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第3話 「夜の名前」
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「結局、今日は美沙に会えなかったなぁ」
私は、溜息をついた。
夜から降り始めた雨は、街灯の光を細く割って、窓ガラスに静かな線を引いている。夜の静けさに混ざって、遠い車のタイヤが水を切る音が届く。夜の雨は、昼より静かだ。音が小さいぶん、心臓の音が大きく聞こえる。スマホの光だけが、部屋の輪郭を冷たく切っている。
スマホの画面が光るたび、心臓が小さく跳ねる。
昼からずっと待ってたけど、夕紀から返事は来なかった。既読もつかない。それでも私は、スマホを手放せないでいた。ベッドの上で膝を抱えて、画面を見つめる。何度も。意味がないのに、意味があるみたいに。
夕紀の名前が光ったのは、昼休みだった。『美沙は、大丈夫ですか』の一文が、胸の奥に貼りついている。『大丈夫』という言葉が、今日は何度も出てくる。美沙も言った。夕紀も聞いてきた。
時計を見ると、十時を過ぎていた。台所の灯りが消えて、家が少しずつ眠りの形になっていく。
私は、またメッセージを打って……消した。打って、消して、打って、消して。送信ボタンの手前で、指が止まる。押したら、薄くなる気がした。そのとき、スマホが震えた。
――美沙。
胸の奥が跳ねて、指先が冷たくなる。私は急いでメッセージを開いた。
『今日はごめん。行けなかった。でも平気だから』
それだけ。
――平気。また平気。
私は返そうとして、言葉が出なかった。平気と言う人に、平気かと聞くのは、矛盾している。聞かないのも、見捨てるみたいで、怖い。結局、短く打つ。
『ほんとに平気?』
送信した瞬間、胃のあたりがひゅっと縮んだ。重い。押しつけてる。美沙は、こういう質問が苦手だ。既読がつく。すぐに返事が来る。
『大丈夫だから』
そこで止まる。『大丈夫だから』の後に何が続くのか、続きを知りたいのに、続きを奪うのが怖い。私は、もう一度だけ送った。
『声、聞いてもいい?』
既読。少し間が空く。その間、私は、雨の音を数えた。屋根に当たる音、窓に当たる音、遠くを走る車の音。数えているうちに、自分の息が浅いことに気づく。そして、美沙から着信。
「もしもし」
返事がない。
「美沙? 聞こえてる?」
少し遅れて、小さな声。
「……うん」
その一音だけで分かる。息が、浅くて、速い。どこかで引っかかってる。
「美沙……息が変だよ」
電話の向こうで、空気が詰まる音がした。
「……っ」
私は反射で言った。
「先に吐いて! 長く吐いて」
自分の声が、思ったより硬いことに自分でも驚いた。美沙が息を吐く音が聞こえる。でも、短く途切れる。
「もう一回。しっかり吐いて」
私は自分も「ふー」と吐いた。長く吐くほど、怖さが床に落ちる気がした。電話の向こうでも、同じ音が返る。少しだけ長くなる。続けて、深く息を吸い込む音が聞こえてきた。
「……今、どこ」
「……ベッド」
「立てる?」
「……無理」
――無理。その言葉は、さっきまでの平気より正直だ。痛いのに、嘘が一枚剥がれたみたいで、少しだけ安心した。
「窓、開いてる?」
「……閉めてる」
「うん、それがいいよ。寒いと余計、苦しくなるから」
私は言いながら、自分の手が震えているのに気づいた。震えを隠すみたいに、スマホを握り直す。
「吸おうとしなくていい。しっかり吐けば、吸えるようになるから」
美沙が、小さく笑う音を立てた。泣きそうな息に聞こえた。
「……亜由美、変なとこで冷静」
「ごめんね」
口が勝手に動いた。謝る場所じゃないのに、謝る癖だけが、先に出てしまう。
「中学の時、吹奏楽のコンクール直前に、緊張で過呼吸になっちゃった子がいて、その時に教えてもらったの。……役に立った……かな?」
美沙は何も言わない。代わりに、息が少しずつ長くなる。長くなるたびに、私の胸の奥が痛く軋む感じだった。沈黙が続いていると、喉が動く音が聞こえてきた。言葉を飲み込む音。
