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第4章 RONDO-FINALE

op.16 春風吹き渡る時(18)

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 その年のクリスマスは慌ただしいままいつの間にか過ぎていた。父の喪はまだ明けず、マルガレーテも療養中、ヴィオ自身も屋敷のことで忙しくほとんど日付感覚がないままに年を越し──。

 そんなヴィオをルートヴィヒが呼び出したのは、年が明けてすぐのことだった。


「あぁ、よくきたな。そこに座れ」


 ヴィオが執務室に入ると、部屋の真ん中にある長椅子を指して、ルートヴィヒが執務机の前から立ち上がった。

 以前であれば座れと言われた事も、ルートヴィヒがヴィオの訪問に椅子から立ち上がる事もなかったので、叔父の心境の変化を感じながらヴィオは言われるがままソファに座った。
 ルートヴィヒが向かいの席に腰を下ろすと、使用人がちょうどいいタイミングでコーヒーを机に出してくれる。

 二人で話すのは久しぶりだった。あれから何度かは話したが全て必要事項だけで、こうして腰を落ち着けて話すのは考えてみれば初めての事かもしれない。

 軽く咳払いをして、ルートヴィヒがそれでだ、と口を開く。

「そろそろ今後のことを、きちんと話しておかねばと思ってな」
「はい」

 それはヴィオも思っていた。慌ただしくしていたが、未だ侯爵家の当主の席は空席のままだ。早急に話す必要があるのを、今まで目の前のことに追われて後回しにしていたのだ。

「俺はまだ十七ですし、今爵位を継ぐとなると法定代理人が必要になります。叔父上にお許しいただけるのであれば早急に……」
「その事だがな」

 ルートヴィヒがヴィオの言葉を躊躇いなく遮る。

「ヴィクトル。お前はやはり一度学院へ戻れ」

 迷いのない口調だった。

「……それは」
「勘違いするな。追い出す為じゃない」

 早口でヴィオの懸念を否定すると、第一ハンスはもういないだろう、とこちらはやや言い訳がましくルートヴィヒが呟く。

「俺も良く考えたんだがな。今ならまだ卒業は出来るのだろう? 前も言ったがやはり侯爵家の跡取りが中退では体面が悪い。
 お前自身も別に退学したい訳ではなかろう。きっと兄上も卒業してこいと言うはずだ。俺は、頼りないかもしれんが、あと九ヶ月か。まぁそれくらいならこの家の留守を守るつもりはある。心配しなくても、兄上がしていたようにフォルトナーをそばにはつけるし、ソルヴェーグもお前が戻ってくるまでは屋敷にいてくれるよう頼んだ」
「…………」
「何だ、信用ならんか?」
「いえ、そんな事はありません」

 ルートヴィヒが素直にフォルトナーを付ける事を決めていることや、すでにソルヴェーグに対しても話をしている事に驚いただけだ。

「何度も言ってますが、元から俺は叔父上のことを信頼していますよ」
「あんなヘマをしたのにか?」
「確かにマイヤーの事は骨が折れましたが……。彼を庇ったことも含めて叔父上の人徳だと思っています。叔父上は俺や父上が持ちえないものをお持ちです。父もいつも『敵わない』と言ってましたから」
「……兄上が?」
「はい」

 事実だ。ルートヴィヒの持つ人望は、ディートリヒが持つ物とは種類が違う。この叔父はいつだって率直で真っ直ぐだ。

 そうか、とルートヴィヒが目を細めた。

「今回のことでな。不謹慎だが、俺は少し安心したんだ」
「?」
「俺が懸念していたことが全部勘違いだったと分かった事にな。まぁハンスにまんまとしてやられたのは俺だが、俺が騙されていただけで結果的には良かった。本当にハンスの言う通りだった方が余程頭が痛い」

