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magnolia
magnolia Ⅵ
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magnolia Ⅵ
蓮はそれから、定期的に雪也のマンションへ呼び出されるようになった。
ひと晩を共に過ごし、そのまま朝を迎えることも珍しくはなく、マンションから直接、出勤する日々が続いた。
「着替え、用意してあるよ」と告げられ、クローゼットにはいつの間にか蓮のサイズに合わせたシャツやスラックスが並んでいた。
ネクタイまで、雪也の趣味で選ばれたものだった。
食卓に行けば、湯気の立ち昇るコーヒー、自分の日常的な朝では滅多に口にしない、身体に良さそうな朝食が蓮を待っていた。
何もかもが“用意されていた”。
まるで、ずっと前からこうなることが決まっていたかのように。
同性という一点を除けば、他人から見て、是等全ては秘密の逢瀬を繰り返す恋人同士のように映ったかもしれない。
けれど蓮の胸には、ただ冷たい鈍痛だけが残っていた。
(……愛人、なんだろうか?)
それならそれでいい。
そんな二文字がよぎるたび、蓮は少しだけ心が楽になった。
これは恋でも愛でもない。ただ、身体だけの関係。
そう思えば、感情を殺す術を覚えられた気がした。
雪也は指輪をしておらず、結婚の気配はなかった。
いつかのある夜、行為の最中、ぽつりと漏らした。
「……男を抱くのは、君が初めてなんだ。でも、想像以上だったよ……」
蓮は穿たれながら、熱い息を吐いて黙って目を伏せた。
雪也の整った顔立ち、洗練された物腰、女性からの関心には事欠かない男だったはずだ。
(……どうして、俺なんかに)
雪也によって暴かれ、繋がされ、注がれて変えられてしまった身体。
それでもこの自分の身体は、雪也が求めるに値するものには到底思えなかった。
彼の理由の見えない執着。
その熱が、静かに、じわじわと自分の世界を侵食していく。
──ベッドの中。
息が落ち着く間もなく再び雪也に抱きしめられながら、蓮はとうとう口を開いた。
「……なんで……どうして……俺なんで、すか……」
震える声だった。
いつの日だったか、まだ彼と距離を戸惑いつつも近寄ろうとしていた日のことが過ぎる。
自分の問い掛けを真っ直ぐ掬い取り、やさしく微笑みかけてくれた顔。
淡くて、甘い。
まだ、彼の本性を知らなかったあの時に戻れたのなら──。
問いの裏には、哀しみと微かな期待、そして確かな恐れがあった。
雪也は動きを止めて、蓮を見下ろす。
その視線に熱はあったが、同時に底の知れない静けさもあった。
「……知りたい?」
「……はい」
静かに頷いた蓮に、雪也はふっと優しい笑みを浮かべた。
まるで恋人の甘い返事を受け取ったかのように。
「……以前話してくれたよね、僕の事が恐ろしいって……」
その直後に雪也に口を塞がれ、全ては始まってしまった。
思い出しながら蓮は息を呑む。
「僕もね、最初、君を見た時……怖かったんだ」
「……え?」
「僕は……臆病者なんだよ。誰かに見つかるのがとても怖いから、隠れてる。……でも、ある日、君に見つかっちゃった」
静かに囁くその声音は、あまりにも優しすぎて、むしろ寒気を覚えるほどだった。
その言葉と共に、再び雪也の身体が重なる。
優しさと相反するように硬く滾った彼のものが押し入ってくる感覚に蓮の身体の奥は漣のように震え出し、意識は白んでいく。
「ッ……!は、ッあ…… ッ」
「……だから、僕のものにしてしまおうと思ったんだ」
雪也の、ひとつひとつの動きが執拗で、奥を探るように深く、ゆっくりと、蓮の意識を侵すように繰り返されていく。
「君は……それを受け入れて、今、僕のものになってくれてる……すごく、嬉しいよ」
「……ッあ、あぁ……!やッ……も…、やだ……っ」
細く漏れた拒絶に、雪也は穏やかに答えた。
「“やだ”は……僕の前では、禁止だよ」
優しさの形をした、支配。
そう言って笑うその顔は穏やかで、けれど冷たい狂気を孕んでいた。
この男は、蓮の心ごと壊してゆく。静かに、確実に。
囁きは甘く、あやすように。
だがその実、それは“逃げられない檻”だった。
どんなに涙を流しても、声が震えても、雪也の腕は緩まなかった。
