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祖父と祖母と伯父と親父と母と…
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祖父曰く、「自分は拾われ子」だと言っている。
高知の方田舎、小才角の網元の家の前に置き去りにされて、その家に拾われ育てられたという。
高齢になって、本当の母親探しをするんだと、心当たりの地を巡り、なんと、兄妹だという家族に遭遇してしまう。
祖父の母は、祖父を捨てたことを心から悔い、死ぬまでそのことで苦しんでいたという。
ところが、その祖父が死んで後、最近、戸籍を辿ってみたら、明治初期、祖父の生まれた時期あたりまで辿ることが出来、祖父は、網元だが金で武家の資格を買った家の子として登録されていたのである。当然、明治維新後、武家は廃止されたわけだが。武家の資格を購入した際に、名乗った名字はそのまま使用さることとなる。つまり、今の僕の名字は、その名前の由来には全く関係ないし、歴史上登場する同姓の誰とも、関係ない。
祖父は自叙伝を書いたことが有る。某テレビ局に持って行ってドラマ化してもらいたかったらしい。
が「話は面白いが費用が掛かりすぎる」という理由で、ボツになってしまった。
その自叙伝は今はどうなってしまったのか?祖父の死とともに処分されたのか、実家に残っているのか?残念ながら実家に残っている可能性はゼロだろう。
その自叙伝を一度だけ、原稿用紙ではなく、便箋だったのだが、最初の一ページだけを見たことは、ある。非常に達筆で今は使わなくなった漢字が多く、全然読めなかったのだが…。
いったいどっちが本当なのか?
辿る方法がない今となっては、謎は深まるばかりである。
祖父がまだ二十歳を迎える前に両親が揃って死んだ。そしてその両親に、それなりに資産が有ったことが、災いした。遺産の相続争いだ。
遺産を巡って醜い争を繰り広げる親戚たちに心底愛想が尽きて、祖父は家を出て、軍に志願する。当時、徴用兵は激戦地や最前線に送られていたが、志願兵の任地は安全なところが多かったという。
祖父は、朝鮮半島の当時総督府があったソウルに赴任が決まった。
そのソウルで、兵舎の飯炊きの手伝いをしていた韓国人の祖母と出会う。
祖母は十二歳で口減らしのために嫁に出された。
まだまだ子供な年齢なのに、妊娠。子供を産む。
しかし、嫁いだ先は決して幸せな家ではなかった。
婿の母が亀の甲羅を火であぶりその割れ方で吉凶を占う卜占に熱中し、祖母とその子が、家に不和をもたらすと言い出したのだ。
結局、家から追い出されてしまう。
仕方なく実家に帰ったが、元々から口減らしで追い出した子供である。それが子供まで連れて、嫁いだ先から追い出されるという不名誉まで。実家は彼女の帰宅を許さなかった。
まだ、十代半ばの子供に家もなく、仕事ができるわけでもない祖母。
なす術もなく、充分な食事も摂れなかったがために、充分な乳も出ず、赤ちゃんは衰弱死してしまう。
どうにか、労働者の詰める飯場の手伝いをして食いつなぐことになる。
その職場で、多分意に染まぬ強引な方法で妊娠させられ、また新たな赤ちゃんを育てることになる。
その子を連れて、日本軍の飯炊きの仕事にたどり着く。
祖母は、そこで僕の祖父と出会う。温厚で物静かだった祖父と辛酸を舐めつくした祖母がどういったなれそめで、結婚に至ったのかはわからない。しかも祖母は十歳年上で、もうすぐ十代になる子持ちである。お互いに迷ったはずだが、その話はとんと聞いたことがない。
あるいは、祖父の優しさがそうさせたのかもしれない。
祖母は自分を酷い目に合わせた朝鮮人を嫌って、いっそのことと思ったのかもしれない。
とにかく二人は、夫婦となり、二人の間の子供が産まれる。僕の父である。
祖父は、任期を満了して、故郷に錦の御旗を飾るはずだった。
が、祖父には実家にいる場所が無かった。
だから、軍隊に再入隊した。次に派遣されたのは、憲兵の高官として台湾だった。
台湾では、住地の周辺も米軍の激しい空爆にさらされたが、家族は無事だった。
父は米軍爆撃機はB29だと言い張っている。大戦末期、確かにB29は台湾も空爆しているが、父が目撃した機がそれであるかどうかは確証はできない。何しろ幼少であり、大人になって見た映画のシーンと記憶が混乱し記憶違いをしている可能性はある。
本人は、家の屋根に上って、パチンコで石を飛ばし迎撃しているつもりであったらしい。実際、タイミングよく地上からの対空砲火が命中したモノか、炎上しながら墜落する米軍爆撃機を自分が落としたと錯覚していた。と言っている。日本や台湾、現中国の一部が猛爆を受け、広島と長崎に原爆が投下され、戦争は終わった。
祖父家族は復員船で日本に帰国したが、家族に待っていたのは、冷たい視線と受け入れがたい噂話だった。
憲兵だった祖父はGHQの広報により、戦争犯罪者として差別され、しかも幹部クラスは捕まれば処刑されるという噂まで流れていたのだ。
なんとか逃れなければならない。その選択は朝鮮半島への密航だった。
祖父家族は、朝鮮半島への密入国には成功した。
日本統治時代、よくしてあげた朝鮮の人たちの中で、誰かが助けてくれるかもしれない。それだけが望みだった。それしか寄るべき心の支えは無かった。
が、現実はそんなに甘くなかった。
助けた人、配慮してあげた人が、手の平を返したように憎悪を向けるようになっていた。心ある人でも日本人を助けたことがばれたら、暴行を受けるか、村を追い出されるか。いずれにしても自分たちもおしまいになる。そんな理由で、受け入れるわけにはいかない事情があったのだ。
何件も何件も回ったが、追い出され、断られ、石を投げられ、追いかけられもした。
最後にあと一件だけ訪ねて、そこもダメなら、もう生きる術はない。
そう思いながら門を叩いた。
家の主はやはり、助けてやることはできないと断ってきた。
しかし、この話には続きがある。
家の主人は裏山を指さし「自分は、この山の中に畑を持っているしそこには小屋もあるが、もうその畑は使わないし、だから小屋にも用がない。もう山に入ることもないから、もしその小屋に誰かが住んでいたとしても、それは自分の知ったことではない。」
家の主人はそれだけ言うと、扉を閉めた。遠回しに、山小屋に住むように促してくれたのだ。
祖父母は涙を流して、感謝し、閉ざされた扉に頭を下げたという。
山小屋に住むことになった祖父家族。
祖父はなぜか小器用だったようで、家具大工をして、小銭を稼ぐようになり、挙句、家まで建てる大工になる。しかも作るとなれば妥協しない性格だったようで、薄い板を骨格に貼り合わせて、スカスカなモノを作るなんてできず、無垢の板でガッチリ作るものだからかなり頑丈で、評判も良かったようだ。そういうこともあって、なんだかんだで、村人とも交流が進み、子供たちも学校に行かせられるようになる。
祖母の連れ子だった伯父は、真面目な勉強家で、一生懸命勉強し、祖父母の間にできた僕の父は、野生児状態。というか、台湾にいた間、祖父の階級のおかげで、大人たちから「ぼっちゃん、ぼっちゃん」と傅かれることに成れていたので、大人を馬鹿にする性格になってしまったようで、先生の言うことは聞かないし、ガキ大将となって暴れ回るようになったと本人は言っている。暴力的になったのは、同級生たちからチョッパリ(日本人を侮蔑した言葉)と呼ばれたことに対する、憤りもあったのだろうと思う。
そんなさなか、事変が起こる。
