透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第5話 「切り取られた声」

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 昼休みの教室は、笑い声とスマホの通知音が混ざって、薄い泡みたいに天井に溜まっていた。窓の外の陽射しは春らしいのに、教室の空気は乾いて冷たく、机の上の光だけが妙に刺さってくる。スマホの振動が掌を小さく叩くたび、切り取られた声がまた息をし始める。笑い声が弾むほど、胸の中の音が小さくなっていくようだった。
 美沙は机に突っ伏していた。――寝ているふり。昨夜の「無理」が、まだ体に残っている姿勢だ。
 ポケットの中の紙はどんどん熱を蓄えていっている。食欲がない。ここにいるのもイヤだ。私は、いたたまれない気持ちを抱えて、廊下に出た。眩しい白い壁が少し呼吸を楽にしてくれる。それでも胸の中は暗いまま、どこへ向かうでもなく、歩き始めた。

「朝倉」
 背中から呼ばれて振り返ると、担任の先生がいた。先生は私の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
「ちょっと来てくれ」
 私は頷いた。声が出なかった。
 制服の布が歩くたびに擦れて、小さな音が自分の不安を増幅させる。歩くたびにリボンが揺れ、揺れたぶんだけ心も揺れた。

 職員室の脇にある小さな面談スペース。人の出入りが見える場所なのに、ここだけ音が薄い感じがした。担任は椅子を引いて、私にも座るように手で示した。
「午前中、何があった?」
 私は息を吐いてから答えた。
「……何も……ないです」
 担任は、すぐには信じない目をした。でも強くは詰めてこない。高校の先生の距離感が、今はありがたい。
「水野のことで、噂が流れているのは知ってるか?」
(知ってる。知ってるどころじゃない。私が、そこに立ってしまっている)
 私は小さく頷く。
「……はい」
 担任は少し間を置いてから言った。
「SNSで、音声が回ってるって話が入ってる」
 喉がきゅっと固くなる。
「朝倉の声に似てると言われてるが、どうなんだ?」
 責めじゃなく、確認――確認の形をした刃だ。
 私は、さっき選んだ嘘を思い出す。ここで引っ込めたら、美沙に刺したままになる。刺したまま、私だけ助かる。それが一番卑怯だ。拳を握って、言った。
「……私です」
 担任の目が一瞬だけ動く。驚きとため息の間をおいて、「そうか」と責めずに、短く言った。
「回っているものは、切り取り加工がされている」
 その一言で、胃の奥が冷えた。
「切り取りって、知ってるか?」
 私は頷いた。――分かる。一番苦い形で分かる。
 担任の声が少し低くなる。
「昨夜から拡散が始まっていて、学校内だけでなく、保護者からも連絡がいくつか入ってきている」
 担任は私の目をまっすぐ見た。
「これ以上広がる前に、学校として動くことになった。でもその前に、朝倉に聞きたい。なぜあんなことを言った?」
 私は視線を落とした。
「……止めたかったから……です」
 担任が短く頷く。
「止めたかった、ね」
 それ以上は聞いてこなかった。代わりに言う。
「保健室に行きなさい。今の顔で授業に出るのはよくない」
「……はい」
 私は従うしかなかった。


 保健室のドアを開けると、カーテンが閉まっていて昼なのに薄暗かった。
「失礼します……先生、いないのかな」
 私は、入口近くのベッドに座って、スマホを見てみる。通知が増えていた。
 ――クラスのグループ。知らないアカウントからのメッセージ。リンク。スクショ。
 十分すぎる。私は、画面を伏せた。伏せても、耳の奥で文が、何度も再生されるようだった。

 怖いのに、でも確かめたくて、私はリンクを開いてしまった。

 暗い画面と音だけ。
 その一文だけが、息みたいに残る。前後がない。迷いがない。冷たい言葉だけが立っている。
 私の声なのに、私の声じゃないみたいだった。自分の口が、自分を知らないみたいだ。