その夜も──蓮は何度も果てさせられ、奪われた。
得体の知れない恐怖を纏う男に抗えず、求められ抱かれ続けている。
その事実が、じわじわと心を蝕んでいった。
なのに──身体は。
身体だけは、雪也の熱に応えてしまうのだった。
声を殺し、涙を流しながら、それでも。
ただの装置のように快楽に反応してしまう自身の弱さが、何よりも苦しかった。
ある夜の歓楽街。
“蜻蛉通り”と呼ばれるその場所を、蓮はふらついていた。
つい先日、世間を賑わせた異常死事件が発生した現場でもある。
どこか刺々しい緊張感が街全体に漂い、交差点の隅や雑居ビルの前には警察官の姿がちらほらと目についた。
その日、会社を出た蓮は、無意識のうちに駅の改札とは逆方向へ足を向けていた。
帰宅ラッシュの波を横目に、人気の少ない裏道を歩く。向かう先は、自宅のアパートでも、雪也の待つ高層マンションでもなかった。
何処へも、帰りたくない。
それだけが、確かな本音だった。
携帯の電源も切ってしまっていた。
雪也からの着信があるかもしれないという予感すら煩わしかった。
どこかへ逃げてしまいたい。
ただ、それだけで夜の繁華街に紛れ込んだ。
ネオンが滲んで見える。
アルコールや香水、様々な音と光の交差する夜の街は、現実の輪郭をぼやかしてくれる。蓮はふわふわとする身体を引きずるように歩いた。
少しでも人波の中に溶けて、自分の輪郭ごと曖昧にしてしまいたかった。
(……このまま、消えてしまえたら……どんなに楽だろうか)
もう消えてしまった、心の奥底に浮かぶ、あの花。
繰り返し、重石のように自分を戒めてきた。
いっそ、自分も消えてしまえばよかったのに。
そんな自暴自棄な感情の言葉が湧いてくる。
自分が消えたら、雪也はどんな顔をするのだろう。
微笑んだまま、何もなかったように次の“駒”を手に入れるのかもしれない。
いや、きっと、そうするだろう。
むしろ、そうであってくれた方が──楽になれる。
そんな虚ろな思考に囚われながら歩いていたその時──
「オニーサン今ひとり?! 暇つぶしにどうッ?!」
何だか妙に暑苦しく、どこか作ったような声がけたたましく蓮の耳に響いた。顔を向けると、直ぐ傍にニヤリと笑うスーツ姿の男が立っている。
ひと目で、違和感を感じた。
夜なのに外さない金縁の濃いサングラス。軽く整えた顎髭。明らかにチャラついてそうな物腰に、意味もなく片手をポケットに突っ込んでいる仕草。鮮やかな紫と黒い蝶柄のネクタイ。
何やらホストのように見えるが、その艶っぽさも華やかさもない。かといってキャッチとも違うような。むしろ何者なのか分からない。だが一つだけはっきりしていた。
(──絶対関わってはいけない)
「いえ、急いでるんで」
雪也の時とは違う警戒心で身構える。
蓮はそっけなく答え、すぐに方向を変えようとした。だが男はすかさず歩幅を合わせ、横についた。
「まあまあまあ!!そんな冷たいこと言わずにさッ!? 君みたいな子、一人で歩いてると物騒だよ?この通り最近いろいろあるでしょ?ほら!こないだの事件とかさッ」
その言い草に、蓮の足がわずかに止まる。だが、今の蓮には大して響かなかった。
「なんならお茶しようよ!!安心できるとこ連れてくからさぁ!ネッ?お兄さんなら特別に優待しちゃうよ?」
「……ホストですか?」
「んー、どうだろ?ホストっていうか、もっとちゃんとしたとこだよ?大人のためのッ!サロンって感じィ?」
ますます意味が分からない。
蓮は一歩、後ずさる。
「すみません、本当に用があるので」
「えッ!?え、待って待って!怖がらせちゃったヤツ!?……ヤベー怒られるな……ごめんって!でも、これだけは──」
男の手が伸びた、その瞬間──
「やめてください!」
蓮は反射的に声を上げ、その場を切り抜ける。
男の手が空を切ったのが見えた。
何やらふざけた調子で大声で叫んでいたようだったが、蓮は振り返る事もせずにその場を走り抜けた。
(夜の街ってこんなのばっかりなのか……)
逃げるように脇道に逸れ、人通りの少ない裏路地へ足を踏み入れる。濡れたアスファルトの匂い。遠くから笑い声や音楽が微かに届くが、この辺りには誰もいない。冷たい風が吹き抜けて、蓮は肩をすくめた。
(……こんな所、来るんじゃなかったな)
そう思い、踵を返そうとした──その瞬間だった。
不意に腕を掴まれた。
「……おい」
「ッ!?」