一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争の勃発だ。
祖父家族は山小屋から出て、町の中に居住を移させれた。北朝鮮のスパイが入り込んでいる可能性があるという理由でだ。
十代半ばだった父も韓国軍に志願して参戦したという。
韓国の記録では、最年少で十五歳の志願者が有ったことが記録されており、少年兵だけの部隊が構成されたと有るので、そこに参加したものと思われるが、確証はない。伯父は徴募されたようだ。
二人は、兵士となったが一九五三年七月二七日の休戦にいたるまで、生き残ることが出来た。
どういう経緯でかは分からないが、まず伯父がクリスチャンになった。そして、それを追うようにというか、負けじというか、なぜか親父は、伯父に対抗意識が有ったようで、自分の方が信仰が上だとでもいうように、クリスチャンになった。家族を巻き込んで。
朝鮮戦争を生き延びた祖父家族。
父と伯父は、家から通いの軍属となったようで、休戦直後に二人とも結婚する。伯父は性格のきつい女性と、父は父の何を見たのでそう思ったのか「何か大きなことをするかもしれない男」だと思った母と結婚する。父が日本人だからと周りから反対されたらしいが押し通した。何より、母のお父さんは、日本のせいで、というか勝手な思い込みではあるけど、中国に逃亡生活を強いられた身である。絶対反対のはずだったのだが、最終的には折れたようである。
伯父はその後、どういうツテでそうなったのかは不明だが、日本の鉄工所で働くことになり、家族で日本に移り住む。日本人以上に日本人日本人した生真面目で正直な性格が幸いして、それなりの立場にまでなり、鉄工所が中国に支社を作るときには、技術指導者として派遣されるまでになった。
伯父は軍を除隊してからはずっとその一社でのみ仕事をし、定年退職している。退職金は数千万、さらに会社に貢献してくれた褒美に、夫婦で中国旅行をプレゼントされたのだと聞いている。
伯父は、本当にとても優しい人で、一生で数回しか会っていない僕のことをよく理解してくれ、毎年年賀状を送ってくれるような人だった。
伯父の話をもう少し。
伯父は祖母の連れ子として、祖父の家族になったことは先に書いた。祖父は寡黙では有ったが優しい人だったので、成れるのに時間はかからなかったと思われる。
伯父が十歳の時、僕の親父が生まれた。伯父には父親違いの弟になる。自分の父親になった人物からすれば、初めての、自分の子である。少なからず動揺したそうだ。夫婦が弟を可愛がって自分は蔑ろにされるのではないか?という不安である。嫌われたくない一心から、弟を可愛がったそうである。しかし、なぜか弟は、兄をライバル視していたという。
兄が軍に入れば、自分も追うように軍に志願し、兄が結婚すれば、追うように結婚し、クリスチャンになれば、クリスチャンになり、日本に渡れば、日本に渡り。という具合に。
僕が二五歳くらいの時、短い期間、東京で働いたことがあって、その時に伯父の家に寄ったことが有る。伯父の家から歩いて数分の処に、大きな公園があって「いい公園だなぁ」と思った。
それからずいぶん過ぎて、僕が関東で住むようになったあと、二〇一一年に公開された映画にその公園が登場して、懐かしいなぁと思ったのとカメラ小僧(オッサン)でもあるので興味本位で、車でその公園まで片道三時間のドライブに行ったことが有る。
一通り公園を散策した後、伯父の家も近い事だし、せっかく近くまできたのだから挨拶にでも行こうか? と思いながら伯父の家の前まで車で行った。
だけど、なぜか気恥ずかしくて、寄ることが出来ず、家の前を通過。近くのコンビニに車を止めて、少し考えたのだが、やはり寄る気になれなくて、そのまま帰路についた。
その二年後、僕の実兄とのDMのやり取りで、伯父が六か月前に癌で亡くなった事を知った。
遺族が、父に伯父の他界を知らせたのは、亡くなってから三か月後の事だったらしい。
遺産相続の件でもめて、連絡することができなかったと言っていたとか。
一体どれくらいの遺産が有るので、もめたのか? 父が、兄弟だから遺産相続の権利が有ると言い出すのではないかとでも心配したのだろうか?
あの時、公園にドライブに行った時、躊躇しないで、伯父さんに合っておけばよかったと、深く後悔している。
話を戻す。
伯父は日本に行った後。韓国に残った祖父家族は、貧困の限りだった。祖父の大工仕事も毎日のように入ってくるわけではなく、ひとつ作るのに時間もかけたし、また祖父がいい人過ぎてタダ同然、時には約束した金が貰えないなんてことがあっても、文句ひとつ言わない人だった。
父は父で、休戦後もしばらくは軍隊にいたが、李承晩大統領信奉者だったのが災いする。李承晩の米国への逃亡で、李承晩派の立場はとたんに悪くなり、軍隊を辞めたのだが、定職につかず、あの仕事を少しやり喧嘩をして辞め、この仕事をやり喧嘩をして辞めるを繰り返す。
実質、母の紡績工場でのアルバイトで食いつなぐ生活となってしまった。
ろくに食料品を買うこともできず、なんとか義父母と夫と長男(僕の兄)の分だけでも準備して、自分はサッカリンを水に溶いてそれを飲み空腹を満たす。なんてことまでした。その時、僕がお腹にいたという。
僕が産まれて二年目に、父は韓国では仕事がないということで、伯父のように日本に帰ることを決心する。丁度、朴正煕大統領が一九六五年に佐藤栄作首相と「日韓基本条約」を調印したタイミングだった。
本来、当時の常識として、祖父母は長男のいる家にいることが普通だったのだけど、祖父が、伯父の本当の父親でない事が問題だったのか、伯父の奥さんの性格が問題だったのか、僕の父である次男の家に祖父母はいた。
祖母はいわゆる僕の母にとって姑となる訳だが、嫁姑問題の最たるものが我が家で再現されていた。
祖母は、自分がものすごい苦労をして、やっと祖父と結婚できたのに、大した苦労もなく、易々と父と結婚したように見える母が許せなかったのか、単純に性格が合わなかったのかわからないが、随分ひどいイジメをしていたようである。
僕の知る限りでも毎日のようにもめていたので、よく離婚しなかったなと思えるが、祖母の時にも書いたように、離婚した娘は実家にとって大変な恥。という文化がまずある。それに、父も血気盛んで酷い人だったので、「離婚するなら、お前の家の家族を皆殺しにする」とか息巻いていたらしく、まあ、今でいうところのDVが普通のように行われていたわけで…。
母の話を…(今は八十歳を越えている)
金持ちでもなく、ド貧乏でもない、ごく普通の家族と住んでいたわけだけど、母の両親はそれは元気で、子供を沢山産んで、母の一番下の弟は、母の産んだ長男と同い年だという。
それはさておき、
まだ母が幼かった頃、日本統治下の朝鮮半島。
ちょっとした暴動が母の住む村でおこり、母のお父さんが、そんな気も無かったのだが、ほだされて暴動に加わり、派出所を襲撃する集団の中にいてしまった。
何気に、壊れて倒れている派出所の扉を踏みつけたところを、警察に目撃された(ような気がした)らしい。
夜陰だったので、見られていたとしても、顔を覚えられている可能性は低かったはずだが、母のお父さんは、「やばい捕まる」とびびって、村の山に入って隠れることにした。それで母は、夜に山にいるお父さんに食事を届けるという仕事ができてしまった。まだ野生の虎もいる時代のことだったから、だいぶ怖かったらしい。でも、お父さんは、山の中でも安心できず、中国に逃走する。
家に帰って来たのは当然、戦後である。
