snow and magnolia

危機

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magnolia

magnolia Ⅶ

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magnolia Ⅶ




乾いた一撃が、空気を裂いていった。

やがて、鉄の靴音。低く、冷たく、整った足取りがコンクリートを刻む。
蓮の眩む視界の中、その闇の奥に浮かび上がる、ほの白い逆光に滲むシルエット。
サプレッサー付きの拳銃を手に、ひとりの男が無言で立っていた。
見慣れた、そのスーツ姿と、端正な顔立ち。
あまりに唐突に現れたその姿に、蓮の心臓が跳ねた。

──真神雪也。

「……ッ、お前……誰だ!?」

怒りに染まった女の声が闇を裂いた。
その美しい顔に、怒気と警戒が複雑に走る。

「……邪魔をするなら……お前も“糧”にしてあげるわ」

その一言が、すべての合図だった。

女の指先が翻る。
空気の中に、水の刃が現れる。
無音のまま、圧力を孕んだ五本のガラスの矢が──雪也を貫こうと放たれた。

「雪也さん──ッ!!」

蓮の叫びが届くより先に、雪也の身体は流れるように動いた。
まるで狙撃の瞬間、生気を殺して獲物の視界から外れる狩人のように。
一拍のうちに、その軌道から滑るように姿を消す。

一閃、また一閃。
鋭利な水刃が雪也を狙うが、彼は床を蹴って跳び退き、
廃材の中から古びた鉄合板を引き上げ、盾のように構えた。

瞬間、鋼に刃が突き刺さる。

金属を割る音。散弾のような反響。
女が舌打ちする。

水の鎖を練り直そうとした、その刹那。
鉄板が唸りを上げて投擲される。

目標は、女そのものではなかった。
それは“避けさせるための囮”。

体を捻って回避した彼女の、わずかな動線の“死角”へ──
雪也のナイフが閃いた。

鋭い銀光が掠め、女の肩を切り裂く。

「……ッ!」

女が跳ね退く。その背後のコンクリートに、深い風穴が開いていた。

「その程度の水芸なら、街角の道化師の方がまだ上手だよ。……“魔女”なら、もっと面白いものを見せてくれないかな?」

雪也の声は穏やかだった。
だがその言葉には、鋭利な刃のような冷笑が含まれていた。

その男──雪也の気配は“人間”ではない。
睨まれた女は、直感的に背筋に冷たい震えを覚えた。

──そして、刹那。

倒れたはずの桧山が突然起き上がり、蓮を押さえつけた。
頭部は歪なまま再生し、粘土のように肉が蠢いている。

「!?……ッ……や、めっ……!」

蓮が藻搔くが、桧山の腕は異様な力で喉元を締める。

「…あ、ぁ……くわ、せろ……喰わせろよ、腹が減って仕方ねえんだよぉ……」

呻くような、もはや人間のものではない声が、蓮の耳元でこぼれる。

──だが、その瞬間。

「──木偶が」

低く呟かれた雪也の声が、空気を裂いた。

踏み込みの音すらなかった。
ただ空気がわずかに歪み、次の瞬間、銃口が桧山の首筋を捉える。

ぱしん。乾いた一音。
その喉が爆ぜた。

血と肉片が蓮の頬に飛び散り、桧山の崩れた身体が床に叩きつけられる。
声も出せないまま、蓮は息を飲んだ。

「……ッ!? なんて、ことを……!」

女の顔が引き攣る。
手駒を瞬時に失った悔しさと怒りが交差する。

即座に指先が動き、水の靄が空中に紡がれる。
幾重もの紋様が鎖へと変わり、雪也の前で脈動する──威嚇。警戒。怒り。

だが、雪也はそれ以上踏み込まなかった。
ただ静かに、足を止める。

「今ここで殺してもいい。でも、それじゃ芸がないからね」

微笑すら見せず、口元にだけ浮かんだ冷たい響き。
その声には、愉悦と冷酷、そして“余裕”があった。
目は笑っているのに、言葉の一つひとつが骨の奥まで凍らせる。
女は裂かれた肩を片手で庇いながら、悔しげに後ずさる。