身体が強く引かれた。
あっという間に近くの路地裏に引っ張られる。
そして闇の中、遠くのネオンの光でその相手の顔がようやく照らされると、蓮は自分の目を疑った。
「……桧山……?」
それは、確かに蓮のかつての同僚・桧山だった。だが、その姿は変わり果てていた。やつれきった頬、無精髭、伸び放題の髪。スーツは皺だらけで、目は焦点が合っていない。生気を失ったまなざしが、まっすぐ蓮に向いている。
「……ちょっと、いいか白木?……話がある」
そう言って、桧山はにやりと笑い、蓮の肩を掴んで、強制的に歩かせる。
「あっ──」
抵抗する間もなく路地裏の、更に奥へと連れていかれた。そこは街灯すら届かない、冷えた闇に沈んだ空間だった。
見捨てられた空間、廃工場のようだった。
(……こいつも“おかしい”。……だめだ、逃げなきゃ)
直感が警鐘を鳴らす。
蓮は立ち止まろうとしたが、桧山の力は妙に強く、拒めなかった。男はぶつぶつと独り言のような声で何かを呟いていた。誰かと話しているように、だが、蓮の耳には一言も意味が届かない。
「──見てたんだよ、ずっと。おまえのこと」
その声が、やけに耳にまとわりついた。蓮が立ち止まると、桧山はくるりと振り返り、不自然な笑みを浮かべた。
「さっきから面倒な奴がうろついてたが、お前が撒いてくれたからなぁ……やっと、あの女の所に連れて来れた……」
(女……?)
蓮が警戒を強める間にも、桧山の様子はさらに異常さを増していく。突如、ぶるぶると首を震わせ、唇の端を裂けるほどに歪めた。
「……なあ……!?もう限界なんだ……やめろ、やめてくれよォ……!」
悲鳴のような叫びと共に、桧山は蓮を押し倒した。硬直した身体が覆いかぶさり、冷たい腕が襲いかかってくる。
「──っ!!?」
埃と腐食した鉄の臭いが鼻をつく。廃工場の床に押し倒され、蓮は必死にもがいた。だが、桧山の力は異様に強く、狂気じみた熱がその腕から伝わってくる。
「ぁ、へッ……へへっ……お前、いい匂いしてんじゃねぇか、白木ぃ……」
唸るような声。唾液を垂らしながら、桧山は蓮の服を力任せに掴んだ。
「寄越せ……よこせよ……お前の肉と、血を……っはは……!」
耳元で囁かれる声は、もはや人のものではなかった。虚空を見つめるその目には、理性の影すら見当たらない。
「……は、離せっ!! いやだッ!!」
蓮は全身の力を振り絞って突き飛ばそうとしたが、桧山は笑いながら押し倒し続ける。
──その時。
金属を叩くような鋭い音と共に、地下の薄暗がりに、ヒールの音が響いた。
「──下がれ。お前はもういい」
女の声だった。
その瞬間、空気が変わった。湿った地下に、ほんのりと甘い香が混ざる。冷たく、それでいてどこか媚びたような香り。桧山の動きがぴたりと止まり、ぎぎ、と音を立てて首を巡らせた。
「白木 蓮──。“白木”の姓を持つあなたなら、今度はきっと、“上手く”いくはず」
その声に続いて現れた女の姿は、闇の中でもはっきりと輪郭を放っていた。艶やかな黒髪、濡れたような赤い唇。完璧な造形をもって立つその女は、息を呑むほど美しかった。
見覚えがあるような顔。だが、蓮には思い出せない。
女の命令を受けた桧山は、まるで糸が切れた人形のように、その場で完全に停止した。
「そこにいるのは、失敗作よ。前のも直ぐ駄目になってしまった……全く、どれもこれも……」
忌々しそうに虚空を見つめて、女は色っぽいため息を吐いてみせる。
けれどその奥にあるのは、冷ややかな支配の眼差しだった。
「……さあ、白木蓮。やっと……あなたに会えた」
女の声が、滑らかに蓮の耳へと侵入してくる。
気がつく間も無く、女は直ぐ傍まで来ていた。
危機が去った訳では無い。それよりもずっと悪い予感がする。
蓮の肌が、直感的にそれを察知し、凍りついた。
「……あなたは……魔女?」
自然に口が動いてしまった。女は一瞬の間を置いて、朗らかに笑った。
その笑い声の裏に、微かな怒りが含まれていた。
「……ふふっ、そうね。その通り、私は魔女よ。あなた達、普通の人間にはまやかしの代物でしかないけれど、こうして……私達は存在している」
ひどく哀愁を帯びた囁きに聞こえた。
そして、爪紅の塗られた冷たい指先が蓮の首筋に触れる。
「そして……私は生きる為にこうして使い魔を……得なければならない。そこにいる桧山のような人間の命を吸って生きていくしかないの」
