上 下
101 / 112
第5章

② 出張の依頼

しおりを挟む
 株式会社ぽんぽこりん建設S県支部。

 日本国内だけでなく世界に名をとどろかせる企業の支部だ。

 社員は忙しなく働き、活気にあふれている。

 そんな中、余裕を感じさせるロマンスグレーの男がいた。

 彼の名を北亀玄武という。



「水田くん、ちょっといいかな?」

 秋穂が夫の代理として会社に復帰して、およそ一ヶ月が過ぎていた。

 北亀はそっと秋穂の肩に手を置く。

 この時世、これだけでもセクハラと言われこともあるのだが、秋穂は嫌な顔すら見せず笑顔で振り向いた。

「仕事はどうかね?」

「はい、すっかり取り戻せて、多分昔よりもできちゃってるんじゃないかなって思います」

 実際、一度ブランクを空けて遠くから仕事を見ることができたことは、むしろ彼女の成長を助けたと感じられる。



「それは良かった。早速なのだが、きみに出張をお願いしたいと思っているんだ」

「出張ですか。場所はどこですか?」

「A県だよ」

「え、東北ですか? ずいぶん遠いですね」

「ああ。だけどきみ以外に適任が思いつかなくてね」

「うーん。でも、日帰りにはならないですよね。夫が病気療養中に外泊の出張はしたくないんですが」

 にわかに秋穂の表情が曇る。

「うん、一週間の出張だ。この前きみに段取りしてもらったプロジェクトがあるだろう。あれがA県で採用になって、着工に当たって最初は担当者に陣頭指揮をしてほしいとお願いがあったんだ」

