透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第21話 「思い出さない練習」

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 四月十六日。
 空は高く、雲がちぎれるみたいに流れていた。光は明るいのに、体温はまだ追いつかずにいる。
 入学式から一週間。教室はやっと「新しい」に慣れはじめて、席の並びが勝手にグループの形になる。雑談が戻ってくるほど、私だけが戻れない場所を思い出す。
 ――戻っていく、という言葉に、胸の奥がきゅっとなる。私だけは、戻れない場所を知っているから。


「ねえ、どこの中学出身?」
 休み時間、誰かが言った。一人が言うと、連鎖みたいに広がっていく。私は、話の輪に入らず、教科書とノートを揃えていた。揃えるほど、心の中が揃っていないのがばれる気がして、余計に丁寧に揃える。
(この話には入りたくない)
 私は、救いを求めて、無意識に隣の亜由美を見る――亜由美はいなかった。
 クラスの女子が私の机の横に立った――悪意の顔じゃない。でも悪意は、悪意の顔をしていない時ほど怖いことを、私は知ってる。

「水野さんって、どこの中学?」
 息が一瞬止まった。止まって、すぐに動かす。止めたら負ける。
「……常盤第一中」
 私は、震えを隠して答えた――普通の声だった。普通の答えだった。
 別の子が「あー」と頷いて、次の言葉を軽く続ける。
「そういえばさ、常盤第一中って合唱強いのに、二年前、急に出場停止になったよね」
「そうそう、気になってた! SNSの拡散が原因って聞いたけど、何か知ってる?」
 瞬間的に、床が少し沈むみたいな感覚に襲われた。頭の奥が白くなるのに、周りの声だけが妙に鮮明に耳に届く。私は笑えなかった。
「さぁ……私は美術部だったから」
 それだけ言って、私は、教科書に視線を落とした。
 その子は「あっそ」と軽く流して去っていく。去ったのに、言葉だけが机の上に残る。

 ――常盤第一中。SNSの拡散。合唱コンクール出場停止。

 これだけの情報が揃えば、検索でヒットする。『誰かが知っているかもしれない』という気配が、胸の奥でざわつき始めた。
 ――探られたらどうしよう。
 ――もし、夕紀の名前が出たら。
 ――もし、あのときの空気が、ここに来たら。

 落ち着き始めていたはずの心が、また揺れ始める。揺れを止めるために、私は小さく息を吐いた。
 ――平気。
『盾』を立てるみたいに、私は心の中で繰り返した。


 放課後、教室の空気が少しだけほどける時間。
 職員室へ行っていた亜由美が戻ってきて、隣の席で鞄に教科書を入れ始める。てきぱきした動作を見ていたら、私の中のざわつきが、少しだけ軽くなった。なんだか依存しているみたい――私は静かに視線を戻した。
「帰ろ」
 亜由美が言う。
「うん」
 私は頷いた。
 湿った匂いが廊下に満ちていて、校門を出る頃には一段と空気が重くなっていた。私たちは西戸ノ森駅の改札へ降りて、地下鉄に乗る。車内の電気が窓に映る私の顔を一層青くする。青い顔の中に、私だけが少し沈んで見えた。