蓮に寄り掛かるように女は触れてきた。さらさらと滑らかな髪が蓮の肌をくすぐる。
「……使い、魔って……?」
「あら……白木の、“白”の人間なのに知らないなんて……。よっぽど要らない子だったのかしら?」
要らない。
その言葉に蓮は訳もなく頭が熱くなった。
分かっているはずなのに直接言葉にされると堪らなかった。
「ッ知らない!…魔女も、使い魔も!俺には関係無い!」
「えぇ?あるわよ。あなた達、白の人間はね……魔女の為の道具なんだから」
激昂する蓮を気にも止めず、女は懐から何か取り出した。
きらり、と光る鋭い先端が女の白い肌に刺さり、見る間に爪紅のような赤が溢れ出す。
「ッな……!?」
「……まあ、使えなかったけど、桧山はあなたを見つけ出すのに役立ってくれた。それだけは感謝してるわ」
女の指先が血に濡れたまま、蓮の頬に触れる。気付けば、桧山は無言のまま、蓮の身体を後ろから羽交締めにしていた。
身動き一つ取れない状況に蓮は今更背筋が震えた。
「……ねぇ、白木蓮。あなたを見て、確信したの。あなたなら、ちゃんと“持つ”……」
氷のような指先。触れているはずなのに、体温がない。まるで、死者に撫でられているような──そんな錯覚すら覚えた。
甘く囁くその声は、恋人に語りかけるように優しい。
だが、蓮の背中には冷たい汗が伝っていた。
「……なに、を……?」
「血の契りよ。あなたと、私とで。もっと深く、結びつくための」
そう言いながら、女は自らの指先の血を、蓮の唇へ──その中へ押し込んだ。
何かぬるいものが舌の先に触れ、そこが燃えるような感覚に見舞われる。
だが、それは火ではなかった。もっと、根源的な「侵食」の始まり。
「っふぁ……ッ!!」
蓮が口を閉じ身体をねじって振り払おうとしても、桧山の拘束は解けることはなく、女の指先は蓮の口の中から出て行ってはくれない。
「暴れないで。痛くはしないわ。……それに、あなた、知ってる筈よ?」
女の目が笑っていた。
「使い魔……“魔女のために作られた道具”。それが、“白”の人間に課せられた使命なの」
脳裏に、どくんと鈍い痛みが走る。
かつての祖母や、親戚が頭を撫でながら言った言葉が蘇る。
──「蓮ちゃんは、“お役目”が来るのかね?」
──「“お役目”ねえ……おじい様もまだ呼ばれてないのに、どうだか……。その時までは、大事にしてあげないとねぇ……」
(……違うッ!……そんなの、知らない……!何で今更……!)
「あなたの中の“白”の血が……私の糧になってくれる。ねえ、感じるでしょう?……求めてるはずよ……私と繋がりましょう」
「……や、め……っ、ぁ、が……ッ!?」
蓮は無我夢中で顔を振り、女の指に歯を立てた。恐怖と混乱の中で、言葉にならない感情が喉を突き上げる。
「ッ!!じっとしてなさいよ……!」
その瞬間、女が蓮の首を締め上げた。
「……素直に、なりなさい。私のものになれば、痛い思いなんてしなくて済むのよ?」
咽ぶように息が詰まる。世界がぐにゃりと歪む。
(……このまま……もう)
意識が落ちる、その直前。
蓮の頭の中で、どこか懐かしい瞬間がよぎった。淡い光の中、ゆるやかに吹く風。流れる川の音。
男の穏やかな眼差しが過ぎる。
(…………何で、あの人が……。あの人に縋るなんて……俺は……)
遠くから、金属が弾けるような音が響いた。
次の瞬間、桧山の脳天が後ろへ弾かれたように勢いよく吹き飛ばされる。
同時に、拘束が解かれ、蓮は地面に倒れ込んだ。
蓮はそれから、定期的に雪也のマンションへ呼び出されるようになった。
ひと晩を共に過ごし、そのまま朝を迎えることも珍しくはなく、マンションから直接、出勤する日々が続いた。
「着替え、用意してあるよ」と告げられ、クローゼットにはいつの間にか蓮のサイズに合わせたシャツやスラックスが並んでいた。
ネクタイまで、雪也の趣味で選ばれたものだった。
食卓に行けば、湯気の立ち昇るコーヒー、自分の日常的な朝では滅多に口にしない、身体に良さそうな朝食が蓮を待っていた。
何もかもが“用意されていた”。
まるで、ずっと前からこうなることが決まっていたかのように。
同性という一点を除けば、他人から見て、是等全ては秘密の逢瀬を繰り返す恋人同士のように映ったかもしれない。
けれど蓮の胸には、ただ冷たい鈍痛だけが残っていた。
(……愛人、なんだろうか?)