「……名前が、出てくる」
「名前?」
「……うん」
「なんて名前?」
しばらくして、やっと美沙の声が落ちた。
「……夕紀」
――夕紀。
その名前が、暗い部屋に落ちたみたいに重くのしかかってきた。昼の廊下で見た文字が、今度は声になって私に迫ってきている感じがした。私は喉が固まってしまった。でも、固まったままだと美沙が沈んでしまう。
「夕紀から……連絡来た、とか?」
「……違う……違うの」
「……」
私が黙っていると、美沙の震えた声が届いた。
「……昨日、休み時間に……中学の出身校の話になって……二年前……常盤第一中が合唱コンクールに……急に出場停止になった理由を聞かれて……」
「うん」
「……SNS拡散のこととかも聞かれて……」
「うん」
「……」
美沙は答えないまま、また息が速くなった。呼吸が少し戻ったところで、美沙はやっと言った。
「……それで……」
「うん」
私は受け止めるしかない。美沙が続ける。
「……目が」
「目?」
「……なんか……みんなの目が……知ってるような目で……怖くなったの……それで夕紀が……頭の中に、夕紀が『もう行けない』って言った日のことが戻ってきて……」
美沙の声が、糸みたいに細くなる。
――『もう行けない』って言った日。美沙にそんなことがあったんだ。私は知らなかった。
「……美沙、その日、何があったの?」
言った瞬間、失敗したと分かった。踏み込みすぎた。美沙の息が止まる。止まって、すぐに乱れる。
「ごめんね」
私はすぐに言った。
「言わなくていいよ」
美沙は、泣くみたいに息を吐いた。
「……亜由美」
「なに?」
「……私、最低」
――最低。美沙は、自分にそれを言う。誰より自分を責める。
「最低って言わないで」
否定したいのに、否定すると沈むのが分かる。だから私は、言葉を選び直した。美沙が小さく言った。
「……私、なにもできなかったの」
「そっか」
私が頷くと、美沙はすぐに言う。
「……違うの」
――違うの。これは訂正? それとも助け?
「私は助けたかったんだけど、みんなが笑ってて……そういう空気で」
――空気。空気が人を動かして、空気が人を壊す。
「それで、夕紀が」
美沙の声が途切れる。喉の奥で何かが詰まる音がする。
「……夕紀が、消えた」
――消えた? 学校に来なくなったってこと?
私は、中学の時、他のクラスで学校に来なくなった子がいると、聞いたのを思い出していた。でも、私は、吹奏楽部のコンクールで忙しくて、聞いたけど、聞き流した。
(その子が夕紀、なのかな? 美沙が関わっているってこと?)
「美沙」
私は言った。
「今、ひとり?」
「……うん」
「お母さんは?」
「寝てる」
私は立ち上がってしまった。座っているのが無理だった。足の裏が床に触れる感触が現実で、少しだけ助けになる。
「……行く」
気づいたら言っていた。電話の向こうで、美沙の息が止まる。
「来ないで」
『これ以上立ち入らないで』と防御されているみたいな強い声。
――行きたい。でも来ないでと言われた。側にいられない。
「……わかった」
ハッキリと言いきられてしまったことに少し戸惑いながらも、自分を落ち着かせようと、私はもう一度ベッドに座った。引いたことが正しいのか分からない。美沙は少しだけ弱い声で続けた。
「……大丈夫だから」
――大丈夫だから。来ないで、の形をしたお願いに聞こえた。
私は深く息を吐いて、言った。
「じゃあ、電話は切らない」
美沙が小さく息を吐く。
「……うん」
「眠くなるまで、繋いでる」
美沙は黙る。呼吸はさっきより整っていた。そして、長い沈黙の後、規則正しい美沙の息が聞こえてきて、寝ついたのがわかった。私も寝ようと思って横になった時、美沙の微かな声が届いた。
「……ゆ」
――夕紀。
きっと美沙は、そう言おうとしたんだ。美沙は、呼吸が浅くなってしまうほどに、夢に出てくるほどに、追い詰められてる。それがわかったのに、私は、美沙になにもできないでいる。自分の無力さを涙と共に痛感した夜だった。
