透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第12話 「終わらせない形」

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 学校に行けなくなってから一週間が経った。
 私は、内心焦り始めていた。あの学校へは行けない。でも、このままだと終わってしまう――私の人生が詰んでしまう。

 夜、部屋の電気を消しても、なかなか眠れない。カーテンの隙間から入る街灯、浮かび上がる天井を見ていると、世界は簡単に終わる気がした。

 私には、やりたいことがある。大学まで出て、なりたいものがある。それだけは、あの切り取られた一瞬に奪われたくなかった。絶対に奪わせない。私は、終わらせたくない。
 ――私は、このまま、人生を詰みたくない。

 私は布団から手だけを出して、スマホを探った。久しぶりに電源を入れる。起動音がやけに大きく聞こえた。画面が光る。それだけで、心臓が少し速くなる。でも、その眩しい画面が、今は逃げ場みたいに感じた。

 検索窓に言葉を打つ。何度も検索を繰り返していくと、その中に、私が探していた形があった。学校に行けなくても、学びの記録を作る方法――出席扱い、評価材料、ICT、面談――『行けない』を『終わり』にしない仕組みを、文部科学省のHPで見つけた。

 ――道、見つけた。
 私は息を吐いた。


「お母さん、お話があるの」
 翌朝、私は、母にスマホを差し出し、昨夜調べたことを伝えた。母は最初、驚いた顔をして、すぐに画面を読む目になった。
 一通り読み終わって顔を上げた母に、
「これだと、学校に行かなくても勉強した分評価にできるって書いてある」
「本当に、そんなことできるの?」
 眉を寄せる母に、私は続けた。
「学校と相談して、レポートとか、オンライン面談とか、テストは別室でも……私は、あの人たちのいる学校に行くのが怖いの……でも、私は、学校を卒業したい。それだけは譲れない……」
 言いながら、声が震え、途中で小さくなっていく。「行けない」と言葉にするのも怖かった。でも認めないといけない。
 母は、ゆっくり頷いた。
「先生に相談しよう。夕紀がやりたいなら」
 ――やりたい。
 その言葉を、母が私の代わりに言ってくれて、私は深い息を吐けた。
「覚えておいて。どんなことがあっても、お父さんもお母さんも、夕紀の味方だからね」
 薄く涙を浮かべた目を細め、笑ってくれた。そんな風に言ってくれて、思ってくれていて、それだけで、私は泣きそうになった。


 数日後の放課後。職員室隣の面談室で、机を挟んで、担任、母と私が座った。
「篠崎。今日は、来てくれてありがとう」
「……はい」
「あと、今回の『拡散』のこと、対応が遅くなってしまって、すまないと思っている……」
 私は頷く。うまく声が出ない。
「……もう……いいです…… 私は、今日、私の未来についてお話したくて来ました」
 そう簡単には割り切れない。でも、私はここで立ち止まるわけにはいかない、だから、ここに来たんだ。
「そうか」
「私は、勉強を続けたいです。でも、学校に来るのは……怖いです。あの人たちのいる教室には、入れないです。だから調べたんです。在宅で、ICT学習を中心に勉強をすれば、評価してもらえますか?」
 担任は、私が出したスマホの画面を一度見て、頷いた。
「できる。ただし、学校側が『評価できる材料』が必要になる」

 ――評価できる材料。
 私はその言葉を、胸の中で繰り返した。材料がないと、私の努力は、なかったことになる。

 担任は、少し考えてから、丁寧に続けた。
「まず、篠崎に合った学習計画を作ろう。単元ごとに課題を出す。提出はオンラインでもいい。あと、月に一回、短い面談をして、中間と期末は、保健室で受けられるよう調整する、というのはどうだろうか?」

 ――保健室。教室じゃない場所、私が息ができる場所だ。

 私は頷いた。
「それなら、やれます……いえ」 私は顔を上げて、「やります」 と言い切った。
 担任が頷く。
「やっていこう」
 その一言で、私の中の『詰み』が少しだけ遠のいた。


 夜、久しぶりに美沙にメッセージを送った。
『すぐに返信できなくて、ごめんね。
 今日、久しぶりに学校へ行ったの。
 先生と話し合って、これからは、自宅で勉強をして、課題はオンラインで提出をして、試験は保健室で受けることになったの。
 美沙、あの日、私を助けてくれて、ありがとう』
 すぐに既読がついた。でも、いくら待っても、返事はこなかった。


 それからの日々は、静かに忙しかった。朝、制服を着ない。でも、自分の部屋の勉強机に座る。
 窓の外で、通学の時間の足音が通り過ぎるのを聞くと、胸が痛む日もあった。でも、痛みは進めない痛みじゃなくなった。
 タブレットを立てて、学校の教材にアクセスする。動画授業の声、課題の締め切り、提出ボタンを押した瞬間だけ、世界が少し整う気がした。
 学校に行けない。でも、勉強はできる。そして、その記録を残せる。それだけで、息ができた。