それならそれでいい。
そんな二文字がよぎるたび、蓮は少しだけ心が楽になった。
これは恋でも愛でもない。ただ、身体だけの関係。
そう思えば、感情を殺す術を覚えられた気がした。
雪也は指輪をしておらず、結婚の気配はなかった。
いつかのある夜、行為の最中、ぽつりと漏らした。
「……男を抱くのは、君が初めてなんだ。でも、想像以上だったよ……」
蓮は穿たれながら、熱い息を吐いて黙って目を伏せた。
雪也の整った顔立ち、洗練された物腰、女性からの関心には事欠かない男だったはずだ。
(……どうして、俺なんかに)
雪也によって暴かれ、繋がされ、注がれて変えられてしまった身体。
それでもこの自分の身体は、雪也が求めるに値するものには到底思えなかった。
彼の理由の見えない執着。
その熱が、静かに、じわじわと自分の世界を侵食していく。
──ベッドの中。
息が落ち着く間もなく再び雪也に抱きしめられながら、蓮はとうとう口を開いた。
「……なんで……どうして……俺なんで、すか……」
震える声だった。
いつの日だったか、まだ彼と距離を戸惑いつつも近寄ろうとしていた日のことが過ぎる。
自分の問い掛けを真っ直ぐ掬い取り、やさしく微笑みかけてくれた顔。
淡くて、甘い。
まだ、彼の本性を知らなかったあの時に戻れたのなら──。
問いの裏には、哀しみと微かな期待、そして確かな恐れがあった。
雪也は動きを止めて、蓮を見下ろす。
その視線に熱はあったが、同時に底の知れない静けさもあった。
「……知りたい?」
「……はい」
静かに頷いた蓮に、雪也はふっと優しい笑みを浮かべた。
まるで恋人の甘い返事を受け取ったかのように。
「……以前話してくれたよね、僕の事が恐ろしいって……」
その直後に雪也に口を塞がれ、全ては始まってしまった。
思い出しながら蓮は息を呑む。
「僕もね、最初、君を見た時……怖かったんだ」
「……え?」
「僕は……臆病者なんだよ。誰かに見つかるのがとても怖いから、隠れてる。……でも、ある日、君に見つかっちゃった」
静かに囁くその声音は、あまりにも優しすぎて、むしろ寒気を覚えるほどだった。
その言葉と共に、再び雪也の身体が重なる。
優しさと相反するように硬く滾った彼のものが押し入ってくる感覚に蓮の身体の奥は漣のように震え出し、意識は白んでいく。
「ッ……!は、ッあ…… ッ」
「……だから、僕のものにしてしまおうと思ったんだ」
雪也の、ひとつひとつの動きが執拗で、奥を探るように深く、ゆっくりと、蓮の意識を侵すように繰り返されていく。
「君は……それを受け入れて、今、僕のものになってくれてる……すごく、嬉しいよ」
「……ッあ、あぁ……!やッ……も…、やだ……っ」
細く漏れた拒絶に、雪也は穏やかに答えた。
「“やだ”は……僕の前では、禁止だよ」
優しさの形をした、支配。
そう言って笑うその顔は穏やかで、けれど冷たい狂気を孕んでいた。
この男は、蓮の心ごと壊してゆく。静かに、確実に。
囁きは甘く、あやすように。
だがその実、それは“逃げられない檻”だった。
どんなに涙を流しても、声が震えても、雪也の腕は緩まなかった。
その夜も──蓮は何度も果てさせられ、奪われた。
得体の知れない恐怖を纏う男に抗えず、求められ抱かれ続けている。
その事実が、じわじわと心を蝕んでいった。
なのに──身体は。
身体だけは、雪也の熱に応えてしまうのだった。
声を殺し、涙を流しながら、それでも。
ただの装置のように快楽に反応してしまう自身の弱さが、何よりも苦しかった。
ある夜の歓楽街。
“蜻蛉通り”と呼ばれるその場所を、蓮はふらついていた。
つい先日、世間を賑わせた異常死事件が発生した現場でもある。
どこか刺々しい緊張感が街全体に漂い、交差点の隅や雑居ビルの前には警察官の姿がちらほらと目についた。
その日、会社を出た蓮は、無意識のうちに駅の改札とは逆方向へ足を向けていた。
