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12.しがらみ(マエル)

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 き、来た……!

 今か今かと、ダイニングの扉が開くのを待っていた私に「アンタ、本当にわかりやすいね」と、呆れたようにテレさんが呟く。「あ、あははは」と笑いながら、しれっと部屋にある小さな鏡を見遣った。

 もうッ、ほっぺた赤くなるの何とかしたいんだけど!

「腹減ったっす~!」

 と、お腹を摩りながらスティーブさんがダイニングに入ってきた。車の不具合は何とかなったらしい。
 彼の額には、擦ったように黒ずんだ油が付いていた。すかさずテレさんの「先に手と顔洗ってきなッ!」という怒号が飛ぶ――。

 カレーを食器に盛り付け、テーブルに並べる。本来ならナンと一緒に食べるらしいけど、今日は白パンや茶パンで代用することになった。
 顔の油を落としてきたスティーブさんが席につくや否や、驚いた表情を浮かべる。

「これ何!?」
「噂に聞くカレーってヤツだよ。マエルが作った」
「マジか、すげぇな! 超美味そうじゃん!」

 キラキラとした視線を送られ、咄嗟に両手を振った。

「いえいえそんな! ほとんどテレさんの指示に従ってただけだよ」

 水差しで人数分のコップに水を注ぎ、改めてディナーが始まった。スティーブさんがスプーンでカレーをすくい、一口パクッと頬張るのを見守る。

「ど、どう?」
「……激ウマッ! え、何これ!? なんて料理だっけ!?」

 喜ぶ彼に「カ、カレーだよ!」と再び教えると、テレさんが呆れて「3文字くらいすぐ覚えんかいボケ」と小声でぼやいた。
 テレさんもゆっくりとスプーンでカレーを食べていたけど、若干手先がおぼつかない様子で、テーブルにカレーを溢してしまう。そして拭き取ったナプキンを、彼女はじっと見つめた。

「カレーを白い布で拭くと“複雑な気持ち”になるのはワタシだけかいな?」
「ばあちゃん! 食ってる時にの話すんなよッ!」
「逆やろがいッ! 人が作ったもん侮辱してんのかこの馬鹿タレ!」

 驚異の下品さにドン引きする私を他所に、声を上げて大笑いする2人。それでも自然と頬が緩む。

 食事中のマナーなんてあったもんじゃないけど、毎日こんなに賑やかなのかな……。

 独りで自宅に篭ってたら、こんなに明るい食卓なんてあり得なかったと思うと、何だか微笑ましく思えた――。

 2人のコントによる、笑いの絶えないディナーを終えた後は、私とテレさんで食器を片付けてる間に、スティーブさんが入浴の準備をしてくれた。

 食後のティータイムは他愛のない話でも、あっという間に時間が過ぎていく。
 テレさんの話だと、カレーに使用していたのは国産の材料だった。「海外のは危なっかしくて、とても食えない」と嘆く彼女に、私はウンウンと頷きながら耳を傾けていた――。

「え!? あの車、事故車だったの!?」

 今日乗っていたスティーブさんの車が、元々事故で廃車になってた物と知って驚く私。普及してきたとはいえ、車の運転はとても難しく、かなり訓練しないと簡単に事故を起こしてしまう。

「へへ、そうは見えないだろ?」

 誇らしげにスティーブさんが微笑む。

 彼は16歳からスクラップ工場で働いていた。
 毎日重労働をこなしながらも、そこに持ち込まれたボロボロの廃車を安値で買い取り、工場内にある部品を掻き集めて、全部自分で修理したそう。

『こいつを気に入ってるから、何だかんだ修理しちゃうんだ。“手間のかかる子供ほど可愛い”っていうじゃん? ――』
 
 ふとあの時のセリフが蘇り、その本当の意味をやっと理解した私。

 車を手に入れたのを起点に、タクシー運転手として開業したのが約2年前のことみたい。
 慢性的な腰痛を患ってしまい、温湿布を毎晩貼り替えなきゃいけない生活になってしまったけど、何だかんだで車好きな自分には適職だと語っていた。

