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第1章 SONATA

op.03 空高く軽やかに舞う鳥(4)

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「じゃあ夕方に迎えに来ます」
「えぇ、お待ちしています」

 ヴィオが遠ざかっていくのを見送る時少しだけ心細い気持ちになったのは、リチェルにとっても意外なことだった。
 思えばクライネルトの屋敷を出て以来、知らない場所に行く時はいつもそばにいてくれたのだと言うことを今更ながらに意識する。

 同じようにヴィオを見送ったサラは、リチェルと目が合うと大丈夫、と言うように笑みを浮かべた。

「さぁ、こちらへどうぞ」
「はい」

 サラに促されるままに、リチェルは後をついていった。

 昨日聞いたサラの家はリチェル達の泊まる宿とは逆方向にあり、今度公演にと誘われた劇場から程近い場所にあった。

 通された屋敷の中は一度入ったことのあるクライネルトの本邸と比べると狭かったが、廊下にある調度品はどれも高そうで雰囲気に萎縮してしまう。

 まだ自分が男性の服を着ていることも恥ずかしさに拍車をかけているのかもしれない。

 以前は少しも気にならなかったのに、ヴィオやサラの反応を見ていると本当は恥ずかしいことなのだろうかと思えてきて。この屋敷とここにいる自分の格好が随分とつり合っていない事が分かって居心地が悪くなるのだった。

「ピアノのある部屋があるの。そちらへ行きましょう」

 リチェルの戸惑いを読み取ったのか、なおさら朗らかな声でサラがリチェルを案内した。

 
『リチェルさえ良ければ、一度歌を習ってみない?』

 
 二日前、仕立て屋でサラがリチェルに提案したのはそんなことだった。

 サラは現役のオペラ歌手だ。
 ヴィオはリチェルから見て天才的なヴァイオリニストだが、専門的に歌を教えるのは難しいと本人も言っていたから、サラの申し出はリチェルにとっては願ってもいない申し出だった。
 ヴィオも良いんじゃないかと言ってくれたので、この町の滞在中お言葉に甘えることにしたのだ。そして今日は初めてのレッスン日だった。

 廊下ですれ違った使用人の女性が、柔らかく笑ってリチェルとサラに頭を下げる。目が合った瞬間はドキリとしたけれど、少なくとも非難の目を向けられなかった事に胸を撫で下ろす。

「サラ様、後でお茶をお持ちしましょうか?」
「そうね。えぇ、お願い」

(サラ様?)

 奥様ではないのだろうか、と一瞬疑問に思ったけれども、屋敷によって呼び方も違うのかもしれない。リチェルはクライネルト家の事しか知らないし、一般的な呼称が名前だったとしても何らおかしくはない。

「ここよ」
「わぁ……!」

 通された部屋で、リチェルの思案は一瞬で吹き飛んだ。
 光の入る部屋に立派なグランドピアノが一台置かれている。クライネルトでも本邸にはあったようだけれど、リチェルは実物を見たことがなかった。

「ピアノを見るのは初めて?」
「こんな大きなピアノは初めてです」

 そう言ってピアノに歩み寄る。
 触れるのは躊躇して、開かれた屋根の中を覗き込む。思っていた以上に中は複雑でヴァイオリンとは比べ物にならないたくさんの弦が幾筋もピンと張り詰めて伸びていた。

 どんな仕組みで音を鳴らすのだろうと不思議に思っていると、いつの間にかピアノの前に座っていたサラが鍵盤を一音鳴らす。

 トーン、と軽やかな音色が部屋に響く。
 同時に内部に並んだ部品が持ち上がったのが見えて、鍵盤を叩くとこれが弦を鳴らすのかと感心した。

「今のがAの音ね」
「はい、ヴィオに教えてもらいました」

 ヴァイオリンでもピアノでも、音名が同じであれば音程は変わらない。
 一度聞かせてもらって覚えたので、どの音がどの音名と連動するのかは頭に入っているはずだった。

「まあ、リチェルは耳が良いのね。これは分かる?」

 そう言って幾つかの音を同時にサラが鳴らす。

「えっと、CとFとAです」
「まあ。すごいわ、リチェル」

 まるで子どもにするように手放しでサラが褒めてくれるのがくすぐったい。
 と、椅子に座ったままのサラがリチェルを振り返って、良かったら何か歌ってみてくれる? と穏やかに言った。

