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おまけ・結婚してからのお話
上司の苦言
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結婚後の亀田視点のおまけ話です。
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「亀田君、新婚なんだって」
「はぁ」
「今が一番いい時だね、羨ましいなぁ」
なら、早々に解放していただけると有難いです。
そう言う返答が先ず頭に浮かんだが、本社から出張でやってきた営業本部長を囲む席から退出する事など、当然できず。すると支社長が本部長の話を受けて話題を膨らませ出した。
「そうだよ、君。最初は良いんだよ、最初は。新婚の内は奥さんの目も甘いからな。だけど年数が経つと変わってくるんだよな!家族の為だと思って毎日身を粉にして働いているのに、偶に一日家にいたら『あら、今日はお出掛けにならないんですか?珍しい』って言われてさ。俺が働いてローンを払った家なのに居場所が無いなんて割に合わないよ」
結婚してからこういう話題が増えたように思う。独身の頃は『結婚してからが男は本番だ、結婚してやっと人間として社会人として一人前になれるのだ』と言う説教ネタが多かった。しかし結婚したらしたで『俺達は家族を持ってこんなに苦労しているんだ』と言う愚痴ネタに先輩諸氏の話題が塗り替わってしまった。どちらも俺にとっては同意するのは難しい話題だが……自ら事を荒立てるつもりは無い。
「全くだ。あの頃は遅くなっても休日に接待が入っても『お仕事お疲れ様』って労ってくれたのになぁ。今じゃあうちのは韓流ドラマに嵌って、夫そっちのけで韓国旅行三昧だよ」
営業本部長は飲み会の場でこんな軽い話題に乗る事もあるが、仕事となれば厳しくも鋭くもなれる出来る人物だ。
「あれ?韓流ってまだ流行ってるんですか」
「最近またブームらしいよ」
「うちのが嵌っているのは朝ドラのジョン何だかとか言う俳優ですよ」
「ああ、ジョンとかダンとか言う奴な。あれは見た目は日本人だが外国人俳優なのか?」
「日本人らしいですよ。帰国子女の。ただあれは芸名だって聞きました」
「へぇ」
俺の新しい上司である支店長は、正直仕事があまり得意では無い。つまり愛想や立ち回りは上手いが仕事は部下に丸投げ、と言うタイプ。おそらく前任の桂沢部長はかなり彼のフォローに回っていたのだと思う。だからこそ無理が祟って入院し、結果夫から強引に退職を迫られる事になったのだろうと推測している。
仕事の話なら幾らでも乗れるのだが、芸能ネタはさっぱりだ。俺はただ尋ねられれば答え相槌を打ち、酒や食べ物が減れば采配を振るって追加を頼むだけだ。支社の営業企画部長に出世したとは言え、お偉いさんしかいないここでは一番下っ端の立場なのだ。
それにしても時間も遅いし、そろそろお開きにした方が良いのではないかと思うのだが。何と切り出そうかと考えていると、総務部長である庄子さんがおもむろに口を開き、話し始めた。
「『夫婦のすれ違い』と言えば……取引先の担当者から聞いた話なのですが、こんな事があったそうです。夫が忙し過ぎる、浮気では無いかなどと何かに付け文句を言っていた奥さんが、ある時から愚痴を全く言わなくなったのでやっと仕事の実情を理解してくれたのだとその人は喜んだそうです。が、それに安心して更に仕事三昧になり飲んで歩いて帰らなくなったある日―――奥さんが突然出て行ってしまったそうなんです」
「何があったんだい?」
「ネットに夫に対する悩みを綴っていたら、愚痴を聞いて相談に乗ってくれる相手が現れたようです。だから夫に愚痴を言わなくなった、と。だけどその相談相手の男と良い仲になってしまって、顔も知らない相手と駆け落ちしちまったんですって!」