 そう言いながら、秋穂に目線を向ける。



「あ、あの件、採用されたんですか?」

 声色が急に明るくなる。

「そうなんだよ。むこうはすごく気に入ってくれているんだよ。だから担当者のイメージをはっきりと聞いたうえで進めたいとのことなんだ」

「うわー。なんだか、すごくいい話ですね」

「何だかじゃなくて、本当にいい話だよ」

「……でも、一週間ですか」

「ああ、きみのご主人の件もあるから無理にとは言わないよ」

 ここでさらに秋穂の目を見る。



「でも、自分が関わったプロジェクトなら、きちんと現場でまで関わりたいです。夫も多分OKしてくれると思います」

「そうかい。一応上司として私もついていこうと思うが……」

「それはとても心強いです!」

 秋穂は肯定の笑顔を見せた。

 北亀はそれを見てニヤリと微笑んだ。



 それから北亀は何をするでもなく職場をうろつき始めた。

 彼が通るだけで職場の緊張感が高まり、仕事の効率が上がる。

 北亀はおもむろにスマホを取り出すと、年齢の割に器用に片手でアプリを起動させる。

「どうかね、進捗は?」

 声をかけたのは三〇代の既婚の女性だった。

「クライアントの要望に合わせてインテリアがなかなか……デザイナーに発注してもいいでしょうか?」

「いいや、これなら私が何とかしよう」

 パソコン画面を覗き込むようにしながら、女性の顔のすぐそばに顔をもってくる。



 距離が近すぎる。

 なのにその社員は嫌がる様子もない。

「あ……部長……」

 ふと周りを見ると、ほかの社員の動きがほとんど止まっていた。

 時間停止の魔法でもかかったのだろうか。

 だが、女性社員はすでにわかっていたように頬を赤らめた。

 北亀は部下の胸に手を置く。

「あん」

 明らかなセクハラなのに、むしろ彼女は喜んでいた。

 そして頬が触れるほどに両者の顔が近づく。

 こんなのほかの社員が見たらどう思うだろう。

 しかしそんなことはお構いなしだ。

 北亀は何を躊躇うことなく女性社員の唇を吸う。部下はそれに応える。

 そして大勢の社員がいる前で服を脱ぎ、行為を始めた。



 北亀が操作していたアプリは、この人間界で魔界と同じ空間をつくり出すものだ。

 何よりこの場合、特筆すべきは時間の進み方の違いである。

 魔界のほうが千倍速く時間が進む。

 逆に人間界にいれば時間が千倍遅く進む。

 人前であれ進む時間の速さが違えば、人間界にいる側の者には魔界側にいる者の行為が千倍の速さに見えるので知覚できない。

 およそ二〇分のできごとが一秒ほどになってしまうのだから。



 その一秒――いや、二〇分の間に行為を済ませた二人は、服を着て元通りになる。

 そして何事もなかったかのように仕事の話に戻りつつ、アプリを解除する。

 慌ただしい職場で、そんな一秒ほどのできごとなど誰も気づかない。

 気づいたとしても、誰も何があったかなんて理解できない。

 一通りのアドバイスを与えると、北亀はまたべつの女性社員の元へ赴く。



 このような荒業ともいえる行為に喜んだのは北亀よりむしろ、女性のほうだった。

 こっそりではない、みんなが見ている前で堂々と不倫しているにもかかわらず、誰もそれに気づかないのである。

 こんな解放感はなかった。

 もっと楽しみたいなら、ほんの数秒だけ人目につかないところへ行けば事足りる。

 仕事でたまったストレスを発散させて妙にすっきりしている姿は、明らかに他の社員、とくに男性社員からは異様に思える。

 彼らは当然不倫を疑った。

 何度も北亀の帰りをつけて調査した。ある時は金を出し合って興信所に調査を依頼したり、監視カメラを置いたこともあった。

 だが、彼はまっすぐ家に帰るだけで何もしないし、監視カメラにも何も映らないのである。

 絶対に怪しいのに、絶対に証拠は出ない。

 なぜならば、疑いは正しくとも、彼ら自身が認識できないだけなのだから。

 北亀は必ずしもその疑いを払拭するよう努めなかった。

 その態度がむしろ怪しむ男性社員たちの恐怖心をあおり、「何の証拠もないのに怪しんでしまっている自分は悪い奴だ」と思いこませ、従順に指示に従うようになる。



 機嫌のよかった北亀はこの日、八人の部下を抱いた。

 もちろん、他の社員たちが見ている前で。

 狙っていた女が落とせたと思うと、興奮が抑えきれなくなって手懐けた女を片っ端から食い散らかしてしまう。

 リスクを嫌う彼であるが、こんな時は自分で自分をコントロールできなくなってしまう。

 そうなった理由はもちろん、秋穂のことである。

 あの反応は確実に落ちた。

 あとは、今度の一週間の出張の際にその身体を頂くだけだ。



 北亀の正体は魔王四将軍、亀王・アスピドケローネである。

 彼は剣などを使った戦いは好まないが智略に長け、とくに催眠などの精神攻撃を得意とする。

 この会社の女性社員で彼にい気に入られた七〇人ほどはすでに彼の催眠が施されており、都合のいい不倫相手となっている。

 同じ催眠を、秋穂にはこの一ヶ月でじっくりかけてきた。

 精神攻撃は速く強くかければ精神を破壊することもできるが、その相手の利用価値がなくなる。

 しかしゆっくりじっくりかけると、いかにも自然にかつ恒久的に相手をコントロールできるようになる。



 彼は魔王が勇者を封印した三〇年前、この人間界に時空の割れ目を通ってやってきた。

 人間界の文化を即座に理解し、同じくやってきた魔王の配下たちにここでの生活に順応するよう指示し、それができないものは始末した。

 封印された勇者を発見し、祖父母となるよう二人の配下に指示し、さらに偽の戸籍などの行政的な処理を行い、仙崎幸弘として何の特徴もない人間となるように仕向けた。

 自らは二〇代の人間に変身して、現在のぽんぽこりん建設に新卒として入社し、圧倒的な業績を残して出世して行った。六年後には人事に関与するまでになり、入社試験で仙崎を合格させ、自らの監視下に置いた。

 そして、気づかれないように体力を吸収する植物を植え付けたり、気力体力を失わせる虫を埋め込んだりした。さらにはひとりの配下を妻として宛がい、家出の監視を強めるとともに微弱な毒を盛らせて徐々に徐々に仙崎を弱らせていった。

 勇者とは恐ろしいもので、そこまでやってようやく並の人間と同じレベルになるのみであった。

 とはいえ、精神面では見事に衰弱させることに成功した。

 体力を吸収する植物はその代謝の過程で周囲に嫌悪感をもたせる物質を放出する。これにより社内で仙崎は孤立し、家庭でも妻は冷たく当たり居所をなくした。

 このタイミングで強い精神攻撃を加えれば、数年で仙崎を精神的に衰弱させ死なせることが可能だと考えていたのだが、想定外の山の事故で失踪し、勇者として目覚めてしまった。

