幸福についてのジレンマ

おつきさま。

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世界の見え方について

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世界の見え方について



ぐったりとベッドの上に横たわる昭乃くんは、純粋で泣き虫でそのくせよく笑う普段の子供っぽい姿とは違い酷く扇情的だった。
 白く細い肢体が真っ白なシーツに力なく投げ出されている。
 上気した頬には涙の跡がよく目立った。
 その上から今も流れ続ける涙を指で拭った後、吐き出されたものを片付けて温かいタオルで体を綺麗にした後に、服を着せる。
 最後に、きっと腫れてしまうだろうけど少しはマシになるようにと水で濡らしたタオルを目元にかけてやった。
 タオルをかける前に見た表情は、幾分か落ち着いているようで安心する。
 寝ている時くらいは辛い顔をしてほしくない。
 この子にはいつも笑っていてほしいな、とそう思った瞬間から、気付けば俺のつまらない世界は俺ではなく昭乃くんを中心に周り始めた。



 生きるために働いているのか、働くために生きているのかすらわからなくなるくらい飽きもせずただ同じことを繰り返して、毎日をただ摩耗し消費していくだけの人生。
 これをあと何十年と続けた果てに待っているのは死だけだなんて、労働は罪を犯した人間に神様が与えた罰だという話も、なるほど間違っていないなと思う。
 そうは言っても、おれは毎朝早起きをして満員電車に揺られて通勤するような会社員ではなく、自宅で事足りる小説家なんていう職業だからまだ恵まれている方なのだろう。
 それでも、毎回締切に追われて四六時中作品のことが頭から離れず気も休まらない。
 書けと言われたものを書き、自分が本当に書きたかったものも見失って、時々俺はこんな所で何をやっているんだろうと立ち止まり振り返ってしまいそうになる。
 夜ベランダに出てひたすら外を眺め続けるのは、ここではない何処かに行きたい、この場所から逃げ出したいという思いの現れだった。
 世界は果てが見えない程に広いのに、実際に俺が行けるような何処かなんてものはどこにもなく、ここ以外に行ける場所なんてなかった。
 行こうと思えば本当はどこにでも行けるけれど、生きていくことを考えるとそれがしがらみになって途端に身動きがとれなくなる。

 人生とは、なんとつまらない。

 昭乃くんを見つけたのは、俺が毎晩ベランダに出ることと、そこから公園の様子がよく見えるということを踏まえると必然だったと言える。
 いつの頃からか現れた、週に1、2回のペースで夜の7時か8時過ぎにやって来ては、時計の針が0時をとうに回った頃にようやく帰っていく少年。
 長時間ただブランコをゆらゆらと漕いでいる姿は寂しげで、よく見ると毎回泣いているようだった。
 どうしてあんな遅い時間まであんな所にいるんだろう、どうしていつも泣いているんだろう。
 一度気になりだしたら目は自然とあの子の姿を探すようになった。
 いつの間にかベランダに出るのは、何処か遠いところに思いを馳せる為ではなく、あの子を見る為になっていた。
 そうしてある日ふと、あの子が笑ったらどんな顔をするのだろうと閃きのように疑問が湧いた。
 それ以外にも前々からふり積もっていた疑問の答えを知りたくて、俺はその日ついに公園へ向かった。
 近くで見る彼の目は泣きすぎて真っ赤に腫れていた。
 きっと悪くはない顔をしているだろうに、可哀想なくらいぐちゃぐちゃだった。
 人に優しいという印象を持たれやすい見た目のおかげか、軽く自己紹介をするとその子ーー昭乃くんは少し言い淀んだ後に泣いている理由を教えてくれた。
 話を聞いた俺は、話しながらまた泣き出してしまった昭乃くんのことを羨ましいと思うと同時に眩しく思ったものだ。
 誰か特別な一人にこんなにも感情を揺さぶられている、その厄介な恋という感情は随分と前に俺が失くしたものだったから。
 俺のこの変わり映えのない平坦な毎日と、たった一人のことで浮き沈みする忙しない昭乃くんの毎日では流れる時間は全く同じにも関わらずそこに生まれる価値はまるで違った。
 その輝きを俺自身は手に入れられなくとも、触れることができればいいとそれから昭乃くんを見かける度に下に降りるようになった。
 昭乃くんとは色々なことを話した。
 昭乃くんの恋人の結くんのこと、その日あったくだらないこと、好きな食べ物のこと、ほんとうに色々だ。
 そうすると自然と昭乃くんの笑った顔を見る機会も多くあった。
 昭乃くんは本当に楽しそうに笑う。
 子どものように純粋に無垢に、些細なことでも楽しそうに笑うものだから見ているこっちまで釣られて笑ってしまう。
 昭乃くんには笑顔が良く似合う。
 こんな風にいつも笑っていて欲しいな、とブランコを揺らしながら隣の横顔を見ていた。



 気が付くと俺は昭乃くんと会っていない時までも昭乃くんのことばかりを考えるようになっていた。
 今何をしているのかな、今日は何を食べたのかな、ちゃんと笑ってるかな、泣いていないかな。
 思考が昭乃くんで埋め尽くされて、夜に近づくにつれて胸が高鳴った。
 今日は昭乃くんは来るだろうかと期待して、来ないとなんだか悲しくなって、来たら来たで結くんしか見えていない昭乃くんを見て心臓がキリキリと痛んだ。
 もうわかっていた。
 それは恋だった。
 理性では抗えない強い感情に呑まれていく。
 昭乃くんの一挙一動、一言一言に喜んで悲しんで、昭乃くんを中心に周り始めた俺の世界は鮮やかで、とても美しかった。
 昭乃くんは俺の色褪せたつまらない世界を見事なまでに変えてくれた。
 そうして、感情が動くということを忘れかけていた俺に張り裂けそうな程の胸の痛みを与えてくれた。
 叶うのなら。
 俺が昭乃くんを幸せにしてあげたかった。
 その笑顔の理由に俺がなれたなら、どれほどよかっただろう。
 けれど願うだけ無駄だということを俺は知っている。
 だって昭乃くんの世界を染めるのも昭乃くんを泣かせるのも笑わせるのも、全部結くんにしかできない事なのだから。
 思い続ければ最後には叶う恋も幸せな結末も、全部物語の中にしか存在しないということを俺は一番知っている。
 だったら俺は俺に与えられた役割をこなそうじゃないか。


 眠る昭乃くんの首元に顔を寄せて、昭乃くんからは見えない場所、そうして昭乃くんよりも背の高い相手からはよく見える場所ーー項に近い部分に口付ける。
 薄い皮膚を唇で食んで吸い付けば、綺麗に跡が残った。
 こんなにも簡単に跡は付くのに、決して手に入れることはできない。
 ねえ、昭乃くん。
 君がどこかで幸せに笑っていてくれるのなら、そこに俺がいなくたっていいなんて。


 「…大人になったな、俺も」


 俺がまだもう少し子供だったなら、がむしゃらに欲しいと手を伸ばすこともできたのかもしれない、と自嘲の息をもらす。
 そうしてふと思いついた。
 次は恋愛小説を書こう。
 編集の人には路線が違うと反対されるかもしれないけれど、たまには俺の書きたいものを書いたっていいだろう。
 公園で泣いている女の子と、その子のことをいつもベランダから見ていた男の話だ。
 そして二人は最後には結ばれて、幸せな結末を迎える。
 俺の書く物語だ。
 俺が一番望んだ結末を書こうと思う。
 その時には昭乃くん、どうか君にも読んで欲しい。
 その本は、君が俺に与えてくれた美しい世界を記録した、君だけに宛てたラブレターだから。
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