「へー!そりゃぁ……気の毒に。最近はスマホに集中し過ぎて事故に遭う人もいるくらいだから、便利なんだか分からない世の中になったもんだね」
「はぁ、身につまされますなぁ」
「だから、そろそろお開きに致しますか?亀田部長の奥さんも、東京から来てまだ間もないんだから知合いもいなくて寂しがっているんじゃないですか?なぁ、亀田部長。奥さん若いんだし心配だよな」
庄子さんがニコリと笑ってくれる。できる人だな……と感心してしまった。こういう気配りが出来る人間になりたいものだが、こんな風にやんわりと流れを変えるスマートさを身に着けるのは俺には到底無理な気もする。彼が振ってくれた話題に、少し苦い顔で薄い笑いを返すのが精一杯だ。
「おう、そうだ!もうこんな時間なんだな。そろそろお開きにするか」
営業本部長が明るくその場を締めてくれたので、俺は会計を進めるべく店員に声を掛けたのだった。
その日マンションに帰ると、まだ灯りが付いていた。卯月はまだ起きているようだ。引っ越しから二週間、土日も何かと忙しく彼女とうータンを放ったらかしにせざるを得なかった。とは言えうータンの方は長旅の疲れもあってか、なかなか新しい環境に慣れずケージの中にこもりっきりだから、こっちが構いたくても構わせて貰えないと言うのが正確なところなのだが……。
しかし卯月はこちらに知合いもいないし、仕事も辞めてしまって通う場所も無いから特に寂しいだろう。せめてうータンがケージから出て来れるようになれば、それも軽減されると思うのだがな。
そこまで考えて、庄子さんの言葉をふと思い出す。
『ネットに夫に対する悩みを綴っていたら、愚痴を聞いて相談に乗ってくれる相手が現れたようです』『だけどその相談相手の男と良い仲になってしまって、顔も知らない相手と駆け落ちしちまったんですって!』
居間の扉に手を掛けると、卯月がソファに腰掛けて熱心にスマホを覗き込んでいた。集中しているのか俺の帰宅に気が付いていない。―――ごくりと唾を飲み込んで、立ち尽くす。言葉が出ない。
躊躇っている内にフーッと溜息を吐いた卯月がスマホをテーブルに置いて立ち上がった。それからコキコキと頭を回して、クルリとこちらを振り向いた。
途端「ぎゃっ!」と小さく叫んで飛び上がる。
「た、たけしさん!いたの?!いつから?」
「……いちゃ悪いか」
思わずムッとしてしまい低い声が出た。まさか俺が居ては出来ない事をしていたんじゃないだろうな?反射的にそんな疑いが頭を掠める。
しかし卯月は目を見開き、直ぐにブンブンと首を振った。
「なワケないでしょ?お帰りなさーい!」
と言って嬉しそうに両手を広げて飛びついて来た。安堵と共に温かなものが込み上げてくる。俺は思わずグッとその華奢な体を力を込めて抱きとめたのだった。
彼女がスマホに集中していた理由は程なく判明した。ケージに籠ったままのうータンに構って貰えない卯月は、片付けも済んで暇を持て余していた。暫く買い物をしたり周囲を散歩したりしてみたが、暇つぶしにうさぎブログ眺めていて思いついたそうだ。仙台でのうータンの生活を記録してみようと。
しかし引き籠ったままのうータンのブログには、うさぎの写真がいまだ一枚も掲載されていない。忙しい俺に手間を掛けさせまいと、卯月はブログがちゃんとうさぎの日記の形態を保てるようになったら見せようと思っていたそうだ。そのうち東京の両親や祖父にも近況報告がてら知らせるつもりだとか。
確かに……布の掛かったケージが色んな角度から写されている写真が掲載されているブログは、一見するだけじゃうさぎの生活記録だとは分からないだろうな、と思うと同時につい笑ってしまう。
「もう、絶対笑うと思ったから!教えなかったのに!」
と膨れる卯月を眺めながら、俺は思った。
なるべく今週末はずっと家にいられるよう、時間を確保しよう。
ホッとしつつも仕事を優先し過ぎるあまり、卯月の優しさに甘えて家庭を蔑ろにしない事を改めて肝に銘じたのだった。庄子さんの言っていた取引先の夫婦のようにはなりたくないものな。