定職が見つからない事から、仕事を探すためなのか、それ以外の何らかの理由があったのか、祖父母と父母、そして僕と兄は日本に戻った。
が、結局、父は仕事に就いては、その会社の社長や社員と喧嘩をして退職するを繰り返し、九州から西日本のほうぼうに転居を繰り返す。
その間もずっと母と祖母の折り合いは合わず、とうとう離れて住むという選択肢が実行された。
祖父母は、岡山のバラック同然の二間しかない小さな借家で、車のヘッドレストを造るという家内業で、生活をはじめた。お風呂のない借家だったが、ここでも祖父の勤勉さが炸裂する。借家にお風呂を増設したのだ。
父母と僕たちは広島に転居した。そこでやっと父は定職に就く。母も同じ会社で働くことになり、余裕はないが安定した収入が入るようになった。
そして、僕の弟も生まれる。
その状態で数年が過ぎるが、祖父母がしていたヘッドレストを造る内職が打ち切られることになる。生活する術の無くなった祖父母は、長男である伯父の住む神奈川県で同居することとなった。その当時に伯父は、会社の建てた大きな社員寮の管理人も任されており、部屋も余っていたのだ。
しかし、祖父母が大好きだった僕は、祖父母が遠くなってしまうことにショックを受け、泣いてしまったことを覚えている。
だが、程なくして、祖父母は我が家で同居することが決まる。その時は、僕が泣いたので、引き取ることにしたのだと思っていたが、本当の理由は、伯父の妻と祖母のこれ以上ない険悪さが理由だったようだ。
僕は喜んだが、直ぐにその喜びは、辛さに変わる。祖母は、僕の母とも合わなかったのだ。父母は共働きだったから、日中は平和なのだが、帰宅すると、戦争が始まる。僕が、祖父母と暮らしたいと言ったのがいけなかったのだと思っていた僕は、母と祖母の喧嘩の度に、泣くしかなかった。その状態が数年続いたある日、父母の働く会社の社長が、工場施設に接合した寮が有るので、祖父母をそこで住まわせるのはどうか?と提案してきた。祖父もその会社で働いていたので、家族はその話に乗る。
晴れて、祖父母と我が家に平和が訪れたわけだ。
母は、体力の問題で会社を辞め、家事に専念することになる。
祖父は、意外とモボで、ファッションセンスも良かったし、お金が無いなりでも、その範囲で美食家でもあった。僕の兄と僕をステーキレストラン(当時ファミレスはほぼ無かった)に連れて行ってもらった事が有る。映画やアニメくらいでしか見たことのない店内で料理がテーブルに出される。美味しそうに見えた(ただし、僕は肉が苦手だったので、ひと口食べただけで、後は残してしまったのだが…)。
先にも書いた通り、すごく大人しい人で、怒っているところを見たことが無かったのだが、一緒に住んでいた時のある日の食事中、いつものように母と祖母がケンカを始め、それを止める立場であろう父がケンカに参戦、部屋が怒号に包まれた時、堪忍袋の緒が切れたのか、初めて大きな声で「いい加減にしろ!」と怒鳴り、持っていた茶碗をテーブルに叩きつけた。その衝撃で茶碗は真っ二つに割れ、祖父自信が怒った自分に当惑しているようだった。ケンカはそれがきっかけで、その時は終わった。
親父や祖父母は、韓国人牧師が運営する韓国人用のキリスト教会(長老派)に通っていた。なかなか日本語を覚えることが出来なかった祖母にとってはその方が良かったし、青春時代の殆どを韓国で暮らして、韓国語の方が母国語になってしまっている親父にも都合が良かったのだろう。親父はその教会で、長老になる。
祖父は、韓国で培った大工の腕で、教壇を造ったりする。
しばらくは波風も無く通っていたが、牧師が高齢であることを理由に当人が続行したいと願ったが、長老である親父が強引に引退をさせ、新しい牧師を韓国から招聘した。
それまで教会として利用していた建物の持ち主が、その新しい牧師を嫌って、教会の退去を要請してくる。
やむおえず、古い一件の小さな木造家屋を借りて、教会を始めた。そこに一人の日本人の若者が来た。若者は気さくで、優しい感じの人だったが、後に親父を追い込む牧師の側につくことになる。
信者から集めた献金の使途で、もめたことが発端だった。長老だった親父が管理していたからだ。親父は癇癪を起し、その教会を出ることになる。
その後直ぐに、その教会の牧師は、なぜか若者を連れて教会を出ていく。東京に行ったらしい。教会は無牧となり、信者が高齢者ばかりだったこともあって、霧散する。
それからさらに数年後、親父の悪い癖がまた出る。
会社の社長と喧嘩し、会社を辞めてしまったのだ。そのあおりを食って、祖父も退職。祖父母は寮を出ないといけなくなってしまった。
祖父母は、我が家に戻ってくることはなく、当時通っていた教会の近くのぼろアパートに入り年金生活に突入することとなる。
ちゃんと仕事をしていた頃は、祖父母の暮らす寮に遊びに行くと、決まって幾らかのお小遣いをもらえていたのだが、年金暮らしになってからは、さすがに生活が厳しかったらしく、お小遣いをもらえることは、少なくなった。
親父は、金属加工工場に転職して仕事をしていたが、作業中に左手小指を機械に巻き込まれ、引きちぎられる。
親父はこの事故を、神様の啓示だと信じる。「牧師になる!」そう言って、韓国の神学校に行った。
その学校では本来は早くて一年かかるところを、どうやったのか、親父は半年でクイック卒業。とはいえ、教壇に立つべき教会があるわけではない。本来は、卒業と同時に、学校と提携している教会を紹介されるものだが、親父にはそれはなかった。牧師を名乗る資格を得ただけだ。親父は帰国して、自動車部品の塗装会社に就職することになる。
仕事が無くなって時間を持て余すようになったからか、祖父は、自分の実の母を探したいという衝動に突き動かされ、興信所にお願いしたりしたようである。ただ、結果としては、あまりにも情報不足で、興信所は探しだせなかったのだが。
それでも諦めきれない祖父は、自分の足で探そうと、四国に足を運ぶ。高知県にある小才角が有力なキーワードだったようである。そこには、情報を探しに行った当時でも、祖父を知る人が、存命していて、その人に会うことはできたのだが、ただ、やはり興信所で無理だったものは、人探しの経験のない素人ではもっと無理だった。
四国に渡って数日後、諦めて帰ろうと考えた折り、昼食にと立ち寄った寿司屋で、世間話をしている間に、なぜ四国に来たのかの話になった。その経緯を話していると、寿司屋の板前の顔色が変わった。もしかしてそれは、自分たちの祖母のことかもしれないと言い出す。寿司屋を手伝っていた板前の妹が、祖父の兄妹ではないかと、直ぐ近くにあった実家に連絡しに行く。驚いて駆けつけた女性と話をしているうちに、疑義は確信へと変わった。
祖父を捨てた母は、そのことを後悔して、直ぐに捨てた場所に戻ってみた。ところが、そこにはもう子供の姿は無かった。家人が家に入れたものか?警察かどこかに連れて行ったものか?家人の戸を叩いて名乗り出る勇気までは持てなかったという。それ以来、ずっと後悔する日々だったとか。名前を付けており、その名をいつも口にしていたという。だが、その祖父の母は、祖父がその寿司屋に顔を出す一週間前に、亡くなっていた。
これが、本当なのか、ただの偶然の一致だったのかはわからない。あの当時、捨て子は珍しい話ではなかったのだから。
祖父は自分の半世紀をしたため、テレビ局に持って行ったことは、最初に書いたとおりである。
僕の兄が自衛隊に入隊し、一年の訓練期間を経て北海道に配属されてから二年後くらいだったか、祖父母に事件が起こる。
