透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第2話 「廊下の噂」

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 四月十七日。
 翌朝の空は、昨日の雨を忘れたみたいに青空が広がっていた。
「吸い込まれそう」
 私は、空を見上げて、深く息を吸い込む。雨上がりのアスファルトが黒く光り、靴音が少しだけ大きく聞こえた。水たまりに映る空が、現実を一瞬だけ柔らかくする。

 でも、校門をくぐった瞬間、胸の奥にひっかかるものが戻ってきた。
 夜の冷気がまだ残っている朝の校舎は、じわじわと心を冷やしていく感じが漂っていて、廊下の空気が、重くて、冷たい。私は靴箱で上履きに履き替えながら、美沙のことを考えていた。
(……今日来るかな?)

 家を出る前にメッセージを送った。
『起きてる?』
 既読はつかないまま、画面が暗くなる。
 駅の改札口で待っていたけど、美沙は現れなかった。

 ――なんかイヤな予感がする。そして、こういう予感は、イヤな時によく当たってしまう。
 掲示板の紙が、開け放たれた窓から流れこむ風にわずかに揺れている。誰かの笑い声がなんだか乾いていて、目立って聞こえる。制服の袖が腰に擦れるたびに、冷たい空気が体に纏わりついてくる。上履きのゴムが床を擦る音がやけに硬く反響して、胸の奥が先にざらついた。

 教室に入ると、いつもよりざわめいていた。机と椅子の音が、妙にせわしない。誰かがスマホを机の下で見ている。画面の光が、魚の鱗みたいにちらちら動く。
(なにかあったのかな?)
 美沙の席は、まだ空いていた。机の上は綺麗なままで、その綺麗さが、昨日の『大丈夫だから』と同じ匂いがした。私は鞄を置いて、もう一度だけ送った。
『体調どう? 無理しないでね』
 ――送信。既読はすぐにつかない。つかない時間が、余計に怖い。

「朝倉ぁ」
 背後から呼ばれて振り返ると、クラスの子が近づいてきた。いつも、どうでもいい話をする子。今日は、やけに目が忙しい。
「水野、今日休みだって」
「え? なんで佐原さんが知ってるの?」
「欠席連絡、入ったって。体調悪いって」
 ――体調悪い……そうなんだ。
「昨日は元気そうだったけど……」
 私が言うと、佐原は肩をすくめた。
「最近さ、あれじゃん。ほら、噂の」
 ――噂? その言葉が胸の奥で硬くなる。
「噂って?」
 私が聞き返す前に、別の子が割り込んできた。
「え、朝倉知らないの?」
 知らないの、の言い方が少し嬉しそうだった。知らない人に教える優越、それが噂の甘さだ。
「何の話?」
 私はできるだけ平らに言った。棘を出したら、すぐ刺さって、刺さった棘は、戻らない。
「水野のやつ。中学の時に」
 ――中学。私は息を吸い損ねた。
「やめなよ」
 誰かが小さく言った。でも止まらない、止めない。止める理由がない人たちの声は、自由だ。
「ほら、夕紀って子。知ってる?」
「その子がさ、学校来なくなったんでしょ」
「え、いじめ?」
「違う違う。なんか、誰かが噂回したとかで揉めたって」
 噂が、噂を生む。内容が曖昧なまま形だけ増殖する。
「美沙が悪いの?」
 私は聞いた。聞いた瞬間、心のどこかが締まった。答えが欲しいわけじゃない。答えが怖いだけだ。
「悪いっていうか」
 言い淀むふりをして、でも言う。
「水野って、そういうとこあるじゃん。優等生っぽい顔して、実は怖いっていうか」
「そんなの、知らない」
 声が少しだけ震えた。
「でもさ、あの二人、今も連絡取ってるっぽくない?」
 その子がスマホをちらっと見せようとした。私は反射的に視線を逸らした。見たら、私の中の何かが決定してしまう気がした。