「……ただの人間風情が……。その人間の価値、わかってるの?」

叫びとも呪詛ともつかぬ声を上げ、指を振る。
水の靄が流れ出し、霧の幕となって雪也との間を遮った。

だが──その向こうから声が返る。

「もちろんさ」

霧の向こう、雪也の声が響く。

「蓮は……お前みたいな魔女の使い魔にも、あの木偶の餌にもならない」

呼吸が変わる。
低く、深く、獣のような静けさで──

「この世で、ただ一つの存在だよ」

その声とともに、女の背筋が凍りつく。

雪也の目は、狩人の目だ。
相手の魔力の脈動、視線、立ち位置、構え──すべてを読み取っている。

「お前たちなんかには、渡さない」

その一言が、霧よりも重く降りた。

女の脚がわずかに震える。
理由も理屈もない。ただ、身体が拒絶した。

(この男──本気で“狩る”気だ)

冷静に応じていたはずの彼が、今、明確に“敵”として女を捉えた。
それがどれだけ恐ろしいことかを、魔女である彼女の本能が最初に理解していた。

それは魔力でも力でもなく、ただの意思。
けれどその質があまりにも静かで、深く、冷たい。

女が、まるでガラスの城のような、水の檻を完成させるより早く、雪也は地を蹴った。
その動きは、まるで風が動線を変えるような自然さだった。
意識を向けたときには、もう距離はなかった。

──一歩。

そして、二歩。

刹那の中に落とされた静寂の中、雪也の姿が女の視界から“飛んだ”。

いや──そう見えたのは、動体視力が追いつかなかっただけだった。
次に彼が現れたとき、女の水の檻はすでに裂けていた。

「……馬鹿なッ──!?」

女が振り返るより早く、雪也の指先が、水の、ガラスの檻を砕いていた。
まるで術の糸を解くように、女の、水の鎖は解体され、蒸発するように霧散した。

それは「術式の構造そのものを“読む”」という、人間の限界を超えた直感。
生まれながら、頂点に生きる物が、獲物の骨の曲がりを読み解くように、雪也は女の魔女としての力を“崩す”道筋を最短で選び取った。

その眼には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、決定された終わりを見るような、静かな光だけが宿っていた。

「……ッ!!」

女の足が、無意識に後退する。

心が身体を裏切ったのだ。
“魔女”という存在が、人のはずの男に、本能で危機を感じて逃げようとしている。
それが、女にとっての最大の屈辱だった。

「……ふざけるなッ……私……私は、こんな人間如きに……っ!」

凄まじい勢いで集まってきた水の粒が廃工場内に満ちていく。
天井が海になってしまったように波打つ。
だが、それすら雪也の“静かな殺気”に弾かれるように、ざわつき、まとまらない。

そのとき──

女の視界に、桧山の残骸が映る。

先ほどまで自らの使い魔だったはずの存在は今は肉塊となって崩れていた。
再生能力を持つはずの彼の肉が、もう動かない。
何かを“壊された”。
再生の起点となる核。それを、雪也は断ち切ったのだ。

「……!」

女は、密かに悟った。
この男は、ただ“強い”のではない。
魔女を狩るための構造を、生まれながらに備えている。

そんなものが存在するというのか。

(そんなものは……まさか)

女の脳裏に言葉が過ぎる。
だが、それを振り払うかのように水の靄は女の身体を包み込んだ。
構築されかけた魔力の力場が一瞬で失われ、練られたはずの大量の水の靄が形を保てなくなる。

そして──
一気に大粒の水が、空から降り注いだ。
術として収束できなかった水が、ただの“重力に従う液体”となって、まるで夏の夕立のように場を叩く。
鋭さも、意志も、もはやそこにはなかった。
ただ、女の魔力の消失という事実だけが、冷たく空間を濡らした。

一瞬の豪雨のような混濁。

視界が遮られ、足場は滑り、反射的に蓮が目を閉じたとき──
すでに女の姿は跡形もなく消えていた。



残されたのは、湿った静寂。
術の崩壊によって降った雨は、すでに止んでいる。
だが、空気にはまだ水気が重く漂い、冷えきった床には大小の水溜まりが広がっていた。 

蓮はその中心で、膝をついたまま、ぼんやりと座り込んでいた。
濡れたシャツが肌に張り付き、髪からは水滴が静かに滴り落ちる。
息は荒く、指先はまだ震えている。

遠ざかる水の気配と、かすかに残った血の匂い。
喉の奥が焼けるように乾き、思考がまとまらない。

(──終わった……のか?)