私は、溜息をついた。
夜から降り始めた雨は、街灯の光を細く割って、窓ガラスに静かな線を引いている。夜の静けさに混ざって、遠い車のタイヤが水を切る音が届く。夜の雨は、昼より静かだ。音が小さいぶん、心臓の音が大きく聞こえる。スマホの光だけが、部屋の輪郭を冷たく切っている。
スマホの画面が光るたび、心臓が小さく跳ねる。
昼からずっと待ってたけど、夕紀から返事は来なかった。既読もつかない。それでも私は、スマホを手放せないでいた。ベッドの上で膝を抱えて、画面を見つめる。何度も。意味がないのに、意味があるみたいに。
夕紀の名前が光ったのは、昼休みだった。『美沙は、大丈夫ですか』の一文が、胸の奥に貼りついている。『大丈夫』という言葉が、今日は何度も出てくる。美沙も言った。夕紀も聞いてきた。
時計を見ると、十時を過ぎていた。台所の灯りが消えて、家が少しずつ眠りの形になっていく。
私は、またメッセージを打って……消した。打って、消して、打って、消して。送信ボタンの手前で、指が止まる。押したら、薄くなる気がした。そのとき、スマホが震えた。
――美沙。
胸の奥が跳ねて、指先が冷たくなる。私は急いでメッセージを開いた。
『今日はごめん。行けなかった。でも平気だから』
それだけ。
――平気。また平気。
私は返そうとして、言葉が出なかった。平気と言う人に、平気かと聞くのは、矛盾している。聞かないのも、見捨てるみたいで、怖い。結局、短く打つ。
『ほんとに平気?』
送信した瞬間、胃のあたりがひゅっと縮んだ。重い。押しつけてる。美沙は、こういう質問が苦手だ。既読がつく。すぐに返事が来る。
『大丈夫だから』
そこで止まる。『大丈夫だから』の後に何が続くのか、続きを知りたいのに、続きを奪うのが怖い。私は、もう一度だけ送った。
『声、聞いてもいい?』
既読。少し間が空く。その間、私は、雨の音を数えた。屋根に当たる音、窓に当たる音、遠くを走る車の音。数えているうちに、自分の息が浅いことに気づく。そして、美沙から着信。
「もしもし」
返事がない。
「美沙? 聞こえてる?」
少し遅れて、小さな声。
「……うん」
その一音だけで分かる。息が、浅くて、速い。どこかで引っかかってる。
「美沙……息が変だよ」
電話の向こうで、空気が詰まる音がした。
「……っ」
私は反射で言った。
「先に吐いて! 長く吐いて」
自分の声が、思ったより硬いことに自分でも驚いた。美沙が息を吐く音が聞こえる。でも、短く途切れる。
「もう一回。しっかり吐いて」
私は自分も「ふー」と吐いた。長く吐くほど、怖さが床に落ちる気がした。電話の向こうでも、同じ音が返る。少しだけ長くなる。続けて、深く息を吸い込む音が聞こえてきた。
「……今、どこ」
「……ベッド」
「立てる?」
「……無理」
――無理。その言葉は、さっきまでの平気より正直だ。痛いのに、嘘が一枚剥がれたみたいで、少しだけ安心した。
「窓、開いてる?」
「……閉めてる」
「うん、それがいいよ。寒いと余計、苦しくなるから」
私は言いながら、自分の手が震えているのに気づいた。震えを隠すみたいに、スマホを握り直す。
「吸おうとしなくていい。しっかり吐けば、吸えるようになるから」
美沙が、小さく笑う音を立てた。泣きそうな息に聞こえた。
「……亜由美、変なとこで冷静」
「ごめんね」
口が勝手に動いた。謝る場所じゃないのに、謝る癖だけが、先に出てしまう。
「中学の時、吹奏楽のコンクール直前に、緊張で過呼吸になっちゃった子がいて、その時に教えてもらったの。……役に立った……かな?」
美沙は何も言わない。代わりに、息が少しずつ長くなる。長くなるたびに、私の胸の奥が痛く軋む感じだった。沈黙が続いていると、喉が動く音が聞こえてきた。言葉を飲み込む音。
「……名前が、出てくる」
「名前?」
「……うん」
「なんて名前?」
しばらくして、やっと美沙の声が落ちた。