帰宅ラッシュの波を横目に、人気の少ない裏道を歩く。向かう先は、自宅のアパートでも、雪也の待つ高層マンションでもなかった。
何処へも、帰りたくない。
それだけが、確かな本音だった。
携帯の電源も切ってしまっていた。
雪也からの着信があるかもしれないという予感すら煩わしかった。
どこかへ逃げてしまいたい。
ただ、それだけで夜の繁華街に紛れ込んだ。
ネオンが滲んで見える。
アルコールや香水、様々な音と光の交差する夜の街は、現実の輪郭をぼやかしてくれる。蓮はふわふわとする身体を引きずるように歩いた。
少しでも人波の中に溶けて、自分の輪郭ごと曖昧にしてしまいたかった。
(……このまま、消えてしまえたら……どんなに楽だろうか)
もう消えてしまった、心の奥底に浮かぶ、あの花。
繰り返し、重石のように自分を戒めてきた。
いっそ、自分も消えてしまえばよかったのに。
そんな自暴自棄な感情の言葉が湧いてくる。
自分が消えたら、雪也はどんな顔をするのだろう。
微笑んだまま、何もなかったように次の“駒”を手に入れるのかもしれない。
いや、きっと、そうするだろう。
むしろ、そうであってくれた方が──楽になれる。
そんな虚ろな思考に囚われながら歩いていたその時──
「オニーサン今ひとり?! 暇つぶしにどうッ?!」
何だか妙に暑苦しく、どこか作ったような声がけたたましく蓮の耳に響いた。顔を向けると、直ぐ傍にニヤリと笑うスーツ姿の男が立っている。
ひと目で、違和感を感じた。
夜なのに外さない金縁の濃いサングラス。軽く整えた顎髭。明らかにチャラついてそうな物腰に、意味もなく片手をポケットに突っ込んでいる仕草。鮮やかな紫と黒い蝶柄のネクタイ。
何やらホストのように見えるが、その艶っぽさも華やかさもない。かといってキャッチとも違うような。むしろ何者なのか分からない。だが一つだけはっきりしていた。
(──絶対関わってはいけない)
「いえ、急いでるんで」
雪也の時とは違う警戒心で身構える。
蓮はそっけなく答え、すぐに方向を変えようとした。だが男はすかさず歩幅を合わせ、横についた。
「まあまあまあ!!そんな冷たいこと言わずにさッ!? 君みたいな子、一人で歩いてると物騒だよ?この通り最近いろいろあるでしょ?ほら!こないだの事件とかさッ」
その言い草に、蓮の足がわずかに止まる。だが、今の蓮には大して響かなかった。
「なんならお茶しようよ!!安心できるとこ連れてくからさぁ!ネッ?お兄さんなら特別に優待しちゃうよ?」
「……ホストですか?」
「んー、どうだろ?ホストっていうか、もっとちゃんとしたとこだよ?大人のためのッ!サロンって感じィ?」
ますます意味が分からない。
蓮は一歩、後ずさる。
「すみません、本当に用があるので」
「えッ!?え、待って待って!怖がらせちゃったヤツ!?……ヤベー怒られるな……ごめんって!でも、これだけは──」
男の手が伸びた、その瞬間──
「やめてください!」
蓮は反射的に声を上げ、その場を切り抜ける。
男の手が空を切ったのが見えた。
何やらふざけた調子で大声で叫んでいたようだったが、蓮は振り返る事もせずにその場を走り抜けた。
(夜の街ってこんなのばっかりなのか……)
逃げるように脇道に逸れ、人通りの少ない裏路地へ足を踏み入れる。濡れたアスファルトの匂い。遠くから笑い声や音楽が微かに届くが、この辺りには誰もいない。冷たい風が吹き抜けて、蓮は肩をすくめた。
(……こんな所、来るんじゃなかったな)
そう思い、踵を返そうとした──その瞬間だった。
不意に腕を掴まれた。
「……おい」
「ッ!?」
身体が強く引かれた。
あっという間に近くの路地裏に引っ張られる。
そして闇の中、遠くのネオンの光でその相手の顔がようやく照らされると、蓮は自分の目を疑った。
「……桧山……?」
