透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

文字の大きさ
4 / 29

第3話 「夜の名前」

しおりを挟む
「結局、今日は美沙に会えなかったなぁ」
 私は、溜息をついた。
 夜から降り始めた雨は、街灯の光を細く割って、窓ガラスに静かな線を引いている。夜の静けさに混ざって、遠い車のタイヤが水を切る音が届く。夜の雨は、昼より静かだ。音が小さいぶん、心臓の音が大きく聞こえる。スマホの光だけが、部屋の輪郭を冷たく切っている。

 スマホの画面が光るたび、心臓が小さく跳ねる。
 昼からずっと待ってたけど、夕紀から返事は来なかった。既読もつかない。それでも私は、スマホを手放せないでいた。ベッドの上で膝を抱えて、画面を見つめる。何度も。意味がないのに、意味があるみたいに。
 夕紀の名前が光ったのは、昼休みだった。『美沙は、大丈夫ですか』の一文が、胸の奥に貼りついている。『大丈夫』という言葉が、今日は何度も出てくる。美沙も言った。夕紀も聞いてきた。

 時計を見ると、十時を過ぎていた。台所の灯りが消えて、家が少しずつ眠りの形になっていく。
 私は、またメッセージを打って……消した。打って、消して、打って、消して。送信ボタンの手前で、指が止まる。押したら、薄くなる気がした。そのとき、スマホが震えた。
 ――美沙。
 胸の奥が跳ねて、指先が冷たくなる。私は急いでメッセージを開いた。

『今日はごめん。行けなかった。でも平気だから』

 それだけ。
 ――平気。また平気。
 私は返そうとして、言葉が出なかった。平気と言う人に、平気かと聞くのは、矛盾している。聞かないのも、見捨てるみたいで、怖い。結局、短く打つ。

『ほんとに平気?』
 送信した瞬間、胃のあたりがひゅっと縮んだ。重い。押しつけてる。美沙は、こういう質問が苦手だ。既読がつく。すぐに返事が来る。

『大丈夫だから』
 そこで止まる。『大丈夫だから』の後に何が続くのか、続きを知りたいのに、続きを奪うのが怖い。私は、もう一度だけ送った。

『声、聞いてもいい?』
 既読。少し間が空く。その間、私は、雨の音を数えた。屋根に当たる音、窓に当たる音、遠くを走る車の音。数えているうちに、自分の息が浅いことに気づく。そして、美沙から着信。