 スティーブさんを一瞥したテレさんが、嘆息して肩を落とす。

「結果、高校も行かないで鉄クズばっかイジってたらから、になっちまったってワケさ」
「こんなんとか言うなし。これでも一応自立して、首都で働いてたんだぜ?」
「そうですよテレさん……こうやって帰ってきてくれてますし、ご自慢のお孫さんじゃないですか」

 庇うように私が続くと、彼女は「ふん」と鼻を鳴らして時計を見遣り「ワタシゃもう寝るよ」と、重そうに腰を上げた。気付けば針は21時を回っている。

「え、風呂は?」
「入らんでも死にゃせんわ。後は、よろしくヤりな」
「いや発言が際どいわッ!」
「勝手に扉開けたら、今度こそ頭撃ち抜くからね」

 笑いを堪えながらそう言い残したテレさんが、自室に入って扉をパタンと閉めた。心臓止まりそうになったし。
 まるで嵐が去ったかのように、スティーブさんが安堵の表情で大きな息を吐く。

「ふぅ……せっかく浴槽にお湯張ったのに」
「けっこう重労働だよね」

 庶民の家にバスタブや温水供給設備はなく、キッチンやストーブなどで沸かしたお湯を、小さめの浴槽に運ぶ手法を取る。お湯を入れた鍋を運ぶのはかなりの労力が必要なため、男性が担うことが多い。

「まぁな。でもこの季節だと温度差があるから、ばあちゃんも下手に入りたくないんだろうけど」
「確かに、そこは心配になっちゃうね……」

 高齢になると、急な温度差に身体が晒された瞬間、心臓発作を起こしてしまうこともある。

「とりあえず、風呂はだいぶ適温になってるから先に入りなよ! 俺はマエルの寝る部屋を準備しておくからさ!」
「え、う、うん!」

 お言葉に甘えて先に入浴することになった私は、旅行バッグを持って浴室へと向かった。

 爽やかな水色のタイルが張られた、モワッと湿気を帯びた空気の浴室。そこに少し小さめの陶器の浴槽が置かれ、ふわふわと湯気が立っている。その横の床には、小皿に乗ったがポツンとあった。

 し、しまった。
 シャンプーがない……!

 完全にホテルのシャンプーをアテにしていた私。髪がギチギチになるのを覚悟して石鹸で洗うか、お湯だけで洗うかの選択を迫られる――。

 結局、ギチギチを回避することにした髪を櫛で溶かし、肌にたっぷりと化粧水を塗り終えた私は、脱衣所を出てリビングに戻った。

 暗めの吊り照明に照らされたリビングには、真っ黒な鉄製のストーブがあり、煙突が天井に伸びている。スッピンのお披露目には丁度いい暗さで安心した。
 年季の入ったテーブルや椅子も置かれており、そこではスティーブさんが“分厚めの本”を片手に、ストーブの前の椅子に座って暖をとっていた。

「スティーブさん、お待たせ」
「お~! その寝巻き、めっちゃ可愛いじゃん!」

 私が着ていたベージュのナイトガウンを見るなり、本を閉じて褒めてくれるスティーブさん。
 ナイトガウンは、肌触りの良い厚手のサテン生地で出来ており、華やかな花柄が刺繍されている。
 お気に入りを褒められて嬉しくなった私は「ふふふ、可愛いでしょ?」と、微笑みながら裾を摘んでチョコっと持ち上げた。

「よく似合ってるよー! というか、そもそもマエル自身が死ぬほど可愛いよな。なんか、天使みたいっていうかさ」

 彼が真っ白な歯を見せてニコニコしている。不意な褒め殺しに、悶絶しそうになった私。

「う、嬉しいけど、天使は言い過ぎだよ……」
「ははは、別に大袈裟に言ったわけじゃないって! あ、お風呂はどうだった?」
「すごい気持ちよかったよ!」
「そりゃ良かった。次俺入るけど、どうする? 先に寝室行くかい?」
「ううん、髪乾かしたいからここで待ってる。あ、温湿布は準備しとくからね」
「ありがとう!」

 言い残したスティーブさんが、浴室へと向かっていく。
 棚から温湿布を取り出しておき、彼の座っていた椅子に腰掛ける。次に、ストーブの熱気に髪を当てようと頭を掲げたら、テーブルの上にある彼の本が目に入った。

 何読んでたのかな?
 まさか“えっちぃ本”とかじゃないよね……。

 変な疑いを抱きつつも、興味津々に本を取ってみる。

[小学生でもわかる! くるまのしくみ!]