うータンが天岩戸から出て来た女神のように、ケージから這い出て来たのはその週末の出来事だ。
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「亀田君、新婚なんだって」
「はぁ」
「今が一番いい時だね、羨ましいなぁ」
なら、早々に解放していただけると有難いです。
そう言う返答が先ず頭に浮かんだが、本社から出張でやってきた営業本部長を囲む席から退出する事など、当然できず。すると支社長が本部長の話を受けて話題を膨らませ出した。
「そうだよ、君。最初は良いんだよ、最初は。新婚の内は奥さんの目も甘いからな。だけど年数が経つと変わってくるんだよな!家族の為だと思って毎日身を粉にして働いているのに、偶に一日家にいたら『あら、今日はお出掛けにならないんですか?珍しい』って言われてさ。俺が働いてローンを払った家なのに居場所が無いなんて割に合わないよ」
結婚してからこういう話題が増えたように思う。独身の頃は『結婚してからが男は本番だ、結婚してやっと人間として社会人として一人前になれるのだ』と言う説教ネタが多かった。しかし結婚したらしたで『俺達は家族を持ってこんなに苦労しているんだ』と言う愚痴ネタに先輩諸氏の話題が塗り替わってしまった。どちらも俺にとっては同意するのは難しい話題だが……自ら事を荒立てるつもりは無い。
「全くだ。あの頃は遅くなっても休日に接待が入っても『お仕事お疲れ様』って労ってくれたのになぁ。今じゃあうちのは韓流ドラマに嵌って、夫そっちのけで韓国旅行三昧だよ」
営業本部長は飲み会の場でこんな軽い話題に乗る事もあるが、仕事となれば厳しくも鋭くもなれる出来る人物だ。
「あれ?韓流ってまだ流行ってるんですか」
「最近またブームらしいよ」
「うちのが嵌っているのは朝ドラのジョン何だかとか言う俳優ですよ」
「ああ、ジョンとかダンとか言う奴な。あれは見た目は日本人だが外国人俳優なのか?」
「日本人らしいですよ。帰国子女の。ただあれは芸名だって聞きました」
「へぇ」
俺の新しい上司である支店長は、正直仕事があまり得意では無い。つまり愛想や立ち回りは上手いが仕事は部下に丸投げ、と言うタイプ。おそらく前任の桂沢部長はかなり彼のフォローに回っていたのだと思う。だからこそ無理が祟って入院し、結果夫から強引に退職を迫られる事になったのだろうと推測している。
仕事の話なら幾らでも乗れるのだが、芸能ネタはさっぱりだ。俺はただ尋ねられれば答え相槌を打ち、酒や食べ物が減れば采配を振るって追加を頼むだけだ。支社の営業企画部長に出世したとは言え、お偉いさんしかいないここでは一番下っ端の立場なのだ。
それにしても時間も遅いし、そろそろお開きにした方が良いのではないかと思うのだが。何と切り出そうかと考えていると、総務部長である庄子さんがおもむろに口を開き、話し始めた。
「『夫婦のすれ違い』と言えば……取引先の担当者から聞いた話なのですが、こんな事があったそうです。夫が忙し過ぎる、浮気では無いかなどと何かに付け文句を言っていた奥さんが、ある時から愚痴を全く言わなくなったのでやっと仕事の実情を理解してくれたのだとその人は喜んだそうです。が、それに安心して更に仕事三昧になり飲んで歩いて帰らなくなったある日―――奥さんが突然出て行ってしまったそうなんです」
「何があったんだい?」
「ネットに夫に対する悩みを綴っていたら、愚痴を聞いて相談に乗ってくれる相手が現れたようです。だから夫に愚痴を言わなくなった、と。だけどその相談相手の男と良い仲になってしまって、顔も知らない相手と駆け落ちしちまったんですって!」
「へー!そりゃぁ……気の毒に。最近はスマホに集中し過ぎて事故に遭う人もいるくらいだから、便利なんだか分からない世の中になったもんだね」
「はぁ、身につまされますなぁ」
「だから、そろそろお開きに致しますか?亀田部長の奥さんも、東京から来てまだ間もないんだから知合いもいなくて寂しがっているんじゃないですか?なぁ、亀田部長。奥さん若いんだし心配だよな」