 始業前のチャイムが鳴り、担任が入ってくると、ざわめきが少し引く。でも引いただけで、床の下で燃えている火は消えてなかった。担任は、いつも通りの声で出席を取って、いつも通りにホームルームを始める。
 ――いつも通り。その『いつも』が、今日はとても遠く感じる。

 授業中、私はノートに文字を書き続けた。何を書いたか覚えていない。手だけが動いて、頭はずっと別の場所にいた。
 ――美沙休み。
 ――体調悪い。
 ――噂。
 ――夕紀。
 ――大丈夫だから。
 言葉が輪になって、胸を締める。


 昼休み、私は廊下に出た。水を飲みたかった。喉の乾きは、心の乾きに似ている。廊下の角で、さっきの子たちがまた集まっていた。声を落としているのに、笑い声だけがはっきり聞こえる。笑い声は、壁をすり抜けるようだった。
「ねえ、夕紀ってさ、今、どこにいるの?」
「知らない。けど、私立に行ったって、誰かのSNSで見たって、誰かが言ってたよ」

 ――『誰か』のSNSで『見た』って、『誰か』が言ってたよ。
 楽しいだけじゃない。見て、切り取って、広げて、飽きる。昨日の雨と同じで、降るときだけ盛り上がって、あとに黒い跡を残していく。

 私は思わず足を止めてしまった。止めた瞬間、誰かが気づく。
「あ、朝倉じゃん」
 仲間内の笑いから、外の人を入れる笑いへ、笑い方が少しだけ変わった。
「朝倉、水野と仲良いよね」
「……うん」
 つい、受け止めてしまう癖が出てしまった。
「じゃあさ、聞いてよ。水野って本当はどうなの?」

 ――どうなの?

 そこには、人間を一言で決めたい目が並んでいた。その目が、私の中の怖さを引き出す。私は長く吐いてから言う。
「美沙は、美沙だよ」
 答えになっていない。でも答えにしたくなかった。
「なにそれ。意味わかんない。でも、噂の中心人物の近くにいるじゃん。嫌じゃないの?」
 笑い声が少し大きくなる。悪意は、笑い声に一番混ざりやすい。
「私、そういう噂の中心にいる人と近いの嫌って――」
 クスクス笑う人たちには、もう私の声は届いていないみたいで、私はその場を離れた。

 人から少し離れて、溜まっていた息を吐きだす。
(教室、戻りたくないなぁ……)
 どうしようか迷っていると、美沙からの返信がきた。
『平気。学校は行ける』
 ――平気。
 昨日も聞いた言葉。平気は、平気じゃない時に出やすいのに。
 私は指を止めて、返事を書こうとして、書けなかった。何を返しても、軽くなる気がした。
 そのとき、また別の通知が重なった。電話番号でも、クラスのグループでもない。SNSのDM通知。見知らぬアイコンが小さく光る。
 表示名は――夕紀。
 画面に出た名前を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。昨日、美沙のスマホに出ていた名前が、今度は私の手の中に現れた。心臓が跳ねた。一瞬、息が止まる。一拍遅れて、強く鼓動が打ち始める。私は廊下の壁に背をつけて、呼吸を整えようとした。

『あなたは、小学校で美沙と仲が良かった朝倉亜由美さんですか?――美沙は今、大丈夫ですか?』

 ――なんで? なんで私を知ってるの? ……なんで私に聞いてくるの?
 遠くの笑い声が、ふいに波の音みたいに遠くなる。指が震えて、返事が打てない。でも返さないと、何かが始まってしまう気がした。私はやっと一行だけ打った。

『はい、そうです。今日、美沙は体調不良で休んでいます』
 ――送信。なかなか既読がつかないのが、とても長く感じた。

 窓から眺める空は明るい。昨日の雨が嘘みたいに明るいのに、胸の中だけが暗い。

 ――私は、美沙に傷ついてほしくない。守りたい。なにから? 今は、『噂』から――でも、守るってどうやって?
 その答えが分からないまま、私はまた息を吐いた。伝えたいのに、伝えられなかった言葉のぶんだけ、小さな棘になって、胸の奥に降り積もっていっていた。
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