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第4章 RONDO-FINALE
op.16 春風吹き渡る時(10)
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当主であるディートリヒを亡くした侯爵家の屋敷は、葬儀が終わって一週間が経ってもシンとしていた。
人がいない訳ではない。
使用人達はいつもと同様に働いているが、皆自主的に喪に服し、普段よりずっと言葉少なだった。
当主の弟であったルートヴィヒも、兄とは折り合いが悪かったと言うのに思うところがあるのか、いつもよりずっと口数が減った。
(今はそっとしておいたほうが得策だろう)
マイヤーは心ここにあらず、と言う様子のルートヴィヒに声をかけずに、さっさと自分の仕事に取り掛かる。
焦る事はない。
何せ状況は概ね思い通りに運んでいる。
マイヤー自身も元より当主の座というものを一朝一夕でひっくり返せるとは思っていない。
今一番欲しいのは地盤を固めるための時間で、それはもう目処がついている。
年が明ければ邪魔なヴィクトルは学院に戻され、イースター休暇を除けば八月まで屋敷には帰ってこない。
執事であるフォルトナーは邪魔だがルートヴィヒが奴を好いていないし、半年もあれば経営に関して蚊帳の外に置くことは出来るだろう。領地の経営に必要な陣営もマイヤーの既知に正式に置き換えられると見ている。
後は実績の積み重ねだ。
自分を完全に屋敷から弾くことを難しい状態にしてしまえばいい。
マイヤーがいないと回らない状態に持っていけば、ヴィクトルとて周囲の反発なしに自分を追い出すことは出来なくなるだろう。あとは爵位を継ぐ時間を延ばせればいい。
元よりマイヤーは侯爵家を乗っ取ろうだなんて大層な事は考えていなかった。
マイヤー家は昔から優秀な軍人を輩出してきた家で、三男であるヨハネスも自分の意思など関係なく当然のように軍に入れられた。
ただ自分は兄達よりも小柄で力も弱く、軍人には向いていなくて文官になった。
ただそれだけでの事で、兄弟や父は自分をこき下ろした。
(見てろよ……)
脳みそが筋肉で出来ているような輩には決して真似出来ない出世をしてやるのだ。侯爵家の家令だなんてひっくり返っても奴らにはなれまい。手遅れになって金の無心をしてきたとて、鼻で笑って退けてやる。
幸いルートヴィヒは兄弟に似て、脳みそが筋肉で出来ているような男だったから扱いやすかった。
軍で面倒ごとを押し付けられることに辟易しながらも、侯爵家出身と聞いてこの男の機嫌を取っておいた事が幸いした。ルートヴィヒが領地に誘ってきた時は、飛び上がりたいのを我慢したくらいだ。
問題は当のルートヴィヒに家を継ぐ気がなかった事だが、それも少しずつ変化が生まれている。そのための材料はまるで天の采配のようにきちんと揃っていた。
(何せ奥方の事になるとルートヴィヒ様は、普段から回らん頭がさらに回らなくなるからな)
ルートヴィヒが兄の妻であるマルガレーテに想いを寄せてることに気付いたのは、屋敷に来てすぐの頃だった。
マルガレーテに対しての優しさは、ルートヴィヒの普段見る面倒見の良さや懐の深さとは全く種類が違うもので、すぐにピンときた。
信頼していると言う言葉の通り、他では見せない奥方のことで悩む様子もマイヤーの前ではルートヴィヒは容易に見せた。
ルートヴィヒが以前結婚した妻とは上手くいかず五年で別れたことは知っていたが、その事実に気付いた時は『ははぁ、なるほど。これが原因か』と膝を打ったものだ。
別の女性に懸想している夫をそばで見続けなくてはいけない。
しかも相手は、よりにもよって一生付き合い続けなければいけない義理の姉だ。それを許容できる女性はさほど多くはないだろう。
同時に何故誰もこんなわかりやすい事に気づかないのだろう、と思ったがすぐにそれも合点がいった。
ルートヴィヒが身内だからだ。
ルートヴィヒは潔白な男で、道理や礼に反することを極端に嫌う。
身内であればこそ、彼の性質は良く知っている事だろう。だから無意識にその選択肢を頭から外す。初めからありえないと決めてかかっている事を疑うのは、いかに頭が良かろうと難しい。
マルガレーテの病状が悪化していることも好都合だった。
唯一この屋敷でルートヴィヒを咎められる存在にマトモな判断が出来ない事は、幸運以外の何物でもない。
マルガレーテが回復してきた時はヒヤヒヤしたが、主人の訃報を耳に入るように差配するだけであのか弱い女性を再び寝室に戻すには十分だった。
折を見て再婚でも勧めてやろうか、と今は思っている。
頼りない息子に任せるより、貴方が当主となって妻として迎え入れた方が、奥方を守る事ができるのでは? とか幾らでも言いようはあるだろう。
折角自分をここまで連れてきてくれたのだ。
念願の恋の成就くらい、取り持ってやってもいい。そうすれば何と公爵家の後ろ盾も出来るのだから笑うしかない。
少しずつ、少しずつ自分に有利な状況を作っていく。
全ての決断はルートヴィヒが下すように仕向けていく。自分が決断した一つ一つの点が、結んだ後にいつの間にか一つの像を作り上げる。
(人間は何でも自分の都合のいいように解釈したがるからな)
ルートヴィヒのようなプライドの高い人間が、自分が決断を下した全てが間違いだったなどと、認められるはずがないのだ。そうなればきっと、マイヤーの望むように彼は結論を下すはずだろう。