爪に火をともすような生活の中、一円でも節約したかったのだろうというのは、分かるけど、あろうことか、祖母が道に置いてあった中に黒い液の入った一升瓶を持ち帰る。醤油だと思ったらしい。それを使て料理を作り、食卓に並べて、食べ始める。高齢で味もよくわからなくなっていたことも災いした。違和感を感じたのは祖父だったが、その時点でもう十分食べた後だった。祖父はお腹に異変を感じて、近所に有った中華屋の店主(越してから仲良くなっていたらしい)に助けを求めた。店主は直ぐに救急車を呼び、祖父母二人は、病院に搬送された。
一升瓶の中にあった黒い液は醤油などではなく、廃油だった。
胃から腸まで洗浄することとなったが、高齢でもあったことから、長期入院を余儀なくされた。ベッドの都合だったのか、症状の専門性の問題だったのかは分らないけれど、祖父母は別々の病院に入院することになる。そしてこの別れは、祖父母の永遠の別れとなるのだが…。
幸か不幸か、その間の検査で、祖父の体に癌の有ることが発見される。直腸癌だ。まだ手遅れになる前だった。手術で摘出して事なきを得た。ただし、肛門が使えなくなり、ヘソの横に簡易弁を着けるという形になってしまう。
どういう経緯でそうなったのかはわからないが、祖父が入院中、その病院が遠い事もあって、なかなか家族がヘルプできない状態だった。しかし、祖父をかいがいしく介護してくれるおばあさんが表れていた。便の処理までしてくれていたというのだから、そうとうである。
祖父は入院から手術、そして退院までに一年を要した。
祖母もまた、別の病院で、入院生活が一年。
祖母の入院した病院は、家から何とか通える場所に有ったので、家にいた母が、通いで介護をするようになっていた。
それは、祖母が亡くなる数日前のことだった。
祖母は母に突然、謝罪したというのだ。これまで辛くあたった事、そして介護の事。母は帰りの道で、いたたまれず、ちょうど傍にあった電話ボックスに飛び込んで号泣した。
祖母の亡くなる日、母が介護から家に帰って来た途端に、祖母の入院している病院から電話があった。祖母に異変が起こっているということだった。
家族は急いで病院に向かったが、臨終を看取ることはできなかった。
祖母は最後に看護師に何やら言ったらしいのだが、それは韓国語であり、当然、看護師には解釈することが出来なかった。
祖母は苦難の八三年目に、最後の言葉を誰にも伝えることが出来ずに終わった。
葬式では、母が一番泣いていた。色々な思いがあったのだろうと思う。母は、日本に来日して以来、この日まで一度も韓国に戻っていない。母のお父さんの亡くなった時にも、帰ることはできなかった。そんな悔しみも混じっていたのかもしれない。
北海道にいる僕の兄に直ぐに知らせるべきだと僕は思ったが、親父が、軍務にいるときに心が動揺するようなことを連絡するのは事故に繋がると言って、連絡をさせてくれなかった。兄に連絡できたのは、葬式も終わって数か月後、電話ではなく、手紙でだった。やはりおばあちゃん子だった兄は、祖母の死を数か月も過ぎて連絡されたことに、かなりのショックと寂しさとを味わった。兄から帰って来た手紙は、涙で濡れていた。
直ぐに知らせなかったという事では、祖父に対しても同じだった。祖父には、祖父が病院を退院してから、仔細を知らせた。祖母の死の話を聞く祖父の傍らには、祖父が入院中、かいがいしく介助してくれたおばあさんもいた。どんな心境で話を聞いていたのだろう?
祖父はほんの少し目を潤ませるだけで、後はただ静かに頷くだけだった。
それから数か月後、祖父は介助をしてくれたおばあさんを籍に入れたいと言い出す。ただ、その願いは、おばあさんの家族から反対され、ご和算になったのだが。
退院した祖父は、新たな生き甲斐(介助してくれたおばあさん)を得て、生き生きとしていた。たぶん、自分の母の所在や兄妹を発見できたことにも、満足していたのだろう。
家族は、祖母の死で得た保険金で(いつの間に保険をかけていたのだ?)中古の建売に引っ越し、祖父もそこで一緒に暮らすこととなり、れいのおばあさんも、週に数度遊びに来る。という日々が始まった。
親父は親父で、買った家に教会の看板を着けて、教会運営を始める。長老教会に嫌気がさしていたようで、看板はバプテストを前面に出した。
教会といっても、本当に普通の小さな建売だ。一階の六畳間を礼拝用にした。ここでも祖父は教壇を作る。が、礼拝に来る人はいなかった。家族だけの礼拝が数年続くこととなる。
祖父がまだ、仕事をしていた頃、山奥の別荘地に買った二百坪(すごく安かった)の土地が有ったのだが、買ったきり放置していたその土地に、昔とった杵柄か、家を建てる!と言い出し、足蹴く通うようにもなる。家材になりそうな木や家を建てるのに邪魔になる木を切り倒して、材料になりそうな木の置き方を孫(つまり僕)に指導したり。ワクワクが伝わってくる感じだった。というか、祖父のあんなにワクワクした顔は、初めて見た。
そんな、楽しい日々にも終わりは来る。
祖父は咳をよくするようになって、弱っていく。ただの風邪だろうと思っていたが、病院に連れて行ったら、かなり進んだ肺癌だと診断される。余命いくばくもない。
そのうち自発呼吸も出来なくなって、祖父はいわゆるスパゲティ症候群となってしまう。
そして病院から連絡がくる。今日が山場だと。
家族が見守る中、祖父は弱弱しく目を開いて家族を見る。何か言いたそうに口を動かそうとするが、気道チューブが入っているので、話すことが出来ない。
天井を向き静かに目を閉じて、それきり目を開くことは無かった。八四歳だった。
ちなみに、祖父が韓国生活時に頼まれて造った寺が、今でも現存している。
親父の始めた教会に一人の婦人が現れる。この婦人は親父の何が気に入ったのか、毎週教会に通ってくるようになり、やがて自分の末の娘と次女をも連れてくるようになった。怪しい牧師に騙されてるんじゃないか?と様子を見に来た長男君まで入信し、さらにその友達まで、教会に来るようになる。
その婦人は、挙句の果て、夫と離婚し、教会でもあるが、父母の住む実家に住み付き始める。長男君も住みはじめ、結婚していた長女も夫を連れて住み付き、その夫の兄弟も、近所に引っ越してくる。教会は彼らの献金である程度うるおい、彼らの勧めで、親父は仕事を辞め、教会運営に専念することになる。
正直、母も僕らも迷惑千万だったが、その時はすでに僕を含む兄弟は、結婚して家を出ていたので、強く言えることでもなかった。
親父一人が上機嫌で、山奥に買った別荘地に祈り園を建てる決意をする。祖父が念願し、果たせなかった夢だ。
建築に一番深く係わったのは、最初に親父を疑っていた長男君であった。教会に来て結婚した彼は、夫婦で、冬には雪が五〇㎝は積もることもあるその山に最初はテントで、後、近くに放置されていた小屋で、泊まり込みで祈り園の建設に勤しむ。日曜日だけ、山を下りて来て、教会の礼拝に参加するという状態だ。
建設には延べ二年、親父の計算では材料費に二千万かかったとされているが、どうやら長男君が身銭を切って資材を購入したこともあったらしく、実際には二千万以上かかったようである。長男君夫婦の生活費は、献金から支出されていたのだが。
出来上がった祈り園は、わりと大きな建物となり、韓国や日本国内の牧師を呼んで、祈祷会などが行われたりした。
園の管理は、長男君夫婦に任され、彼らは園に住んだ。彼らはそこで、建設会社を運営することになる。