 その事故を通して、秋穂は仙崎が勇者であることを知ったのは間違いない。

 奴は秋穂を味方だと思っているだろう。



 もともと彼女については目をつけていた。

 しかし、水田謙治が慌てて結婚して会社を辞めさせてしまった。

 資源はいくらでもあるため、女性に対してはどんなに気に入っていてもしつこく執着せず、その時は諦めることにしたが、あの事故は思いもよらず素晴らしい口実を与えた。

 その彼女がようやく自分の手に落ちたのだ。

 そして、自分のものになった秋穂を仙崎に見せつけてやろう。

 妻に裏切られた仙崎は秋穂を心のよりどころにしているところがあるはずだ。

 そのときあいつはどんな顔をするのだろう。

「あああ、部長! 今日は激しすぎます!!」

 北亀に貫かれる女性社員は喜悦の声をあげる。

 彼は興奮を抑えきれないでいた。



 夜。

 秋穂は帰宅した。

「ねえ、謙治くん」

 声をかけた相手は、彼女ではなくパソコンの画面ばかりを見つめていた。

 謙治の回復は、秋穂が出社するようになってもとくに変化はなかった。

 むしろ、秋穂が帰る前に何か食べてしまっているので、一緒に食事をとる時間もなくなり、いよいよ二人の接点は消えようとしていた。

「あのね、今度出張に行くことになったの。一週間ほどなんだけど……」

「え!?」

 慌てて謙治が振り返る。

「私がいなくても、食事とかお洗濯とかできるよね? 誰かお客さんがきても無理して出なくてもいいし……」

「あ……あう……」

 困惑して、謙治は声も出なかった。

 妻に寄生することで成立していた今の生活が、一週間とはいえ途切れてしまう。

 彼は強い恐怖心に襲われた。

「……一人で行くの?」

「ううん、北亀部長とあと二人のメンバー」

 ――北亀部長!

 謙治は絶対にやばいと思った。

 その機会に秋穂が寝取られてしまうのではないだろうか?

 強い不安が襲ってくる。



「一週間なら、私がいなくても大丈夫だよね?」



 一瞬、別れの言葉を切り出されたのかと思った。

 だが違う。

 ちょっとした安心感が戻ってくる。

 だけど、一緒に行くのは北亀部長だ。

 謙治の中でぐちょぐちょとした気持ち悪い感覚が渦巻く。

「ああ、別にいいよ」

 謙治はぶっきらぼうにそう答えると、またパソコン画面の動画を見初めてもうちっともこっちに目を向けることもなくなった。



 謙治の部屋はたまに変なにおいがするようになった。

 そのにおいがなんであるかを秋穂は知っている。

 部屋の戸を閉めると、何やらごそごそと音がし始めた。



 一週間とはいえ、秋穂がいなくなるのは謙治にとって間違いなく大きな損失だった。

 会社に行くことで半日いなくなるだけでも、かなりの苦痛だったのに。

 いつしか苦痛は、謙治の中で奇妙な快感になっていった。

 会社で秋穂が何かされているのではないかと考えるだけでうずうずした。

 それが今度は一週間だ。

 どうしたらいいんだろう。

 その不安はなぜか快感へとすり替わってゆく。



 きっと北亀部長に犯されてしまうんだろう。

 その悔しさや恐ろしさもなぜか快感へとすり替わってゆく。

 興奮してくる。

 謙治は誰もいない部屋でおもむろにパンツをずり提げると、自分のものをしごき始めた。

 ポルノでも何でもない、ただの動画を見ながら自分のものをしごいた。

 彼には見えていた。

 北亀に抱かれながら、快感の海に溺れてゆく秋穂の姿が。

 その姿はあまりに淫靡で美しい。

「うへへへ……うへへへへへ」

 右手の動きが早まる。

 左手でそばに置いてあるティッシュペーパーを、しゅっしゅっしゅっと素早く五枚ほど抜き取った。
しおりを挟む

処理中です...