自分しかこの家を守れる者はいない、という正しく美しい答えを。
人がいない訳ではない。
使用人達はいつもと同様に働いているが、皆自主的に喪に服し、普段よりずっと言葉少なだった。
当主の弟であったルートヴィヒも、兄とは折り合いが悪かったと言うのに思うところがあるのか、いつもよりずっと口数が減った。
(今はそっとしておいたほうが得策だろう)
マイヤーは心ここにあらず、と言う様子のルートヴィヒに声をかけずに、さっさと自分の仕事に取り掛かる。
焦る事はない。
何せ状況は概ね思い通りに運んでいる。
マイヤー自身も元より当主の座というものを一朝一夕でひっくり返せるとは思っていない。
今一番欲しいのは地盤を固めるための時間で、それはもう目処がついている。
年が明ければ邪魔なヴィクトルは学院に戻され、イースター休暇を除けば八月まで屋敷には帰ってこない。
執事であるフォルトナーは邪魔だがルートヴィヒが奴を好いていないし、半年もあれば経営に関して蚊帳の外に置くことは出来るだろう。領地の経営に必要な陣営もマイヤーの既知に正式に置き換えられると見ている。
後は実績の積み重ねだ。
自分を完全に屋敷から弾くことを難しい状態にしてしまえばいい。
マイヤーがいないと回らない状態に持っていけば、ヴィクトルとて周囲の反発なしに自分を追い出すことは出来なくなるだろう。あとは爵位を継ぐ時間を延ばせればいい。
元よりマイヤーは侯爵家を乗っ取ろうだなんて大層な事は考えていなかった。
マイヤー家は昔から優秀な軍人を輩出してきた家で、三男であるヨハネスも自分の意思など関係なく当然のように軍に入れられた。
ただ自分は兄達よりも小柄で力も弱く、軍人には向いていなくて文官になった。
ただそれだけでの事で、兄弟や父は自分をこき下ろした。
(見てろよ……)
脳みそが筋肉で出来ているような輩には決して真似出来ない出世をしてやるのだ。侯爵家の家令だなんてひっくり返っても奴らにはなれまい。手遅れになって金の無心をしてきたとて、鼻で笑って退けてやる。
幸いルートヴィヒは兄弟に似て、脳みそが筋肉で出来ているような男だったから扱いやすかった。
軍で面倒ごとを押し付けられることに辟易しながらも、侯爵家出身と聞いてこの男の機嫌を取っておいた事が幸いした。ルートヴィヒが領地に誘ってきた時は、飛び上がりたいのを我慢したくらいだ。
問題は当のルートヴィヒに家を継ぐ気がなかった事だが、それも少しずつ変化が生まれている。そのための材料はまるで天の采配のようにきちんと揃っていた。
(何せ奥方の事になるとルートヴィヒ様は、普段から回らん頭がさらに回らなくなるからな)
ルートヴィヒが兄の妻であるマルガレーテに想いを寄せてることに気付いたのは、屋敷に来てすぐの頃だった。
マルガレーテに対しての優しさは、ルートヴィヒの普段見る面倒見の良さや懐の深さとは全く種類が違うもので、すぐにピンときた。
信頼していると言う言葉の通り、他では見せない奥方のことで悩む様子もマイヤーの前ではルートヴィヒは容易に見せた。
ルートヴィヒが以前結婚した妻とは上手くいかず五年で別れたことは知っていたが、その事実に気付いた時は『ははぁ、なるほど。これが原因か』と膝を打ったものだ。
別の女性に懸想している夫をそばで見続けなくてはいけない。
しかも相手は、よりにもよって一生付き合い続けなければいけない義理の姉だ。それを許容できる女性はさほど多くはないだろう。
同時に何故誰もこんなわかりやすい事に気づかないのだろう、と思ったがすぐにそれも合点がいった。
ルートヴィヒが身内だからだ。
ルートヴィヒは潔白な男で、道理や礼に反することを極端に嫌う。
身内であればこそ、彼の性質は良く知っている事だろう。だから無意識にその選択肢を頭から外す。初めからありえないと決めてかかっている事を疑うのは、いかに頭が良かろうと難しい。
マルガレーテの病状が悪化していることも好都合だった。
唯一この屋敷でルートヴィヒを咎められる存在にマトモな判断が出来ない事は、幸運以外の何物でもない。
マルガレーテが回復してきた時はヒヤヒヤしたが、主人の訃報を耳に入るように差配するだけであのか弱い女性を再び寝室に戻すには十分だった。
折を見て再婚でも勧めてやろうか、と今は思っている。
頼りない息子に任せるより、貴方が当主となって妻として迎え入れた方が、奥方を守る事ができるのでは? とか幾らでも言いようはあるだろう。
折角自分をここまで連れてきてくれたのだ。
念願の恋の成就くらい、取り持ってやってもいい。そうすれば何と公爵家の後ろ盾も出来るのだから笑うしかない。
少しずつ、少しずつ自分に有利な状況を作っていく。
全ての決断はルートヴィヒが下すように仕向けていく。自分が決断した一つ一つの点が、結んだ後にいつの間にか一つの像を作り上げる。
(人間は何でも自分の都合のいいように解釈したがるからな)
ルートヴィヒのようなプライドの高い人間が、自分が決断を下した全てが間違いだったなどと、認められるはずがないのだ。そうなればきっと、マイヤーの望むように彼は結論を下すはずだろう。
自分しかこの家を守れる者はいない、という正しく美しい答えを。
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