それは、確かに蓮のかつての同僚・桧山だった。だが、その姿は変わり果てていた。やつれきった頬、無精髭、伸び放題の髪。スーツは皺だらけで、目は焦点が合っていない。生気を失ったまなざしが、まっすぐ蓮に向いている。
「……ちょっと、いいか白木?……話がある」
そう言って、桧山はにやりと笑い、蓮の肩を掴んで、強制的に歩かせる。
「あっ──」
抵抗する間もなく路地裏の、更に奥へと連れていかれた。そこは街灯すら届かない、冷えた闇に沈んだ空間だった。
見捨てられた空間、廃工場のようだった。
(……こいつも“おかしい”。……だめだ、逃げなきゃ)
直感が警鐘を鳴らす。
蓮は立ち止まろうとしたが、桧山の力は妙に強く、拒めなかった。男はぶつぶつと独り言のような声で何かを呟いていた。誰かと話しているように、だが、蓮の耳には一言も意味が届かない。
「──見てたんだよ、ずっと。おまえのこと」
その声が、やけに耳にまとわりついた。蓮が立ち止まると、桧山はくるりと振り返り、不自然な笑みを浮かべた。
「さっきから面倒な奴がうろついてたが、お前が撒いてくれたからなぁ……やっと、あの女の所に連れて来れた……」
(女……?)
蓮が警戒を強める間にも、桧山の様子はさらに異常さを増していく。突如、ぶるぶると首を震わせ、唇の端を裂けるほどに歪めた。
「……なあ……!?もう限界なんだ……やめろ、やめてくれよォ……!」
悲鳴のような叫びと共に、桧山は蓮を押し倒した。硬直した身体が覆いかぶさり、冷たい腕が襲いかかってくる。
「──っ!!?」
埃と腐食した鉄の臭いが鼻をつく。廃工場の床に押し倒され、蓮は必死にもがいた。だが、桧山の力は異様に強く、狂気じみた熱がその腕から伝わってくる。
「ぁ、へッ……へへっ……お前、いい匂いしてんじゃねぇか、白木ぃ……」
唸るような声。唾液を垂らしながら、桧山は蓮の服を力任せに掴んだ。
「寄越せ……よこせよ……お前の肉と、血を……っはは……!」
耳元で囁かれる声は、もはや人のものではなかった。虚空を見つめるその目には、理性の影すら見当たらない。
「……は、離せっ!! いやだッ!!」
蓮は全身の力を振り絞って突き飛ばそうとしたが、桧山は笑いながら押し倒し続ける。
──その時。
金属を叩くような鋭い音と共に、地下の薄暗がりに、ヒールの音が響いた。
「──下がれ。お前はもういい」
女の声だった。
その瞬間、空気が変わった。湿った地下に、ほんのりと甘い香が混ざる。冷たく、それでいてどこか媚びたような香り。桧山の動きがぴたりと止まり、ぎぎ、と音を立てて首を巡らせた。
「白木 蓮──。“白木”の姓を持つあなたなら、今度はきっと、“上手く”いくはず」
その声に続いて現れた女の姿は、闇の中でもはっきりと輪郭を放っていた。艶やかな黒髪、濡れたような赤い唇。完璧な造形をもって立つその女は、息を呑むほど美しかった。
見覚えがあるような顔。だが、蓮には思い出せない。
女の命令を受けた桧山は、まるで糸が切れた人形のように、その場で完全に停止した。
「そこにいるのは、失敗作よ。前のも直ぐ駄目になってしまった……全く、どれもこれも……」
忌々しそうに虚空を見つめて、女は色っぽいため息を吐いてみせる。
けれどその奥にあるのは、冷ややかな支配の眼差しだった。
「……さあ、白木蓮。やっと……あなたに会えた」
女の声が、滑らかに蓮の耳へと侵入してくる。
気がつく間も無く、女は直ぐ傍まで来ていた。
危機が去った訳では無い。それよりもずっと悪い予感がする。
蓮の肌が、直感的にそれを察知し、凍りついた。
「……あなたは……魔女?」
自然に口が動いてしまった。女は一瞬の間を置いて、朗らかに笑った。
その笑い声の裏に、微かな怒りが含まれていた。
「……ふふっ、そうね。その通り、私は魔女よ。あなた達、普通の人間にはまやかしの代物でしかないけれど、こうして……私達は存在している」
