲通して演奏を聴いたことはない。実際の演奏会に連れて行ってもらえたことは一度もない。
 イルザの歌だけは部屋で歌っているのをたまに聞いているから知っていて、それがリチェルにとっての何よりも美しい音楽だった。
 低音から高音まで伸びるしっとりとしたイルザの歌声は、同性のリチェルでもドキリとする艶かしさがある。あの歌声が楽団の奏でる音色にのると、どれくらい素敵な音になるのだろう。
 
(そんな風に、歌えたら、どれくらい──)

 そこまで考えて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
 分かっている。
 リチェルが楽団の演奏を聞ける機会なんてない。
 ましてや歌えることなんてある訳がない。
 リチェルに出来るのはこうして息を潜めて、メイドや楽団員たちの怒りが向かないように必死で雑用をこなすことだけだ。
 今までも、これからも。決して変わることのない。それがリチェルの日常だ。
 
 
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