主よ、人の望みの喜びよ 【御曹司アルファが恋した相手は、底辺オメガのピアニストでした】

大波小波

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 ざわめく客席が、申し合わせたように静まり返った。
 舞台に、ライトが灯ったのだ。
 空は袖で、雅臣と握手をしていた。
「行ってくるね」
「ずっと、傍にいるよ」

 眩しいライトの中へ、空は颯爽と出て行った。
 静かになったはずの客席に、さざ波のようなざわめきが。
 空が、楽譜を持っていないのだ。
 譜めくりの人間が、後から出て来る気配も、ない。
 人々の困惑の中、空は鍵盤に軽く指を置いた。

 デビューの記念すべき一曲目は、シューベルト『4つの即興曲 op. 90』だ。
 薄暗く物悲しい旋律の多いこの曲は、雅臣と出会う前の僕を表している。
 冷たく深い海底に横たわり、息苦しさに耐えていた頃の僕だ。

 そして、ブラームス『ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op. 5』。
 これは、雅臣と出会った僕。
 驚きと、喜びと。
 劣等感と、思慕と。
 いろんな感情が入り乱れ、くるくる変わる毎日だったっけ。
 感情というものを、僕に取り戻させてくれた、雅臣。

 ラストは、ベートーベン『ピアノソナタ第23番ヘ短調 作品57』。
『熱情』という通称が有名な曲だ。
 僕が愛した雅臣が、僕を愛してくれた。
 彼への愛の激情を、ピアノで語ろう。
 彼に、この曲を捧げよう。
 空は、夢中でピアノを奏でていった。
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