ひどく哀愁を帯びた囁きに聞こえた。
そして、爪紅の塗られた冷たい指先が蓮の首筋に触れる。
「そして……私は生きる為にこうして使い魔を……得なければならない。そこにいる桧山のような人間の命を吸って生きていくしかないの」
蓮に寄り掛かるように女は触れてきた。さらさらと滑らかな髪が蓮の肌をくすぐる。
「……使い、魔って……?」
「あら……白木の、“白”の人間なのに知らないなんて……。よっぽど要らない子だったのかしら?」
要らない。
その言葉に蓮は訳もなく頭が熱くなった。
分かっているはずなのに直接言葉にされると堪らなかった。
「ッ知らない!…魔女も、使い魔も!俺には関係無い!」
「えぇ?あるわよ。あなた達、白の人間はね……魔女の為の道具なんだから」
激昂する蓮を気にも止めず、女は懐から何か取り出した。
きらり、と光る鋭い先端が女の白い肌に刺さり、見る間に爪紅のような赤が溢れ出す。
「ッな……!?」
「……まあ、使えなかったけど、桧山はあなたを見つけ出すのに役立ってくれた。それだけは感謝してるわ」
女の指先が血に濡れたまま、蓮の頬に触れる。気付けば、桧山は無言のまま、蓮の身体を後ろから羽交締めにしていた。
身動き一つ取れない状況に蓮は今更背筋が震えた。
「……ねぇ、白木蓮。あなたを見て、確信したの。あなたなら、ちゃんと“持つ”……」
氷のような指先。触れているはずなのに、体温がない。まるで、死者に撫でられているような──そんな錯覚すら覚えた。
甘く囁くその声は、恋人に語りかけるように優しい。
だが、蓮の背中には冷たい汗が伝っていた。
「……なに、を……?」
「血の契りよ。あなたと、私とで。もっと深く、結びつくための」
そう言いながら、女は自らの指先の血を、蓮の唇へ──その中へ押し込んだ。
何かぬるいものが舌の先に触れ、そこが燃えるような感覚に見舞われる。
だが、それは火ではなかった。もっと、根源的な「侵食」の始まり。
「っふぁ……ッ!!」
蓮が口を閉じ身体をねじって振り払おうとしても、桧山の拘束は解けることはなく、女の指先は蓮の口の中から出て行ってはくれない。
「暴れないで。痛くはしないわ。……それに、あなた、知ってる筈よ?」
女の目が笑っていた。
「使い魔……“魔女のために作られた道具”。それが、“白”の人間に課せられた使命なの」
脳裏に、どくんと鈍い痛みが走る。
かつての祖母や、親戚が頭を撫でながら言った言葉が蘇る。
──「蓮ちゃんは、“お役目”が来るのかね?」
──「“お役目”ねえ……おじい様もまだ呼ばれてないのに、どうだか……。その時までは、大事にしてあげないとねぇ……」
(……違うッ!……そんなの、知らない……!何で今更……!)
「あなたの中の“白”の血が……私の糧になってくれる。ねえ、感じるでしょう?……求めてるはずよ……私と繋がりましょう」
「……や、め……っ、ぁ、が……ッ!?」
蓮は無我夢中で顔を振り、女の指に歯を立てた。恐怖と混乱の中で、言葉にならない感情が喉を突き上げる。
「ッ!!じっとしてなさいよ……!」
その瞬間、女が蓮の首を締め上げた。
「……素直に、なりなさい。私のものになれば、痛い思いなんてしなくて済むのよ?」
咽ぶように息が詰まる。世界がぐにゃりと歪む。
(……このまま……もう)
意識が落ちる、その直前。
蓮の頭の中で、どこか懐かしい瞬間がよぎった。淡い光の中、ゆるやかに吹く風。流れる川の音。
男の穏やかな眼差しが過ぎる。
(…………何で、あの人が……。あの人に縋るなんて……俺は……)
遠くから、金属が弾けるような音が響いた。
次の瞬間、桧山の脳天が後ろへ弾かれたように勢いよく吹き飛ばされる。
同時に、拘束が解かれ、蓮は地面に倒れ込んだ。
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