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第六話:観衆の中の孤独
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その夜は、国王主催の晩餐会だった。
何百という蝋燭が燃えるシャンデリアが、大広間を昼間のように照らしている。
着飾った貴族たちの笑い声が渦を巻き、むせ返るような香水と料理の脂、人々の熱気が入り混じって、空気はどこか濁っていた。
かつては俺も、あの輪の中心にいた。
だが今は、アルフォンスの影として、彼の数歩後ろに控えることしか許されない。
公爵家の子息でありながら、従僕以下の扱い。
周囲の視線は好奇と侮蔑、そして憐憫で満ちていた。
そのひとつひとつが、見えない針のように俺の誇りを刺し貫く。
そんな中、一人の男がアルフォンスに歩み寄った。
「これは殿下。今宵もご壮健そうで、何よりですな」
媚びを含んだ声。
トリスタン・ド・ヴァロワ子爵——俺の遠縁にあたる男だ。
かつては家格の差ゆえに俺へへりくだっていたくせに、今は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「トリスタン子爵か。息災そうだな」
アルフォンスは気のない口調で応じながらも、その男が俺に向けた軽蔑の視線を見逃さなかった。
唇の端に、酷薄な笑みが浮かぶ。
「して、何か用か?」
「いえ、殿下にご挨拶を、と。それから……そちらの『お供』は、息災ですかな?ヴァルロア公爵家の嫡男殿も、随分と……落ち着かれたご様子で」
トリスタンの言葉は、明らかに俺を貶めるためのものだった。
俺は唇を噛み締め、侮辱に耐える。
だが、アルフォンスはそれを見過ごさなかった。
「ああ、ルシアンのことか」
アルフォンスは、まるで面白い玩具を見せびらかすように、俺の腕を掴んでぐいと引き寄せた。彼の隣に立たされ、俺はトリスタンの真正面に晒される。
「最近、随分と物覚えが良くてな。見せてやろうか、子爵」
そう言うと、アルフォンスは手にしていたワイングラスを、わざとらしく手から滑らせた。
ガシャン——という甲高い音が、楽団の演奏を断ち切り、広間の空気が一瞬で凍りつく。
砕け散ったグラスが宝石のように煌めき、深紅のワインが白い大理石に血のような染みを作った。
「おっと、手が滑った」
皮肉めいたその声に、俺の背筋が凍る。庭園での屈辱が、鮮やかに蘇った。
だが、ここは衆人環視の晩餐会だ。
まさか、と俺の願いも虚しく、アルフォンスは冷酷に命じた。
「ルシアン、片付けろ」
「……ハンカチを、お持ちいたします」
俺が絞り出した声は、震えていた。
だが彼は、愉快そうに首を振る。
「いや、それではつまらん。……舐め取れ」
「な……っ!」
俺だけでなく、トリスタンの喉からも小さな呻きが漏れた。
水を打ったように静まり返る大広間。これは狂気の沙汰だ。
「聞こえなかったのか?私のワインだぞ。一滴残らず、その舌で綺麗にしてみせろ」
その声には、王族としての威圧と、獣の残酷さが混じっていた。
逆らえば、ここで何が起きるか分からない。ヴァロワ家の、いや、俺自身の破滅が、すぐそこにある。
俺は、静かに床へ膝をついた。
羞恥も恐怖も、もはや感覚として遠い。
ただ無数の視線の熱が、背中に突き刺さっていた。
砕けたガラスの鋭い破片を避けながら、床に顔を寄せた。そして、犬のように、舌を伸ばして大理石の床を舐め始めた。
ワインの渋みと酸味、床の石の冷たさ、そして埃のざらついた味が口に広がる。
俺は無心で舌を動かし続けた。
早く、早くこの悪夢が終わってくれと、心の中で神に祈りながら。
「……見事だろう、子爵」
アルフォンスは、まるで自慢の芸を見せるように言った。
「壊れた人形には、壊れたなりの躾け方がある。お前にはわかるまい、この服従を造る愉悦が」
視界の端で、トリスタンの顔が恐怖に歪んだ。
嘲りも憐憫も消え、ただ怯えだけがあった。
自分もいつ、この獣の気まぐれに呑まれるか分からぬという恐れ。
その恐怖に支配されていた。
全ての染みを舐め取り、俺が顔を上げる。
アルフォンスは微笑みながら、俺の髪を撫でた。
「良い子だ。……だが、少し口の周りが汚れているな」
彼はそう言うと、指で俺の唇を拭い、その濡れた指先をトリスタンの眼前に掲げる。
ワインと唾液が鈍く光った。
「覚えておけ、子爵。こいつは俺のものだ。
与えた傷も、唾液も、屈辱も、全てが俺の所有印だ。
二度と、他人の玩具を気安く虐めてくれるな」
その声は、広間の全員に向けた宣告でもあった。
ルシアン・ド・ヴァロワは、王太子アルフォンスの所有物である、と。
俺は、彼の足元でただ震えていた。
あの夜、獣に最高の玩具だと証明してしまった俺の末路。
それは、衆人の前で所有権を刻み付けられ、完全に彼の支配下に置かれることだったのだ。
そして俺は、この底なしの絶望の中で、奇妙な安堵を感じている自分に気づいてしまった。
トリスタンのようなハイエナに弄ばれるくらいなら、いっそこの獣に、完全に所有されていたいと。