 俺はあまり政治に向いてないからな、と面白くなさそうに溢す。

 と、コンコンと不意に執務室がノックされて、ヴィオもルートヴィヒも同時に顔を上げた。

「……誰もいれるなとは言ったんだがな」

 今は取り込み中だ、とルートヴィヒが雑に声を上げると、その声に反して扉が開かれた。

「ごめんなさい。お話をされているとは聞いてはいたのだけれど」

 そして扉を開けて入ってきた人物に、ルートヴィヒが目を見開いた。

「……義姉上⁉︎」
「母上?」

 ヴィオとルートヴィヒの声がハモる。目が合うと、やや嫌そうにルートヴィヒは目を逸らして、席から立ち上がる。

 ここ最近は体調が回復してきたとは聞いていたが、もう動けるようになったのだろうか。今日のマルガレーテは久しぶりにきちんと髪を結い上げていた。喪に服していることを示す暗色のドレスに身を包んだマルガレーテは、ヴィオに目を留めると、上品な仕草で『お話中だったのね』と柔らかく笑う。

「義姉上、用があると言いつけて頂ければこちらから出向いたものを」

 立ち上がったルートヴィヒに『良いのよ』とマルガレーテがヴィオの近くに歩み寄る。

「私が貴方とお話がしたくて来てしまったのよ。ヴィクトルも、ごめんなさい。大事なお話の途中?」
「いえ、俺は問題ありませんが……。叔父上は?」
「そりゃ、構わん。俺の話は学院の事だからな」
「学院?」

 ヴィオが差し出した手を取って隣に腰掛けながら、マルガレーテが尋ねる。

「あぁ。ヴィクトルが兄上の事もあって学院を辞めるつもりだったようだから、戻れと言ってたんだ」

 ルートヴィヒの言葉に『まぁ』とマルガレーテが口元に手を当てる。そういえばマルガレーテにはそう言った話は一切してこなかった。流石に少し罪悪感が沸いて、すみません、とヴィオも謝る。

「母上のお手を煩わせる事ではないので黙っていたのですが……」
「それはルッツの言う通りよ、ヴィクトル。きちんと卒業なさい。貴方は音楽がとても好きなのに勿体無いわ」

 まだルートヴィヒに返事をした訳ではないが、こうなってはヴィオの分が悪い。確かにマイヤーがいないのであれば、別に残ることにこだわる必要はないのだ。分かりました、と頷く。

「でもそれではヴィクトルが卒業するまで、家のことはどうしましょう。ソルヴェーグとフォルトナーに?」
「それは今話をしていた事だが、俺がヴィクトルの卒業までは残ろうと」
「まぁ」

 答えたマルガレーテの声は、少し不安そうな声音だった。そのことに、流石のルートヴィヒでも気付いたのだろう。少し迷いながら、口を開く。

「その、義姉上もやはり俺では不安か……?」

 いつも横柄なルートヴィヒにしては自信のない口調に『いいえ、そうではないわ』とマルガレーテが首を振る。

「私、ルッツにはとても感謝をしているのよ。今日もお礼を言いに来たの。とても遅くなってしまったけれど、一度きちんと謝らなければいけないと思っていたの。本来なら私がしなければならない事を、貴方に頼りきってしまったのですもの」
「義姉上が謝る必要などどこにもない。そもそも俺を呼び寄せたのは兄上だし、俺もこの家の人間だからして家を守るのは当然だ。俺では、兄上に比べて不足かもしれんが……」
「いいえ、そんな事をおっしゃらないで。確かに私は貴方にもう軍へお戻りになったらどうか、とお話ししようと思っていたわ。だけどそれは貴方に不足があるからではないのよ」

 マルガレーテの言葉は嫌味がなくて、どこにも棘がない。今も絹のように滑らかに、相手の心にそっと寄り添うようだった。だって、とマルガレーテが先を紡ぐ。

「貴方にとってこの場所は窮屈でしょう、ルッツ」
「な……」
「ルッツは軍でのお勤めがお好きでしょう? その仕事に誇りを持っていらっしゃるでしょう? それなのにこの家に留め置いてはいけないわ」