「リチェルの歌声を一度聴いておきたいの。曲は知っているものなら何でも良いから」
「え……!」

 いきなりの事に動揺する。今までほとんど誰かの前で歌ってこなかったから正直恥ずかしいのが本音だった。
 だけどこれから歌を習うのだから当然のことだとすぐ思い直す。緊張はするものの、はい、と頷いてリチェルは姿勢を正した。気持ちを落ち着かせるように数度深呼吸する。

 何を歌おう。
 聖歌でも良いのだけれど、と考えてやめた。
 
 覚悟を決めて、スッと息を吸うとリチェルは歌い出す。

 メンデルスゾーン『歌の翼に』。
 ヴィオと初めて会った時に歌っていた曲だ。

 あれからヴィオが全ての歌詞を書き起こしてくれて、何度か歌っていたから途中でつかえることもなかった。
 
 部屋の中は外で歌っている時と違って、自分の歌声が良く響いた。その感覚は少し不思議で、だけどすぐに響きの違いに楽しくなる。自分の声がよく聞こえるのだ。

 区切りの良いところまで歌えば良いだろうかとサラに目をやると、目線で続きを促されて、リチェルは結局最後まで歌い上げた。

 歌い終えてほう、と息をつくと、温かい拍手が部屋に響いた。

「すごいわ、リチェル。どこかで習っていた訳ではないのでしょう? 独学で?」
「は、はい。あの、おかしなところはなかったでしょうか?」
「とんでもない。とても素敵な歌声を聴かせてもらったわ。思わず私も楽しくなってきてしまうくらい」

 それに、とサラが目を細める。

「あなたは本当に歌うのが好きなのね。それが伝わってくる歌声だった」

 その言葉は、とても嬉しかった。ありがとうございます、と答える口元が緩む。

「でも私もせっかくレッスンを引き受けたんだから、リチェルにとって為になる時間にしないとね。リチェルは癖で歌ってしまっているから、基本を理解して、意識して声を出せるようになればきっともっと伸びると思うわ」

 椅子から立ち上がると、だから、とサラがにっこりと笑う。

「まずは呼吸の仕方から練習しましょうね」






 サラが教えてくれたのは呼吸法の一種で、意識して呼吸を繰り返すのは思っていた以上に大変なのだということをリチェルは学んだ。
 同時に、歌う時自然とそうなっていることを改めて知識として理解するのは不思議で、同じくらいワクワクすることだった。
 
「失礼します」

 ちょうど練習が終わる頃に、ノックの音ともに廊下でサラと話していた使用人が入ってきてくれた。

「そろそろかと思って、お茶を持ってきたんです。よろしいでしょうか?」
「大丈夫よ。ありがとう」

 つられてリチェルも頭を下げると、使用人と目が合って、彼女はとても親しげに笑う。

「とっても素敵な歌声でしたよ。思わず掃除の手を止めてしまったくらい」

 リチェルの歌を廊下で聴いていたのだろう。
 手放しで褒められたことにリチェルは赤面して、ありがとうございます、と小さな声でお礼を言う。

 自分の歌声を褒められるのは全然慣れない。
 人前で歌わなかった期間が長すぎたのかもしれない。

 使用人が持ってきてくれたのは紅茶だった。
 ヴィオと一緒にいるとコーヒーを淹れることが多く、飲むのは初めてだったが、これがとても美味しかった。味はもちろんだけれど、香りがとても華やかで、気持ちが落ち着いていくのだ。
 思わず目を丸くして、カップの中身を見ているとクスクスとサラが笑う。

「気に入ってくれた? 気に入ったのなら少し持って帰ったらどうかしら? 後で包んでもらうわ」
「そんな……、申し訳ないです……!」

 慌てて首を振るが、サラは構わないのよ、とニコニコ笑って使用人をベルで呼ぶと、茶葉を包むよう使用人に頼んでしまう。

「昨日私が買ってきた分を包んであげてくれるかしら? 奥様の分と間違えないようにしてね」
「かしこまりました」
「それと、ヘアブラシも持ってきてくれる?」
「はい、サラ様」