「もしもし」
 返事がない。
「美沙? 聞こえてる?」
 少し遅れて、小さな声。
「……うん」
 その一音だけで分かる。息が、浅くて、速い。どこかで引っかかってる。
「美沙……息が変だよ」
 電話の向こうで、空気が詰まる音がした。
「……っ」
 私は反射で言った。
「先に吐いて! 長く吐いて」
 自分の声が、思ったより硬いことに自分でも驚いた。美沙が息を吐く音が聞こえる。でも、短く途切れる。
「もう一回。しっかり吐いて」
 私は自分も「ふー」と吐いた。長く吐くほど、怖さが床に落ちる気がした。電話の向こうでも、同じ音が返る。少しだけ長くなる。続けて、深く息を吸い込む音が聞こえてきた。
「……今、どこ」
「……ベッド」
「立てる?」
「……無理」
 ――無理。その言葉は、さっきまでの平気より正直だ。痛いのに、嘘が一枚剥がれたみたいで、少しだけ安心した。
「窓、開いてる?」
「……閉めてる」
「うん、それがいいよ。寒いと余計、苦しくなるから」
 私は言いながら、自分の手が震えているのに気づいた。震えを隠すみたいに、スマホを握り直す。
「吸おうとしなくていい。しっかり吐けば、吸えるようになるから」
 美沙が、小さく笑う音を立てた。泣きそうな息に聞こえた。
「……亜由美、変なとこで冷静」
「ごめんね」
 口が勝手に動いた。謝る場所じゃないのに、謝る癖だけが、先に出てしまう。
「中学の時、吹奏楽のコンクール直前に、緊張で過呼吸になっちゃった子がいて、その時に教えてもらったの。……役に立った……かな?」
 美沙は何も言わない。代わりに、息が少しずつ長くなる。長くなるたびに、私の胸の奥が痛く軋む感じだった。沈黙が続いていると、喉が動く音が聞こえてきた。言葉を飲み込む音。
「……名前が、出てくる」
「名前?」
「……うん」
「なんて名前?」
 しばらくして、やっと美沙の声が落ちた。
「……夕紀」
 ――夕紀。
 その名前が、暗い部屋に落ちたみたいに重くのしかかってきた。昼の廊下で見た文字が、今度は声になって私に迫ってきている感じがした。私は喉が固まってしまった。でも、固まったままだと美沙が沈んでしまう。
「夕紀から……連絡来た、とか?」
「……違う……違うの」
「……」
 私が黙っていると、美沙の震えた声が届いた。
「……昨日、休み時間に……中学の出身校の話になって……二年前……常盤第一中が合唱コンクールに……急に出場停止になった理由を聞かれて……」
「うん」
「……SNS拡散のこととかも聞かれて……」
「うん」
「……」
 美沙は答えないまま、また息が速くなった。呼吸が少し戻ったところで、美沙はやっと言った。
「……それで……」
「うん」
 私は受け止めるしかない。美沙が続ける。
「……目が」
「目?」
「……なんか……みんなの目が……知ってるような目で……怖くなったの……それで夕紀が……頭の中に、夕紀が『もう行けない』って言った日のことが戻ってきて……」
 美沙の声が、糸みたいに細くなる。
 ――『もう行けない』って言った日。美沙にそんなことがあったんだ。私は知らなかった。
「……美沙、その日、何があったの?」
 言った瞬間、失敗したと分かった。踏み込みすぎた。美沙の息が止まる。止まって、すぐに乱れる。
「ごめんね」
 私はすぐに言った。
「言わなくていいよ」
 美沙は、泣くみたいに息を吐いた。
「……亜由美」
「なに?」
「……私、最低」
 ――最低。美沙は、自分にそれを言う。誰より自分を責める。
「最低って言わないで」
 否定したいのに、否定すると沈むのが分かる。だから私は、言葉を選び直した。美沙が小さく言った。
「……私、なにもできなかったの」
「そっか」
 私が頷くと、美沙はすぐに言う。
「……違うの」
 ――違うの。これは訂正? それとも助け?
「私は助けたかったんだけど、みんなが笑ってて……そういう空気で」
 ――空気。空気が人を動かして、空気が人を壊す。
「それで、夕紀が」
 美沙の声が途切れる。喉の奥で何かが詰まる音がする。
「……夕紀が、消えた」
 ――消えた? 学校に来なくなったってこと?
 私は、中学の時、他のクラスで学校に来なくなった子がいると、聞いたのを思い出していた。でも、私は、吹奏楽部のコンクールで忙しくて、聞いたけど、聞き流した。
(その子が夕紀、なのかな? 美沙が関わっているってこと?)
「美沙」
 私は言った。
「今、ひとり?」
「……うん」
「お母さんは?」
「寝てる」
 私は立ち上がってしまった。座っているのが無理だった。足の裏が床に触れる感触が現実で、少しだけ助けになる。
「……行く」
 気づいたら言っていた。電話の向こうで、美沙の息が止まる。
「来ないで」
『これ以上立ち入らないで』と防御されているみたいな強い声。
 ――行きたい。でも来ないでと言われた。側にいられない。
「……わかった」
 ハッキリと言いきられてしまったことに少し戸惑いながらも、自分を落ち着かせようと、私はもう一度ベッドに座った。引いたことが正しいのか分からない。美沙は少しだけ弱い声で続けた。
「……大丈夫だから」
 ――大丈夫だから。来ないで、の形をしたお願いに聞こえた。
 私は深く息を吐いて、言った。
「じゃあ、電話は切らない」
 美沙が小さく息を吐く。
「……うん」
「眠くなるまで、繋いでる」
 美沙は黙る。呼吸はさっきより整っていた。そして、長い沈黙の後、規則正しい美沙の息が聞こえてきて、寝ついたのがわかった。私も寝ようと思って横になった時、美沙の微かな声が届いた。
「……ゆ」
 ――夕紀。
 きっと美沙は、そう言おうとしたんだ。美沙は、呼吸が浅くなってしまうほどに、夢に出てくるほどに、追い詰められてる。それがわかったのに、私は、美沙になにもできないでいる。自分の無力さを涙と共に痛感した夜だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

光のもとで2

葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、 新たな気持ちで新学期を迎える。 好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。 少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。 それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。 この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。 何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい―― (10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)

桜庭かなめ
恋愛
 高校1年生の逢坂玲人は入学時から髪を金色に染め、無愛想なため一匹狼として高校生活を送っている。  入学して間もないある日の放課後、玲人は2年生の生徒会長・如月沙奈にロープで拘束されてしまう。それを解く鍵は彼女を抱きしめると約束することだった。ただ、玲人は上手く言いくるめて彼女から逃げることに成功する。そんな中、銀髪の美少女のアリス・ユメミールと出会い、お互いに好きな猫のことなどを通じて彼女と交流を深めていく。  しかし、沙奈も一度の失敗で諦めるような女の子ではない。玲人は沙奈に追いかけられる日々が始まる。  抱きしめて。生徒会に入って。口づけして。ヤンデレな沙奈からの様々な我が儘を通して見えてくるものは何なのか。見えた先には何があるのか。沙奈の好意が非常に強くも温かい青春ラブストーリー。  ※タイトルは「むげん」と読みます。  ※完結しました!(2020.7.29)

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...