150 / 161
第4章 RONDO-FINALE
op.16 春風吹き渡る時(8)
しおりを挟む
ヴィクトルが侯爵家に帰って二週間が過ぎた。
初日以来ルートヴィヒの言いつけ通り大人しく過ごしているようで、領地のことに口出ししてくる事もない。
ただ時たま屋敷にはヴァイオリンの音色が響くようになった。ルートヴィヒは音楽のことはあまり分からないが、響く演奏は心を落ち着かせるもので、ヴィクトルが帰ってからどこか陰が落ちていた屋敷の雰囲気が明るくなった事は感じていた。
だが──。
(どうしてアイツは、何も言ってこないんだ……)
イライラと机の端を指で叩く。
マイヤーは『甥っ子殿にはまだ当主の意識が育っていないから』と言っていた。
確かにそうかもしれない。
ディートリヒがいなくなった今、ルートヴィヒがヴィクトルの立場であれば自分に食ってかかっているだろうと思う。
ヴィクトルにそんな素振りが一切ないことに落胆すると同時に、かすかに疑問も浮かぶのだ。
『学院に戻るつもりはもうありませんので、今後はそばで勉強させて頂ければ』
そう言っていたヴィクトルが全くルートヴィヒに意見しないことは不自然だ。
ヴィクトルは昔から寡黙であまり無駄口をきかない子供ではあったが、意志は強い子供だった。ああルートヴィヒに言ったということは、本当に学院に戻るつもりはないのだろう。
確かにヴィクトルは謹慎が解ければと言ってたし、ルートヴィヒはまだ謹慎を解いていない。それを無視したら無視したできっと腹が立つことだろう。
(だが全く何もないというのも勘に触る……)
頭をかくルートヴィヒの前に、コトリとカップが置かれた。目線を上げてカップを置いた側近の姿を目に入れると、ハンスか、と自分を助けてくれている男の愛称を呼び捨てた。
「お疲れのようでしたので」
澄ました顔で答える男に苦笑をこぼす。今となってはこの男がルートヴィヒの頼みの綱だ。
実際良くやってくれていると思う。
元々マイヤーはルートヴィヒが軍にいた頃に、文官として働いていた人間だった。ルートヴィヒの隊で問題が起きた時に協力してもらったのがキッカケで良く頼み事をする様になったのだが、嫌々ながらも無理難題を聞いてくれる実は情の深い人間である、というのがルートヴィヒの見立てである。
今回のことも、事情を話すと二つ返事で頷いて、見知らぬ土地についてきてくれたのだ。いささか嫌みっぽいのが玉に瑕だが、その位は目を瞑っている。
「何かお悩みですか?」
今もルートヴィヒが悩んでいることなど、きっと分かっていて聞いているのだろう。
「白々しい。領地のことならお前に相談するだろう。俺の頭を悩ませるのは今じゃヴィクトルの事に決まっている」
「まだお悩みだったのですか?」
マイヤーはいささか大仰に驚いてみせると、『特段悩むことでもないでしょう』と続けた。
「何度も申し上げましたとおり、甥っ子殿はまだ学生の身です。いかに兄君が身罷られたと言っても、侯爵家のご子息が学院を中退すると言うのは何とも醜聞の悪いことではないですか。当主の自覚があれば、そんな一時的な感情で物を申し上げたりはしませんでしょう。何と言っても今領地の経営は兄君から正式に託されて、ルートヴィヒ様が担っているのですからね」
「それは、そうだ」
マイヤーの言うことはもっともだ。だがルートヴィヒはヴィクトルがそこまで軽率な人間ではないと思っていた。ディートリヒと同様、心底音楽と言うものを好いていることも知っている。それでもここに残ると言い張るのは、単純に子供の意地だとは言えないのではないだろうか。そう正直に口に出す。
「アイツがあそこまで言うのは、他に何か理由があるのではないだろうか」
「あるとすればルートヴィヒ様が気に食わないのでは?」
「何?」
「本来自分のものである場所に、貴方様が居座っているのが気に食わないのではと申し上げたのですよ。勿論これはただの想像でしかありませんが」
私はヴィクトル様のことを詳しく存じ上げている訳ではありませんので、とマイヤーが淡々と口にするのを聞いて、ルートヴィヒはぐっと拳を握りしめる。
「そんな……っ、そんな子供めいた感情で学院を辞めると言うのかアイツは!」
ダンッ! と音を立てて机を殴りつける。
ただでさえディートリヒが亡くなったと聞いて、こちらも混乱している。
元々ルートヴィヒはヴィクトルが後継であることに何の不満も持っていなかった。マルガレーテを放って家を飛び出したあの親子には心底苛立っているが、マイヤーがたまに口にするように自分が侯爵家を継ごうだなんて思っていない。しかし、だ。
「ヴィクトルの奴がそこまで不甲斐ないのであれば、今すぐにこの家を任せるのは難しいではないか……!」
「だから私は以前からそう申し上げているではないですか」
マイヤーがため息まじりに吐き出す。