 ヘアブラシ? と困惑して、すぐに自分の髪のことだと気づいてリチェルは自分の髪を押さえた。来た時すぐに帽子は外しても良い、と言われたから外していたのだがそんなに跳ねていただろうか。

 間も無く使用人がヘアブラシを持ってきてくれた。サラはお礼を言って受け取ると、梳かしても良いかしら? とやはりリチェルに尋ねる。

「は、はい……」

 恥ずかしさに顔を伏せてそう答えると、クスクスと笑ってサラがリチェルの髪を手にとる。

「ふふ、綺麗な髪ね。放っておくなんて勿体無いわ。この間から思っていたの」

 そう言って優しく髪を梳かしてくれる。自分で整えていた髪はヘアブラシを通すと幾度も引っかかったが、その度に丁寧に優しく解しながらサラが梳かしてくれる。

「リチェル。まだヴィオさんが迎えにくるまで時間があるから、髪の結い方を教えてあげるわ。
 服が届くまでは帽子の中に隠さなきゃいけないでしょうけど、それだって乱暴にまとめてはダメよ。リチェルの髪は柔らかいからすぐに絡まってしまうし、傷んでしまうもの。綺麗に結えば帽子の中にも仕舞いやすくなりますからね」

 サラの手つきは優しくて、丁寧だった。
 口調だって穏やかで明るく、言い聞かされているようにすら感じない。
 なのにどうしてだろう。サラの言葉を聞いていると、どこか胸の奥が切なくなる。柔らかな言葉の中に、どこか寂しさを感じてしまうのは、失礼にあたるのだろうか。

「サラさん、この屋敷の奥様はサラさんのお母様ですか?」
「え?」

 気付けば口をついて出た疑問だった。
 先ほど奥様、とサラは言った。と言うことはこの屋敷の奥方はサラではないのだ。リチェルの純粋な問いかけにサラはクスリと笑うと、違うのよと朗らかに口にする。

「でも娘のように大事にして頂いているわ。この屋敷は私が所属する劇団のオーナーのお屋敷なの。十代の頃オーナーが後見人になって下さって、それからずっとこの屋敷に住まわせてもらっているのよ」

 リチェルのことはきちんとお話ししているから心配しないで、とサラは言う。

「もうずっと一緒に住んでいるから、気心も知れているの。音楽が大好きな人だから、歌を習いたい子がいるって言ったら快諾して下さったわ。ほら、出来た」

 リチェルの手を取ると、サラは姿見の前までリチェルを連れて行ってくれる。
 綺麗に編み込まれた髪に、リチェルは感嘆の息をついた。後ろで編み込まれた髪は確かに帽子を被るとすっぽりと隠れるだろう。帽子が飛んで髪が落ちてくることもない。

 だけどそれ以上に、鏡に映る自分が少しも男の子に見えないことに驚いたのだ。

「ほらね、可愛いでしょう?」
「はい」

 サラが結ってくれた髪はとても可愛らしい。気持ちが高揚するのを感じて戸惑うが、リチェルの肩に手を置いたサラがふわりと笑う。

「今嬉しいと思った気持ちを忘れないでね、リチェル。
 今まで感じて当たり前だったことを、貴女はきっとたくさん取り零してここまで来ていて、リチェルの周りにはきっとたくさんそれが落ちたままになっているの」

 今は少しずつそれを拾い集めているのよ、と囁くようにサラが言う。

(たくさん、落ちたままに……)

 サラの言葉はぼんやりとしていたけれども、何となく分かるかもしれない。
 ヴィオと出会って思い出した『嬉しい』や『好き』の感情は、今までリチェルが落としたものだったのかもしれない。

「これから先、拾い上げると戸惑うことも、もしかしたら怖いと思うこともあるかもしれないけれど。出来るなら、その一つ一つを大切にしてあげてね」
「…………」

 どうして、と言葉にはならなかった。
 リチェルはサラに自分の事情を何一つ話していない。だけどサラの言葉はまるでリチェルの境遇を分かっているかのようだった。

 リチェルの心に、温かな雨を降らせるようだった。
 だから、例え今ちゃんと理解が出来ていないのだとしても──。

「……はい」

 精一杯の誠意と感謝を込めて笑顔で頷くと、サラもとても嬉しそうに笑ってくれた。



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