 戸ノ森駅で降りて、階段を上がると、いつも私を迎えてくれる温かい風景が広がっている――多くの人が行きかう駅前の混沌さ、入り混じった話し声、スーパー袋の音、大学生の足音、そして一本道を入ると喧噪が遠のく静かな住宅街。いつもなら落ち着くこの風景なのに、今日の私は、どんどん心が沈んでいくのを感じていた。降り出した雨が冷たい風を運んできて、私は小さくくしゃみをする。
「少し冷えるね」
 亜由美が言う。私はいつもの顔を作る。
「そうだね」
 軽い声で言ったのに、笑い方が硬いのが、自分でも分かってしまう――もう一度やり直したかった。
「ちょっと寄り道する」
 私は、コンビニの前で立ち止まり、透明なビニール傘を取った。
「折り畳み傘、持ってなかった?」
「持ってるけど、今日はこれがいい」
 ――今日は、周りが見える『透明』がいい。でも、そんな『不思議』と思われる理由は言えなかった。
「はい!」
 コンビニを出ると、ココアの缶を亜由美が渡してきた。
「え、いいの?」
「昨日、ノート貸してもらったし」
 私は缶を受け取って両手で包んだ。冷たくなった指先が少し温まり、ほっとした。
「ねぇ、美沙、今日さ」
「……うん」
「家、寄っていい?」
 亜由美のお願いされてる声のトーンに、断りにくさを感じた。
 ――今日は早く帰って一人になりたい。でも、断ったら、心が揺れているのを亜由美に悟られてしまうかもしれない。
「いいよ」
 私は、それしか言えなかった。

 亜由美を家に入れるのは、思っていたより怖かった。玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響く。金属の乾いた音が、私の中の『隠しているもの』を叩くみたいだった。
「どうぞ」
「おじゃまします」
 亜由美はそう言って、丁寧に靴を揃える。いつもの乱さない優しさが、逆に刺さる。
 亜由美は美沙の部屋に入ると、ローテーブルの前に腰を下ろし、缶のココアをそっと開けた。小さな音がして、甘い匂いがふわりと立った。そのとき、亜由美の視線が、机の上の白い封筒に留まった。
 少し大きめの白い紙袋――片付け忘れていた。私は焦って、封筒を引き寄せる。自分の手が震えているのが分かる。
「なにそれ?」
 亜由美が聞いてきた。責めを含んでいない声。ただの質問。ただの質問なのに、私の喉の奥が詰まる。
「ただの……昔のやつ」
 ――『昔』で全部を終わらせたい、終わらせたことにしたい、私の希望。
 亜由美は、それ以上踏み込んでこなかった。いつもの亜由美の対応。わかっている。だから、私はそこに逃げ込んだ。
 その時、スマホが短く震えた。光った画面に出た名前に、私の時間が一瞬止まった。そして、心臓だけが先に走り始めて、息がついてこない。
 ――夕紀。
 私は反射的にスマホを伏せた。亜由美を見ると、視線がスマホに向いていた。亜由美は何も言わない。でも仕草でわかってしまう――見られてしまった。
(何か言った方がいい?)
 でも、喉に何かが詰まって、うまく言葉が出てこない。出したら、崩れそうだ。
 高校生になって、新しい生活が始まったのに、『夕紀』がチラつくたびに、崩れ落ちそうになる。崩れないように自分を保って生きるのが、もう限界だった。

「美沙?」
「……平気」
 いつものように呼ぶ亜由美に、私は呼吸をするように、盾の言葉を口にしていた。でも声は掠れていて、盾の薄さがバレてしまいそうで怖い。
「ココア、冷めちゃうよ」
 亜由美は、またいつも通りに話しかけてきた。
 私は缶を見て、やっと普通に息を吐けた。
「……うん」
 私は、まだ温かい缶を両手で包み、飲み始めた。温かいのに、指先が冷たいまま。でも、柔らかい甘さが少し心を溶かしてくれる。

 外では、逃げ道を塞ぐような強い雨が窓を叩き続けている。
 私は視線を落としたまま、言ってしまう。
「亜由美」
「なに?」
「明日さ」
 言いかけて、止めた。
 ――亜由美に話したら、きっと受け止めてもらえる。でも、亜由美を巻き込みたくない。亜由美の優しさを無駄遣いしたくない。
 だから、私は、いつもの形を選んだ。
「ううん、なんでもない……大丈夫だから」
 全然大丈夫じゃないのに、私は『大丈夫』の形で逃げた。
 亜由美が頷く。
「……うん」
 その頷きが優しすぎて、胸が痛かった。
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