その事業も上手くいき軌道に乗り、教会ともども順風に見えたある日、彼は「牧師は牧師に相応しくない。」と言い出す。そして、祈り園を乗っ取り、他の教会と手を結ぶこととなる。
最初に教会に来た婦人は、長男のふるまいに、いたたまれなくなって教会を出、住み付いていた他の人々も教会を離れ、近くに越してきていた人々も一斉にいなくなった。
教会は誰もいなくなり、当然献金という収入も無くなり、年金だけではとても生活できないので、親父はまた仕事を始めることとなる。八〇歳を過ぎた段階まで。
親父の教会にそんな問題が発生する前に、僕は家族と広島を離れた。
その数年後に婦人の長男が反乱を起こし、祈り園を乗っ取る。
土地の名義は、親父のままであるから、不動産税は、親父にかかることになる。親父は、何度も出向いて立ち退くように説得したが、聞き入れられない。
訴訟沙汰にすれば、問題はすぐに解決したろうに、何故か親父はその選択肢を使わない。内容証明郵便でも定期的に送り続ければ、権利の失効も無いだろうに、それもしない。
毎年無駄な不動産税を納め、無駄な抗議に行くだけである。
一五年近くが過ぎて、僕が広島に戻って兄と相談し、その土地を彼らに買ってもらうことを提案し、実際にそうして、祈り園の問題は、嫌な解決を見た。
親父もすっかり弱り、仕事を継続することも出来なくなっていたので、実家と祈り園の不動産税の支払いは痛手だったのだ。
こうして、我が家は、祖父の願いだった土地、祈り園を失う事となった。
高知の方田舎、小才角の網元の家の前に置き去りにされて、その家に拾われ育てられたという。
高齢になって、本当の母親探しをするんだと、心当たりの地を巡り、なんと、兄妹だという家族に遭遇してしまう。
祖父の母は、祖父を捨てたことを心から悔い、死ぬまでそのことで苦しんでいたという。
ところが、その祖父が死んで後、最近、戸籍を辿ってみたら、明治初期、祖父の生まれた時期あたりまで辿ることが出来、祖父は、網元だが金で武家の資格を買った家の子として登録されていたのである。当然、明治維新後、武家は廃止されたわけだが。武家の資格を購入した際に、名乗った名字はそのまま使用さることとなる。つまり、今の僕の名字は、その名前の由来には全く関係ないし、歴史上登場する同姓の誰とも、関係ない。
祖父は自叙伝を書いたことが有る。某テレビ局に持って行ってドラマ化してもらいたかったらしい。
が「話は面白いが費用が掛かりすぎる」という理由で、ボツになってしまった。
その自叙伝は今はどうなってしまったのか?祖父の死とともに処分されたのか、実家に残っているのか?残念ながら実家に残っている可能性はゼロだろう。
その自叙伝を一度だけ、原稿用紙ではなく、便箋だったのだが、最初の一ページだけを見たことは、ある。非常に達筆で今は使わなくなった漢字が多く、全然読めなかったのだが…。
いったいどっちが本当なのか?
辿る方法がない今となっては、謎は深まるばかりである。
祖父がまだ二十歳を迎える前に両親が揃って死んだ。そしてその両親に、それなりに資産が有ったことが、災いした。遺産の相続争いだ。
遺産を巡って醜い争を繰り広げる親戚たちに心底愛想が尽きて、祖父は家を出て、軍に志願する。当時、徴用兵は激戦地や最前線に送られていたが、志願兵の任地は安全なところが多かったという。
祖父は、朝鮮半島の当時総督府があったソウルに赴任が決まった。
そのソウルで、兵舎の飯炊きの手伝いをしていた韓国人の祖母と出会う。
祖母は十二歳で口減らしのために嫁に出された。
まだまだ子供な年齢なのに、妊娠。子供を産む。
しかし、嫁いだ先は決して幸せな家ではなかった。
婿の母が亀の甲羅を火であぶりその割れ方で吉凶を占う卜占に熱中し、祖母とその子が、家に不和をもたらすと言い出したのだ。
結局、家から追い出されてしまう。
仕方なく実家に帰ったが、元々から口減らしで追い出した子供である。それが子供まで連れて、嫁いだ先から追い出されるという不名誉まで。実家は彼女の帰宅を許さなかった。
まだ、十代半ばの子供に家もなく、仕事ができるわけでもない祖母。
なす術もなく、充分な食事も摂れなかったがために、充分な乳も出ず、赤ちゃんは衰弱死してしまう。
どうにか、労働者の詰める飯場の手伝いをして食いつなぐことになる。
その職場で、多分意に染まぬ強引な方法で妊娠させられ、また新たな赤ちゃんを育てることになる。
その子を連れて、日本軍の飯炊きの仕事にたどり着く。
祖母は、そこで僕の祖父と出会う。温厚で物静かだった祖父と辛酸を舐めつくした祖母がどういったなれそめで、結婚に至ったのかはわからない。しかも祖母は十歳年上で、もうすぐ十代になる子持ちである。お互いに迷ったはずだが、その話はとんと聞いたことがない。
あるいは、祖父の優しさがそうさせたのかもしれない。
祖母は自分を酷い目に合わせた朝鮮人を嫌って、いっそのことと思ったのかもしれない。
とにかく二人は、夫婦となり、二人の間の子供が産まれる。僕の父である。
祖父は、任期を満了して、故郷に錦の御旗を飾るはずだった。
が、祖父には実家にいる場所が無かった。
だから、軍隊に再入隊した。次に派遣されたのは、憲兵の高官として台湾だった。
台湾では、住地の周辺も米軍の激しい空爆にさらされたが、家族は無事だった。
父は米軍爆撃機はB29だと言い張っている。大戦末期、確かにB29は台湾も空爆しているが、父が目撃した機がそれであるかどうかは確証はできない。何しろ幼少であり、大人になって見た映画のシーンと記憶が混乱し記憶違いをしている可能性はある。
本人は、家の屋根に上って、パチンコで石を飛ばし迎撃しているつもりであったらしい。実際、タイミングよく地上からの対空砲火が命中したモノか、炎上しながら墜落する米軍爆撃機を自分が落としたと錯覚していた。と言っている。日本や台湾、現中国の一部が猛爆を受け、広島と長崎に原爆が投下され、戦争は終わった。
祖父家族は復員船で日本に帰国したが、家族に待っていたのは、冷たい視線と受け入れがたい噂話だった。
憲兵だった祖父はGHQの広報により、戦争犯罪者として差別され、しかも幹部クラスは捕まれば処刑されるという噂まで流れていたのだ。
なんとか逃れなければならない。その選択は朝鮮半島への密航だった。
祖父家族は、朝鮮半島への密入国には成功した。
日本統治時代、よくしてあげた朝鮮の人たちの中で、誰かが助けてくれるかもしれない。それだけが望みだった。それしか寄るべき心の支えは無かった。
が、現実はそんなに甘くなかった。
助けた人、配慮してあげた人が、手の平を返したように憎悪を向けるようになっていた。心ある人でも日本人を助けたことがばれたら、暴行を受けるか、村を追い出されるか。いずれにしても自分たちもおしまいになる。そんな理由で、受け入れるわけにはいかない事情があったのだ。
何件も何件も回ったが、追い出され、断られ、石を投げられ、追いかけられもした。
最後にあと一件だけ訪ねて、そこもダメなら、もう生きる術はない。
そう思いながら門を叩いた。
家の主はやはり、助けてやることはできないと断ってきた。
しかし、この話には続きがある。
家の主人は裏山を指さし「自分は、この山の中に畑を持っているしそこには小屋もあるが、もうその畑は使わないし、だから小屋にも用がない。もう山に入ることもないから、もしその小屋に誰かが住んでいたとしても、それは自分の知ったことではない。」
家の主人はそれだけ言うと、扉を閉めた。遠回しに、山小屋に住むように促してくれたのだ。
祖父母は涙を流して、感謝し、閉ざされた扉に頭を下げたという。
