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第4話 「私が言った」
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四月十八日。
私は、空が白み始める前に目が醒めた。
通話は、いつ切れたのか分からない。枕元のスマホは熱を持っていて、画面には履歴だけが残っていた。
まだ、昨夜の通話の熱だけが指先に残っている。まだ、耳の奥に、美沙の細くて、長くて、夜の底をなぞるみたいな呼吸の音が残っている。
制服の袖を通す指先が、いつもより遅い。ボタンを留めるたび、自然とため息を吐いていた。
学校へ向かう道の空は明るい。明るいのに、私の視界だけが少し灰色だった。制服の襟元から入る乾いた風が、昨日の湿り気を消してくれるのに、心は重いままだった。
――昨日聞いた美沙の噂。
――昨夜美沙から聞いた夕紀の話。
急に湧き出てきた出来事に、どうしたらいいのかわからないまま、私は校門をくぐった。
教室のざわめきが近づくほど、胃の奥がきゅっと縮んだ。教室に入ると、空気は昨日より軽かった。でも、笑い声が増えていて、増えた笑い声は同じ方向を向いている。私は自分の席に座る前に、美沙の席を見た――空いている。机の上には、返却された提出物のノートが置かれていた。
(美沙は、来る)
そう思ったから、今朝、メッセージを送らなかった。来ないかなと思っていても、来る。今まで、美沙はそうだった。そういうふうに、ずっと生きてきた子だったから。
ホームルームが始まる少し前、教室のドアが開いて、美沙が入ってきた。私は、ホッとすると同時に息を吸い損ねそうになった。昨夜の声が重なって、胸の奥が痛い。美沙はまっすぐ席へ行く。誰とも目を合わせないのに、落ち着いている、落ち着いているふりをしている。そして私の横を通る瞬間だけ、声が落ちた。
「平気」
それはまるで、『触れないで』という合図のようだった。
「……うん」
私は頷いた。
一限目の先生が入ってきて、出席を取り始めた。美沙は、同じ喉から出ているのに、別人みたいに綺麗な整った声で、「はい」と返事をしていた。
授業が始まると、教室は一応、静かになる。でも静けさは、板書の音に守られているだけだった。
一時間目が終わり、先生が教室を去ると、途端にざわめきが戻ってきた。私は、隣の席の美沙に話しかけようとした直前、誰かが、私の机の横に立つ。
――昨日、噂の中心で笑っていた子、佐原だ。スマホを握っている。
「朝倉さ」
硬い小さな囁く声に、私は顔を上げた。佐原は、にやりともせず、今日は「心配してるふり」の顔をしていた。
「水野、大丈夫?」
隣に座っていた美沙は、いつの間にか居なくなっていた。
(答えたくない。答えたら、美沙の状態を私が説明することになってしまう)
「……大丈夫だと思う」
曖昧に言うと、佐原は首を傾げた。
「そ。ならよかった」
軽い笑い――重いものを運んでくる軽い笑いをしている。
「でもさ」
声が少しだけ低くなる。
「夕紀って子と、結局なにがあったの?」
(……なんで『夕紀』を知ってるの?)
自分たちが知らない人なのに、知っている人のように、佐原たちは平気で口にしている。それが、私の心を引っ掻く。
私は、声が揺れないように、息を長く吐いた。
「知らない。美沙に聞いてよ」
佐原は肩をすくめた。
「聞けるわけないじゃん。怖いもん。朝倉なら知ってると思ったのにぃ」
佐原は、ニヤリと笑って、去り際に机に小さな紙を置いていった。
何も考えずに、その紙を開くと、『#近いの嫌』と書かれている。
(なにこれ?)
検索をしてみると、SNSのグループチャットに投稿された音声にヒットした。
イヤフォンを取り出して、聞いてみる――聞いた瞬間、心臓が凍った。
『美沙は、美沙だよ。私、そういう噂の中心にいる人と近いの嫌』
#近いの嫌 #常盤高校 #朝倉 #水野
――記憶にある言葉。
私の言葉だ。昨日の昼休み、佐原に美沙のことを聞かれて、私が言った言葉だ。
(録音されてた?)
