透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第18話 「終わったことにする空気」

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 保健室の前を通ると、消毒液の匂いがふっと混ざる。ここだけ、学校の中なのに学校じゃないみたいだ。廊下には優しい光、運動場から笛の音。なのに、このドアの前だけ少し暗い。試験のときだけ、夕紀はここに来る。

 動画拡散が起きた翌朝、校舎はいつもより静かだった。学年主任と担任、生徒指導が主導をとって火消しに動き、廊下には「今は余計なことを言うな」という札が見えないところに下がっているみたいだった。
 関係者は順番に生徒指導室へ入れられ、机の上でスマホが開かれる――呼ばれては戻る、の繰り返し。端末の白い光が顔を照らすたび、私は夕紀の名前を飲み込む喉が痛くなった。
 遊び半分、冷やかし半分でやった生徒たちにとって、処分は急に現実になった。反省文、校内活動の停止、一定期間の別室対応、SNSの利用についての指導――言葉が積み上がるほど、教室の空気は薄くなっていく。一番重かったのは、合唱コンクールの出場停止だった。歌うはずだった声が、音もなく消える。
 そうやって『終わった』空気が作られる。誰かが悪者になって、誰かが被害者になって、それで全部片づいたふりをする。その下で、夕紀だけがまだ息を探している気がして、私は笑えなかった。

 先生に「篠崎も水野も被害者だ」と言われた時、被害者なのは事実なのに、なぜか胸の奥が冷えた。『被害者』という言葉は守ってくれるはずなのに、夕紀の苦しさまで薄くしてしまう気がした。それでも私は頷いてしまって、頷いた自分の首に、細い輪がかかる。先生は続けて、学校が決めた形で、夕紀が家で勉強することになった、と教えてくれた。

 夕紀から、メッセージが来たのは、その直後だった。

『これからは、自宅で勉強をして、課題はオンラインで提出をして、試験は保健室で受けることになったの。
 美沙、あの日、私を助けてくれて、ありがとう。』

 丁寧すぎて、泣きそうになる。夕紀は、私に責める言葉を一つも乗せていない。それが、いちばん痛い。
 私は返信できなかった。何を書いても、軽くなる。「ごめん」は、薄い。「大丈夫?」は、刺さる。「会いたい」なんて、言ったら最後だ。夕紀の『逃げ道』を塞ぐのは、私だ。そう分かっているのに、指が動かなくて、画面の上で、私の言葉だけが溶けていく。返信できないまま、夕紀のメッセージだけが、そこに残り続けた。

 拡散が解決されて、二週間経つ頃には、学校の空気は、驚くほどの速さで元に戻っていた――笑い声も、部活の話も、全部。でも、夕紀だけがいない。夕紀がいない分だけ、廊下が軽くて、その軽さが、私を責める。
 いつの間にか、私は、夕紀の名前が出ないように話題を変えるようになっていた。誰かが「保健室の子」と言いかけたら、空気を壊さないように、笑って遮る。壊したら、今度は私が標的になる――そう思ってしまう自分が、いちばん醜い。
 守っているふり。守れないふり。そのどれもが、私を夕紀から遠ざける。

 中間テストの日が来た。朝から、廊下の空気がいつもより硬く、みんなの息が少し浅い。
 私は、テストの始まる朝、保健室の前を通った。
 ――今日、夕紀が来て、ここでテストを受ける。
 そう考えた瞬間、心臓が変な音を立てた。
 ――会いたい。でも、会ったら壊れてしまう。
 その間で、息が揺れた。
 テストが終わって廊下がざわつく中、私は、どうしても確かめたくなって保健室まで急いだ。ノックする前に、手が止まる。耳を澄ましてみる――何も聞こえない。私は、思い切って小さくノックした。
 返事はすぐに返ってきた。
「どうぞ」
 保健室の先生の声だ。
「……失礼します」
 ドアを開けると、簡易で運ばれた勉強机の上に、回収された答案用紙の束が置かれていた。
「夕紀……篠崎さん、いましたか?」
 聞いた瞬間、声が震えた。
 先生は、私を見つめてから、一拍だけ間を置いて、言った。
「さっきまでいましたよ。テスト終了のチャイムが鳴るとすぐに帰りましたけど」
 ――すぐ帰った。
 その『すぐ』が、私の胸に落ちて、重い。夕紀の『すぐ』は、逃げるための『すぐ』だ。その逃げなきゃいけない場所に、私がいる。
「……そう、ですか」
 先生は机を指で軽く叩きながら、淡々と言った。
「頑張ってたよ。問題用紙も、ちゃんと最後まで見直してた」
 ――頑張ってた。
 その言葉が嬉しいのに、嬉しいはずなのに、涙が出そうになる。
 頑張ってる夕紀の横に、私はいない。頑張らせているのに、私は近づけない。夕紀の努力は、見えないところで積み上がっていっている。
 私は保健室のカーテンを見た。閉められた布の向こうに、夕紀の影があった気がしてしまう。
「……ありがとうございました」
 私は頭を下げて、ドアを閉めた。廊下に出た瞬間、運動場の声がやけに明るく聞こえた。明るさが、胸の奥をえぐる。

 教室に戻れば、事件のことなんて遠い過去の話みたいに、みんなは普通にしている。解決したという言葉は便利だ。終わったことにできる。でも、私の中では終わっていない。夕紀に返信できずにいる。返信できないまま、私の中だけ、時間が止まったままだ。

 私は、音楽室や保健室の近くに来ると、胸に重い何かが迫ってきて、息が詰まりそうになった。そして、あまり近寄らなくなっていった。
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