透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

文字の大きさ
9 / 29

第8話 「火元」

しおりを挟む
 四月十九日。
 雨は、夜のうちに止んでいた。まだ地面は濡れていて、靴の裏に冷たさが移る。冷たさが移るたび、私は、昨夜受け取った夕紀のメッセージを思い出していた。
(いつでもいい、って言ってくれてるけど。これ、まず、私が美沙と話さなきゃいけないってことだよね……)
 ――でも、いつ? なんて言えばいいの?

 休めばいいのに、休んだら、そのまま学校へ行けなくなる気がした。そして、なにかに負ける気がした。だから、重い気持ちを抱えたままでも、重い足のままでも、重いため息を何度吐いても、私は学校へ行くことにした。

 校門をくぐると、運動場の笛の音が一度だけ高く響き、春の空に吸われていく。土の匂いが風に混ざって、深く息を吸いたくなった。でも、深く吸うと、心のざらつきまで一緒に吸い込んでしまいそうで、少しずつしか息を吸えないでいる。

 教室までの廊下を歩いている間中、刺すような視線が降り注がれて、全身が痛かった。
(視線が痛いってこういうことなんだ)
 心のどこかで、そんなことを考えていた。そのことに気づくと、意外と私は冷静なのかもしれない、とも思い始めた。
 教室の扉を開けると、ここでも、クラスメートの視線が突き刺さってきた。空気が重い。重い空気に軽く冷たい笑い声が乗っている。笑い声に冷たさを含んでいるからこそ、重い。そして、その笑い声が誰かの痛みの上に乗る。美沙の席はまだ空いていた。昨日より、空白がはっきりして見える。机の角の影が、やけに濃く見えた。

 私は席に座って、鞄から教科書とノートを出した。手が、震えないように。震えたら、全部見透かされる気がした。チャイムが鳴る少し前に、普通に美沙が入ってきた。普通の顔を保とうとしているのを空気で感じた。

 始業のチャイムが鳴って、担任が入ってくる。足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
 教壇に立つ前に、目だけで全員いるのを確認すると、黒板の前で一度だけ深く息を吐いた。
「全員いるな」
 返事の代わりに椅子が軋み、担任のいつもと違う様子に、残っていたざわめきが一瞬で消えた。
「みんなも知っていると思うが、この二日間にSNSで拡散している音声について、学校として対応することになった。昨日から調査を進めている。今日は一人ずつ話を聴いていく。それ以外の者は、いつも通り授業を受けるように。これ以上、転載と共有をしないこと。当事者の名を出して面白がる行為も同じだ。では、まずは、スマホの電源をOFFにして、この箱に持っているスマホを入れていってくれ」
 担任は、全員を見渡し、「この件は、学校として止める」、低く声を落とした。
 ――止める。
 その言葉で、教室の空気が一段冷えた。スマホを伏せる音だけが、変に揃う。

 最初に名前を呼ばれたのは私だった。
「朝倉」
 呼ばれただけなのに、喉が乾いた気がした。
 私は担任の少し後ろを歩いていく。窓の外の空はやけに明るく、視線を逸らすと、自然と床に視線が落ちていってしまう。足音が二つ、同じテンポで続く。そこへ、背中から駆ける音が割り込んだ。上履きが床を叩く乾いた音と息の乱れ。
「先生!」
 担任が立ち止まり、振り向く。
「佐藤か。どうした?」
 佐藤は走る勢いのまま止まって、胸を押さえた。言いかけて、飲み込む。視線が一度だけ、担任の手元――回収したスマホの箱に落ちる。
「その……スマホは、面談が終わったら返してもらえるんですか?」
「そうだが」
 担任が即答すると、佐藤の肩が小さく落ちた。
「なら、僕を最初にしてください」
 担任の眉がわずかに動く。
「なぜだ?」
 佐藤は一瞬、唇を噛んだ。
「今日は……家族が病院にいて。あの……今日は……大事な日なんです。その……連絡があるかもしれないから……その……スマホを……」
 言葉が、最後へ行くほど細くなる。頼みたいのに、頼むこと自体が申し訳ない、という声だった。
 廊下の光が、佐藤の頬の白さを際立たせる。
 担任は短く息を吐いて、頷いた。
「わかった」
 佐藤の目が、少しだけ開く。
「では佐藤からにしよう」
 その一言で、廊下の空気がほんのわずかに緩んだ。
 優先順位は、正しさじゃなくて事情で決まる。そういう大人の判断が、今日は少しだけ怖かった。
「朝倉は、その間、廊下で待っていてくれ」
「はい」

 職員室の隣、生徒指導室の部屋。
 部屋に入ると、すでに生徒指導の先生、学年主任、情報担当の先生が座っていた。担任が、お待たせしましたと言って部屋に入っていく。その後に私も続いた。
 あまり使われていない部屋だからか、ワックスの匂いが強く残っていて、鼻の奥を刺す。蛍光灯の白が真上から落ちて、影の逃げ道を潰していた。窓は少しだけ開いていて、春風がプリントの端を少しめくる。紙が擦れる音が、裁判の前の衣擦れみたいに細い。

 机の上には、印刷された数々の証拠とパソコン。
 ――最初の投稿リンクのスクショ。
 ――音声波形と継ぎ目に引かれた赤い線。
 ――クラスグループに貼られたリンクの履歴。
 ――拡散が飛んだ先の一覧。