山小屋に住むことになった祖父家族。
祖父はなぜか小器用だったようで、家具大工をして、小銭を稼ぐようになり、挙句、家まで建てる大工になる。しかも作るとなれば妥協しない性格だったようで、薄い板を骨格に貼り合わせて、スカスカなモノを作るなんてできず、無垢の板でガッチリ作るものだからかなり頑丈で、評判も良かったようだ。そういうこともあって、なんだかんだで、村人とも交流が進み、子供たちも学校に行かせられるようになる。
祖母の連れ子だった伯父は、真面目な勉強家で、一生懸命勉強し、祖父母の間にできた僕の父は、野生児状態。というか、台湾にいた間、祖父の階級のおかげで、大人たちから「ぼっちゃん、ぼっちゃん」と傅かれることに成れていたので、大人を馬鹿にする性格になってしまったようで、先生の言うことは聞かないし、ガキ大将となって暴れ回るようになったと本人は言っている。暴力的になったのは、同級生たちからチョッパリ(日本人を侮蔑した言葉)と呼ばれたことに対する、憤りもあったのだろうと思う。
そんなさなか、事変が起こる。
一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争の勃発だ。
祖父家族は山小屋から出て、町の中に居住を移させれた。北朝鮮のスパイが入り込んでいる可能性があるという理由でだ。
十代半ばだった父も韓国軍に志願して参戦したという。
韓国の記録では、最年少で十五歳の志願者が有ったことが記録されており、少年兵だけの部隊が構成されたと有るので、そこに参加したものと思われるが、確証はない。伯父は徴募されたようだ。
二人は、兵士となったが一九五三年七月二七日の休戦にいたるまで、生き残ることが出来た。
どういう経緯でかは分からないが、まず伯父がクリスチャンになった。そして、それを追うようにというか、負けじというか、なぜか親父は、伯父に対抗意識が有ったようで、自分の方が信仰が上だとでもいうように、クリスチャンになった。家族を巻き込んで。
朝鮮戦争を生き延びた祖父家族。
父と伯父は、家から通いの軍属となったようで、休戦直後に二人とも結婚する。伯父は性格のきつい女性と、父は父の何を見たのでそう思ったのか「何か大きなことをするかもしれない男」だと思った母と結婚する。父が日本人だからと周りから反対されたらしいが押し通した。何より、母のお父さんは、日本のせいで、というか勝手な思い込みではあるけど、中国に逃亡生活を強いられた身である。絶対反対のはずだったのだが、最終的には折れたようである。
伯父はその後、どういうツテでそうなったのかは不明だが、日本の鉄工所で働くことになり、家族で日本に移り住む。日本人以上に日本人日本人した生真面目で正直な性格が幸いして、それなりの立場にまでなり、鉄工所が中国に支社を作るときには、技術指導者として派遣されるまでになった。
伯父は軍を除隊してからはずっとその一社でのみ仕事をし、定年退職している。退職金は数千万、さらに会社に貢献してくれた褒美に、夫婦で中国旅行をプレゼントされたのだと聞いている。
伯父は、本当にとても優しい人で、一生で数回しか会っていない僕のことをよく理解してくれ、毎年年賀状を送ってくれるような人だった。
伯父の話をもう少し。
伯父は祖母の連れ子として、祖父の家族になったことは先に書いた。祖父は寡黙では有ったが優しい人だったので、成れるのに時間はかからなかったと思われる。
伯父が十歳の時、僕の親父が生まれた。伯父には父親違いの弟になる。自分の父親になった人物からすれば、初めての、自分の子である。少なからず動揺したそうだ。夫婦が弟を可愛がって自分は蔑ろにされるのではないか?という不安である。嫌われたくない一心から、弟を可愛がったそうである。しかし、なぜか弟は、兄をライバル視していたという。
兄が軍に入れば、自分も追うように軍に志願し、兄が結婚すれば、追うように結婚し、クリスチャンになれば、クリスチャンになり、日本に渡れば、日本に渡り。という具合に。
僕が二五歳くらいの時、短い期間、東京で働いたことがあって、その時に伯父の家に寄ったことが有る。伯父の家から歩いて数分の処に、大きな公園があって「いい公園だなぁ」と思った。
それからずいぶん過ぎて、僕が関東で住むようになったあと、二〇一一年に公開された映画にその公園が登場して、懐かしいなぁと思ったのとカメラ小僧(オッサン)でもあるので興味本位で、車でその公園まで片道三時間のドライブに行ったことが有る。
一通り公園を散策した後、伯父の家も近い事だし、せっかく近くまできたのだから挨拶にでも行こうか? と思いながら伯父の家の前まで車で行った。
だけど、なぜか気恥ずかしくて、寄ることが出来ず、家の前を通過。近くのコンビニに車を止めて、少し考えたのだが、やはり寄る気になれなくて、そのまま帰路についた。
その二年後、僕の実兄とのDMのやり取りで、伯父が六か月前に癌で亡くなった事を知った。
遺族が、父に伯父の他界を知らせたのは、亡くなってから三か月後の事だったらしい。
遺産相続の件でもめて、連絡することができなかったと言っていたとか。
一体どれくらいの遺産が有るので、もめたのか? 父が、兄弟だから遺産相続の権利が有ると言い出すのではないかとでも心配したのだろうか?
あの時、公園にドライブに行った時、躊躇しないで、伯父さんに合っておけばよかったと、深く後悔している。
話を戻す。
伯父は日本に行った後。韓国に残った祖父家族は、貧困の限りだった。祖父の大工仕事も毎日のように入ってくるわけではなく、ひとつ作るのに時間もかけたし、また祖父がいい人過ぎてタダ同然、時には約束した金が貰えないなんてことがあっても、文句ひとつ言わない人だった。
父は父で、休戦後もしばらくは軍隊にいたが、李承晩大統領信奉者だったのが災いする。李承晩の米国への逃亡で、李承晩派の立場はとたんに悪くなり、軍隊を辞めたのだが、定職につかず、あの仕事を少しやり喧嘩をして辞め、この仕事をやり喧嘩をして辞めるを繰り返す。
実質、母の紡績工場でのアルバイトで食いつなぐ生活となってしまった。
ろくに食料品を買うこともできず、なんとか義父母と夫と長男(僕の兄)の分だけでも準備して、自分はサッカリンを水に溶いてそれを飲み空腹を満たす。なんてことまでした。その時、僕がお腹にいたという。
僕が産まれて二年目に、父は韓国では仕事がないということで、伯父のように日本に帰ることを決心する。丁度、朴正煕大統領が一九六五年に佐藤栄作首相と「日韓基本条約」を調印したタイミングだった。
本来、当時の常識として、祖父母は長男のいる家にいることが普通だったのだけど、祖父が、伯父の本当の父親でない事が問題だったのか、伯父の奥さんの性格が問題だったのか、僕の父である次男の家に祖父母はいた。
祖母はいわゆる僕の母にとって姑となる訳だが、嫁姑問題の最たるものが我が家で再現されていた。
祖母は、自分がものすごい苦労をして、やっと祖父と結婚できたのに、大した苦労もなく、易々と父と結婚したように見える母が許せなかったのか、単純に性格が合わなかったのかわからないが、随分ひどいイジメをしていたようである。
僕の知る限りでも毎日のようにもめていたので、よく離婚しなかったなと思えるが、祖母の時にも書いたように、離婚した娘は実家にとって大変な恥。という文化がまずある。それに、父も血気盛んで酷い人だったので、「離婚するなら、お前の家の家族を皆殺しにする」とか息巻いていたらしく、まあ、今でいうところのDVが普通のように行われていたわけで…。