静寂の中に、乾いた足音が響いた。

コツ、コツ──と、規則正しく。
湿った空気を断ち切るように、その音だけが空間に鋭く響いてくる。

ゆっくりと顔を上げると、逆光の中、ゆらりと現れた男の輪郭。
濡れたスーツは所々すり切れ、袖口には裂けた痕がある。
首元の白い肌には、細かな裂傷がいくつも刻まれていた。

──雪也。

その姿を見た瞬間、胸の奥が強く、軋むように締めつけられた。
自分のために、ここまで傷を負ったのだ。
そう思った瞬間、何かが喉に詰まった。

銃を手にしたまま、それでも彼は静かに歩を進めてくる。
闘争の直後とは思えぬ、整った足取りだった。
だが確かに、その身体は雨に濡れ、戦いの爪痕を幾重にも刻んでいる。

雪也は無言のまま、蓮の前で片膝をついた。
そして、拳銃を静かにホルスターへ戻すと、正面から蓮の顔を覗き込んだ。

その眼差しには、つい先ほどまで見せていた、あの氷のような冷たさはなかった。
ただ真っ直ぐに、穏やかに──まるで、人間としてそこに在る蓮を確かめるように。

「……間に合って、良かった」

抑えた声。けれど、その響きには、確かに人の温度があった。

その一言が、蓮の胸の奥にぽつりと落ちる。
言葉にならない熱が、喉の奥を震わせる。
何かを返そうと唇を開きかけた。 ──けれど。
その前に、雪也の腕がそっと伸びた。

濡れた身体ごと、ゆっくりと抱きしめられる。

拒む力もなく、驚く暇さえなく、蓮はその胸の中に引き寄せられた。
雨と血の匂い、火薬の残り香の向こうに、微かに香る、白檀と麝香の柔らかな残り香。
蓮の知っている、雪也の匂いだった。

雪也の腕が、ほんの少し、強くなる。

「……名前、呼んでくれたね」

低く絞るような声。けれどそれは、確かに、感情の揺らいだ声だった。

「ありがとう……」

濡れて冷えた身体に伝わるのは、雪也の、鼓動と温もりだった。
今まで、何度も肌を重ねてきたというのに、不思議と今、蓮には一番温かく感じられた。

「ッ……!…雪也、さん……ッ!」

雪也の背中に回した自分の指先が震える。訳もなく視界がぶれていく。
蓮は顔を雪也の傷だらけの肩口に押し付け、ただ自分を抱きしめる男の名を呼んだ。










煌々と灯るネオンが闇に溶け、流れていく。
夜の繁華街の喧騒が次第に遠ざかっていく。

ヘルメット越しに見えるすべてを閉ざすかのように蓮は目を閉じた。
重たい水音の残響が、まだ耳の奥で揺れている。
まだ濡れたままの衣服が風に吹かれる度、肌に冷たく張り付き、凍えそうな身体と、そして自分の目の前にある背中の温かさが自分は確かに“ここ”にいることを伝えていた。

あの後、雪也に促されるようにして廃工場を後に人気のない通りに出ると、雪也は何処かに留めていたらしい大型のバイクを出してきた。
唸るような排気音の後に現れた大きな、黒い獣のようなそれに蓮はぎょっとする。
低く構えたシルエット、極端に張り出した後輪、艶のない漆黒の車体。
まるで機械仕掛けの魔獣のようなそれに、雪也が軽やかに跨った。

