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magnolia
magnolia Ⅴ
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magnolia Ⅴ
朝の柔らかな光が、高層階にある部屋を静かに満たしていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い陽が、白いシーツにうっすらと影を描く。
蓮は、その中にいた。
横たわったまま、目だけをぼんやりと開いていた。
身体の奥に、昨日の出来事が残っている。
感触は生々しく、記憶はぼやけている。
何度も貫かれ、何度も果てた。
でも、どの瞬間を思い出そうとしても、霞の中に手を伸ばすように曖昧だった。
ただ──
雪也の体温。
雪也の声。
雪也の目。
それだけは、どうしてか鮮明に覚えていた。
(……俺の、身体……いつもの、だ。良かった)
喉の奥で、名残のような吐息が漏れたが、あの異常な反応はもう跡形もない。
腕を動かそうとすると、鈍い痛みが下腹部をじんわりと突いてきた。
「ッ……!!」
シーツの上には、きちんと畳まれた着替え。
コーヒーの香りが、どこかからふんわりと漂ってくる。
「おはよう、蓮。起きられたんだね」
優しい声が降ってくる。
普段着だとしても、やはり整っている姿の雪也が、微笑みながら蓮の方へカップを差し出していた。
「少し冷めちゃったけど……飲めるかな?」
蓮は受け取るでも拒むでもなく、ただ頷いた。
重たい腕を持ち上げてカップを受け取ると、ほとんど意識のないまま一口だけ含む。
苦くて、熱かった。
「……、りがとう、…ござい、ます……」
自分の声の掠れ具合に蓮は思わずぎょっとする。
それを気にすること無く雪也は相変わらず穏やかな表情だった。
「今日は久しぶりに一日オフだから、ゆっくりできるんだ。君も……そうだといいけど」
雪也の手が蓮の、少しはねた前髪をそっと掬った。その手から反射的に逃れようとしてしまう。
(ッ……何してるんだ、俺……)
自分の態度に困った表情で雪也は笑ったが、何も言ってこなかった。
雪也は優しかった。
ベッドサイドの水も用意されていたし、蓮の髪は丁寧に拭かれていた。
ひどく優しい仕草。まるで恋人のような、そんな世話の焼き方。
(……俺は、あの時……本当にどうして)
何をされたのか。
何度堕ちたのか。
どうしてまた、名前を呼んでしまったのか──
思い出そうとすればするほど、蓮の胸の奥にある何かが軋んだ。
雪也の優しさが、柔らかく、冷たい鎖のようにまとわりついて、離れない。
(……このまま、もう、俺は……)
考えることさえ疲れてしまって、蓮はゆっくりと目を伏せた。
腕の中にコーヒーカップだけが残り、指先の震えに気づかぬふりをしていた。
数週間後の昼下がり。
いつもよりやけに足取り軽く、企画部のオフィスに部長が入ってきた。
わざとらしく声を潜めながらも、誰かに言いたくてたまらないといった表情で、蓮のデスクへと歩み寄る。
「白木くん、ちょっと応接に」
顔を上げると、部長の頬はゆるく緩んでいた。
同僚たちもその様子に気付き、「え、なんかあった?」「白木、なにかやった?」と興味津々に目を向けてくる。
促されるまま応接ブースに入ると、部長はひそめるつもりもない大きな声で、嬉々として話し出した。
「真神さんだよ。あのMISの──君も覚えてるだろう?」
その名前に、蓮の指先がわずかに震える。
「前回のプロジェクトでうちを採用してくれただろう? あれがね、長期契約に発展することになったんだ。今朝届いたばかりで、まだ社内でも正式には出回ってないけどね」
「……それって」
「それって、そういうことだよ」
部長は声を潜めて、だがなおも嬉しそうに目を細める。
「監査役の一人が、その真神さんなんだ。しかも君に直接推薦があったらしい。MISからの評価も非常に高くてね。君の功績として、うちの上層部にもすぐに伝わったよ。凄いじゃないか、白木くん。君は部の誇りだ!」
(……え?)
一瞬、意味がわからなかった。
聞き間違いであってほしいと願った。けれど──
「大手と太いパイプを築いた若手なんて、そうそういない。君が繋いだこの縁は、会社にとっての財産だよ」
「……俺は、そんな……」
笑わなければ。
そう思ったのに、唇は引きつり、頬はひくついて、上手く作れなかった。
応接から戻ると、オフィスの空気が変わっていた。上司や同僚が、「今度飲みに行こうぜ」「うちのスターだな」と笑いながら肩を叩いてくる。
──違う。
何かが違う。
これは全部、俺が望んだことじゃない。
胸の奥がじくじくと痛んだ。
以前と違う、誇らしくも何ともなかった。
自分の後ろにそうっと立ち、自分の人生を握ってくる一人の男の姿が脳裏に浮かぶ。
そんなときだった。
ポケットの中で、携帯が震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、血の気が引いた。
──「真神 雪也」
誰にも見られないように、蓮は静かに廊下へ出て通話ボタンを押す。
すぐに、あの落ち着いた声が耳に流れ込んだ。
──「……やあ、蓮』
「……どうして……」
声が震えるのを、必死で抑え込む。
──「どうして? ……ふふ、そう言うと思ってた」
雪也は笑っていた。あの、やさしい声で。
──「君と過ごす時間を、もっと増やしたかった。それだけだよ」
「ッ!!そんなの──」
答えになっていない。
穏やかに、ただ、はぐらかすだけ。
「いけなかった?」
わざとらしくしおらしい声音が、電話越しに響く。
怒りも、否定も、ひとつ残らず押し流されていく。
──「君のそばにいたかったんだ。仕事っていう形で、そうさせてもらったのは申し訳ないけれど……君にとっては、その方が安心できるでしょ?』
(仕事?安心?何を言って……)
──「蓮、僕から離れないでね。……早く、君に会いたい」
ぞくりと、背筋が冷える。
言葉が、出ない。
──「じゃあ、またね。連絡するよ」
通話が切れた。
蓮は立ち尽くしたまま、震える手で携帯の画面を見下ろす。
蓮は数日中に辞表を出すつもりだった。
会社を辞めて、この街を離れ、雪也の届かないところへ逃げるつもりだった。
それが今をやり過ごす為の唯一の希望だった。
──そのすべてを、彼は一言で封じた。
あの笑顔で。
あの声で。
まるで、「当然の権利」のように。
優しく、丁寧に──すべての逃げ道を潰していくのだ。
「引っ越してきたばかりで、まだ慣れてないんだけど……頑張ってみたんだ」
キッチンから覗く雪也が、柔らかく笑う。
エプロン姿の彼の手元からは、香ばしく焼き上げられた鴨のローストやポタージュ、艶やかな前菜たちが次々と皿に盛られていく。料理の温度も、盛り付けも、完璧だった。
食卓は、まるでドラマのワンシーンのように整っていた。
暗めの照明が木目のテーブルに穏やかな陰影を落とす。
ワイングラスには軽く冷えた白が注がれ、リビングのスピーカーからはピアノの静かな旋律が流れていた。
「口に合うといいけど……どうかな?」
蓮は小さく首を縦に振った。
確かに美味しかった。
けれど、それが正しいのかすらも、今の自分にはよく分からなかった。
恐らくは完璧なのだろう。食器の配置も、温度も、演出も。
全てが“人をもてなす”ために最適化された空間だった。
まるで、彼の愛もそうであるかのように。
だが、その完璧さに包まれれば包まれるほど、蓮は自分がそこに存在しないものに思えた。まるで、用意された舞台に勝手に配役を当てられた人形のような。
「……美味しい、です」
ようやく出した声は、ぎこちなく、掠れていた。
雪也は笑って頷いた。
「よかった。君に食べてもらいたかったから……そう言ってもらえて嬉しいよ」
その目は優しい。声も穏やか。
けれど、どこか底が見えなかった。
U市の中心部から少しだけ外れた再開発エリア。その高台にそびえるタワーマンション。
雪也が最近そこに越してきたのは、つい先週、部長から雪也の転属を聞かされた日から程なくの事だった。
MIS本社ビルから車で十分足らず。
遠すぎず、近すぎず。絶妙な“管理の距離”だ。
業務に支障はなく、しかし蓮の生活圏には確実に食い込んでくる。
「夜景が綺麗なんだ。君にも見せたいと思ってさ」
此処へ蓮を招く際、雪也はそう気軽に話した。
見せたい。過ごしたい。傍にいたい。
そんな言葉を、まるでプレゼントのように差し出してくる。
それは、拒絶を想定していない、最初から“受け入れるのが当然”とでも言いたげな声音だった。
実際、マンション上層階からの夜景は自分が住み慣れた街とは思えないほど美しかった。
南東向きのガラス張りのリビングは、まるで都市の灯りを抱くように設計されていた。
しかし、その夜景を目にしても、蓮の心はひとつも動かなかった。
(……何だか、孤独な場所……)
外から見れば、完璧で高級な空間。
だがその実、静かすぎる塔のような場所だった。
プライバシーが過剰に保たれ、顔認証とカードキーで守られたエレベーター。
廊下で誰かに出会うことすらほとんどない。
誰にも見られずに、誰にも邪魔されずに、欲しいものだけを手に入れて、手に入れたものを、壊れないように密室で育て続ける。
雪也がなぜこの場所を選んだのか。
理由など、聞くまでもない。
「通勤も便利だし、君が来やすい距離っていうのも大事だからね」
そう、悪びれもせず笑った彼の声が、今も頭の奥にこびりついていた。
(来やすい、なんて……それは──)
裏を返せば“帰れなくてもいい”という事なんだろう。
蓮は唇を噛み、黙って夜景を見下ろした。
食後、ソファで一息つく間もなく、蓮は雪也に抱き寄せられた。
「……今度は、僕も食べさせてくれる?」
押し倒される瞬間に抗う意志は、もはや形にもならなかった。
甘く、深く、肌を這う手。
雪也の唇は耳元で囁く。
「いいよ……僕が、全部してあげるから」
逃げられない。
そう分かっていても、今さら叫ぶ声すら残っていなかった。
ただ、目を閉じた。
口を貪られれば、スイッチが入れられたかのように疼き出す身体。
熱をもって訴えるそれが、雪也の動きに合わせて波打ち始める。
もはや、自分の身体ではないのだと、蓮は然程戸惑わなくなっていた。
雪也が触れれば、欲しくなる。
身体が熱を上げ、彼のものを待ち焦がれるように疼いてしまう。
(……もう、こうしていれば、終わるから)
朧げな薄明かりの中、ダークグレーのベッドに沈められる。
やがて互いに裸になり、うつ伏せにされたまま、後ろから抱え込まれるように繋がる。
深く、奥をなぞるように打ち込まれるたび、蓮の背筋が震えた。
「……っ!、あ、ぅ……っあ、ぁ、や、ぁ……」
背中を撫でる手が優しすぎて、言葉にならない声がこぼれる。
膝をつきながら受け入れるこの姿勢に羞恥すら捨てて蓮は溺れた。
打ちつけられるたび、ただ、身体は震えて──悦びに似た白い靄のような痺れが広がっていく。
「蓮……かわいいよ。君の全部が、欲しいんだ」
雪也の声は甘やかで、どこまでも優しい。
だが、その“欲しい”の下には、喉元をかすかに締めつけるような、静かな支配があった。
その声を聞くだけで、背中をぞくりと悪寒が這う。
(……こんなの……おかしい、のに)
それでも、享受するしかできない身体。
あの、花が壊れてしまった日から。
「……ッ……ッう、……ぅ」
涙が、気づかぬうちに蓮の頬を伝っていた。
ただぽろぽろと。
その様子に気づいたのか、雪也はふと動きを止め、ゆっくりと身体を起こした。
蓮の肩を抱き起こしながら、前からその顔を覗き込む。
「蓮……?」
目を逸らしたかったのに、逃がしてくれない。
唇が寄せられ、額にそっと触れるようなキスが落とされた。
「……泣かなくていい。怖いことなんて、何もないんだよ。君の身体はそういうものなんだから」
その囁きに、蓮は小さく息を震わせた。
それすら優しすぎて、ひどく苦しい。
甘い声の中に、逃げ場を奪うための罠が潜んでいる。
心を包むのではなく、閉じ込めるためのもの。
涙に濡れた頬を、雪也の指が拭った。
「……僕を、僕だけを欲しがってくれる、その為の身体なんだよ」
ちがう──そう言いたくても、言えない。
唇は震えて、言葉にならなかった。
気づけば、雪也がゆっくりと蓮の身体を押し倒していた。
今度は正面から──視線を絡ませたまま、深く沈み込んでくる。
自分の奥がまた、雪也を迎え入れるように、ゆるやかに開いていくのが分かった。
「……!?ッあ……っ……や……」
背中を撫でる手が、腰へ、太腿へ、丁寧に包むように触れてくる。
逃げられない体勢。
目も、肌も、すべてを見られたまま繋がる。
「……いい子だ、蓮。……大丈夫、全部、僕に委ねて」
「ッ!ん、ぁっ……!!」
囁きながら、雪也の腰がゆっくりと動き始める。
ゆるやかに──けれど、確実に深く突き上げられるたび、自分の中の“空白”が、熱で埋め尽くされていく。
一度満たされたはずの奥に、再び熱が流れ込んでくる感覚に、蓮の身体は震えた。
「っ……あ、……ぁ……っ……!!」
焼けるような密着感。
全身が熱に浮かされているようで、指先の感覚すら曖昧になる。
雪也の視線が、絡め取るように蓮を見つめた。
「……すごく、いい顔してる。ねえ、蓮……僕を、どんなふうに感じてる?」
「い……っ、や……っ、い、言わ……ない……っ……!」
羞恥も、怒りも、かすかに残っていたはずのプライドも。
全て、肌を重ねるたびに削がれていく。
「ね、教えてよ?……ここ、どんなふうに僕を欲しがってるか」
その言葉が、まるで命令のように吹き込まれた瞬間、雪也の腰が深く沈み込み、奥の奥にまで突き上げられた。
「っ──や……っああ、あッ……!」
頭の奥がぐらぐらと揺れる。
もう、拒めない。
雪也が蓮のなかで動くたび、内側から熱がこみ上げ、身体の奥が疼いてしまう。
「……蓮……ほら、もっと素直になって?僕のこと、もっと、欲しがって?」
「……ッ、い、や……嫌、ぁ……っ……」
「ふふ……そう。じゃあ、もっと深く……気持ちよくしてあげる」
雪也の言葉が甘く響き、深く突き上げる衝動が、蓮の芯をえぐる。
奥を擦られるたび、快感の火花が脳裏を走り、理性が焼かれていく。
「んっ──あ、や、やあっ…!!もう……むり……っ……っ、あぁっ……!!」
「無理じゃないよ、蓮。……ほら、ここ……こんなに、僕を、締めつけてくる」
内側を、雪也の熱が暴いていく。
突かれるたびに、溶けかけた蓮の意識が白く弾け、
自分のものではないような快楽の声が喉から漏れた。
「ん……っ、やっ……だ、だめ、……しらな、いっ……」
「大丈夫……見てごらん。こんなに……僕ら、溶けあってるよ」
視線を落とせば、雪也と繋がる場所が泡立つようにぐちゃぐちゃに濡れて、濃密な音を立てていた。
自分のなかが、雪也を受け入れるように脈打っている。
──嬉しそうに、奥が求めてしまっている。
(……いや、だ……もう、これ以上は……)
けれど。
雪也の唇が、蓮の額から頬、顎、喉元へと降りてくる。
愛おしむように、丁寧に、逃げられないように。
そして──
「蓮、もう一度、一緒に──堕ちよう?」
その囁きの直後、雪也の熱が一層激しく押し込まれた。
「──っ、ぁ……あ、ああ……ッッ!!」
凄まじく全身を貫く快楽の波。
爪先まで震え、背筋が弓なりに反る。
視界がちかちかと白く明滅し、名前も、自分の意思も、何もかもが熱の中に溶けていく。
「……あぁ……蓮、僕だけの、僕だけの君だよ…。誰にも渡さない」
朝の柔らかな光が、高層階にある部屋を静かに満たしていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い陽が、白いシーツにうっすらと影を描く。
蓮は、その中にいた。
横たわったまま、目だけをぼんやりと開いていた。
身体の奥に、昨日の出来事が残っている。
感触は生々しく、記憶はぼやけている。
何度も貫かれ、何度も果てた。
でも、どの瞬間を思い出そうとしても、霞の中に手を伸ばすように曖昧だった。
ただ──
雪也の体温。
雪也の声。
雪也の目。
それだけは、どうしてか鮮明に覚えていた。
(……俺の、身体……いつもの、だ。良かった)
喉の奥で、名残のような吐息が漏れたが、あの異常な反応はもう跡形もない。
腕を動かそうとすると、鈍い痛みが下腹部をじんわりと突いてきた。
「ッ……!!」
シーツの上には、きちんと畳まれた着替え。
コーヒーの香りが、どこかからふんわりと漂ってくる。
「おはよう、蓮。起きられたんだね」
優しい声が降ってくる。
普段着だとしても、やはり整っている姿の雪也が、微笑みながら蓮の方へカップを差し出していた。
「少し冷めちゃったけど……飲めるかな?」
蓮は受け取るでも拒むでもなく、ただ頷いた。
重たい腕を持ち上げてカップを受け取ると、ほとんど意識のないまま一口だけ含む。
苦くて、熱かった。
「……、りがとう、…ござい、ます……」
自分の声の掠れ具合に蓮は思わずぎょっとする。
それを気にすること無く雪也は相変わらず穏やかな表情だった。
「今日は久しぶりに一日オフだから、ゆっくりできるんだ。君も……そうだといいけど」
雪也の手が蓮の、少しはねた前髪をそっと掬った。その手から反射的に逃れようとしてしまう。
(ッ……何してるんだ、俺……)
自分の態度に困った表情で雪也は笑ったが、何も言ってこなかった。
雪也は優しかった。
ベッドサイドの水も用意されていたし、蓮の髪は丁寧に拭かれていた。
ひどく優しい仕草。まるで恋人のような、そんな世話の焼き方。
(……俺は、あの時……本当にどうして)
何をされたのか。
何度堕ちたのか。
どうしてまた、名前を呼んでしまったのか──
思い出そうとすればするほど、蓮の胸の奥にある何かが軋んだ。
雪也の優しさが、柔らかく、冷たい鎖のようにまとわりついて、離れない。
(……このまま、もう、俺は……)
考えることさえ疲れてしまって、蓮はゆっくりと目を伏せた。
腕の中にコーヒーカップだけが残り、指先の震えに気づかぬふりをしていた。
数週間後の昼下がり。
いつもよりやけに足取り軽く、企画部のオフィスに部長が入ってきた。
わざとらしく声を潜めながらも、誰かに言いたくてたまらないといった表情で、蓮のデスクへと歩み寄る。
「白木くん、ちょっと応接に」
顔を上げると、部長の頬はゆるく緩んでいた。
同僚たちもその様子に気付き、「え、なんかあった?」「白木、なにかやった?」と興味津々に目を向けてくる。
促されるまま応接ブースに入ると、部長はひそめるつもりもない大きな声で、嬉々として話し出した。
「真神さんだよ。あのMISの──君も覚えてるだろう?」
その名前に、蓮の指先がわずかに震える。
「前回のプロジェクトでうちを採用してくれただろう? あれがね、長期契約に発展することになったんだ。今朝届いたばかりで、まだ社内でも正式には出回ってないけどね」
「……それって」
「それって、そういうことだよ」
部長は声を潜めて、だがなおも嬉しそうに目を細める。
「監査役の一人が、その真神さんなんだ。しかも君に直接推薦があったらしい。MISからの評価も非常に高くてね。君の功績として、うちの上層部にもすぐに伝わったよ。凄いじゃないか、白木くん。君は部の誇りだ!」
(……え?)
一瞬、意味がわからなかった。
聞き間違いであってほしいと願った。けれど──
「大手と太いパイプを築いた若手なんて、そうそういない。君が繋いだこの縁は、会社にとっての財産だよ」
「……俺は、そんな……」
笑わなければ。
そう思ったのに、唇は引きつり、頬はひくついて、上手く作れなかった。
応接から戻ると、オフィスの空気が変わっていた。上司や同僚が、「今度飲みに行こうぜ」「うちのスターだな」と笑いながら肩を叩いてくる。
──違う。
何かが違う。
これは全部、俺が望んだことじゃない。
胸の奥がじくじくと痛んだ。
以前と違う、誇らしくも何ともなかった。
自分の後ろにそうっと立ち、自分の人生を握ってくる一人の男の姿が脳裏に浮かぶ。
そんなときだった。
ポケットの中で、携帯が震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、血の気が引いた。
──「真神 雪也」
誰にも見られないように、蓮は静かに廊下へ出て通話ボタンを押す。
すぐに、あの落ち着いた声が耳に流れ込んだ。
──「……やあ、蓮』
「……どうして……」
声が震えるのを、必死で抑え込む。
──「どうして? ……ふふ、そう言うと思ってた」
雪也は笑っていた。あの、やさしい声で。
──「君と過ごす時間を、もっと増やしたかった。それだけだよ」
「ッ!!そんなの──」
答えになっていない。
穏やかに、ただ、はぐらかすだけ。
「いけなかった?」
わざとらしくしおらしい声音が、電話越しに響く。
怒りも、否定も、ひとつ残らず押し流されていく。
──「君のそばにいたかったんだ。仕事っていう形で、そうさせてもらったのは申し訳ないけれど……君にとっては、その方が安心できるでしょ?』
(仕事?安心?何を言って……)
──「蓮、僕から離れないでね。……早く、君に会いたい」
ぞくりと、背筋が冷える。
言葉が、出ない。
──「じゃあ、またね。連絡するよ」
通話が切れた。
蓮は立ち尽くしたまま、震える手で携帯の画面を見下ろす。
蓮は数日中に辞表を出すつもりだった。
会社を辞めて、この街を離れ、雪也の届かないところへ逃げるつもりだった。
それが今をやり過ごす為の唯一の希望だった。
──そのすべてを、彼は一言で封じた。
あの笑顔で。
あの声で。
まるで、「当然の権利」のように。
優しく、丁寧に──すべての逃げ道を潰していくのだ。
「引っ越してきたばかりで、まだ慣れてないんだけど……頑張ってみたんだ」
キッチンから覗く雪也が、柔らかく笑う。
エプロン姿の彼の手元からは、香ばしく焼き上げられた鴨のローストやポタージュ、艶やかな前菜たちが次々と皿に盛られていく。料理の温度も、盛り付けも、完璧だった。
食卓は、まるでドラマのワンシーンのように整っていた。
暗めの照明が木目のテーブルに穏やかな陰影を落とす。
ワイングラスには軽く冷えた白が注がれ、リビングのスピーカーからはピアノの静かな旋律が流れていた。
「口に合うといいけど……どうかな?」
蓮は小さく首を縦に振った。
確かに美味しかった。
けれど、それが正しいのかすらも、今の自分にはよく分からなかった。
恐らくは完璧なのだろう。食器の配置も、温度も、演出も。
全てが“人をもてなす”ために最適化された空間だった。
まるで、彼の愛もそうであるかのように。
だが、その完璧さに包まれれば包まれるほど、蓮は自分がそこに存在しないものに思えた。まるで、用意された舞台に勝手に配役を当てられた人形のような。
「……美味しい、です」
ようやく出した声は、ぎこちなく、掠れていた。
雪也は笑って頷いた。
「よかった。君に食べてもらいたかったから……そう言ってもらえて嬉しいよ」
その目は優しい。声も穏やか。
けれど、どこか底が見えなかった。
U市の中心部から少しだけ外れた再開発エリア。その高台にそびえるタワーマンション。
雪也が最近そこに越してきたのは、つい先週、部長から雪也の転属を聞かされた日から程なくの事だった。
MIS本社ビルから車で十分足らず。
遠すぎず、近すぎず。絶妙な“管理の距離”だ。
業務に支障はなく、しかし蓮の生活圏には確実に食い込んでくる。
「夜景が綺麗なんだ。君にも見せたいと思ってさ」
此処へ蓮を招く際、雪也はそう気軽に話した。
見せたい。過ごしたい。傍にいたい。
そんな言葉を、まるでプレゼントのように差し出してくる。
それは、拒絶を想定していない、最初から“受け入れるのが当然”とでも言いたげな声音だった。
実際、マンション上層階からの夜景は自分が住み慣れた街とは思えないほど美しかった。
南東向きのガラス張りのリビングは、まるで都市の灯りを抱くように設計されていた。
しかし、その夜景を目にしても、蓮の心はひとつも動かなかった。
(……何だか、孤独な場所……)
外から見れば、完璧で高級な空間。
だがその実、静かすぎる塔のような場所だった。
プライバシーが過剰に保たれ、顔認証とカードキーで守られたエレベーター。
廊下で誰かに出会うことすらほとんどない。
誰にも見られずに、誰にも邪魔されずに、欲しいものだけを手に入れて、手に入れたものを、壊れないように密室で育て続ける。
雪也がなぜこの場所を選んだのか。
理由など、聞くまでもない。
「通勤も便利だし、君が来やすい距離っていうのも大事だからね」
そう、悪びれもせず笑った彼の声が、今も頭の奥にこびりついていた。
(来やすい、なんて……それは──)
裏を返せば“帰れなくてもいい”という事なんだろう。
蓮は唇を噛み、黙って夜景を見下ろした。
食後、ソファで一息つく間もなく、蓮は雪也に抱き寄せられた。
「……今度は、僕も食べさせてくれる?」
押し倒される瞬間に抗う意志は、もはや形にもならなかった。
甘く、深く、肌を這う手。
雪也の唇は耳元で囁く。
「いいよ……僕が、全部してあげるから」
逃げられない。
そう分かっていても、今さら叫ぶ声すら残っていなかった。
ただ、目を閉じた。
口を貪られれば、スイッチが入れられたかのように疼き出す身体。
熱をもって訴えるそれが、雪也の動きに合わせて波打ち始める。
もはや、自分の身体ではないのだと、蓮は然程戸惑わなくなっていた。
雪也が触れれば、欲しくなる。
身体が熱を上げ、彼のものを待ち焦がれるように疼いてしまう。
(……もう、こうしていれば、終わるから)
朧げな薄明かりの中、ダークグレーのベッドに沈められる。
やがて互いに裸になり、うつ伏せにされたまま、後ろから抱え込まれるように繋がる。
深く、奥をなぞるように打ち込まれるたび、蓮の背筋が震えた。
「……っ!、あ、ぅ……っあ、ぁ、や、ぁ……」
背中を撫でる手が優しすぎて、言葉にならない声がこぼれる。
膝をつきながら受け入れるこの姿勢に羞恥すら捨てて蓮は溺れた。
打ちつけられるたび、ただ、身体は震えて──悦びに似た白い靄のような痺れが広がっていく。
「蓮……かわいいよ。君の全部が、欲しいんだ」
雪也の声は甘やかで、どこまでも優しい。
だが、その“欲しい”の下には、喉元をかすかに締めつけるような、静かな支配があった。
その声を聞くだけで、背中をぞくりと悪寒が這う。
(……こんなの……おかしい、のに)
それでも、享受するしかできない身体。
あの、花が壊れてしまった日から。
「……ッ……ッう、……ぅ」
涙が、気づかぬうちに蓮の頬を伝っていた。
ただぽろぽろと。
その様子に気づいたのか、雪也はふと動きを止め、ゆっくりと身体を起こした。
蓮の肩を抱き起こしながら、前からその顔を覗き込む。
「蓮……?」
目を逸らしたかったのに、逃がしてくれない。
唇が寄せられ、額にそっと触れるようなキスが落とされた。
「……泣かなくていい。怖いことなんて、何もないんだよ。君の身体はそういうものなんだから」
その囁きに、蓮は小さく息を震わせた。
それすら優しすぎて、ひどく苦しい。
甘い声の中に、逃げ場を奪うための罠が潜んでいる。
心を包むのではなく、閉じ込めるためのもの。
涙に濡れた頬を、雪也の指が拭った。
「……僕を、僕だけを欲しがってくれる、その為の身体なんだよ」
ちがう──そう言いたくても、言えない。
唇は震えて、言葉にならなかった。
気づけば、雪也がゆっくりと蓮の身体を押し倒していた。
今度は正面から──視線を絡ませたまま、深く沈み込んでくる。
自分の奥がまた、雪也を迎え入れるように、ゆるやかに開いていくのが分かった。
「……!?ッあ……っ……や……」
背中を撫でる手が、腰へ、太腿へ、丁寧に包むように触れてくる。
逃げられない体勢。
目も、肌も、すべてを見られたまま繋がる。
「……いい子だ、蓮。……大丈夫、全部、僕に委ねて」
「ッ!ん、ぁっ……!!」
囁きながら、雪也の腰がゆっくりと動き始める。
ゆるやかに──けれど、確実に深く突き上げられるたび、自分の中の“空白”が、熱で埋め尽くされていく。
一度満たされたはずの奥に、再び熱が流れ込んでくる感覚に、蓮の身体は震えた。
「っ……あ、……ぁ……っ……!!」
焼けるような密着感。
全身が熱に浮かされているようで、指先の感覚すら曖昧になる。
雪也の視線が、絡め取るように蓮を見つめた。
「……すごく、いい顔してる。ねえ、蓮……僕を、どんなふうに感じてる?」
「い……っ、や……っ、い、言わ……ない……っ……!」
羞恥も、怒りも、かすかに残っていたはずのプライドも。
全て、肌を重ねるたびに削がれていく。
「ね、教えてよ?……ここ、どんなふうに僕を欲しがってるか」
その言葉が、まるで命令のように吹き込まれた瞬間、雪也の腰が深く沈み込み、奥の奥にまで突き上げられた。
「っ──や……っああ、あッ……!」
頭の奥がぐらぐらと揺れる。
もう、拒めない。
雪也が蓮のなかで動くたび、内側から熱がこみ上げ、身体の奥が疼いてしまう。
「……蓮……ほら、もっと素直になって?僕のこと、もっと、欲しがって?」
「……ッ、い、や……嫌、ぁ……っ……」
「ふふ……そう。じゃあ、もっと深く……気持ちよくしてあげる」
雪也の言葉が甘く響き、深く突き上げる衝動が、蓮の芯をえぐる。
奥を擦られるたび、快感の火花が脳裏を走り、理性が焼かれていく。
「んっ──あ、や、やあっ…!!もう……むり……っ……っ、あぁっ……!!」
「無理じゃないよ、蓮。……ほら、ここ……こんなに、僕を、締めつけてくる」
内側を、雪也の熱が暴いていく。
突かれるたびに、溶けかけた蓮の意識が白く弾け、
自分のものではないような快楽の声が喉から漏れた。
「ん……っ、やっ……だ、だめ、……しらな、いっ……」
「大丈夫……見てごらん。こんなに……僕ら、溶けあってるよ」
視線を落とせば、雪也と繋がる場所が泡立つようにぐちゃぐちゃに濡れて、濃密な音を立てていた。
自分のなかが、雪也を受け入れるように脈打っている。
──嬉しそうに、奥が求めてしまっている。
(……いや、だ……もう、これ以上は……)
けれど。
雪也の唇が、蓮の額から頬、顎、喉元へと降りてくる。
愛おしむように、丁寧に、逃げられないように。
そして──
「蓮、もう一度、一緒に──堕ちよう?」
その囁きの直後、雪也の熱が一層激しく押し込まれた。
「──っ、ぁ……あ、ああ……ッッ!!」
凄まじく全身を貫く快楽の波。
爪先まで震え、背筋が弓なりに反る。
視界がちかちかと白く明滅し、名前も、自分の意思も、何もかもが熱の中に溶けていく。
「……あぁ……蓮、僕だけの、僕だけの君だよ…。誰にも渡さない」
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