 中間テストの日、私は久しぶりに校門をくぐった。
 秋の空はやけに高くて、風が少し冷たかった。制服の袖口から、冷たい風に混ざって緊張が入り込む。
(大丈夫、教室へは行かない)
 私は、自分に言い聞かせて、廊下の先の保健室へ向かった。

 保健室のカーテンは閉められていて、柔らかく陽射しが注ぎ込んでいた。
 保健室の先生は、私の顔を見て頷き、「ここで試験を受けてね」と、簡易的に運び込まれた机と椅子を示す。
 私は椅子に座り、問題用紙を受け取った。紙の匂い、鉛筆の芯の匂いと保健室特有の消毒液の匂いがする。

 私は深く息を吐いてから、最初の問題に目を落とした。
 ――私は、終わってない。
 その確信が、指先を落ち着かせた。

 冬が終わり、春が過ぎて、夏が来て、秋が来る。季節が変わるたび、私の中の傷は薄くなる。薄くなるのに、消えないものがあった。
 ――美沙。
 何もしていない時、歯を磨いている時、シャワーの時、寝る前、その名前がふいに胸の奥に浮かぶ。美沙は、いつも「ごめんね」、「平気」、「大丈夫」と言う人だった。言いすぎて、自分を削る人だった。
 私は、美沙に「ごめんね」と言わせたまま、逃げた。逃げた、という言葉が刺さる。刺さって、なかなか抜けない。


 卒業が近づく頃、私は一度だけ、スマホの連絡先を開いた。美沙の名前。そこだけ、時間が止まっている。指が伸びて、止まる。『切り取られた一瞬』が、まだそこにいるようだった。私は、美沙に連絡できないまま、電源を切った。ベッドの中で目を閉じると、教室の天井、美沙の手、笑い声が浮かんでくる。時間は流れていくのに、美沙との時間だけは止まったままになっているのを、どうしたらいいかわからず、持て余していた。

 高校受験の日。

 私が選んだのは、私立の中高一貫校だった。高校から入れる人の倍率は高いにも関わらず、高校からでもその進学校に進みたいと難関に挑む受験生が多い。今まで、この中学からその高校へ進んだ人はいないのも、私にとってメリットだ。

 担任との面談で言われた言葉を、私は覚えている。
「確かに難関校と言われているが、篠崎は、負けなかった、努力したという武器がある。落ち着いて問題を解いていけばいいだけだ。しっかり頑張ってこい」

 試験当日。試験会場は、広い階段教室で、磨かれた床が光っていた。周りに座る、表情の硬い受験生たち。私は、深呼吸をして、解答用紙を一マスずつ埋めていった。
 合格発表の日は、両親に挟まれてソファに座って、震える指で、スマホ画面を操作していく。受験票に書かれたIDで、合否照会サイトに入り、確認をクリックすると、画面に文字が出てきた。

『合格』

 一瞬、意味が入ってこない。指先が冷たくなって、スマホが手の中で少し滑った。私は一度、画面を閉じて、開いた。また同じ二文字が出る。

 ――これ、私のこと、だよね?

「……やった!やったよ!」
 母が、声を押さえて笑った。
 久々に、家族三人に笑顔が戻った日だった。

 私は立ち上がって、上着を掴んだ。
「私、ちょっと掲示板見に行ってくる!」

 高校の、受験番号が並ぶ掲示板の前は、小さな渦みたいに人が集まっていた。
 黒い数字が、やけに整っている。
 私は、息を止めて番号を探した。一列ずつ、上から下へ、見落とさないように、指先で空をなぞるみたいに目が動く。
 ――あった。私の番号、ちゃんとあった!


 卒業式の日は、静かだった。
 誰もいなくなった体育館に足を踏み入れた。体育館の空気は乾いていて、母の座る椅子の軋む音が響く。壇上に上がって、担任が私に卒業証書を手渡してくれた。
「一年半、よく続けた。よく頑張った」
 担任が、私にだけ聞こえる声で言った。
 卒業証書を受け取った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。この紙の重さは、私の時間と努力の重さだ。それが、ちゃんと私の手の中にある。
 私は、小さく、「はい」と頷いた。

 ――良かった。卒業できた! 私は、学校に行けなかった。でも、諦めずに選んだ道は、遠回りに見えても、ちゃんと前に進む道だった。

 私は、手の中の卒業証書を眺めて、『終わった』の温かさを感じた。それと同時に、『終わってない』の冷たさが舞い戻ってくる。私はスマホの連絡先を開き、美沙の名前を指でなぞった。赦してもらえるとは思わないけど……そう思いながら送ったメッセージは、いくら待っても既読にはならなかった。春休みの間、何通か送った。何度チャット画面を開いても、既読になることはなかった。

 美沙を残して逃げた私、いまさら赦してほしいと思うのは、願うのは、わがまま過ぎる。わかっている。わかっているけど――高校生になったら、もう一度連絡してみよう。
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