「……これ、雪也さんの……ですか……?」

思わず問いかけると、雪也は振り返りもせずに呟いた。

「違うよ。──少しだけ借りた」

さらりと答えるその声音に、いつも通りの温度が戻っている。
寒いと思うけど我慢して、と言われるがままに、蓮はシートに跨る。
雪也の背に腕を回すと、その背中からはまだ戦いの熱が微かに伝わってくるようだった。
白檀と麝香──それに、血と雨の匂いが混じる。こんな状況でも、蓮の心臓は少しだけ跳ねた。

(何をしてるんだ、俺は……)

心の中で呟いた瞬間、バイクが唸りを上げて走り出した。



明滅する光が次第に遠ざかっていく。
蓮は風を受け、雪也の背にしがみつきながら、再び同じ呟きを心に浮かべた。
胸の奥、未だ重たいものが渦巻いている。

あの時、自分は逃げようとしていた。
この目の前の雪也から。
雪也によって変えられてしまった日常全てが忌まわしく、恐ろしくて。

それなのに、似たような出来事に巻き込まれ、その結果──、彼に助けられてしまった。

あの女が言った言葉。
“白木”の姓。
“使い魔にする価値”。

──雪也は、あの女と同じなのだろうか?

この人が、分からない。
遠ざかりたい。
逃げたいのに。
自分は、如何したいのだろう。
どうして自分はこの人を拒めないのだろう。

「……」

何度も口を開こうとして、言葉は喉奥で迷子になった。



やがて静かな住宅街に辿り着いた。
バイクが滑るように停まり、エンジンの音がふっと途切れる。
目の前には、見慣れたアパートの外階段が見える。

雪也が先に降り、ヘルメットを外す。
その横顔はいつもと変わらず整っているのに、どこか遠くの世界にいるような、触れられない雰囲気を纏っていた。

蓮は数秒、黙っていた。

「……雪也、さん」

何かを言おうとするたび、喉の奥で熱が揺れて言葉を押しとどめる。
けれど──。

「……助けて、くださって……ありがとうございました」

ようやく絞り出した声は、ひどく小さくて頼りなかった。
それでも、雪也はわずかに表情を和らげて、蓮のほうを振り返る。

「……気にしないで。身体、すっかり冷えちゃったね」

その言葉はいつも通り穏やかだった。
だが、だからこそ蓮の胸に突き刺さる。

蓮は震える手でヘルメットを外し、目を伏せたまま、口を開いた。

「……あの……聞いても、いいですか」

「……うん」

返事は柔らかかった。

蓮は一瞬だけ躊躇し、それでも続けた。

「……雪也さんは……あの女と同じ……魔女、なんですか?」

その問いに雪也は沈黙し、やがて口を開いた。

「……そうだね、僕はあいつらと同じかもしれない」

雪也は静かに答えた。
目を伏せず、まっすぐに蓮を見ていた。

「でも、僕はあいつらから嫌われてる。“仲間はずれ”なのさ」

自嘲気味なその言葉を付け加える雪也に、蓮は目を見開いた。

「じゃあ……やっぱり、“白木”の名前で、俺に近づいたんですか」

声に、かすかな震えが混じった。
自分でも気づかぬうちに、ずっと避けていた問い。

彼の策に嵌り、彼の思うままにされながら──
それでも、自分はどこかで彼を信じたかった。
ただの利用だと、そんなのはよくあることだと、
何度も言い聞かせてきたのに。

