透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第7話 「返せない返事」

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 放課後。笑い声の残り香だけがはっきり残った静かな廊下に、夕方の光が窓枠を斜めに切って差し込み、影だけが長く伸びていく。遠くで誰かの部活の掛け声が弾み、近くではスマホの沈黙が重く響く。私はスマホを包み込むように握りしめながら、職員室へ向かった。

 職員室に入ると、すぐに職員室横の生徒指導室へ連れていかれた。
「朝倉」
 先生の声は淡々としているのに、なぜか優しかった。
「今、状況は悪い。だからこそ、手順を間違えないようにしてくれ」
 ――手順。私は、その言葉に救われた気がした。感情は溺れる。手順は浮き輪だ。
「元の音声の前後が必要だ。誰が録ったか、誰が編集をして、誰が最初に投稿したのか、学校側で調べ始めている」
 私は頷いた。
「……はい」
 指先が震える。はい、で世界が決まってしまう気がする。
 先生は続けた。
「水野には、今は刺激を入れないことにした。朝倉は、自分が崩れないことを優先してほしい」
 ――崩れない、か。もう崩れているのに。
 私は苦笑しそうになる。
「二つ、気を付けてほしいことがある。一つ目、絶対にコメントを投稿しないこと」
「わかりました」
「二つ目は――今夜、水野から連絡が来ても返さないこと」
 私は顔を上げた。
「……返したいです」
 ――返したい。返してしまったら、きっと後悔する。そのことも分かっている。でも。
 先生は頷く。
「返すのは大事。でも今は、返せない返事があると思う」
 ――返せない返事。
 その言葉が、胸の奥に引っかかる。まるで、私の嘘そのものだ。
「それに、小学校の頃からの友達だと聞いている。相手を信じる気持ちも大事なんじゃないか?」
 面談が終わって、私は廊下に出た。空が薄く暗くなってきている。窓ガラスに映る自分の顔が、まるで知らない人みたいだった。
「信じる、か」
 私は、最後に担任が言った言葉を呟いた。私は、自分の気持ちばかりで、美沙の気持ちや思いを信じようとしていなかった。それ以前に、知ろうとしてなかった。もし、私が美沙を信じて動いていたら、今とは違う状況になっていたのかもしれない。
 ――ああ、私、間違ってばかりだ。ことごとく自分がイヤになる。
 そのとき、スマホが震えた――美沙。画面の文字だけで、息が浅くなった。私は立ち止まって、壁に背中をつけた。
『亜由美』
 名前だけで次が来ない。さっきの保健室の時と同じだ。きっと言葉を探している時間。私は画面を見つめたまま、指を動かせない。何を書いても薄くなる。薄い言葉は、美沙を余計に遠ざけてしまう。そして、もう一通。
『さっきの、ほんと?』
 指が震えて、うまく動かない。私は返信欄を開いて、閉じた。
 廊下で『私が言った』ってこと――今更嘘とは言えない。なら、なんて返したらいい?
 また開いて、閉じる。
 担任にも、今夜は返信するなと言われた。でも――どうしよう。
 送信の手前で、また止まる。迷った末に、結局、短く打った。
『今は言えない。ごめん』
 送信。送った瞬間、ため息が出た。『ごめん』は、便利で、届かない。既読がついて、すぐ返事が来る。
『もういい』
 ――もういい。また、終わりの言葉……
 私は息を吐いた。喉がひりつく。
 ――美沙にすべて話してしまいたい。でも、そのあとは? どうなってくの?

「――朝倉?」
 背後から、保健委員の子の声がした。
「鞄取りに来たの? ……水野なら、さっき帰ったよ」
 ――帰った。胸の奥が落ちていく感じだった。落ちたまま、戻らない、戻れない。
「……そっか」
 私は小さく頷いた。
 ――そっか。自分の言葉なはずなのに、私は受け止めきれないでいた。


 帰り道、家に辿り着くのがとても長かった。駅のホームのライトが眩しくて、耳に膜が張ったように音が遠く、世界が遠く感じる。桜の花びらが地面に貼りついて、踏まれても声を出さない。その静けさが、私の言えない言葉の重さみたいだった。

 なんとか帰宅して、部屋のドアを閉めた途端、気が抜けたのか、膝から崩れ落ちた。
「長い一日だった……」
 着替えたいのに、なかなか立ち上がれない。立ち上がっても、制服を脱ぐ手が遅い。スマホを机に置いたのに、視線が離れない。すべての動作に、とても力が必要で、いつもの倍以上の時間がかかった。
 夜遅くから雨が降り出した。小さな雨音に耳を傾けていると、自分の心臓の音の方が大きくて、バクバク脈を打っていることに気づいた。

 今日何百回目なのか、またスマホが震える。
 ――夕紀。
 名前が出た瞬間、背中が冷たくなった――また夕紀から。
『お返事ありがとうございます
 体調不良……今日の美沙は、少しは元気になりましたか?』
 私は息を止めた。
 ――どうして今、このタイミングで、私に聞くかなぁ……
 私は画面を見つめたまま、指が動かない。視界がぼやけてきて、上を向いて瞼を閉じた。
 長かった今日一日を思い返す。私は元気じゃない。美沙はもっと元気じゃないはず。それを私が「元気」と言いきってしまうのは、嘘になる。返せない返事が、ここにもある。それでも、返信しないと何かが始まってしまう気がして、短く打った。
『わかりません。でも、連絡は取れます。何かあったの?』
 守るために選んだ嘘が、守りたかった人を遠ざけていく。私は息を吐いた。本当に伝えたいことを心に抱えたまま、夜が深くなっていった。
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