その思考こそが、俺の魂が彼の毒に侵され、壊れ始めている、何よりの証拠だった。
何百という蝋燭が燃えるシャンデリアが、大広間を昼間のように照らしている。
着飾った貴族たちの笑い声が渦を巻き、むせ返るような香水と料理の脂、人々の熱気が入り混じって、空気はどこか濁っていた。
かつては俺も、あの輪の中心にいた。
だが今は、アルフォンスの影として、彼の数歩後ろに控えることしか許されない。
公爵家の子息でありながら、従僕以下の扱い。
周囲の視線は好奇と侮蔑、そして憐憫で満ちていた。
そのひとつひとつが、見えない針のように俺の誇りを刺し貫く。
そんな中、一人の男がアルフォンスに歩み寄った。
「これは殿下。今宵もご壮健そうで、何よりですな」
媚びを含んだ声。
トリスタン・ド・ヴァロワ子爵——俺の遠縁にあたる男だ。
かつては家格の差ゆえに俺へへりくだっていたくせに、今は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「トリスタン子爵か。息災そうだな」
アルフォンスは気のない口調で応じながらも、その男が俺に向けた軽蔑の視線を見逃さなかった。
唇の端に、酷薄な笑みが浮かぶ。
「して、何か用か?」
「いえ、殿下にご挨拶を、と。それから……そちらの『お供』は、息災ですかな?ヴァルロア公爵家の嫡男殿も、随分と……落ち着かれたご様子で」
トリスタンの言葉は、明らかに俺を貶めるためのものだった。
俺は唇を噛み締め、侮辱に耐える。
だが、アルフォンスはそれを見過ごさなかった。
「ああ、ルシアンのことか」
アルフォンスは、まるで面白い玩具を見せびらかすように、俺の腕を掴んでぐいと引き寄せた。彼の隣に立たされ、俺はトリスタンの真正面に晒される。
「最近、随分と物覚えが良くてな。見せてやろうか、子爵」
そう言うと、アルフォンスは手にしていたワイングラスを、わざとらしく手から滑らせた。
ガシャン——という甲高い音が、楽団の演奏を断ち切り、広間の空気が一瞬で凍りつく。
砕け散ったグラスが宝石のように煌めき、深紅のワインが白い大理石に血のような染みを作った。
「おっと、手が滑った」
皮肉めいたその声に、俺の背筋が凍る。庭園での屈辱が、鮮やかに蘇った。
だが、ここは衆人環視の晩餐会だ。
まさか、と俺の願いも虚しく、アルフォンスは冷酷に命じた。
「ルシアン、片付けろ」
「……ハンカチを、お持ちいたします」
俺が絞り出した声は、震えていた。
だが彼は、愉快そうに首を振る。
「いや、それではつまらん。……舐め取れ」
「な……っ!」
俺だけでなく、トリスタンの喉からも小さな呻きが漏れた。
水を打ったように静まり返る大広間。これは狂気の沙汰だ。
「聞こえなかったのか?私のワインだぞ。一滴残らず、その舌で綺麗にしてみせろ」
その声には、王族としての威圧と、獣の残酷さが混じっていた。
逆らえば、ここで何が起きるか分からない。ヴァロワ家の、いや、俺自身の破滅が、すぐそこにある。
俺は、静かに床へ膝をついた。
羞恥も恐怖も、もはや感覚として遠い。
ただ無数の視線の熱が、背中に突き刺さっていた。
砕けたガラスの鋭い破片を避けながら、床に顔を寄せた。そして、犬のように、舌を伸ばして大理石の床を舐め始めた。
ワインの渋みと酸味、床の石の冷たさ、そして埃のざらついた味が口に広がる。
俺は無心で舌を動かし続けた。
早く、早くこの悪夢が終わってくれと、心の中で神に祈りながら。
「……見事だろう、子爵」
アルフォンスは、まるで自慢の芸を見せるように言った。
「壊れた人形には、壊れたなりの躾け方がある。お前にはわかるまい、この服従を造る愉悦が」
視界の端で、トリスタンの顔が恐怖に歪んだ。
嘲りも憐憫も消え、ただ怯えだけがあった。
自分もいつ、この獣の気まぐれに呑まれるか分からぬという恐れ。
その恐怖に支配されていた。
全ての染みを舐め取り、俺が顔を上げる。
アルフォンスは微笑みながら、俺の髪を撫でた。
「良い子だ。……だが、少し口の周りが汚れているな」
彼はそう言うと、指で俺の唇を拭い、その濡れた指先をトリスタンの眼前に掲げる。
ワインと唾液が鈍く光った。
「覚えておけ、子爵。こいつは俺のものだ。
与えた傷も、唾液も、屈辱も、全てが俺の所有印だ。
二度と、他人の玩具を気安く虐めてくれるな」
その声は、広間の全員に向けた宣告でもあった。
ルシアン・ド・ヴァロワは、王太子アルフォンスの所有物である、と。
俺は、彼の足元でただ震えていた。
あの夜、獣に最高の玩具だと証明してしまった俺の末路。
それは、衆人の前で所有権を刻み付けられ、完全に彼の支配下に置かれることだったのだ。
そして俺は、この底なしの絶望の中で、奇妙な安堵を感じている自分に気づいてしまった。
トリスタンのようなハイエナに弄ばれるくらいなら、いっそこの獣に、完全に所有されていたいと。
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