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第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(7)

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 エリーが自室へ戻った時にはもう窓の外は真っ暗になっていた。

 マティアスが準備してくれた寝巻きに袖を通しながら、窓の外に見える月をぼんやりと見上げる。今頃姉様も同じように月を見ているだろうか。それとももう寝ているかな、なんて考えながら。

「今日は大変でしたね、エアハルト様」
「……うん。僕ってまだまだなんだなぁ、って思ったよ」

 上手くいくと本気で思っていたのだ。けれども、ヴィクトルの事もイングリットの事も全然読みきれていなかった。

「見事にお二方にやり込められましたね」

 遠慮のない言葉にまあね、と零して苦笑する。ショックは受けたが、これでも立ち直りは早い自信がある。無理なら次の手を、とすぐに頭が回るのはきっと母の教育のおかげだろう。

「でも勉強にはなったかな。あの人達を相手にするには、僕はまだまだ考えが浅いんだなって。姉様を認知する事に対してのメリットは正確に評価出来ていたと思うし、お祖母様とヴィクトル様にとって悪い話じゃないのは事実だと思うんだ。多分視点が違うんだろうな。それとも視野自体が狭い? どう思うマティアス?」
「決めつけで動いてしまうところがおありなのでは?」

 うわ、きっびし。と零してエリーはコロコロと笑う。
 この側仕えは、こう言う時物言いに遠慮がない。だから好きだ。

「やり込められたにしては上機嫌ですね?」
「うん。だって今日ヴィクトル様は対等に話をしてくれたから」

 エリーを取るに足らない子供だと見なしたなら、ヴィクトルはエリーに何かを尋ねようとはしなかっただろうし、エリーの質問に対して答えをはぐらかす事も出来ただろう。でもヴィクトルはそれをしなかった。

 まだ社交界に出ていないエリーは、自分の実力を測る術が少ない。他家の後継と関わる機会も少ないから、こうして直接話せる機会は貴重だ。幼い頃からイングリットについてあちこちに行ってたエリーは、一方的に相手の顔を知っていることも多かった。特にライヒェンバッハの後継は。

「──僕とヴィクトル様は境遇が少し似ているでしょう? だから密かにちょっと憧れてたんだ。ライヒェンバッハの後継は優秀だって言われてたから」

 たった一人の跡取り。産まれた時に将来が決まっている事を、エリーも多くの跡取りの例に漏れず不思議には思わなかった。ただ自分の力不足に悔しさを覚えることは多くあるけれど──。

 まさか父親の不祥事の尻拭いで訪れた街で、偶然会う事になるとは思っていなかった。ずっと探していた姉と偶然出会う事だって。本当に人生は何があるか分からない。

「リチェル様の事は、どうなされるのですか?」
「諦める気はないよ」

 即答した。
 もちろんイングリットをすぐに説得することは無理だろうけれど、ヴィクトルからリチェルが迷惑に思う事はないという言葉も聞けたから、躊躇いはない。

 姉の話を初めて聞いたのは六歳の時だった。
 聞いたことをちゃんと内緒にできるようになったからと、母が教えてくれた。
 
 初めて聞いた時、自分に姉がいると言う事実が嬉しくてその夜はなかなか寝付けなかったのを覚えている。
 
 エリーの家族は祖母と両親がいたけれど、祖母と母、母と父はそれぞれ仲が悪く、家族で共に食卓を囲んだ記憶はエリーにはない。
 
 父は屋敷を留守にしてフラフラしていることが多く、たまに帰ってきたとしてもエリーの顔を見ると『お前は良いよなぁ。産まれた時から当主様だもんなぁ』と息子相手に管を巻くような人間だった。そのせいか幼い頃から良い印象はなくて、次第に近づかなくなっていった。
 
 十一の時、帳簿の数字が合わないことを知って、父を疑ったのはエリーにとって当然の成り行きだった。今思えば、父の所業は祖母と母にすでに知れていて、二人とも見ないふりをしていたのではないかと思うのだけど、告発したことをエリーは一度も後悔していない。

 だから心が痛かったのは、いつだって、祖母と母のことで──。

 母様は、お祖母様が憎いのだろうか。
 お祖母様は、母様が嫌いなのだろうか。

 ずっと聞きたかったのに、答えを聞くことが怖くて結局一度も聞けなかった。聞けないまま、母は天に召されてしまった。

 ずっと、後悔している。
 一度も二人に踏み込もうとしなかった事を。

 祖母と母を仲直りさせる事ができなかった。
 それが出来る人間がいたとしたら、きっとエリーだけだったのに。

 会った事もない姉への想いが募ったのは、母への愛情と後悔から来ている事は何となく分かっていた。それでも会いたいという気持ちには抗えない。だけど同時に怖くもあった。
 
 果たして、姉は自分に会いたいと思うだろうか?
 産まれてすぐに自分を捨てた母親を恨まずにいられるのだろうか?
 自分の辛い環境に反して、のうのうと裕福な家で生きてきた弟の事なんて、好きになりようがないのでは?

 もしくは、弟が貴族だと知って態度をころりと変えるような人間である場合だってある。例えば父のような──。

 見つけたとして、姉が自分の望むような人物である保証はどこにもないのだ。

 嫌われるのは嫌だったし、ようやく出会えた姉に自分が失望してしまうのはもっと怖くて、本当は積極的に探すのも忙しさを言い訳に二の足を踏んでいた。

 だから──。

『エドさんの心が休まるなら、少しでもお話をしたいのですけど、わたしにはお伝えできるようなお話が何もなくて……』

 ヴィタリで出会った、母によく似た少女はエリーにとって衝撃以外の何者でもなかった。

『それよりエド、エドは何もなかった?』

 当たり前のことのように、年下のエリーを心配してくれるリチェルの優しさは、エリーにとっては思い描いていた理想以上のものだった。

 だからリチェルが姉だと分かった時は、本当に嬉しかったのだ。リチェルのそばにヴィクトルがいた事も。天啓だと思った。

(わがままだとは、分かってるんだ──)

 リチェルにそばにいて欲しいのはエリーのわがままで、リチェル自身の望みではない事はちゃんと分かっている。

「エアハルト様。イングリット様は恐らく……」
「分かってる。でもね、マティアス。やってみずに諦めることを、僕はしたくない」

 心配しなくてもいいよ、とエリーは笑う。

「お祖母様を怒らせるような無茶はしないし、後継としての役目をおろそかには絶対しない。今日が最初で最後のチャンスって訳でもないし、まだ時間はあるんだから」

 リチェルの居場所も分かっているのだ。
 今までとは違う。

 祖母と母の性質はよく似ていた。
 どちらも意志が強くて、時に苛烈とさえ言える。だけどリチェルは違う。

(お祖母様と母様を仲直りさせる事は出来なかったけれど──)

 祖母とリチェルであれば、和解させる事は出来るのじゃないだろうか。

(だとしたら、今度こそ僕は──)

 と、廊下でバタバタと慌ただしい物音がした。何事だとエリーもマティアスも廊下の方に目を向ける。間も無く、エリーの寝室の扉が強くノックされた。

「何事だ」

 マティアスが扉を開けると、先日入ったばかりのメイドが血相を変えて『大変なんです!』と動揺もあらわに声を上げた。
 

「奥様が──!」


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