 ルートヴィヒは二の句が繋げず、ただ呆然とマルガレーテを見ている。しっとりとした笑みを浮かべて、マルガレーテがヴィオの手を取った。

「この子はずっと家を継ぐ為に育てられてきたし、その事が嫌ではないと私に言ってくれたわ。だから私ももうヴィクトルに全部背負わせたと思うのはやめようと思ったの。母親の私がそんな事を思っては、この子の努力に対して失礼でしょう」

 でも、とマルガレーテはルートヴィヒを見る。

「貴方は違うわ、ルッツ。ヴィクトルが卒業するまで貴方がここにいて下さるのはとても心強いわ。だけどそれが終わったら、貴方は貴方の好きな場所にお戻りになってね。貴方がこの家にいて下さる間、それだけがずっと気がかりだったのよ」
「…………」

 答えられないまま、ルートヴィヒはマルガレーテを見ていた。

 考えてみればルートヴィヒはディートリヒに急に呼び出されて、この家を預かったのだ。そのルートヴィヒの気持ちを考えたことは、そう言えばヴィオも一度もなかった。家のことだから責任がある、とルートヴィヒ自身も言い聞かせていたのかもしれない。

 きっと後にも先にも叔父のその気持ちを汲んで、気にしていたのはマルガレーテだけだったのだろう。

 やがて、何かを堪えるようにうつむくと、ルートヴィヒは『はい』と声を絞り出した。

「はい、義姉上──」

 応えたルートヴィヒの様子をマルガレーテは慈しむように見て『またお休みには部下の皆様をお連れになって』と微笑む。

『貴方は私の家族で、この家は貴方の家でもあるのだもの。家族におかえりなさい、と言えるのを私、いつもとても楽しみにしているのよ」

 貴方も、とマルガレーテがヴィオに微笑む。ヴィオの手に重なっていた手がかすかにヴィオの手を握る。

「きちんと卒業して、帰っていらっしゃい」

 目の前にいる母の目は穏やかだった。

 いつかの休暇に、ヴィオを見て『誰?』と尋ねた空っぽの母はもうここにはいない。マルガレーテもちゃんと、地に足をつけて歩いている。

(父上。母上はきっと、大丈夫です)

「──はい」

 目を伏せて、頷く。ふっと力が抜けたように笑って、ルートヴィヒの方に向き直る。『叔父上』と呼びかけると、ルートヴィヒが顔を上げた。

「俺はまだ未熟で、きっと今後も貴方の力が必要です」

 ゆっくりと頭を下げる。

「どうか俺が戻るまで、この家と母をよろしくお願いします」

 息を呑んだルートヴィヒが『と、当然だろう!』とまるで照れ隠しのように声を上げた。その事がおかしくて、かすかに頬が緩んだ。

 その後は少し話をして、ヴィオは先にルートヴィヒの執務室から退室した。

 廊下に出ると、チラチラと陽光が窓辺の雪を照らしている。窓の外を見ると、珍しく澄んだ青空が広がっていた。

(……終わったんだな)

 ようやく実感が湧いてきて、ふと思い出してポケットから焦いブラウンのリボンを取り出した。帰ってきてからお守りのように持ち歩いていたそれに触れると、苦笑をこぼす。

(結局助けられたな……)

 何も出来ないなんてとんでもない話だ。

 本当に彼女はよく、ヴィオの事を見ていたのだろう。

 自分がリチェルの事をよく見ていたように──。


 天気が良いから後でベランダに出てみようか、と思う。高台に建った侯爵邸は、周囲の景色がよく見える。
 真白の山々と凍った湖は、いずれは溶け出して、春には美しい色彩を描くだろう。


 その景色をいつか君に見せたいと、心から思った。
 
 
 
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