身長三センチの妻

ゆいレギナ

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六日目②

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 ◆ ◆ ◆


 妻が倒れたのは、半年前だった。

 いつも通り残業して家に帰ったら、妻が倒れていた。料理の途中だったのだろうか、少し焦げたカレーの匂いが漂う部屋で、吐いた跡と共に横たわっていたのだ。

 声をかけても意識が朦朧としている妻を抱きながら、呼ぶのはもちろん救急車。

 搬送された病院で、医師から告げられたのは聞き覚えのある脳の病気。女性の方がなりやすく、また発症年齢が若いとはいえ、因子があれば若い女性でもなる確率は低くないという。早くに他界してしまった彼女のご両親ともに、高血圧の薬を飲んでいたらしい。充分にその遺伝子を受け継いでいたのだろう。

 命に別状はない――という医師の奇跡的な言葉に安堵したのも束の間、搬送までの時間がかかったことから、意識が戻るまでに時間がかかるという診断にショックを受けたのは言うまでもない。

 それから、半年。

 しばらくは溜まった有休を無理矢理消化して妻の眠る病院に通っていたが、いつ回復かわからない最中、職を失うというリスクは非常にまずかった。世の中は非情で、なにをするにも金がかかるのだ。

 入院するのも。点滴するのも。手術するのも。着替えを用意してもらうのも。

 気休め程度の保険は、本当に気休めにしかならなかった。
 国の制度を利用しても、それでも月に十万以上が飛んでいく。

 金。金。金。
 
 金がなければ、妻が死んでしまう。
 金がなければ、妻の喧しいわがままを、二度と聞けなくなってしまう。

 金。金。金。

 働かなくては、妻の顔が見れなくなってしまう。
 働かなくては、妻の可愛い願い事を、二度と叶えられなくなってしまう。

 最初は、俺も頑張った。仕事と病院の往復はとても辛かったけれど、それでも、妻がまた笑ってくれるかと思えば、いくらでも身体が動いた。俺には疲労という感覚が初めからなかったのかと思うほど、いくらでも妻のためにと、働くことができた。

 ――――だけど、妻は一向に目覚めてくれなかった。

 どんなに声をかけようとも、どんなに笑わそうとしても、どんなに手を握っても。

 ずっと、彼女は目を瞑ったまま。

 目を閉じれば、すぐにでも妻の笑顔が浮かんでくるのに。
 耳をすませば、今も耳の奥に妻の声が残っているのに。

 ベッドに横たわったままの青白い妻は、話してもくれなければ、手を握り返してもくれない。

 毎日。毎日。毎日――彼女は眠ったまま。





 いつしか、俺は病院に行くのが怖くなった。だって、いくら足を運んでも、妻は何も反応してくれないのだ。

 妻に繋がった機械の音が、継続的に響くだけの病室。俺がいくら話しかけても、ピ、ピ、ピ、と全く同じ心電図の音でしか答えてくれない妻。

 始めは、それが妻が生きている証だと、自分に言い聞かせた。
 だけどいつしか、それすらも怖くなった。

 この音が変わってしまったら――その時は、妻が死んでしまう時。
 喧しくなったが最期――その時こそ、妻から永遠の別れを告げられる時。

 それが怖くて。怖くて。怖くて。

 俺はいつしか、仕事と家の往復しかしなくなった。

 仕事に行かないという選択肢はなかった。
 だって、金がなくなってしまったら、妻のわがままが叶えられないから。

 わたしは病院でずっと寝ていたいのよ――という、わがまますら、叶えられなくなってしまうから。

 少しだけ、働いている時だけは妻のことが忘れたというのもある。
 それでも、ふとした瞬間に思い出すのは、妻のこと。

 いつ携帯に急変の連絡が来るかもしれない――その恐怖は、ふと緊張の糸が切れた瞬間、必ずといってよいほどやって来る。

 だからその恐怖を消すために、俺は家に帰るとひたすら酒を飲んだ。
 しかし、まるで美味しくない。そもそも、酒は苦手なのだ。

 それでも、俺は浴びるほど酒を飲む――このまま眠れれば、夢で元気な妻に会えるんじゃないか、という、一縷の望みをかけて。

 

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