庄子さんがニコリと笑ってくれる。できる人だな……と感心してしまった。こういう気配りが出来る人間になりたいものだが、こんな風にやんわりと流れを変えるスマートさを身に着けるのは俺には到底無理な気もする。彼が振ってくれた話題に、少し苦い顔で薄い笑いを返すのが精一杯だ。
「おう、そうだ!もうこんな時間なんだな。そろそろお開きにするか」
営業本部長が明るくその場を締めてくれたので、俺は会計を進めるべく店員に声を掛けたのだった。
その日マンションに帰ると、まだ灯りが付いていた。卯月はまだ起きているようだ。引っ越しから二週間、土日も何かと忙しく彼女とうータンを放ったらかしにせざるを得なかった。とは言えうータンの方は長旅の疲れもあってか、なかなか新しい環境に慣れずケージの中にこもりっきりだから、こっちが構いたくても構わせて貰えないと言うのが正確なところなのだが……。
しかし卯月はこちらに知合いもいないし、仕事も辞めてしまって通う場所も無いから特に寂しいだろう。せめてうータンがケージから出て来れるようになれば、それも軽減されると思うのだがな。
そこまで考えて、庄子さんの言葉をふと思い出す。
『ネットに夫に対する悩みを綴っていたら、愚痴を聞いて相談に乗ってくれる相手が現れたようです』『だけどその相談相手の男と良い仲になってしまって、顔も知らない相手と駆け落ちしちまったんですって!』
居間の扉に手を掛けると、卯月がソファに腰掛けて熱心にスマホを覗き込んでいた。集中しているのか俺の帰宅に気が付いていない。―――ごくりと唾を飲み込んで、立ち尽くす。言葉が出ない。
躊躇っている内にフーッと溜息を吐いた卯月がスマホをテーブルに置いて立ち上がった。それからコキコキと頭を回して、クルリとこちらを振り向いた。
途端「ぎゃっ!」と小さく叫んで飛び上がる。
「た、たけしさん!いたの?!いつから?」
「……いちゃ悪いか」
思わずムッとしてしまい低い声が出た。まさか俺が居ては出来ない事をしていたんじゃないだろうな?反射的にそんな疑いが頭を掠める。
しかし卯月は目を見開き、直ぐにブンブンと首を振った。
「なワケないでしょ?お帰りなさーい!」
と言って嬉しそうに両手を広げて飛びついて来た。安堵と共に温かなものが込み上げてくる。俺は思わずグッとその華奢な体を力を込めて抱きとめたのだった。
彼女がスマホに集中していた理由は程なく判明した。ケージに籠ったままのうータンに構って貰えない卯月は、片付けも済んで暇を持て余していた。暫く買い物をしたり周囲を散歩したりしてみたが、暇つぶしにうさぎブログ眺めていて思いついたそうだ。仙台でのうータンの生活を記録してみようと。
しかし引き籠ったままのうータンのブログには、うさぎの写真がいまだ一枚も掲載されていない。忙しい俺に手間を掛けさせまいと、卯月はブログがちゃんとうさぎの日記の形態を保てるようになったら見せようと思っていたそうだ。そのうち東京の両親や祖父にも近況報告がてら知らせるつもりだとか。
確かに……布の掛かったケージが色んな角度から写されている写真が掲載されているブログは、一見するだけじゃうさぎの生活記録だとは分からないだろうな、と思うと同時につい笑ってしまう。
「もう、絶対笑うと思ったから!教えなかったのに!」
と膨れる卯月を眺めながら、俺は思った。
なるべく今週末はずっと家にいられるよう、時間を確保しよう。
ホッとしつつも仕事を優先し過ぎるあまり、卯月の優しさに甘えて家庭を蔑ろにしない事を改めて肝に銘じたのだった。庄子さんの言っていた取引先の夫婦のようにはなりたくないものな。
うータンが天岩戸から出て来た女神のように、ケージから這い出て来たのはその週末の出来事だ。
応援ありがとうございます!
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