透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第1話 「雨の匂い」

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 入学式の朝、西戸ノ森駅の階段を上がった瞬間、空が白くひらけた。雲は薄くて、光はあるのに暖かさだけが追いついていない。雨上がりの匂いが、地下鉄出口にふっと立ちのぼっていた。濡れた手すりはひんやりして、傘の雫が階段の縁を小さく叩く。
 風が制服の襟元に入り、少しだけ背筋が伸びる。まとわりつく湿り気のせいか、胸の奥の緊張がほどけそうでほどけない。スカートの裾が膝に触れて、春の始まりだけが少し遅れて追いついてくる。
 遠い信号の青だけが、やけに澄んで見えた。信号の音、遠くのサイレン、パン屋の甘い匂い。カフェの窓越しにコーヒーの湯気が揺れて、コンビニの自動ドアが乾いた音を立てる。
 私は横断歩道を渡りながら、胸の中で何度も同じ言葉を繰り返す。

 ――今日から、高校生。

 門の脇の銘板に、黒い文字が並んでいる。
『都立常盤高等学校』
 その文字を見た瞬間、喉がきゅっと鳴った。ここが、これからの場所になる。校門をくぐると、靴音が少しだけ変わった。正門から体育館へ向かう人の流れに混ざり、私は新しい上履きを袋から出す。まだ床に馴染まなくて、歩くたびに音が大きい気がする。体育館の天井はやけに高かった。前の席の子の制服の襟が、光を拾って白く見えた。

 配られたクラス名簿を開いた瞬間、私は息を止めた。見慣れた名前が、そこにあったから。
 ――水野美沙。
 思わず斜め後ろを見た。美沙も同じところを見ていて、目が合った。ほんの一秒だけ、ふたりとも「え」と言いかけて飲み込む。次の瞬間、笑ってしまった。堪えきれないみたいに。
「同じクラス」
 美沙の唇が動いた。無音の声なのに、嬉しさだけがはみ出している。
「やばいね」
 私も同じく無音で返した。春のざわめきの中で、そのやり取りだけが確かだった。


 そして今日、四月十六日。
 放課後になって、教室の空気が少しだけほどける。窓の外は灰色で、遠くのビルが滲んで見える――雨が近い。
 私はノートを閉じて鞄に入れる。隣の席の美沙は、教科書とノートの角を揃え、まるで本棚にしまうように鞄に入れていく。でも、なぜか整えるほど、何かが整っていないみたいに見えた。

「帰ろ」
 私が言うと、美沙は頷く。
「うん」

 廊下に出ると、湿った匂いが濃くなった。部活の掛け声、男子の笑い声、靴が床を擦る音――共学の雑さが、今日はやけに眩しい。校門を出る頃、空気の重さがはっきりする。雨が降る前の匂い。袖口が少しだけ肌に張りつく感じ。雨の匂いがすると、濡れたアスファルトが光って、街の輪郭まで柔らかくなるから、いつもより帰り道が長く感じる。私たちは西戸ノ森駅の改札へ降りて、地下鉄に乗った。一駅だけ。車内の蛍光灯が、窓に映る顔を少しだけ青くする。戸ノ森駅で降りて、地上出口を出ると、住宅街の匂いがする。スーパーの袋を提げた人が行き交って、大学からの学生が早足で坂を上ってくる。
 降り出した雨が冷たい風を運んできて、美沙が小さくくしゃみをした。ブレザーの裾が揺れて、髪に触れた雨粒がひとつ落ちる。
「少し冷えるね」
 私が言うと、美沙はいつもの顔を作る。
「そうだね」
 声は軽いのに、笑い方が少しだけ硬い。最近ずっと、そうだ。
 ――美沙と一緒にいれて嬉しいのに、なんだか怖い。
 美沙の硬さは、触れたら割れるガラスみたいに見える。割れたら、元に戻らない。