「座って」
 担任に促され椅子に座ると、一枚のプリントが私の前に置かれた。
「これは、拡散された音声波形をプリントアウトしたものだ。ここ」
 担任が、多数の線が並列した一ヶ所を、指で押さえる。
「ここに継ぎ目がある。編集されている証拠だ」
 学年主任が淡々と補う。
「これは、意図的に行われたことの裏付けにもなる。知っていることを話してほしい」
 担任が私を見る。
「言える範囲でいい。でも、巻き込まれて、平気で済ませるな」
 その釘が、胸の奥に刺さった。私は、平気そうにして逃げて、逃げた分だけ美沙を苦しくした。私は、覚悟を決め、息を吐いて話し始めた。
 ――一昨日の朝のこと、昼休みの廊下のこと、昨日の朝のこと。
「美沙……いえ水野さんの欠席を最初に言いに来た子が、いつも美沙と夕紀という子の話をする中心にいました」
 名前は言えなかった。言った瞬間、また誰かを『切り取る』気がしたから。
「あと、私がこの発言をした日、水野さんはお休みでした」
「わかった。こちらで確認する」、担任は短く頷いた。
「次に、一番最初に投稿したのは、『水野さんのアカウントからという形』になっています」
 情報担当の先生が言って、プリントアウトされたサムネイル画像を見せた。
 ――違う。いつものと、なにかが違う。
「……これは水野さんのアカウントじゃないと思います。サムネが少し違います」
 私は、自分のスマホを受け取り、美沙がいつも使っているSNSアカウントを見せた。
「確かに違うな――わかった。ログの確認と聞き取りが必要だな。それもこちらで確認する」
「――以上だ。教室に戻って、授業を受けなさい」
「はい、わかりました」

 ――誰かが、美沙の顔を借りて、火をつけたんだ。イヤなやり方だ。
 さっき知った事実に、目の前が揺れて教室までが遠い。


 それから、生徒指導室の部屋の扉は何度も開閉した。
 保存、転送、コメント投稿をしたクラスメートが呼ばれ、座って、スマホを出す。
 送信履歴、受信履歴、保存の有無、共有の確認作業。証拠は軽い。指先ひとつで広がるぶん、重さが後から来る。
「リンクを送ったか」、「どこで受け取ったか」、「誰に回したか」、問いは淡々としていて、逃げ道がない。
 途中から、クラス外の名前が増えていった。担任は紙に書き、学年主任が各担任へ回し、一つずつ逃げ道を塞いでいく。


 昼休み。先生たちはまたクラスの数人を順に呼び出した。いつもの賑やかさはなく、教室に残された私たちは黙ったままで、お弁当を食べ進める箸の音だけが響く。窓の外では運動場の掛け声が遠くに跳ねていた。いつもなら羨ましいはずの声が、今日は別世界の音に聞こえた。
 昼休みが終わる頃、最後に呼ばれたのは佐原だった。彼女は「え、私?」と笑いながら席を立つ。軽い笑い方なのに、足取りが少しだけ固い。私はその背中を見送って、喉が乾いた。


 放課後のホームルームで、担任が告げた。
「関係者を読み上げる」
 静かに名前が読みあげられた。名前が響くたび、教室の底が沈んでいく。
「拡散はこのクラスだけじゃない。別クラス、他学年、校外にも飛んでいる。このクラス以外の件は各担任が対応している。校内で、拡散に加担した生徒への対応は終わっている。処分は、厳重注意と反省文だ。削除の確認と保護者への連絡も終わっている」
 最後に担任が言った。
「SNSで面白半分で人を陥れる投稿は、二度としないように。一度外へ出たものは、完全には戻らない。拡散はここで終わりにする」
 教室がやっと息を吐いたみたいに緩んだ。でも私の胸だけは硬いままだ。

 ――切り取り音声の火元は特定できた。
 ――投稿は削除。拡散した分も削除を確認された。
 ――クラス外に回った分は各担任が対応した。

 それでも、『終わった』と言われても、私の胸の中では終わっていなかった。火元は止まったけど、私の嘘は、まだ燃えたままだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

光のもとで2

葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、 新たな気持ちで新学期を迎える。 好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。 少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。 それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。 この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。 何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい―― (10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)

桜庭かなめ
恋愛
 高校1年生の逢坂玲人は入学時から髪を金色に染め、無愛想なため一匹狼として高校生活を送っている。  入学して間もないある日の放課後、玲人は2年生の生徒会長・如月沙奈にロープで拘束されてしまう。それを解く鍵は彼女を抱きしめると約束することだった。ただ、玲人は上手く言いくるめて彼女から逃げることに成功する。そんな中、銀髪の美少女のアリス・ユメミールと出会い、お互いに好きな猫のことなどを通じて彼女と交流を深めていく。  しかし、沙奈も一度の失敗で諦めるような女の子ではない。玲人は沙奈に追いかけられる日々が始まる。  抱きしめて。生徒会に入って。口づけして。ヤンデレな沙奈からの様々な我が儘を通して見えてくるものは何なのか。見えた先には何があるのか。沙奈の好意が非常に強くも温かい青春ラブストーリー。  ※タイトルは「むげん」と読みます。  ※完結しました!(2020.7.29)

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...