 タイトルからして、どうやら車の構造について書かれた本みたいだ。
 中を覗いてみると、たくさんの図解を用いていて難しい言葉は使われておらず、丁寧かつ分かり易く解説されている。
 栞が挟まれたページには、ミッションという部分について記載されていた。
 ページの所々に黒い指紋のシミがあり、作業しながらも、よく読み込まれている感じが伝わってくる。

 熱心に勉強してるんだなぁ……。

 しみじみと感心しつつ、本を同じ場所にそっと置き直した――。

 その後、髪が乾いて少しウトウトし始めた頃に、スティーブさんが「ふぇ~」と上半身裸で首にタオルを下げて登場してきた。すかさず私がサッと両手で顔を覆う。

「ち、ちょっとヤダ、服着てよッ!」

 と叫びながらも、指の隙間から彼のマッチョ体型をハラハラしながら見つめる。
 鍛えられた胸板と、バキバキに割れた腹筋が織りなす彫刻のような体つきは、惚れ惚れするほど芸術的な美しさだ。たぶん、スクラップ工場で鍛錬されたんだと思う。

「あ、めんごめんご、ちょっとのぼせちゃってさ!」

 め、めんご?

「い、いいから早く着てってば!」

 もう、テレさんから“こんなん”って言われるワケですわ!

 そして、グレーのスウェットを着てきたスティーブさんに温湿布を貼ってあげようと「服めくって?」と頼んだら、彼はスウェットのパンツを下着ごとずり下ろし、モロに半ケツを出してきた。

「いやぁッ! そっちじゃなくて上着の方ッ!」
「えー? だって俺が痛めてるの、かなり下なんだもん」

 彼の指定する箇所に何とか温湿布を貼り、一安心したところで寝室へと案内された私。

 照明は消えており、窓から月明かりがほんわかと室内を照らしている。そこには、羽毛布団の敷かれたベッドが1つと、畳まれた毛布が置かれる2人掛けのソファがあった。

「マエルはそのベッド使っていいよ!」
「え……でもここ、スティーブさんの部屋でしょ? あなたはどこで寝るの?」
「俺? 俺そこ」

 彼が平然とした面持ちでソファを指差す。途端、寝耳にを掛けられたくらいの衝撃が走る。

「待って待って待ってウソでしょ同じ部屋なの!?」

 家の大きさから考えて、薄々こうなる予感はしていた。けど、本当にそれが的中してしまうとは。
 たじろぐ私に対して、スティーブさんが後頭部に手を添えて「あ、やっぱ嫌だった?」と苦笑いする。

「い、嫌ってわけじゃないけど、先に言って欲しかったの! “心の準備”ってものがあるし……」
「心の準備?」
「聞き返さないで」

 あれよあれよと、同じ寝室で寝ることに決まってしまう。
 とはいえ、私が半ば強引に彼の家に押しかけてきたようなもの。『緊張で死ぬから別々の部屋にして欲しい』なんて、ワガママを言える立場じゃない。

 それでも、に備えて、もっと可愛い下着にしとけば良かったと、今更になって後悔する――。

 ふかふかのベッドで横になると、スティーブさんも肘掛けに頭を乗せてソファに寝そべった。すぐさま足元に何かが当たり、やたらと温かいことに気付く。

「あれ? 湯たんぽ入れてくれてたの……?」
「ビックリした? 美味しいカレーを作ってくれたお礼さ」

 布団を頭まで被って「ん~ッ」と悶える。すると「なぁ、マエル」と呼ばれたので、布団から少しだけ顔を出して「うん?」と返事をした。

「俺がいない間、ばあちゃんと何話してたんだい?」
「えへへ……内緒」
「出た~! 俺だけハブにされるやつ」

 スティーブさんが笑いながら寝返り、頭に腕を組んで仰向けになる。

「そんなイジケないでよ~。だって女同士の会話だもん。言えないって」
「意地悪なことされなかった? 俺の彼女とか、ばあちゃんが弄らないはずないし、けっこうなとこあるしさ~」
「し、でしょ……? 全然大丈夫だった。すごく優しかったよ?」
「無理してないか? 明日はエンゴロの件で、ほとんどばあちゃんと2人きりで留守番させちまうし……なんて言うか、不安でさ」