雪也は、静かに顔を傾けた。
口元に浮かんだのは、かすかな笑み。
けれどそこに、嘲りも、悪意もなかった。

「“白木”って聞いて納得はしたよ。君が、“白”の人間なんだって」

その声に、蓮は息を呑む。
雪也は一歩、静かに距離を詰めた。
そして、低く、深く囁く。

「──でもね、僕は、魔女と違って、君を使い魔にすることも出来ない。するつもりもないよ」

その一言が、胸の奥に落ちる。
ゆっくりと沈みながら、じんと熱を広げるように。

雪也はそっと、蓮の腕を取った。
その指が触れたのは、かつてオブジェで切り裂かれた場所。
今は淡く、痕となって残るその傷跡へ──
恭しく、静かに唇を寄せた。

誓うように。
触れるだけの、優しい口づけだった。

「……君は、僕の、この世でただひとつの“花”なんだよ、蓮」

その声音に、蓮の喉がきゅっと締まった。
言葉にならない熱がこみ上げ、また、理由もなく目元が滲む。

「……“花”?」

問い返した声も震えていた。
雪也は、少しだけ微笑を浮かべながら、囁く。

「僕にとって、この世で最も大切な“花”だよ。……だからこそ、傍に置きたい。たとえ、どんな手を使ってでもね」

夜の空気が、すうっと静かに流れる。
何かが壊れて、そして、新しく生まれ変わるような──そんな夜の匂いがした。






────────────────────────






女、鴉月水怜(あがつ みれい)は、川沿いの貧しい家に生まれた。
名もない支流の傍、朽ちた畳の匂いと湿った石垣の手触り。
雨が降るたび、部屋の隅に溜まる水の音に耳を澄ませながら、彼女は育った。

水の声は、あの頃から水怜にだけ応えてくれた。

それが何を意味するのかを知ったのは、十歳の春だった。
酔った父が茶碗を投げつけ、幼い兄弟とひたすら泣く母が怯えながら流し台に座り込んでいた夜。
彼の足元に水たまりができ、それが這うようにして脚を絡め取った。それに驚いた父が転び、湯呑が割れた。その破片で額を切り、血が滲ませていた。

ああ、味方がいる。そう思った。

以降の人生は、妥協と失望の繰り返しだった。
魔女としてその力を理解し、操れたとして、それは社会の表では殆ど役に立たなかった。
水怜の人生において、水は優しくて従順だが、冷たかった。
人間のように笑ってくれはしない。

それでも、水怜は選ばれた者だと思いたかった。
魔女という、自分は特別な存在なのだという、他の者とは違う誇り、或いは優越感。
やがて、自分で勝ち取った運が巡ってくる。
古くから続いてきた家柄であり、一企業の社長だという男の後妻という立場。
前妻の影が色濃く残る屋敷で、使い古された家具に囲まれながら「この座は、私のものよ」と、小さく呟いた。まるで呪のように。

愛など最初からなかった。
欲しかったのは、名前。
恵まれた家の妻であるという“肩書き”と、“魔女”としての序列。
水怜はそれに相応しいと思っていた。

街には他にも力ある魔女がいた。
風を操る者。火を纏う者。
けれど、水は静かに染み込む。
時間をかけて地を穿ち、形を変え、すべてを削り取っていく。
その忍耐こそが、真の力だと信じていた。

やがて力を拡大させようと、水怜は自分の使い魔を作ろうとした。
魔女にしては遅い本能の開花だった。
魔女は本能で、生まれながらに突き動かされ“そうする”らしい。

最初の男は、失敗した。
血の量が足りなかったのか、あるいは水怜との相性が合わなかったのか。
彼は燃えるようにして崩れ、ただの“死体”になった。

次の対象を探す内、水怜は気付く。
風の魔女も、炎の魔女の気配も街から忽然と消えていた。魔女としての、同じ眷属の存在を知る感知能力で知ったが、それがどうしてなのかは分からなかった。

やがて、ようやく見つけた二人目──桧山は、生き残った。
彼は水怜の夫の企業の社員だった。社長夫人としての立場からの見つけやすい相手。
けれど足りなかった。
水怜の心に燻る思いを満たすまででもなかった。
そしてその飢えた火のような思いは次を望む。
もっと。
もっと強く、と。
桧山に命じ、“相応しい者”を探させた。
魔女たちの噂に必ず登場する、“白”の一族。
白木蓮の存在に目をつけたのは、暫く後だった。

彼を落とせれば、水怜は完成するはずだった。
更に高みへと行けると思った。
けれど、すべてを壊したのは、“ある男”の介入。
──それさえなければ。



パンプスのヒールがひとつ折れ、コンクリートに擦れて音を立てる。
古くから在る建物の非常階段。誰も通らない裏道。
水の匂いがする。腐った空気。濡れた鉄の手すり。

足音が、ついてくる気配がした。

もう術は使えない。
感知が効かない。
後ろにいるものが“人間”でないのは分かっている。

一度だけ、男と目が合った。
目の奥に、笑っている何かがあった。
水怜とは違う“何か”が、息をしていた。

(あんなものが、この世にいるというのか)

