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イェン=カースの干渉

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 八分儀座方向にある暗黒星雲の中にレンズ導入を拒絶した知生体がいる。イェン=カースと呼ばれる彼らは、自らを「非階層的ネットワーク意識」と称した。その社会は、階層も感情も時間の非線形性も持たず、ただ全体構造を保ち続けることで存続している。知性は、位置と関係によって保持される位相構造体で、共振金属体の微細な位相金属格子で構成された集合意識だ。自己は“更新される記録”ではなく、“固定された構図”なのだ。
 レンズによる「記憶の共鳴」や「過去と未来の編み直し」は、イェン=カースにとって“存在の喪失”に等しかった。「共鳴」や「意味の流動化」は、他者の記憶・感情・象徴を取り込み、再構成するため、彼らにとって自己境界を不安定化させる構造の浸食であり、死に等しかった。彼らにとって意味は構造であり、再解釈されてはならなかった。同じ記憶が異なる文脈で別の意味を持ちうるレンズ知覚は、彼らにとって存在的脅威なのだ。レンズは沈黙や非言語的感応をも意味として扱うが、イェン=カースにとって、それは「言語化されない者を存在と認める」危険思想に見えた。彼らの社会において、構造を「揺らす」ことは、叛逆・崩壊・無意味化であった。

 その彼らが、ドリフト・オリジンと接触したことにより、認知フィールドでの他者の存在を感じるようになった。そのようにして知った人類のレンズ文化は、彼らにとって感染性の崇拝に等しく、異物として映った。それに干渉することは、文明の救済行為であり、構造の防衛であり、宇宙の再秩序化を意味した。
 そしてヒューマン歴2218年、イェン=カースは、地球の周りを回る運用済み人工衛星を複数復活させて、これらを乗っ取り、地表に向け、まずレンズ共有構文でメッセージを送った。
「感覚を手放した種族へ。おまえたちは存在を誤訳した」
 それに続き、共鳴干渉波の照射を開始した。

 その結果、地球のレンズ知覚の人々は、自分の「内側」が自分でなくなるように感じ、涙が流れても、それが誰の涙なのか分からなくなった。芸術家のペンのインクは用紙に着く前に乾いてしまい、夢結び作家はコード化すべき次の場面が思いつかなくなった。子供たちは同じ夢を見て泣き出した。夢の内容を問うと、ある子は言った。
「目のないものが、意味がなくなるように、周りを撫でてくる」
 他のレンズ生まれの子どもは、その感覚をグリフでなく言葉で説明した。
「自分の中の螺旋がほどけていく感じ。むちゃくちゃでなく、何もなくなる感じがする」
 ある両覚翻訳者は、干渉波が傾聴方法をも忘れさせようとしていることを感知して言った。
「これは、言葉のない拒絶だ。成形を拒否する形だ。鏡のあいだの壁だ。克服できるか分からないが、我々は、決して沈黙はしない。傾聴することを忘れない。沈黙を聴くことも」
 幸いレンズAIは影響を受けなかったので、都市活動は継続し、生命への危機は軽度で済んだ。共鳴干渉波を照射している人工衛星を破壊することは可能だが、代替だいたい衛星が多数あるので、切りがなかった。そして静寂が、中立性の衣を着たエントロピーのように、確実に忍び寄っていた。

沈黙を編む者:ユリア・ハンセン
 ユリア・ハンセンは、基本派の教師である。授業は常に直線的言語、論理的順序、身体訓練によって構成された。だが、誰も知らなかったことがある。彼女の母は、レンズ体験者だったのだ。
 ある夜、彼女の母は自室で突然発作を起こしたことがあった。レンズ共鳴による記憶の逆流により、自我の境界が崩れたのだ。
「おまえが私を見た瞬間に、私は誰でもなくなるのよ!」
 叫ぶ母を、ユリアは腕に抱きながら、何も言わなかった。言葉で慰めることは、逆に母を消すことになると知っていたからだ。その夜から、彼女は「言わずに聴くこと」を学び始めた。
 イェン=カースが共鳴干渉波を照射し始めたとき、ユリアは教師として、生徒たちを保護していた。その中に、ミアという10歳の少女がいた。両親は解放派。学校では「言葉で通じない」ため孤立していた。干渉波の翌日、ミアは目を見開いたまま、夢の中に入ってしまった。ユリアは教室のすみにミアと一緒に座り、何もせず、ただ彼女の手を握り続けた。
 ミアの夢の中では、断絶領域が広がっていった。
 ユリアの母は、かつてレンズに触れ、自分の内面が“誰かの外部”として解体される経験をした。彼女は最後まで言っていた。
「私は、わたしを失う感覚に名前を付けたくない」
 それ以来、ユリアは学んだ。言葉は、存在の輪郭を作る。だが、輪郭はときにおりになる。
 だからユリアは、ミアの名前を呼ばなかった。代わりに、床に一本の線を引いた。何も意味しない、ただの直線。しかしその線は、ミアにとっては、世界がまだ終わっていない証拠になるものだった。

 ユリアは彼女の母との経験から、レンズを使わず意志だけでミアの“夢の縁”へと到達することができた。方法はただ一つ。全てを否定せず、何も投影しないまま隣にいることだった。
 夢の中で、ミアは小さな島のような場所にいた。そこには、誰の記憶もなく、誰の声も響かなかった。でも、その砂浜の向こうに一本の線が見えた。それは、ユリアが描いた棒のような記号。意味を持たない、ただの線。
 それを見て、ミアが初めて言葉を発した。
「これはなに?」
 ユリアは答えた。
「これは、わたしがまだ帰っていない証拠よ」
「先生……この線、動かないね」
 その瞬間、ユリアは泣いた。ミアの意識が戻ったのではない。ミアの“信号”が、再び発信されたのだ。名前ではなく、信頼という形で。
 そしてミアは、自分の意志で動き、ユリアの袖をそっとつかんだ。何かを伝えたかったわけではなく、ただ、そこにある何かを確かめたかった。
 ユリアは、ミアの目を見て、微笑んだ。
「わたしはここにいるよ」と言わなかった。でも、ミアには聞こえた。
 その瞬間、ミアの中で何かがつながった。言葉ではないが、意味が戻ってきた。

 ミアが回復し、イェン=カースの攻撃が去ったある日、ミアはユリアに尋ねた。
「ねえ先生。あのとき、どうして私の名前を呼ばなかったの?」
 ユリアは、少し考えたあとに、こう言った。
「あなたの名前は、あなたが帰ってくるためのものだったからよ。私が呼んでしまえば、それは“私の呼びかけ”になってしまう。あなた自身が戻ってくるための“静けさ”が必要だったの」
 ミアは笑った。
「……じゃあ今は?」
「今は、あなたが私の名前を呼んでいい」

 ミアはその後、迷ったとき、一本の線を思い出す。あのときの直線。それは、意味を押し付けない、「ただ在る」ものだった。
 「ユリア先生は教えてくれた。“在る”ということは、語らずとも届くということを」

(続く)

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