頭の中が真っ白になって、息が浅くなる。指先から冷たくなっていく。耳の奥で、さっきの文が勝手に再生されているように聞こえる。
『証拠』の形になった噂が、そこにある。
(どうしよう…… 噂の中心に立たされてしまった……)
私は紙を握りつぶした。握りつぶしても、消えない。違う――握りつぶしたのは、握りつぶされたのは、紙じゃなくて、私の居場所だ。きっと、もう広がっている。
背後で、誰かが笑った。声を抑えた笑い。抑えた感じが、余計に残酷だった。
私は立ち上がって、教室を出た。水を飲みに行くふり、顔を洗いに行くふり、逃げるための理由はいくらでもある。
廊下の窓際で、私は深く息を吐いた。何度も息を吐いて、やっと吸う。吸った瞬間、胸が痛い。空気が、刃みたいに入ってくる。そのとき、背中から声がした。
「亜由美」
美沙だった。私は振り返れなかった。振り返ったら、顔が崩れる。崩れた顔を見られたら、もう戻れない気がした。美沙が隣に立つ。距離は近いのに、触れない。
美沙は握りつぶした紙を指して、「……それ、見た」
美沙の、平らなのに揺れた声に、私は涙が出そうになった。
「……うん」
喉が痛い。うん、と言うだけで痛い。美沙は少し黙って、それから笑った。いつもの笑う癖が出ていた。
「平気だから」
――また、平気って言うんだ。
私は耐えられなくて、言ってしまった。
「平気じゃないでしょ?」
美沙の笑いが一瞬止まって、戻ろうとする。
「大丈夫だから」
繰り返しが、私を追い詰めていくようだった。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。それが美沙の命綱で、同時に首輪だ。私は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みがあると、ここで立っていられる気がした。言わなきゃ、と頭のどこかが言う。言ったら壊れる、と別のどこかが言う。迷っている時間が、いちばん残酷だ。真実を言えば、美沙は崩れるかもしれない。嘘を言えば、美沙を傷つける。分かっているのに、私は選んだ。そして、私は息を吐いてから言う。
「……あれ、私が言った」
言った瞬間、喉の奥が熱くなる。体の中で、何かが折れる音がした気がした。美沙が初めて、まっすぐ私を見た。
「え?」
「私が、噂、流したって言った」
嘘は声の温度まで変えるのか、私は言いながら、自分の舌が冷たくなっていくのを感じた。美沙の目が揺れて息が止まる。
「なんで?」
責める声じゃない。信じたい声だ。だから余計に刺さった。私は胸の奥が痛いのに、続けた。
「止めたかった」
(止めたかったのは本当だ。でも、止め方が間違っている。それはわかってる、でも――)
「美沙が、夕紀のことで噂されるのが嫌だったの」
美沙の唇が震える。それから、小さく言う。
「……亜由美、優しいふり」
――優しいふり。
その言葉が、いちばん痛いところを押してくる。私は言い返せなかった。否定もできない。否定したら、嘘の上に嘘を乗せるだけだ。
「ごめんね」
口癖で逃げ、逃げるみたいに謝った。美沙の伏せた目の下に影が溜まっていく。
「……じゃあ、亜由美が悪いの?」
――悪い?