「……夕紀」
――夕紀。
その名前が、暗い部屋に落ちたみたいに重くのしかかってきた。昼の廊下で見た文字が、今度は声になって私に迫ってきている感じがした。私は喉が固まってしまった。でも、固まったままだと美沙が沈んでしまう。
「夕紀から……連絡来た、とか?」
「……違う……違うの」
「……」
私が黙っていると、美沙の震えた声が届いた。
「……昨日、休み時間に……中学の出身校の話になって……二年前……常盤第一中が合唱コンクールに……急に出場停止になった理由を聞かれて……」
「うん」
「……SNS拡散のこととかも聞かれて……」
「うん」
「……」
美沙は答えないまま、また息が速くなった。呼吸が少し戻ったところで、美沙はやっと言った。
「……それで……」
「うん」
私は受け止めるしかない。美沙が続ける。
「……目が」
「目?」
「……なんか……みんなの目が……知ってるような目で……怖くなったの……それで夕紀が……頭の中に、夕紀が『もう行けない』って言った日のことが戻ってきて……」
美沙の声が、糸みたいに細くなる。
――『もう行けない』って言った日。美沙にそんなことがあったんだ。私は知らなかった。
「……美沙、その日、何があったの?」
言った瞬間、失敗したと分かった。踏み込みすぎた。美沙の息が止まる。止まって、すぐに乱れる。
「ごめんね」
私はすぐに言った。
「言わなくていいよ」
美沙は、泣くみたいに息を吐いた。
「……亜由美」
「なに?」
「……私、最低」
――最低。美沙は、自分にそれを言う。誰より自分を責める。
「最低って言わないで」
否定したいのに、否定すると沈むのが分かる。だから私は、言葉を選び直した。美沙が小さく言った。
「……私、なにもできなかったの」
「そっか」
私が頷くと、美沙はすぐに言う。
「……違うの」
――違うの。これは訂正? それとも助け?
「私は助けたかったんだけど、みんなが笑ってて……そういう空気で」
――空気。空気が人を動かして、空気が人を壊す。
「それで、夕紀が」
美沙の声が途切れる。喉の奥で何かが詰まる音がする。
「……夕紀が、消えた」
――消えた? 学校に来なくなったってこと?
私は、中学の時、他のクラスで学校に来なくなった子がいると、聞いたのを思い出していた。でも、私は、吹奏楽部のコンクールで忙しくて、聞いたけど、聞き流した。
(その子が夕紀、なのかな? 美沙が関わっているってこと?)
「美沙」
私は言った。
「今、ひとり?」
「……うん」
「お母さんは?」
「寝てる」
私は立ち上がってしまった。座っているのが無理だった。足の裏が床に触れる感触が現実で、少しだけ助けになる。
「……行く」
気づいたら言っていた。電話の向こうで、美沙の息が止まる。
「来ないで」
『これ以上立ち入らないで』と防御されているみたいな強い声。
――行きたい。でも来ないでと言われた。側にいられない。
「……わかった」
ハッキリと言いきられてしまったことに少し戸惑いながらも、自分を落ち着かせようと、私はもう一度ベッドに座った。引いたことが正しいのか分からない。美沙は少しだけ弱い声で続けた。
「……大丈夫だから」
――大丈夫だから。来ないで、の形をしたお願いに聞こえた。
私は深く息を吐いて、言った。
「じゃあ、電話は切らない」
美沙が小さく息を吐く。
「……うん」
「眠くなるまで、繋いでる」
美沙は黙る。呼吸はさっきより整っていた。そして、長い沈黙の後、規則正しい美沙の息が聞こえてきて、寝ついたのがわかった。私も寝ようと思って横になった時、美沙の微かな声が届いた。
「……ゆ」
――夕紀。
きっと美沙は、そう言おうとしたんだ。美沙は、呼吸が浅くなってしまうほどに、夢に出てくるほどに、追い詰められてる。それがわかったのに、私は、美沙になにもできないでいる。自分の無力さを涙と共に痛感した夜だった。
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