 と、やけに心配してくるスティーブさん。声もどこか自信なさげ。

「私のことは心配しないで。テレさんはなんて言うか、少しヤンチャなだけだよ」

 彼女はボウガンを撃ってきたり、大きな瞳と声質のせいで威圧感があったり、ちょっと言い回しがキツいところもある。
 けど、私はそんなテレさんに性悪という印象はなく、どちらかというと天真爛漫な感じがした。それでもやっぱり、お身体は辛そうだったけれど。
 スティーブさんが疑問気味に「そうかなぁ」と返してくる。

「テレさんのことは私に任せて。スティーブさんも明日は無理しないで、無事に帰ってきてね?」
「ははは、親友のところへ行くんだから大丈夫さ。あ、そうだ! 海以外にも夜景が綺麗なとこもあるから、今度一緒に行こうよ!」
「……うん、行きたい」

 不意にこちらを向いたスティーブさんが、憂うような視線で見つめてきた。

「マエル、元気出せよ。これから良いことなんて、いっぱいあるからさ」
「うん……」
  
 じんわりと、目頭に涙が滲んでくる。
 シンと静まり返る寝室。置き時計の針音がチッチッチと鮮明に聞こえる――。

「……スティーブさん?」

 呼んでみても、なかなか返事がこない。
 音を立てないよう慎重にベッドから降りて、膝をついて前屈みになる。垂れ下がる髪を耳に掻き上げながら覗いてみると、彼はすでに目を瞑ってスースーと寝息を立てていた。ある意味ハプニング。

 そっか……長距離運転で、疲れてるよね。

 『今日は色々ありがとう』

 て、伝えたかったのにな。
 
 彼の髪から、ほのかに香る石鹸のいい匂い。鼻筋の通った端正な顔立ちと柔らかそうな唇に、思わず吸い込まれていく私の唇。

 ドキドキ――ってダメだよ私。起きちゃったら大変……!

 小さな溜息を吐きつつ、少しだけズレていた彼の毛布を掛け直してベッドに戻った。

『……いません! ――』

 から始まった、気が遠くなるほど長い1日が終わろうとしている。本当に色々ありすぎて、何度心臓が破裂しそうになったことか。

 窓から見える星空を眺めながらも、自然と脳裏に浮かび上がってきたのは――剣呑な表情をしたキリアンの顔だった。
 
 まただ……もうイヤ。
 
 普段はいつもここから、平気で1時間以上は寝付けなくなる私――ところが。

『俺はマエルのこと……信じるよ――』
 
 途端、スティーブさんの真剣な眼差しが、元婚約者の顔をかき消すように頭を過る――すると、胸を刺す棘のような痛みが、瞬く間に和らいでいく。

 海辺で泣きじゃくる私の背中を摩ってくれたり、腰の痛みを我慢してまでクッションを譲ってくれたり、ベッドの中へ地味に湯たんぽを仕込んでくれていたり。

 そんな彼の純粋な優しさには、些細なことも含めて、包み込まれるような温もりを何度も感じた。

 『可愛い』とは褒めてくれたけど、彼は私のこと、どう思ってるんだろう。

 会ったばかりのスティーブさんを……好きになってもいいのかな。

 でも――。

 親友に騙されてるかも知れないし、テレさんも病気で大変な彼を……?

 それに、庶民の彼との交際をお父さんやお母さんが許してくれるはずないよね。ウチだって、婚約破棄されて大損失してる状況なのに。

『マエル、元気出せよ――』

 やだなぁ。
 もう海外なんて、行きたくないよ。

 そんな葛藤で苦悩している私のすぐ側で、スティーブさんが「スピー、スピー……フゴ」と、ヨダレを垂らして爆睡している。

 ふふふ、呑気に幸せそうな顔して……。

 愛おしく想えるほどの安心感が、思い悩む心を溶かすように、少しずつ私を眠りへと誘う。

 考えることをやめて間もなく、そのまま意識はスー……と薄れていった――。
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