透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第6話 「保健室の灯」

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 どれくらい時間が経ったのだろう。
 保健室に差し込むカーテン越しの光は、優しく滲み、部屋の輪郭がやわらかい。そのやわらかさが、今は怖かった。やわらかいものほど、簡単に形が変わってしまうから。部屋の隅で時計の針の音が一秒ずつ、ゆっくり落ちていく。消毒綿の匂いが鼻の奥を掠めて、涙の出口まで塞いでしまいそうになる。外界と切り離されたこの空間、ここだけが安全だと体が先に信じた。
 私はベッドに膝を抱えて座っていた。息を吐くと、胸の奥が少しだけほどける。ほどけた分だけ、嘘の形がはっきりする。ベッドに伏せたままのスマホには、通知が増えていっている。画面の裏で、私の声が私から剥がれていくようだ。

「朝倉さん」
 先生が、カーテンの向こうから声をかけてきた。
「少し横になったら?」
「……大丈夫です」
 先生は何も言わずに、ベッド脇の机に、飴と使い捨てのカイロを置いた。どちらも、熱を保つためのものだ。
「……あまり寒さを感じていないかもしれけど、身体を温めた方がいいわ」
 私は小さく頷いた。
 ――寒いのは、体じゃないのだけど。
「……ありがとうございます……先生、私は……怖いです」
 言った瞬間、喉が痛くなる。怖いと口にしたら、もう戻れない気がした。
 戻ったら、美沙の『もういい』に戻ってしまう。美沙と友達でいられなくなる。戻らなかったら、切り取り前の音声を取り戻して、美沙を守りたくてついた嘘がバレてしまう。美沙を追い詰めるかもしれない。自分がなにを望んでいるのかがわからない。どちらを選んでも、痛みを伴う――私はどうしたらいいかわからない。これ以上、美沙を傷つけるのも、嘘を重ねるのも、全部怖い。
 先生が頷く。
「うん」
 その『うん』に、涙が浮いた。浮いたまま落ちない。落ちたら、今の自分が崩れる。
「朝倉さん、水野さんに、どうしても伝えたいことはある?」
 先生が静かに言った。
 私は唾液を飲み込んだ。でも、喉の乾いたままで言葉を出しづらい。
「……ごめんね、しか出てこないです」
 先生は少しだけ目を伏せた。
「ごめん、は便利だよね。でも便利な言葉は、だいたい届かないよ」
 ――届かない。
 その一言が、胸の奥に落ちた。
 保健室の外で、誰かが廊下を歩いていく音が届く。ただの足音、それだけなのに、怖くて私は肩をすくめた。
 先生は静かに言葉を重ねた。
「さっきも言ったけど、元の音声の前後を出せれば、今の『切り取り』は崩れていく。そのために、まず誰が録っていたかを特定する必要があるわね」
 ――特定。言葉の硬さに、今は頼れる感じがした。音声を取り戻したら、私の嘘がバレてしまう。でも、今は、自分ができることをしていこう。
「……私、探します」
 先生が頷く。
「そうね。でもひとりで抱えないで。学校は、守るためにもあるのだから」
 ――守る。
 その言葉が、私には痛い。そのとき、保健室の扉が小さく開いた。保健委員の子が顔を出して、先生に紙を渡す。
「先生、担任の先生から」
 先生が受け取って目を通し、私を見る。
「朝倉さん。担任の先生が、放課後にもう一度話したいって」
 ――放課後。それまで、私はどうやって呼吸を保てばいい?
 先生は続けて言った。
「水野さんは、今教室にいるの?」
 私は首を振った。教室に戻ったのか、戻れていないのか、確認する勇気が私にはなかった。
「……分からないです」
 先生が静かに頷く。
「じゃあ、今は朝倉さん自身ね。水野さんのことを考えるのは、朝倉さんがまず落ち着いてから」
 そのとき、スマホが震えた。また知らないアカウントからの通知。既読もついていないのに、ひたすら増えていっている。私は画面を開かなかった。開いたら、また闇へ落とされる。でも、見たくないのに、見ないと想像が勝手に膨らむ。それに、美沙に伝えたい――これは美沙のせいじゃないよ、って。
 先生が私の手元を見て言った。
「朝倉さん。もし水野さんにメッセージを送るなら、今は『説明』は送らない方がいいと思う。こじれてしまうかもしれないから」
 私は顔を上げる。
「……じゃあ、何を?」
 先生は言葉を選んで、ゆっくり言った。
「あなたの息を戻す言葉。それだけを送ってみたらどうかな」
「――息を戻す言葉、ですか?」
「そう。朝倉さんは、これからどうしていきたい? 水野さんとの関係をこれからどうしていきたいのか、とか」
 ――息を戻す言葉。私が美沙とこれからどうしていきたいか、なんて……嘘をついた私がそんなこと望んでもいいの?
 私は考える。美沙の言葉を思い出す。
『来ないで』
『大丈夫だから』
 来ないで、は拒絶じゃない。きっと美沙の守り方の形だ。
 大丈夫だから、は盾。きっと美沙は、盾の裏で誰より怖がっているはず。
 私はスマホに短く打った。
『私は、美沙には美沙のままでいてほしい』
 送信。送った瞬間、指先が冷たくなった。でも、嘘じゃない言葉を選べたから、少しだけ肩の力が抜けた。
「それでいいと思うわ」
 先生は小さく言った。
 ――それでいい。
 その言葉が、保健室の薄い光の中で、灯みたいに残った。

 ベッドに横になり、天井を眺めていると、白い天井がだんだんぼんやり滲んできた。
 滲む白の中で、昨日から私と美沙に起こったことが流れ込んできて、胸が苦しくなってくる。なかなかおさまらなくて、どんどん熱を持っていく。私は何度も深く息を吸った。繰り返していくと、胸の奥の棘が少しだけ丸くなる。

 保健室の灯が、私の中の雨を、少しだけ乾かしてくれた。
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