「ヴィクトル様はうまく言い逃れをされていますが、どこの馬とも知れない娘を連れ歩いていたのはフリッツ殿の報告でも聞いたでしょう。そういう事ですよ。そして後継が決まらずとも、侯爵家の役割は果たさなくては。今侯爵家を支える人間は貴方しかおりません。甥っ子殿にはきちんと学院を卒業して頂き、その間はルートヴィヒ様が当主の役割を果たす。後継如何に関しては、その後に考えても遅くはないと思いますよ」
「それはそうだが……っ」
ぐしゃぐしゃと頭をかく。
何を迷うのだろう、と自分でも思う。
マイヤーの言うことはもっともで、だが同時に自分が今やっている事はまるで『本当にディートリヒの後釜を奪おうとしている』ように思えてならない。それはルートヴィヒの嫌う卑劣な手段であり、到底許せるものではない。
と、ルートヴィヒの考えをまるで読んだように『何もヴィクトル様を追い出そうとしている訳ではありません』とマイヤーがやや声を和らげた。
「きちんと学院は卒業すべきだ、と申し上げているのです。亡き兄君も同じように考えられるのでは? その間は代理を正式に任されたルートヴィヒ様が、これまで以上に心を砕かねばならないでしょうが、もちろん私も誠心誠意お手伝いさせて頂きますよ」
それに、とマイヤーが神妙に続ける。
「奥方様のこともございます」
「…………」
「兄君の訃報が耳に入ってしまってから、とても衰弱されているとか。その上先日は甥っ子殿の事を兄君と勘違いされたとお聞きしました。奥方様の為にも、今は甥っ子殿がそばにいない方が良いのではと思うのですが……」
マイヤーの言葉は鉛を呑まされたかのように、ルートヴィヒの腹に響いた。
言われた通りマルガレーテの容態はずっと良くない。ルートヴィヒもずっと面会謝絶の状態で、医師は精神的なものだと言っていた。
『貴方、────なのでしょう?』
不意に、今はもう別れた妻の言葉が蘇った。光を映さない諦めたような目が、チラチラと脳裏に揺れる。
『私が──だったら、きっと貴方は────』
口の中に苦みを感じて、唾を飲み込む。
あぁ、そうだな。と歯切れ悪く返して、ルートヴィヒはかぶりを振る。そうだ、と呑み込む。義姉の心が落ち着くには時間が必要だ。兄のことから出来るだけ遠ざける必要がある。兄によく似た息子も含めて。
目を伏せると、ルートヴィヒは淡々と口を開く。
「マイヤー、ヴィクトルをここに呼んでこい」
初日以来ルートヴィヒの言いつけ通り大人しく過ごしているようで、領地のことに口出ししてくる事もない。
ただ時たま屋敷にはヴァイオリンの音色が響くようになった。ルートヴィヒは音楽のことはあまり分からないが、響く演奏は心を落ち着かせるもので、ヴィクトルが帰ってからどこか陰が落ちていた屋敷の雰囲気が明るくなった事は感じていた。
だが──。
(どうしてアイツは、何も言ってこないんだ……)
イライラと机の端を指で叩く。
マイヤーは『甥っ子殿にはまだ当主の意識が育っていないから』と言っていた。
確かにそうかもしれない。
ディートリヒがいなくなった今、ルートヴィヒがヴィクトルの立場であれば自分に食ってかかっているだろうと思う。
ヴィクトルにそんな素振りが一切ないことに落胆すると同時に、かすかに疑問も浮かぶのだ。
『学院に戻るつもりはもうありませんので、今後はそばで勉強させて頂ければ』
そう言っていたヴィクトルが全くルートヴィヒに意見しないことは不自然だ。
ヴィクトルは昔から寡黙であまり無駄口をきかない子供ではあったが、意志は強い子供だった。ああルートヴィヒに言ったということは、本当に学院に戻るつもりはないのだろう。
確かにヴィクトルは謹慎が解ければと言ってたし、ルートヴィヒはまだ謹慎を解いていない。それを無視したら無視したできっと腹が立つことだろう。
(だが全く何もないというのも勘に触る……)
頭をかくルートヴィヒの前に、コトリとカップが置かれた。目線を上げてカップを置いた側近の姿を目に入れると、ハンスか、と自分を助けてくれている男の愛称を呼び捨てた。
「お疲れのようでしたので」
澄ました顔で答える男に苦笑をこぼす。今となってはこの男がルートヴィヒの頼みの綱だ。
実際良くやってくれていると思う。
元々マイヤーはルートヴィヒが軍にいた頃に、文官として働いていた人間だった。ルートヴィヒの隊で問題が起きた時に協力してもらったのがキッカケで良く頼み事をする様になったのだが、嫌々ながらも無理難題を聞いてくれる実は情の深い人間である、というのがルートヴィヒの見立てである。
今回のことも、事情を話すと二つ返事で頷いて、見知らぬ土地についてきてくれたのだ。いささか嫌みっぽいのが玉に瑕だが、その位は目を瞑っている。
「何かお悩みですか?」
今もルートヴィヒが悩んでいることなど、きっと分かっていて聞いているのだろう。