母の話を…(今は八十歳を越えている)
金持ちでもなく、ド貧乏でもない、ごく普通の家族と住んでいたわけだけど、母の両親はそれは元気で、子供を沢山産んで、母の一番下の弟は、母の産んだ長男と同い年だという。
それはさておき、
まだ母が幼かった頃、日本統治下の朝鮮半島。
ちょっとした暴動が母の住む村でおこり、母のお父さんが、そんな気も無かったのだが、ほだされて暴動に加わり、派出所を襲撃する集団の中にいてしまった。
何気に、壊れて倒れている派出所の扉を踏みつけたところを、警察に目撃された(ような気がした)らしい。
夜陰だったので、見られていたとしても、顔を覚えられている可能性は低かったはずだが、母のお父さんは、「やばい捕まる」とびびって、村の山に入って隠れることにした。それで母は、夜に山にいるお父さんに食事を届けるという仕事ができてしまった。まだ野生の虎もいる時代のことだったから、だいぶ怖かったらしい。でも、お父さんは、山の中でも安心できず、中国に逃走する。
家に帰って来たのは当然、戦後である。
定職が見つからない事から、仕事を探すためなのか、それ以外の何らかの理由があったのか、祖父母と父母、そして僕と兄は日本に戻った。
が、結局、父は仕事に就いては、その会社の社長や社員と喧嘩をして退職するを繰り返し、九州から西日本のほうぼうに転居を繰り返す。
その間もずっと母と祖母の折り合いは合わず、とうとう離れて住むという選択肢が実行された。
祖父母は、岡山のバラック同然の二間しかない小さな借家で、車のヘッドレストを造るという家内業で、生活をはじめた。お風呂のない借家だったが、ここでも祖父の勤勉さが炸裂する。借家にお風呂を増設したのだ。
父母と僕たちは広島に転居した。そこでやっと父は定職に就く。母も同じ会社で働くことになり、余裕はないが安定した収入が入るようになった。
そして、僕の弟も生まれる。
その状態で数年が過ぎるが、祖父母がしていたヘッドレストを造る内職が打ち切られることになる。生活する術の無くなった祖父母は、長男である伯父の住む神奈川県で同居することとなった。その当時に伯父は、会社の建てた大きな社員寮の管理人も任されており、部屋も余っていたのだ。
しかし、祖父母が大好きだった僕は、祖父母が遠くなってしまうことにショックを受け、泣いてしまったことを覚えている。
だが、程なくして、祖父母は我が家で同居することが決まる。その時は、僕が泣いたので、引き取ることにしたのだと思っていたが、本当の理由は、伯父の妻と祖母のこれ以上ない険悪さが理由だったようだ。
僕は喜んだが、直ぐにその喜びは、辛さに変わる。祖母は、僕の母とも合わなかったのだ。父母は共働きだったから、日中は平和なのだが、帰宅すると、戦争が始まる。僕が、祖父母と暮らしたいと言ったのがいけなかったのだと思っていた僕は、母と祖母の喧嘩の度に、泣くしかなかった。その状態が数年続いたある日、父母の働く会社の社長が、工場施設に接合した寮が有るので、祖父母をそこで住まわせるのはどうか?と提案してきた。祖父もその会社で働いていたので、家族はその話に乗る。
晴れて、祖父母と我が家に平和が訪れたわけだ。
母は、体力の問題で会社を辞め、家事に専念することになる。
祖父は、意外とモボで、ファッションセンスも良かったし、お金が無いなりでも、その範囲で美食家でもあった。僕の兄と僕をステーキレストラン(当時ファミレスはほぼ無かった)に連れて行ってもらった事が有る。映画やアニメくらいでしか見たことのない店内で料理がテーブルに出される。美味しそうに見えた(ただし、僕は肉が苦手だったので、ひと口食べただけで、後は残してしまったのだが…)。
先にも書いた通り、すごく大人しい人で、怒っているところを見たことが無かったのだが、一緒に住んでいた時のある日の食事中、いつものように母と祖母がケンカを始め、それを止める立場であろう父がケンカに参戦、部屋が怒号に包まれた時、堪忍袋の緒が切れたのか、初めて大きな声で「いい加減にしろ!」と怒鳴り、持っていた茶碗をテーブルに叩きつけた。その衝撃で茶碗は真っ二つに割れ、祖父自信が怒った自分に当惑しているようだった。ケンカはそれがきっかけで、その時は終わった。
親父や祖父母は、韓国人牧師が運営する韓国人用のキリスト教会(長老派)に通っていた。なかなか日本語を覚えることが出来なかった祖母にとってはその方が良かったし、青春時代の殆どを韓国で暮らして、韓国語の方が母国語になってしまっている親父にも都合が良かったのだろう。親父はその教会で、長老になる。
祖父は、韓国で培った大工の腕で、教壇を造ったりする。
しばらくは波風も無く通っていたが、牧師が高齢であることを理由に当人が続行したいと願ったが、長老である親父が強引に引退をさせ、新しい牧師を韓国から招聘した。
それまで教会として利用していた建物の持ち主が、その新しい牧師を嫌って、教会の退去を要請してくる。
やむおえず、古い一件の小さな木造家屋を借りて、教会を始めた。そこに一人の日本人の若者が来た。若者は気さくで、優しい感じの人だったが、後に親父を追い込む牧師の側につくことになる。
信者から集めた献金の使途で、もめたことが発端だった。長老だった親父が管理していたからだ。親父は癇癪を起し、その教会を出ることになる。
その後直ぐに、その教会の牧師は、なぜか若者を連れて教会を出ていく。東京に行ったらしい。教会は無牧となり、信者が高齢者ばかりだったこともあって、霧散する。
それからさらに数年後、親父の悪い癖がまた出る。
会社の社長と喧嘩し、会社を辞めてしまったのだ。そのあおりを食って、祖父も退職。祖父母は寮を出ないといけなくなってしまった。
祖父母は、我が家に戻ってくることはなく、当時通っていた教会の近くのぼろアパートに入り年金生活に突入することとなる。
ちゃんと仕事をしていた頃は、祖父母の暮らす寮に遊びに行くと、決まって幾らかのお小遣いをもらえていたのだが、年金暮らしになってからは、さすがに生活が厳しかったらしく、お小遣いをもらえることは、少なくなった。
親父は、金属加工工場に転職して仕事をしていたが、作業中に左手小指を機械に巻き込まれ、引きちぎられる。
親父はこの事故を、神様の啓示だと信じる。「牧師になる!」そう言って、韓国の神学校に行った。
その学校では本来は早くて一年かかるところを、どうやったのか、親父は半年でクイック卒業。とはいえ、教壇に立つべき教会があるわけではない。本来は、卒業と同時に、学校と提携している教会を紹介されるものだが、親父にはそれはなかった。牧師を名乗る資格を得ただけだ。親父は帰国して、自動車部品の塗装会社に就職することになる。
仕事が無くなって時間を持て余すようになったからか、祖父は、自分の実の母を探したいという衝動に突き動かされ、興信所にお願いしたりしたようである。ただ、結果としては、あまりにも情報不足で、興信所は探しだせなかったのだが。
それでも諦めきれない祖父は、自分の足で探そうと、四国に足を運ぶ。高知県にある小才角が有力なキーワードだったようである。そこには、情報を探しに行った当時でも、祖父を知る人が、存命していて、その人に会うことはできたのだが、ただ、やはり興信所で無理だったものは、人探しの経験のない素人ではもっと無理だった。