 コメントが並んでいる。
『最低』
『やっぱり』
『こわ』
『水野ってそういうのあるよね』
『朝倉、意外と性格悪』

 文字の裏に、笑いが透けている。誰かが、軽く指で弾くみたいに、私を落としていく。
 私はスマホを閉じた。閉じても、耳に声が残っていて、私の中で反復する。

 いつの間にか戻ってきていた保健室の先生が、カーテン越しに声を落とした。
「大丈夫?」
 私は反射で答えてしまった。
「大丈夫です」
 ――大丈夫じゃないのに大丈夫と言うと、余計に逃げ場がなくなるのに。
 先生が近づいてきて、湯気の立つ紙コップをベッドサイドテーブルに置き、椅子に座った。
「白湯よ。飲んで」
 私は両手でカップを包んで、息を吐いた。白い湯気が、私を少しだけ現実に戻してくれるようだった。
 先生は静かに聞く。
「今、いちばん怖いのは何?」
 ――怖いもの? ――なに? 噂? ――違う。なら、自分? それも違う。いちばん怖いのは、美沙だ。
 美沙が私をどう見るか、美沙が私の嘘をどう受け取ったか、美沙ともう友達でいられないかもしれないことだ。
 私は、そのままは言えず、少しだけ形を変えた。
「……美沙が壊れるのが怖いです」
 先生が頷いた。
「うん」
 その『うん』が、責めない『うん』で、涙が出そうになる。
「でもね…… 少し担任の先生とも話したのだけど」
 先生が続けた。
「壊れないように守った嘘が、関係性や人を壊すこともあるのよ。朝倉さん、嘘ついてるんじゃない?」
 胸の奥に、針が一本刺さった。見抜かれてる気がした。
 先生は私の手元のスマホを見つめながら続ける。
「拡散は止められない。でも、切り取りは崩せると思う」
 私は顔を上げる。
「崩せる?」
 先生は頷く。
「切り取りの前後の録音が見つかれば、その会話と言った時に対する『見え方』が変わってくるはず」
 ――前後。
 私は一瞬、思考が止まった。
(そうだ、切り取りがあるなら、元の音声を誰かが持っているということだ)
 先生は、ゆっくり言った。
「あなたが『本当に言ったこと』があるなら、それを取り戻しなさい」
 ――取り戻す。
 取り戻したら、私の嘘は崩れる。美沙に、私の嘘がバレてしまう。
「……わかりました」
 喉が痛い。答えた瞬間、体が揺れる感じがした。
「少し休んでいきなさい」
 そう言い残し、先生は部屋から出ていった。


 保健室にひとりきり。時計の針だけが静かに進んでいく。その針の音だけが、味方のいない私をかろうじて『ここ』に引きとめているようだ。そのとき、スマホが震えた。美沙からだ。私は息を止めて、画面を開く。
『亜由美』
 次が来ない。言葉を探している時間。私は返事を打とうとして、手が止まった。どんな言葉も薄くなる。もう一通来る。
『どうして』
 その一言で、胸が潰れそうになる。『どうして』の答えは、美沙が一番聞きたいことで、私が一番言えないこと。だから、私は嘘を守ったまま返した。
『ごめんね』
 送信。指先が冷たくなる。美沙が欲しいのは説明なのに、『ごめんね』は説明じゃない。既読がついて、しばらくして返事が来た。
『もういい』
 ――もういい。終わりの言葉だ。
 私は立ち上がろうとして、足が動かなかった。動けないのに、胸の中だけが走る。美沙の所に行きたい。でも今行って、どうするの? なにも出来ない。嘘をついた瞬間から、こうなることはわかっていたのに、自分で決めてやったことなのに、もう私は自分の決断に揺らいでしまってる。
(私、弱いなぁ)
 手の甲とスマホの上に、ポタポタ涙が落ちて弾けた。
 私は白湯を飲み干した。喉の奥の熱で、自分の形を保つ。

 外は晴れているのに、私の中だけ雨が降っている。吐いた息が消えるたびに、私の中の「ごめん」だけが増えていった。
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