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第4章 RONDO-FINALE

op.13 偉大な芸術家の思い出に(4)

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 翌朝、ベネデッティは往診があるからと朝早くに診療所を出た。
 『小さな町ですから、専門でなくても呼ばれることが多々ありまして』と笑って、出かけて行くのを見送った。昼前には帰ってくるし、荷物は置いたまま聞き込みをしてもらってもいい、という言葉に甘えてヴィオとソルヴェーグは診療所を出た。

 朝食を済ませてから、空いている店の人に聞き込みをしてみたが結果は空振りに終わった。

「となると、カスタニェーレからリコルドまでの経路で再度聞き込みをかけないといけないな」
「そのようですね。少し時間はかかりますが、ディートリヒ様がサルヴァトーレ殿に再度聞いてまで紹介された場所に立ち寄っていないのは気にかかります」
「だな」

 何かあったのは間違いないだろう。

 初動が遅かったのが悔やまれる。そもそもヴィオが屋敷へ帰った時点で、父から連絡が途絶えてひと月以上経っていたのだ。

 話しながら歩いていると、前から子供が二人荷車を引いてくるのが見えて、ヴィオとソルヴェーグは脇へ避ける。
 年は一人が十二歳くらいで、もう一人は恐らく三つ以上は年下に見える。大人の古着を幾重にも折り返して着ているのがどこか出会ったばかりの時のリチェルと重なって、目で追ってしまう。

 視線を感じたのか、不意に年上の子どもがヴィオの方を見た。はしばみ色の瞳がヴィオを数秒じっと見て、次の瞬間大きく見開かれた。

「────っ⁉︎」
「うわっ⁉︎」

 下を見て歩いていた小さな子がつんのめった。それもそのはずで、年上の子の方が急に立ち止まって引いていた荷車が後ろからぶつかったからだ。

「え、なん、で……」

 声が震えている。その顔色が明らかに青ざめていた。

「どうしたんだ?」

 思わず声をかけたヴィオに、その子は息を呑むと、次の瞬間すごい勢いで駆け出した。

「ちょっ……」
「兄ちゃん」

 小さな子の方が声をあげる。荷車と恐らく弟を放置して行ってしまった子どもの背中は見る見る内に小さくなった。
 ソルヴェーグと視線を交わす。今の反応は流石に只事ではない。

「私が追いかけましょう。ヴィオ様はそちらの子の方を」
「……分かった」

 あの一瞬、逃げた子どもが見たのはヴィオの顔だ。ソルヴェーグが追いかけた方がいいと判断したのだろう。ヴィオが頷くと、ソルヴェーグはすぐに子どもの方を追いかけていく。

 ソルヴェーグが追っていくのを見送って、ヴィオは取り残された子どもの方を振り向く。

「……その、怪我はないか?」

 以前リチェルがしていたようにしゃがんで目を合わせると、男の子がおずおずとヴィオの目を見てうなずく。

「でもぼく、一人じゃくるまをひけないの……」
「あぁ、そうだな。とりあえず邪魔にならない所へ移動させようか」
「それならあっち。ぼく、たまに兄ちゃんと休憩するの」

 どうやら荷車はヴィオに任せる事にしたらしく、男の子は荷車の前からどくとしゃがんでいるヴィオの肩口のところを引っ張ってどこかへ案内しようとする。男の子に逃げる気配がない事が分かってヴィオも立ち上がった。
 荷車の中身は牛乳だったようだが、すでに卸した後なのか軽かった。

「兄さん、どうして逃げたか分かるか?」

 尋ねると男の子は首を横に振った。

「わかんない。何か怖いものでもみたのかしら。ぼく、あたまがわるいの。兄ちゃんの言ってること、あんまり分かんなくって、よく怒られるの」

 内容に反して、男の子の口調はあっけらかんとしていた。
 確かに少し言葉は遅いのか、ゆっくりと喋るが意思疎通が図れないわけではない。兄の方は一瞬だったが、すぐに逃げたところを見ると口に出すより先に行動に出るタイプだろう。まだ幼い弟が意図を読み取れないのは別に不思議じゃない。

 それは頭が悪い訳じゃないだろう、と言うと男の子はキョトンとして、それからふわりと笑った。

「そうかしら。それならとってもうれしいな」

 そう言ってゆったりと男の子は歩き出す。だけど何か思い出したのか、ぴたりと足を止めてヴィオを振り返った。

「ぼく、ジョヴァンニ。ジョヴァンニ・ガロ」

 お兄ちゃんは何ていうの? と人懐っこい笑みを浮かべて男の子は問いかけた。



   ◇



 一方、ソルヴェーグは逃げた少年を捕まえることに成功していた。とはいえ、子どもの足は早く、ソルヴェーグに追いつけるものでもない。
 疲れた時に隠れられそうな場所を覗いていったら、三ヶ所目くらいに見つけただけだ。