 私と美沙の家は、歩いて十五分くらい。でも、駅を挟んだ反対側で、駅からの帰り道は逆方向になる。交差点の手前で、「またね」と別れてしまうのが、少しだけ惜しい。
「ちょっと寄り道する」
 美沙がそう言って、駅前のコンビニで立ち止まった。透明なビニール傘をひとつ取って、レジに向かう。
「折り畳み傘、持ってなかった?」
「持ってるけど、今日はこれがいい」
 理由を言わない。高校に入ってから、美沙は、理由を言わないまま選ぶことが増えたと思う。私は、ホットドリンクの棚の前で迷って、ココアを二つ取った。美沙の分も、勝手に。
「はい!」
「え、いいの?」
「うん! 昨日、ノート貸してもらったし」
 美沙は缶を受け取って、両手で包む。指先が少し白んでいる。外に出ると、雨が強くなっていた。ビニール傘に落ちる音が、細い鈴みたいに続く。
「ねぇ」
 私は言いかけて、飲み込んだ。聞きたいことは山ほどあるのに、どれも正解の形が分からない。間違えたら、美沙が消えてしまいそうで。
「美沙、今日さ」
「……うん」
「家、寄っていい?」
 お願いみたいな言い方になって、私は胸の奥がきゅっとなる。
「いいよ」
「ありがと」
 私は少しほっとした。なにより、同じ方向へ歩ける日は、それだけで得をした気分になる。
 住宅街に入ると、街灯の下の雨が静かに見えた。冷たいというより、見張られているみたいな雨。
 玄関で傘をたたんで、靴を揃えて、家に上がる。美沙の部屋は相変わらず整っていて、香りの薄いハンドクリームの匂いがした。机の上に、積み重ねられた新しい教科書と、その横に大きな白い紙袋。紙袋の口が少し開いていて、中に色々入っているのが見える。やけに白い封筒。私の目がそこに吸い寄せられた瞬間、美沙が素早く紙袋を引き寄せた。その動きが、なぜだか、あの日の言葉を連れてきた――『見ないでほしいこと、ある?』

「なにそれ?」
 聞くべきではないと感じていたのに、口が先に動いた。美沙の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。それから、笑ってみせる。
「ただの……昔のやつ」
 ――昔。
 その言い方が、遠い。私がそれ以上言えずにいると、美沙のスマホが震えた。机の上で、短く。画面が光る。美沙は反射みたいにスマホを伏せた。それでも、光った一瞬に、私は名前を見てしまった。
 ――夕紀。
 美沙の喉が、目に見えないほど小さく動く。息を吸おうとして、吸い損ねたみたいな動き。
(なに、この反応? 夕紀って誰?)
 聞いたことがない名前。でも、美沙の反応だけで、その名前が美沙にとって軽くないことが分かってしまった。
「美沙?」
 呼ぶと、美沙は、笑わないと崩れるみたいに笑った。
「……平気」
 その声は少し掠れていた。今ここで触れたらいけない。直感的にそんな気がした。触れて壊れたら、美沙はもっと遠くに行ってしまう。だから私は、ココアの缶を机に置いて、できるだけ普通の声を出す。
「ココア、冷めちゃうよ」
 美沙は缶を見て、やっと息を吐いた。短く、でも確かに。
「……うん」

 雨の音が、窓を叩き続けている。まるで外側の世界が、私たちを見逃さないみたいに。
 美沙は缶を両手で包んで、視線を落としたまま言った。
「亜由美」
「なに?」
「明日さ」
 言いかけて、止まって、いつもの言葉を選ぶ。
「ううん、なんでもない……大丈夫だから」
 その言葉が、大丈夫の形をしていないことを、私は感じていた。感じているのに、私はただ頷いた。
「……うん」
 その先で何かが変わってしまう予感がまとわりついているようで、私は先を続けられなかった。

 ――夕紀って誰? 美沙、なにか隠してる?
「また前みたいに笑い合えたら、たくさん話せたら……いいのに……」
 帰り道、傘にはじける雨音が私の独り言を掻き消して、まるで無いものにしてしまうようだった。
  
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