「白々しい。領地のことならお前に相談するだろう。俺の頭を悩ませるのは今じゃヴィクトルの事に決まっている」
「まだお悩みだったのですか?」
マイヤーはいささか大仰に驚いてみせると、『特段悩むことでもないでしょう』と続けた。
「何度も申し上げましたとおり、甥っ子殿はまだ学生の身です。いかに兄君が身罷られたと言っても、侯爵家のご子息が学院を中退すると言うのは何とも醜聞の悪いことではないですか。当主の自覚があれば、そんな一時的な感情で物を申し上げたりはしませんでしょう。何と言っても今領地の経営は兄君から正式に託されて、ルートヴィヒ様が担っているのですからね」
「それは、そうだ」
マイヤーの言うことはもっともだ。だがルートヴィヒはヴィクトルがそこまで軽率な人間ではないと思っていた。ディートリヒと同様、心底音楽と言うものを好いていることも知っている。それでもここに残ると言い張るのは、単純に子供の意地だとは言えないのではないだろうか。そう正直に口に出す。
「アイツがあそこまで言うのは、他に何か理由があるのではないだろうか」
「あるとすればルートヴィヒ様が気に食わないのでは?」
「何?」
「本来自分のものである場所に、貴方様が居座っているのが気に食わないのではと申し上げたのですよ。勿論これはただの想像でしかありませんが」
私はヴィクトル様のことを詳しく存じ上げている訳ではありませんので、とマイヤーが淡々と口にするのを聞いて、ルートヴィヒはぐっと拳を握りしめる。
「そんな……っ、そんな子供めいた感情で学院を辞めると言うのかアイツは!」
ダンッ! と音を立てて机を殴りつける。
ただでさえディートリヒが亡くなったと聞いて、こちらも混乱している。
元々ルートヴィヒはヴィクトルが後継であることに何の不満も持っていなかった。マルガレーテを放って家を飛び出したあの親子には心底苛立っているが、マイヤーがたまに口にするように自分が侯爵家を継ごうだなんて思っていない。しかし、だ。
「ヴィクトルの奴がそこまで不甲斐ないのであれば、今すぐにこの家を任せるのは難しいではないか……!」
「だから私は以前からそう申し上げているではないですか」
マイヤーがため息まじりに吐き出す。
「ヴィクトル様はうまく言い逃れをされていますが、どこの馬とも知れない娘を連れ歩いていたのはフリッツ殿の報告でも聞いたでしょう。そういう事ですよ。そして後継が決まらずとも、侯爵家の役割は果たさなくては。今侯爵家を支える人間は貴方しかおりません。甥っ子殿にはきちんと学院を卒業して頂き、その間はルートヴィヒ様が当主の役割を果たす。後継如何に関しては、その後に考えても遅くはないと思いますよ」
「それはそうだが……っ」
ぐしゃぐしゃと頭をかく。
何を迷うのだろう、と自分でも思う。
マイヤーの言うことはもっともで、だが同時に自分が今やっている事はまるで『本当にディートリヒの後釜を奪おうとしている』ように思えてならない。それはルートヴィヒの嫌う卑劣な手段であり、到底許せるものではない。
と、ルートヴィヒの考えをまるで読んだように『何もヴィクトル様を追い出そうとしている訳ではありません』とマイヤーがやや声を和らげた。
「きちんと学院は卒業すべきだ、と申し上げているのです。亡き兄君も同じように考えられるのでは? その間は代理を正式に任されたルートヴィヒ様が、これまで以上に心を砕かねばならないでしょうが、もちろん私も誠心誠意お手伝いさせて頂きますよ」
それに、とマイヤーが神妙に続ける。
「奥方様のこともございます」
「…………」
「兄君の訃報が耳に入ってしまってから、とても衰弱されているとか。その上先日は甥っ子殿の事を兄君と勘違いされたとお聞きしました。奥方様の為にも、今は甥っ子殿がそばにいない方が良いのではと思うのですが……」
マイヤーの言葉は鉛を呑まされたかのように、ルートヴィヒの腹に響いた。
言われた通りマルガレーテの容態はずっと良くない。ルートヴィヒもずっと面会謝絶の状態で、医師は精神的なものだと言っていた。
『貴方、────なのでしょう?』
不意に、今はもう別れた妻の言葉が蘇った。光を映さない諦めたような目が、チラチラと脳裏に揺れる。
『私が──だったら、きっと貴方は────』
口の中に苦みを感じて、唾を飲み込む。
あぁ、そうだな。と歯切れ悪く返して、ルートヴィヒはかぶりを振る。そうだ、と呑み込む。義姉の心が落ち着くには時間が必要だ。兄のことから出来るだけ遠ざける必要がある。兄によく似た息子も含めて。
目を伏せると、ルートヴィヒは淡々と口を開く。
「マイヤー、ヴィクトルをここに呼んでこい」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
13
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる