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第8話 「火元」
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四月十九日。
雨は、夜のうちに止んでいた。まだ地面は濡れていて、靴の裏に冷たさが移る。冷たさが移るたび、私は、昨夜受け取った夕紀のメッセージを思い出していた。
(いつでもいい、って言ってくれてるけど。これ、まず、私が美沙と話さなきゃいけないってことだよね……)
――でも、いつ? なんて言えばいいの?
休めばいいのに、休んだら、そのまま学校へ行けなくなる気がした。そして、なにかに負ける気がした。だから、重い気持ちを抱えたままでも、重い足のままでも、重いため息を何度吐いても、私は学校へ行くことにした。
校門をくぐると、運動場の笛の音が一度だけ高く響き、春の空に吸われていく。土の匂いが風に混ざって、深く息を吸いたくなった。でも、深く吸うと、心のざらつきまで一緒に吸い込んでしまいそうで、少しずつしか息を吸えないでいる。
教室までの廊下を歩いている間中、刺すような視線が降り注がれて、全身が痛かった。
(視線が痛いってこういうことなんだ)
心のどこかで、そんなことを考えていた。そのことに気づくと、意外と私は冷静なのかもしれない、とも思い始めた。
教室の扉を開けると、ここでも、クラスメートの視線が突き刺さってきた。空気が重い。重い空気に軽く冷たい笑い声が乗っている。笑い声に冷たさを含んでいるからこそ、重い。そして、その笑い声が誰かの痛みの上に乗る。美沙の席はまだ空いていた。昨日より、空白がはっきりして見える。机の角の影が、やけに濃く見えた。
私は席に座って、鞄から教科書とノートを出した。手が、震えないように。震えたら、全部見透かされる気がした。チャイムが鳴る少し前に、普通に美沙が入ってきた。普通の顔を保とうとしているのを空気で感じた。
始業のチャイムが鳴って、担任が入ってくる。足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
教壇に立つ前に、目だけで全員いるのを確認すると、黒板の前で一度だけ深く息を吐いた。
「全員いるな」
返事の代わりに椅子が軋み、担任のいつもと違う様子に、残っていたざわめきが一瞬で消えた。
「みんなも知っていると思うが、この二日間にSNSで拡散している音声について、学校として対応することになった。昨日から調査を進めている。今日は一人ずつ話を聴いていく。それ以外の者は、いつも通り授業を受けるように。これ以上、転載と共有をしないこと。当事者の名を出して面白がる行為も同じだ。では、まずは、スマホの電源をOFFにして、この箱に持っているスマホを入れていってくれ」
担任は、全員を見渡し、「この件は、学校として止める」、低く声を落とした。
――止める。
その言葉で、教室の空気が一段冷えた。スマホを伏せる音だけが、変に揃う。
最初に名前を呼ばれたのは私だった。
「朝倉」
呼ばれただけなのに、喉が乾いた気がした。
私は担任の少し後ろを歩いていく。窓の外の空はやけに明るく、視線を逸らすと、自然と床に視線が落ちていってしまう。足音が二つ、同じテンポで続く。そこへ、背中から駆ける音が割り込んだ。上履きが床を叩く乾いた音と息の乱れ。
「先生!」
担任が立ち止まり、振り向く。
「佐藤か。どうした?」
佐藤は走る勢いのまま止まって、胸を押さえた。言いかけて、飲み込む。視線が一度だけ、担任の手元――回収したスマホの箱に落ちる。
「その……スマホは、面談が終わったら返してもらえるんですか?」
「そうだが」
担任が即答すると、佐藤の肩が小さく落ちた。
「なら、僕を最初にしてください」
担任の眉がわずかに動く。
「なぜだ?」
佐藤は一瞬、唇を噛んだ。
「今日は……家族が病院にいて。あの……今日は……大事な日なんです。その……連絡があるかもしれないから……その……スマホを……」
言葉が、最後へ行くほど細くなる。頼みたいのに、頼むこと自体が申し訳ない、という声だった。
廊下の光が、佐藤の頬の白さを際立たせる。
担任は短く息を吐いて、頷いた。
「わかった」
佐藤の目が、少しだけ開く。
「では佐藤からにしよう」
その一言で、廊下の空気がほんのわずかに緩んだ。
優先順位は、正しさじゃなくて事情で決まる。そういう大人の判断が、今日は少しだけ怖かった。
「朝倉は、その間、廊下で待っていてくれ」
「はい」
職員室の隣、生徒指導室の部屋。
部屋に入ると、すでに生徒指導の先生、学年主任、情報担当の先生が座っていた。担任が、お待たせしましたと言って部屋に入っていく。その後に私も続いた。
あまり使われていない部屋だからか、ワックスの匂いが強く残っていて、鼻の奥を刺す。蛍光灯の白が真上から落ちて、影の逃げ道を潰していた。窓は少しだけ開いていて、春風がプリントの端を少しめくる。紙が擦れる音が、裁判の前の衣擦れみたいに細い。
机の上には、印刷された数々の証拠とパソコン。
――最初の投稿リンクのスクショ。
――音声波形と継ぎ目に引かれた赤い線。
――クラスグループに貼られたリンクの履歴。
――拡散が飛んだ先の一覧。
「座って」
担任に促され椅子に座ると、一枚のプリントが私の前に置かれた。
「これは、拡散された音声波形をプリントアウトしたものだ。ここ」
担任が、多数の線が並列した一ヶ所を、指で押さえる。
「ここに継ぎ目がある。編集されている証拠だ」
学年主任が淡々と補う。
「これは、意図的に行われたことの裏付けにもなる。知っていることを話してほしい」
担任が私を見る。
「言える範囲でいい。でも、巻き込まれて、平気で済ませるな」
その釘が、胸の奥に刺さった。私は、平気そうにして逃げて、逃げた分だけ美沙を苦しくした。私は、覚悟を決め、息を吐いて話し始めた。
――一昨日の朝のこと、昼休みの廊下のこと、昨日の朝のこと。
「美沙……いえ水野さんの欠席を最初に言いに来た子が、いつも美沙と夕紀という子の話をする中心にいました」
名前は言えなかった。言った瞬間、また誰かを『切り取る』気がしたから。
「あと、私がこの発言をした日、水野さんはお休みでした」
「わかった。こちらで確認する」、担任は短く頷いた。
「次に、一番最初に投稿したのは、『水野さんのアカウントからという形』になっています」
情報担当の先生が言って、プリントアウトされたサムネイル画像を見せた。
――違う。いつものと、なにかが違う。
「……これは水野さんのアカウントじゃないと思います。サムネが少し違います」
私は、自分のスマホを受け取り、美沙がいつも使っているSNSアカウントを見せた。
「確かに違うな――わかった。ログの確認と聞き取りが必要だな。それもこちらで確認する」
「――以上だ。教室に戻って、授業を受けなさい」
「はい、わかりました」
――誰かが、美沙の顔を借りて、火をつけたんだ。イヤなやり方だ。
さっき知った事実に、目の前が揺れて教室までが遠い。
それから、生徒指導室の部屋の扉は何度も開閉した。
保存、転送、コメント投稿をしたクラスメートが呼ばれ、座って、スマホを出す。
送信履歴、受信履歴、保存の有無、共有の確認作業。証拠は軽い。指先ひとつで広がるぶん、重さが後から来る。
「リンクを送ったか」、「どこで受け取ったか」、「誰に回したか」、問いは淡々としていて、逃げ道がない。
途中から、クラス外の名前が増えていった。担任は紙に書き、学年主任が各担任へ回し、一つずつ逃げ道を塞いでいく。
昼休み。先生たちはまたクラスの数人を順に呼び出した。いつもの賑やかさはなく、教室に残された私たちは黙ったままで、お弁当を食べ進める箸の音だけが響く。窓の外では運動場の掛け声が遠くに跳ねていた。いつもなら羨ましいはずの声が、今日は別世界の音に聞こえた。
昼休みが終わる頃、最後に呼ばれたのは佐原だった。彼女は「え、私?」と笑いながら席を立つ。軽い笑い方なのに、足取りが少しだけ固い。私はその背中を見送って、喉が乾いた。
放課後のホームルームで、担任が告げた。
「関係者を読み上げる」
静かに名前が読みあげられた。名前が響くたび、教室の底が沈んでいく。
「拡散はこのクラスだけじゃない。別クラス、他学年、校外にも飛んでいる。このクラス以外の件は各担任が対応している。校内で、拡散に加担した生徒への対応は終わっている。処分は、厳重注意と反省文だ。削除の確認と保護者への連絡も終わっている」
最後に担任が言った。
「SNSで面白半分で人を陥れる投稿は、二度としないように。一度外へ出たものは、完全には戻らない。拡散はここで終わりにする」
教室がやっと息を吐いたみたいに緩んだ。でも私の胸だけは硬いままだ。
――切り取り音声の火元は特定できた。
――投稿は削除。拡散した分も削除を確認された。
――クラス外に回った分は各担任が対応した。
それでも、『終わった』と言われても、私の胸の中では終わっていなかった。火元は止まったけど、私の嘘は、まだ燃えたままだ。
雨は、夜のうちに止んでいた。まだ地面は濡れていて、靴の裏に冷たさが移る。冷たさが移るたび、私は、昨夜受け取った夕紀のメッセージを思い出していた。
(いつでもいい、って言ってくれてるけど。これ、まず、私が美沙と話さなきゃいけないってことだよね……)
――でも、いつ? なんて言えばいいの?
休めばいいのに、休んだら、そのまま学校へ行けなくなる気がした。そして、なにかに負ける気がした。だから、重い気持ちを抱えたままでも、重い足のままでも、重いため息を何度吐いても、私は学校へ行くことにした。
校門をくぐると、運動場の笛の音が一度だけ高く響き、春の空に吸われていく。土の匂いが風に混ざって、深く息を吸いたくなった。でも、深く吸うと、心のざらつきまで一緒に吸い込んでしまいそうで、少しずつしか息を吸えないでいる。
教室までの廊下を歩いている間中、刺すような視線が降り注がれて、全身が痛かった。
(視線が痛いってこういうことなんだ)
心のどこかで、そんなことを考えていた。そのことに気づくと、意外と私は冷静なのかもしれない、とも思い始めた。
教室の扉を開けると、ここでも、クラスメートの視線が突き刺さってきた。空気が重い。重い空気に軽く冷たい笑い声が乗っている。笑い声に冷たさを含んでいるからこそ、重い。そして、その笑い声が誰かの痛みの上に乗る。美沙の席はまだ空いていた。昨日より、空白がはっきりして見える。机の角の影が、やけに濃く見えた。
私は席に座って、鞄から教科書とノートを出した。手が、震えないように。震えたら、全部見透かされる気がした。チャイムが鳴る少し前に、普通に美沙が入ってきた。普通の顔を保とうとしているのを空気で感じた。
始業のチャイムが鳴って、担任が入ってくる。足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
教壇に立つ前に、目だけで全員いるのを確認すると、黒板の前で一度だけ深く息を吐いた。
「全員いるな」
返事の代わりに椅子が軋み、担任のいつもと違う様子に、残っていたざわめきが一瞬で消えた。
「みんなも知っていると思うが、この二日間にSNSで拡散している音声について、学校として対応することになった。昨日から調査を進めている。今日は一人ずつ話を聴いていく。それ以外の者は、いつも通り授業を受けるように。これ以上、転載と共有をしないこと。当事者の名を出して面白がる行為も同じだ。では、まずは、スマホの電源をOFFにして、この箱に持っているスマホを入れていってくれ」
担任は、全員を見渡し、「この件は、学校として止める」、低く声を落とした。
――止める。
その言葉で、教室の空気が一段冷えた。スマホを伏せる音だけが、変に揃う。
最初に名前を呼ばれたのは私だった。
「朝倉」
呼ばれただけなのに、喉が乾いた気がした。
私は担任の少し後ろを歩いていく。窓の外の空はやけに明るく、視線を逸らすと、自然と床に視線が落ちていってしまう。足音が二つ、同じテンポで続く。そこへ、背中から駆ける音が割り込んだ。上履きが床を叩く乾いた音と息の乱れ。
「先生!」
担任が立ち止まり、振り向く。
「佐藤か。どうした?」
佐藤は走る勢いのまま止まって、胸を押さえた。言いかけて、飲み込む。視線が一度だけ、担任の手元――回収したスマホの箱に落ちる。
「その……スマホは、面談が終わったら返してもらえるんですか?」
「そうだが」
担任が即答すると、佐藤の肩が小さく落ちた。
「なら、僕を最初にしてください」
担任の眉がわずかに動く。
「なぜだ?」
佐藤は一瞬、唇を噛んだ。
「今日は……家族が病院にいて。あの……今日は……大事な日なんです。その……連絡があるかもしれないから……その……スマホを……」
言葉が、最後へ行くほど細くなる。頼みたいのに、頼むこと自体が申し訳ない、という声だった。
廊下の光が、佐藤の頬の白さを際立たせる。
担任は短く息を吐いて、頷いた。
「わかった」
佐藤の目が、少しだけ開く。
「では佐藤からにしよう」
その一言で、廊下の空気がほんのわずかに緩んだ。
優先順位は、正しさじゃなくて事情で決まる。そういう大人の判断が、今日は少しだけ怖かった。
「朝倉は、その間、廊下で待っていてくれ」
「はい」
職員室の隣、生徒指導室の部屋。
部屋に入ると、すでに生徒指導の先生、学年主任、情報担当の先生が座っていた。担任が、お待たせしましたと言って部屋に入っていく。その後に私も続いた。
あまり使われていない部屋だからか、ワックスの匂いが強く残っていて、鼻の奥を刺す。蛍光灯の白が真上から落ちて、影の逃げ道を潰していた。窓は少しだけ開いていて、春風がプリントの端を少しめくる。紙が擦れる音が、裁判の前の衣擦れみたいに細い。
机の上には、印刷された数々の証拠とパソコン。
――最初の投稿リンクのスクショ。
――音声波形と継ぎ目に引かれた赤い線。
――クラスグループに貼られたリンクの履歴。
――拡散が飛んだ先の一覧。
「座って」
担任に促され椅子に座ると、一枚のプリントが私の前に置かれた。
「これは、拡散された音声波形をプリントアウトしたものだ。ここ」
担任が、多数の線が並列した一ヶ所を、指で押さえる。
「ここに継ぎ目がある。編集されている証拠だ」
学年主任が淡々と補う。
「これは、意図的に行われたことの裏付けにもなる。知っていることを話してほしい」
担任が私を見る。
「言える範囲でいい。でも、巻き込まれて、平気で済ませるな」
その釘が、胸の奥に刺さった。私は、平気そうにして逃げて、逃げた分だけ美沙を苦しくした。私は、覚悟を決め、息を吐いて話し始めた。
――一昨日の朝のこと、昼休みの廊下のこと、昨日の朝のこと。
「美沙……いえ水野さんの欠席を最初に言いに来た子が、いつも美沙と夕紀という子の話をする中心にいました」
名前は言えなかった。言った瞬間、また誰かを『切り取る』気がしたから。
「あと、私がこの発言をした日、水野さんはお休みでした」
「わかった。こちらで確認する」、担任は短く頷いた。
「次に、一番最初に投稿したのは、『水野さんのアカウントからという形』になっています」
情報担当の先生が言って、プリントアウトされたサムネイル画像を見せた。
――違う。いつものと、なにかが違う。
「……これは水野さんのアカウントじゃないと思います。サムネが少し違います」
私は、自分のスマホを受け取り、美沙がいつも使っているSNSアカウントを見せた。
「確かに違うな――わかった。ログの確認と聞き取りが必要だな。それもこちらで確認する」
「――以上だ。教室に戻って、授業を受けなさい」
「はい、わかりました」
――誰かが、美沙の顔を借りて、火をつけたんだ。イヤなやり方だ。
さっき知った事実に、目の前が揺れて教室までが遠い。
それから、生徒指導室の部屋の扉は何度も開閉した。
保存、転送、コメント投稿をしたクラスメートが呼ばれ、座って、スマホを出す。
送信履歴、受信履歴、保存の有無、共有の確認作業。証拠は軽い。指先ひとつで広がるぶん、重さが後から来る。
「リンクを送ったか」、「どこで受け取ったか」、「誰に回したか」、問いは淡々としていて、逃げ道がない。
途中から、クラス外の名前が増えていった。担任は紙に書き、学年主任が各担任へ回し、一つずつ逃げ道を塞いでいく。
昼休み。先生たちはまたクラスの数人を順に呼び出した。いつもの賑やかさはなく、教室に残された私たちは黙ったままで、お弁当を食べ進める箸の音だけが響く。窓の外では運動場の掛け声が遠くに跳ねていた。いつもなら羨ましいはずの声が、今日は別世界の音に聞こえた。
昼休みが終わる頃、最後に呼ばれたのは佐原だった。彼女は「え、私?」と笑いながら席を立つ。軽い笑い方なのに、足取りが少しだけ固い。私はその背中を見送って、喉が乾いた。
放課後のホームルームで、担任が告げた。
「関係者を読み上げる」
静かに名前が読みあげられた。名前が響くたび、教室の底が沈んでいく。
「拡散はこのクラスだけじゃない。別クラス、他学年、校外にも飛んでいる。このクラス以外の件は各担任が対応している。校内で、拡散に加担した生徒への対応は終わっている。処分は、厳重注意と反省文だ。削除の確認と保護者への連絡も終わっている」
最後に担任が言った。
「SNSで面白半分で人を陥れる投稿は、二度としないように。一度外へ出たものは、完全には戻らない。拡散はここで終わりにする」
教室がやっと息を吐いたみたいに緩んだ。でも私の胸だけは硬いままだ。
――切り取り音声の火元は特定できた。
――投稿は削除。拡散した分も削除を確認された。
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