魔女という存在。
それさえも凌駕する者。
自分も超常の枠にいる筈なのに、嘲笑うように現れた“それ”の存在に、水怜は初めて本能からの恐怖を覚えた。
そして、今。
自分の“終わり”が、その存在によってもたらされるのだと、ゆっくりと、確実に理解させられていく。

かつて、誰かに寄りかかりたかったのかもしれない。
けれど、水怜は──誰にも選ばれなかった。
夫も、使い魔も、そして水さえも。
今この瞬間、水すらも、彼女を守ってはくれない。

それでも、鴉月水怜は──魔女だった。

気がつけば、水たまりの中に浮かんでいた。
四肢はもう、動かない。
冷たく濁った水だけが、最後にそっと寄り添ってくれていた。

最後にふと、耳元で囁く声がする。
水の声か、それとも──死神の足音か。

すべてが──静かに、水の底へと沈んでいった。






────────────────────────





廃ビル裏の、闇が塗り込められたような路地の奥。
雨の痕跡もないのに、空気はじっとりと湿り、ぬるく停滞している。
遅れて響いた足音が男の傍で止まり、静寂を破るように軽薄な声がこだました。

「わーお、今回もキレーに片付いていらっしゃることで……」

声の主は、女の骸が“在った”はずの場所を見つめた。

「“食べたかった”?残しておけばよかったかな?」

男はまるで煙草でも勧めるような気軽さでスーツの裾を軽く払い、相手に微笑みかける。
その笑みにギョッとした相手は、ものすごく嫌そうな顔で「謹んで遠慮します!」と首をブンと横に振った。

「そう?貴重な“糧”だよ?しかも魔女の」

勿体無いよ、と涼しげに言う男の顔は、先程“処理”した骸の“味”がよほど酷かったのか抑えきれない嫌悪が滲み出ていた。

「……それにしても、何で直接言わなかった?僕は君に“直接”頼んだ筈だけど」

声は低く、静かだった。
だが、内側に潜むものは明らかな怒り。焦燥。そして──わずかな殺意。

「……それについては……その!ごめんなさい本当にすみません消さないでくださいお願いします神様仏様閻魔大王様!!」

本気なのか、冗談なのか、わからない態度でひたすら矢継ぎ早に大声で謝り、素早く身体を折り畳む。その相手に男はやれやれといった風に溜め息を吐く。

「数分だった……あと数分遅れてたら、彼はもう人間じゃなくなってたかもしれない」

「……すんません」

再び素直に頭を下げるその姿を、男は一瞥しただけで視線を遠くにやった。

「しっかり頼むよ。僕は、“鼻が利かない”んだから」

「……ソレ、“小物には”って限定でしょ。怖いなあ、流石」

顔を上げ思わず本音の言葉を呟いた者に男は視線を戻す。

「本当の事だよ。こいつらみたいな下等……僕には全く分からないからね」

「へええ、そりゃ難儀ですなぁ」

「……」

男の目つきが鋭さを増した事に気付くと、軽口で返した者は口を噤んだ。

「でも……間に合って良かったっスね。会議ブッチしてバイクで飛ばしたんでしょ?聞きましたけど、あれ、途中信号全部無視で走っちゃったヤツ?」

「止まってたら、手遅れだった」

「……ホント怖いわ。そういうところ」

「……君がもし手遅れになる事に加担してたら、今こいつらと同じ目にあってたかもしれないよ」

「あぁッ!?それ言います?これでも必死に連絡したんスよ!?」

「“主”にだろう?」

男はため息混じりに水溜りを見下ろした。
何処かでパトカーのサイレンが聞こえる。

「……騒ぎになってないとは思いますけど、まあ、離れた方が良さそうっスね」

「……」

男は答えなかった。
相手の言葉を聞いているのかも分からないまま、夜のしじまが男たちを包む。

残されたのは、濡れた地面と、どこまでも続く闇だけだった。


続く
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