原因を一つにしたい美沙の声に、私は頷いた。
「……うん」
その頷きが、首を絞める縄になる。分かっているのに、頷いた。美沙は短く息を吐く。
「……だったら、もういい」
――もういい。終わりの言葉だ。こぼれそうな涙を飲み込んだ。
「美沙」
私が呼んでも、美沙は振り向かない。
「平気」
振り向かないまま、いつもの言葉を置く。
「大丈夫だから」
その言葉が胸に刺さる。
――大丈夫だから、放っておいて。
――大丈夫だから、追わないで。
美沙は教室へ戻っていった。廊下に残されたのは、私と、握りつぶした紙の感触だけ。私はその紙を、ポケットの中でもう一度握りしめた。
嘘は、こうやって形を変えて残る。守るために選んだ嘘ほど、あとでいちばん痛い場所に戻ってくる。守りたかったはずなのに、私の言葉はいつも、少しだけ遅かった。
私は、空が白み始める前に目が醒めた。
通話は、いつ切れたのか分からない。枕元のスマホは熱を持っていて、画面には履歴だけが残っていた。
まだ、昨夜の通話の熱だけが指先に残っている。まだ、耳の奥に、美沙の細くて、長くて、夜の底をなぞるみたいな呼吸の音が残っている。
制服の袖を通す指先が、いつもより遅い。ボタンを留めるたび、自然とため息を吐いていた。
学校へ向かう道の空は明るい。明るいのに、私の視界だけが少し灰色だった。制服の襟元から入る乾いた風が、昨日の湿り気を消してくれるのに、心は重いままだった。
――昨日聞いた美沙の噂。
――昨夜美沙から聞いた夕紀の話。
急に湧き出てきた出来事に、どうしたらいいのかわからないまま、私は校門をくぐった。
教室のざわめきが近づくほど、胃の奥がきゅっと縮んだ。教室に入ると、空気は昨日より軽かった。でも、笑い声が増えていて、増えた笑い声は同じ方向を向いている。私は自分の席に座る前に、美沙の席を見た――空いている。机の上には、返却された提出物のノートが置かれていた。
(美沙は、来る)
そう思ったから、今朝、メッセージを送らなかった。来ないかなと思っていても、来る。今まで、美沙はそうだった。そういうふうに、ずっと生きてきた子だったから。
ホームルームが始まる少し前、教室のドアが開いて、美沙が入ってきた。私は、ホッとすると同時に息を吸い損ねそうになった。昨夜の声が重なって、胸の奥が痛い。美沙はまっすぐ席へ行く。誰とも目を合わせないのに、落ち着いている、落ち着いているふりをしている。そして私の横を通る瞬間だけ、声が落ちた。
「平気」
それはまるで、『触れないで』という合図のようだった。
「……うん」
私は頷いた。
一限目の先生が入ってきて、出席を取り始めた。美沙は、同じ喉から出ているのに、別人みたいに綺麗な整った声で、「はい」と返事をしていた。
授業が始まると、教室は一応、静かになる。でも静けさは、板書の音に守られているだけだった。
一時間目が終わり、先生が教室を去ると、途端にざわめきが戻ってきた。私は、隣の席の美沙に話しかけようとした直前、誰かが、私の机の横に立つ。
――昨日、噂の中心で笑っていた子、佐原だ。スマホを握っている。
「朝倉さ」
硬い小さな囁く声に、私は顔を上げた。佐原は、にやりともせず、今日は「心配してるふり」の顔をしていた。
「水野、大丈夫?」
隣に座っていた美沙は、いつの間にか居なくなっていた。
(答えたくない。答えたら、美沙の状態を私が説明することになってしまう)
「……大丈夫だと思う」
曖昧に言うと、佐原は首を傾げた。
「そ。ならよかった」
軽い笑い――重いものを運んでくる軽い笑いをしている。
「でもさ」
声が少しだけ低くなる。
「夕紀って子と、結局なにがあったの?」
(……なんで『夕紀』を知ってるの?)
自分たちが知らない人なのに、知っている人のように、佐原たちは平気で口にしている。それが、私の心を引っ掻く。
私は、声が揺れないように、息を長く吐いた。
「知らない。美沙に聞いてよ」
佐原は肩をすくめた。
「聞けるわけないじゃん。怖いもん。朝倉なら知ってると思ったのにぃ」
佐原は、ニヤリと笑って、去り際に机に小さな紙を置いていった。
何も考えずに、その紙を開くと、『#近いの嫌』と書かれている。
(なにこれ?)
検索をしてみると、SNSのグループチャットに投稿された音声にヒットした。
イヤフォンを取り出して、聞いてみる――聞いた瞬間、心臓が凍った。
『美沙は、美沙だよ。私、そういう噂の中心にいる人と近いの嫌』
#近いの嫌 #常盤高校 #朝倉 #水野
――記憶にある言葉。
私の言葉だ。昨日の昼休み、佐原に美沙のことを聞かれて、私が言った言葉だ。
(録音されてた?)