「弟さんがいきなりいなくなっていたので、驚いていましたよ」

 ソルヴェーグが顔を出すと少年はギョッとしたが、ヴィオの姿がなかったからか、それとも弟のことを思い出したのか、今にも逃げ出そうとしていた足を止めた。

「……じいさん、一人?」
「えぇ。いきなり逃げ出されては、何があったかと思うでしょう。あの荷車は弟さん一人で引くには少し無理があるのではないでしょうか」

 ソルヴェーグの言葉に少年は『う……』と声を詰まらせた。実際弟一人だと引くことが出来ないのだろう、と思っていたが図星だったようだ。

「先ほどもほとんど貴方が一人で引いていましたからな。弟君には負担がかからないようにしているように見えましたよ」

 実際荷車を引いていたのは兄で、弟の方は力が入っているようには見えなかった。少年は決まりが悪そうにもごもごと口を動かし、別に、と小さな声で呟いた。

「アイツいつもボーッと歩いてるから任せられないだけ。あ、まぁ力も弱いんだけど。女みたいなんだよアイツ。いつもフワフワしてるし、でも仕事しないと父ちゃん怒るからさ。おれ一人でもできるんだけど、毎日連れてきてんの」
「貴方はとても弟思いなお兄さんなのですね」

 そう言うと、少年は照れたようだった。チラリとソルヴェーグを見上げて口を開く。

「アルフだよ。アルフ・ガロ。あなたとか呼ばれたことないから、ちょっと恥ずかしいや。弟はジョヴァンニ。じいさんは……、じいさんでいいか。いきなり逃げてごめん」

 根が素直なのだろう。
 気まずそうにしながらも、アルフは大人しく謝った。口ぶりからするとこの町に何かを卸しにきているのだろうか。そう聞くと、アルフは隣の村から、と答えた。

「家に牛がいるんだけど。町の方が牛乳高く買ってくれるから、毎日売りにきてるんだ。結構遠くてさ、朝早く出て一時間ちょっとくらいいつも歩いてくるよ。帰ったらちょうどお昼くらいかな」

 喋るのが好きなのか、一つ聞けば二、三先まで教えてくれる。それなら、とソルヴェーグは聞きたかったことを問いかける。

「では先程はどうして逃げ出したのですか?」
「……っ」

 ぐっとアルフが言葉を詰まらせた。やはりそれは話したくない事らしい。

「私の勘違いだったら申し訳ないのですが、もしかすると私と一緒にいた方に見覚えがあったのでは……」
「ないよ!」

 食い気味にアルフが否定した。
 だけど、それはもう答えのような物だ。ソルヴェーグが黙ったままアルフを見つめると、アルフは視線にたじろいだ。気まずそうに目を逸らす。

 もし、と静かに続ける。

「もし君が、私と一緒にいた方によく似た人を知っているのであれば、どうか教えて欲しいのです。私達はその方を探してずっと遠くから旅をしてきました」
「…………」

 アルフは黙ったままだった。それでも逃げる姿勢がないのを確認すると、ソルヴェーグは穏やかに先を続ける。

「見つかるまで探し続けるつもりです。決して諦めることは出来ません。だから、ほんの少しでもいい。何か知っているのであれば教えていただきたいのです。もちろんその事で君を責めるようなことは、決してしないと約束します」

 誠心誠意、真っ直ぐに目を見て話す。

 アルフは戸惑ったようにソルヴェーグを見ていた。
 当然だろう。この少年はまだ幼く、ソルヴェーグのような年配の人間にこんな風にお願いされた事などないに違いない。大抵の子どもは、大人が対等に自分を扱う事に慣れていないのだ。

 だけど先程少し話して分かった通り、アルフは弟想いの良い兄だった。ソルヴェーグが本気で言っていることが伝わったのか、やがて目を逸らすと下を向いて小さな声で呟く。

「……その人、じいさんの大事な人?」
「えぇ、とても大切な方です」

 心からそう答えた。

 ソルヴェーグにとってディートリヒは人生のほとんどを費やして仕えてきた主人だ。
 ヴィオの事も幼い頃から知っているが、一緒に過ごした年月はディートリヒの方がはるかに長く、ずっと傍らで仕事をしてきた。とても大切な人だ。
 
 ディートリヒからの連絡が途絶えたと聞いて心配で気が気ではなかった。まだ現役で屋敷で働いている妻のエレオノーレと、後任に推薦したフォルトナーに話を聞きながらも、最終的に屋敷に足を運んだのはいてもたってもいられなかったからだ。
 唯一の後継であるヴィクトルにまで何かあってはいけない、と飛び出したのだが、自分の足でかつての主人を探しに行きたいと思ったこともまた事実だった。

「…………」

 アルフは黙ったまま下を向いている。ゆっくりと唇を動かして、閉じて、を繰り返すのは、やはり何か大事なことを知っているからだろう。

 ソルヴェーグはじっと黙ったままアルフが話し出すのを待つ。どれくらいでも待つつもりだった。ソルヴェーグを見上げたはしばみ色の瞳が不安で揺れている。

「…………っ」

 だがアルフはやがてギュッと目をつぶって一息置くと、おずおずと口を開いた。

「その、何ヶ月か前に……」




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