頭の中が真っ白になって、息が浅くなる。指先から冷たくなっていく。耳の奥で、さっきの文が勝手に再生されているように聞こえる。
『証拠』の形になった噂が、そこにある。
(どうしよう…… 噂の中心に立たされてしまった……)
私は紙を握りつぶした。握りつぶしても、消えない。違う――握りつぶしたのは、握りつぶされたのは、紙じゃなくて、私の居場所だ。きっと、もう広がっている。
背後で、誰かが笑った。声を抑えた笑い。抑えた感じが、余計に残酷だった。
私は立ち上がって、教室を出た。水を飲みに行くふり、顔を洗いに行くふり、逃げるための理由はいくらでもある。
廊下の窓際で、私は深く息を吐いた。何度も息を吐いて、やっと吸う。吸った瞬間、胸が痛い。空気が、刃みたいに入ってくる。そのとき、背中から声がした。
「亜由美」
美沙だった。私は振り返れなかった。振り返ったら、顔が崩れる。崩れた顔を見られたら、もう戻れない気がした。美沙が隣に立つ。距離は近いのに、触れない。
美沙は握りつぶした紙を指して、「……それ、見た」
美沙の、平らなのに揺れた声に、私は涙が出そうになった。
「……うん」
喉が痛い。うん、と言うだけで痛い。美沙は少し黙って、それから笑った。いつもの笑う癖が出ていた。
「平気だから」
――また、平気って言うんだ。
私は耐えられなくて、言ってしまった。
「平気じゃないでしょ?」
美沙の笑いが一瞬止まって、戻ろうとする。
「大丈夫だから」
繰り返しが、私を追い詰めていくようだった。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。それが美沙の命綱で、同時に首輪だ。私は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みがあると、ここで立っていられる気がした。言わなきゃ、と頭のどこかが言う。言ったら壊れる、と別のどこかが言う。迷っている時間が、いちばん残酷だ。真実を言えば、美沙は崩れるかもしれない。嘘を言えば、美沙を傷つける。分かっているのに、私は選んだ。そして、私は息を吐いてから言う。
「……あれ、私が言った」
言った瞬間、喉の奥が熱くなる。体の中で、何かが折れる音がした気がした。美沙が初めて、まっすぐ私を見た。
「え?」
「私が、噂、流したって言った」
嘘は声の温度まで変えるのか、私は言いながら、自分の舌が冷たくなっていくのを感じた。美沙の目が揺れて息が止まる。
「なんで?」
責める声じゃない。信じたい声だ。だから余計に刺さった。私は胸の奥が痛いのに、続けた。
「止めたかった」
(止めたかったのは本当だ。でも、止め方が間違っている。それはわかってる、でも――)
「美沙が、夕紀のことで噂されるのが嫌だったの」
美沙の唇が震える。それから、小さく言う。
「……亜由美、優しいふり」
――優しいふり。
その言葉が、いちばん痛いところを押してくる。私は言い返せなかった。否定もできない。否定したら、嘘の上に嘘を乗せるだけだ。
「ごめんね」
口癖で逃げ、逃げるみたいに謝った。美沙の伏せた目の下に影が溜まっていく。
「……じゃあ、亜由美が悪いの?」
――悪い?
原因を一つにしたい美沙の声に、私は頷いた。
「……うん」
その頷きが、首を絞める縄になる。分かっているのに、頷いた。美沙は短く息を吐く。
「……だったら、もういい」
――もういい。終わりの言葉だ。こぼれそうな涙を飲み込んだ。
「美沙」
私が呼んでも、美沙は振り向かない。
「平気」
振り向かないまま、いつもの言葉を置く。
「大丈夫だから」
その言葉が胸に刺さる。
――大丈夫だから、放っておいて。
――大丈夫だから、追わないで。
美沙は教室へ戻っていった。廊下に残されたのは、私と、握りつぶした紙の感触だけ。私はその紙を、ポケットの中でもう一度握りしめた。
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