四国に渡って数日後、諦めて帰ろうと考えた折り、昼食にと立ち寄った寿司屋で、世間話をしている間に、なぜ四国に来たのかの話になった。その経緯を話していると、寿司屋の板前の顔色が変わった。もしかしてそれは、自分たちの祖母のことかもしれないと言い出す。寿司屋を手伝っていた板前の妹が、祖父の兄妹ではないかと、直ぐ近くにあった実家に連絡しに行く。驚いて駆けつけた女性と話をしているうちに、疑義は確信へと変わった。
祖父を捨てた母は、そのことを後悔して、直ぐに捨てた場所に戻ってみた。ところが、そこにはもう子供の姿は無かった。家人が家に入れたものか?警察かどこかに連れて行ったものか?家人の戸を叩いて名乗り出る勇気までは持てなかったという。それ以来、ずっと後悔する日々だったとか。名前を付けており、その名をいつも口にしていたという。だが、その祖父の母は、祖父がその寿司屋に顔を出す一週間前に、亡くなっていた。
これが、本当なのか、ただの偶然の一致だったのかはわからない。あの当時、捨て子は珍しい話ではなかったのだから。
祖父は自分の半世紀をしたため、テレビ局に持って行ったことは、最初に書いたとおりである。
僕の兄が自衛隊に入隊し、一年の訓練期間を経て北海道に配属されてから二年後くらいだったか、祖父母に事件が起こる。
爪に火をともすような生活の中、一円でも節約したかったのだろうというのは、分かるけど、あろうことか、祖母が道に置いてあった中に黒い液の入った一升瓶を持ち帰る。醤油だと思ったらしい。それを使て料理を作り、食卓に並べて、食べ始める。高齢で味もよくわからなくなっていたことも災いした。違和感を感じたのは祖父だったが、その時点でもう十分食べた後だった。祖父はお腹に異変を感じて、近所に有った中華屋の店主(越してから仲良くなっていたらしい)に助けを求めた。店主は直ぐに救急車を呼び、祖父母二人は、病院に搬送された。
一升瓶の中にあった黒い液は醤油などではなく、廃油だった。
胃から腸まで洗浄することとなったが、高齢でもあったことから、長期入院を余儀なくされた。ベッドの都合だったのか、症状の専門性の問題だったのかは分らないけれど、祖父母は別々の病院に入院することになる。そしてこの別れは、祖父母の永遠の別れとなるのだが…。
幸か不幸か、その間の検査で、祖父の体に癌の有ることが発見される。直腸癌だ。まだ手遅れになる前だった。手術で摘出して事なきを得た。ただし、肛門が使えなくなり、ヘソの横に簡易弁を着けるという形になってしまう。
どういう経緯でそうなったのかはわからないが、祖父が入院中、その病院が遠い事もあって、なかなか家族がヘルプできない状態だった。しかし、祖父をかいがいしく介護してくれるおばあさんが表れていた。便の処理までしてくれていたというのだから、そうとうである。
祖父は入院から手術、そして退院までに一年を要した。
祖母もまた、別の病院で、入院生活が一年。
祖母の入院した病院は、家から何とか通える場所に有ったので、家にいた母が、通いで介護をするようになっていた。
それは、祖母が亡くなる数日前のことだった。
祖母は母に突然、謝罪したというのだ。これまで辛くあたった事、そして介護の事。母は帰りの道で、いたたまれず、ちょうど傍にあった電話ボックスに飛び込んで号泣した。
祖母の亡くなる日、母が介護から家に帰って来た途端に、祖母の入院している病院から電話があった。祖母に異変が起こっているということだった。
家族は急いで病院に向かったが、臨終を看取ることはできなかった。
祖母は最後に看護師に何やら言ったらしいのだが、それは韓国語であり、当然、看護師には解釈することが出来なかった。
祖母は苦難の八三年目に、最後の言葉を誰にも伝えることが出来ずに終わった。
葬式では、母が一番泣いていた。色々な思いがあったのだろうと思う。母は、日本に来日して以来、この日まで一度も韓国に戻っていない。母のお父さんの亡くなった時にも、帰ることはできなかった。そんな悔しみも混じっていたのかもしれない。
北海道にいる僕の兄に直ぐに知らせるべきだと僕は思ったが、親父が、軍務にいるときに心が動揺するようなことを連絡するのは事故に繋がると言って、連絡をさせてくれなかった。兄に連絡できたのは、葬式も終わって数か月後、電話ではなく、手紙でだった。やはりおばあちゃん子だった兄は、祖母の死を数か月も過ぎて連絡されたことに、かなりのショックと寂しさとを味わった。兄から帰って来た手紙は、涙で濡れていた。
直ぐに知らせなかったという事では、祖父に対しても同じだった。祖父には、祖父が病院を退院してから、仔細を知らせた。祖母の死の話を聞く祖父の傍らには、祖父が入院中、かいがいしく介助してくれたおばあさんもいた。どんな心境で話を聞いていたのだろう?
祖父はほんの少し目を潤ませるだけで、後はただ静かに頷くだけだった。
それから数か月後、祖父は介助をしてくれたおばあさんを籍に入れたいと言い出す。ただ、その願いは、おばあさんの家族から反対され、ご和算になったのだが。
退院した祖父は、新たな生き甲斐(介助してくれたおばあさん)を得て、生き生きとしていた。たぶん、自分の母の所在や兄妹を発見できたことにも、満足していたのだろう。
家族は、祖母の死で得た保険金で(いつの間に保険をかけていたのだ?)中古の建売に引っ越し、祖父もそこで一緒に暮らすこととなり、れいのおばあさんも、週に数度遊びに来る。という日々が始まった。
親父は親父で、買った家に教会の看板を着けて、教会運営を始める。長老教会に嫌気がさしていたようで、看板はバプテストを前面に出した。
教会といっても、本当に普通の小さな建売だ。一階の六畳間を礼拝用にした。ここでも祖父は教壇を作る。が、礼拝に来る人はいなかった。家族だけの礼拝が数年続くこととなる。
祖父がまだ、仕事をしていた頃、山奥の別荘地に買った二百坪(すごく安かった)の土地が有ったのだが、買ったきり放置していたその土地に、昔とった杵柄か、家を建てる!と言い出し、足蹴く通うようにもなる。家材になりそうな木や家を建てるのに邪魔になる木を切り倒して、材料になりそうな木の置き方を孫(つまり僕)に指導したり。ワクワクが伝わってくる感じだった。というか、祖父のあんなにワクワクした顔は、初めて見た。
そんな、楽しい日々にも終わりは来る。
祖父は咳をよくするようになって、弱っていく。ただの風邪だろうと思っていたが、病院に連れて行ったら、かなり進んだ肺癌だと診断される。余命いくばくもない。
そのうち自発呼吸も出来なくなって、祖父はいわゆるスパゲティ症候群となってしまう。
そして病院から連絡がくる。今日が山場だと。
家族が見守る中、祖父は弱弱しく目を開いて家族を見る。何か言いたそうに口を動かそうとするが、気道チューブが入っているので、話すことが出来ない。
天井を向き静かに目を閉じて、それきり目を開くことは無かった。八四歳だった。
ちなみに、祖父が韓国生活時に頼まれて造った寺が、今でも現存している。
親父の始めた教会に一人の婦人が現れる。この婦人は親父の何が気に入ったのか、毎週教会に通ってくるようになり、やがて自分の末の娘と次女をも連れてくるようになった。怪しい牧師に騙されてるんじゃないか?と様子を見に来た長男君まで入信し、さらにその友達まで、教会に来るようになる。
その婦人は、挙句の果て、夫と離婚し、教会でもあるが、父母の住む実家に住み付き始める。長男君も住みはじめ、結婚していた長女も夫を連れて住み付き、その夫の兄弟も、近所に引っ越してくる。教会は彼らの献金である程度うるおい、彼らの勧めで、親父は仕事を辞め、教会運営に専念することになる。
正直、母も僕らも迷惑千万だったが、その時はすでに僕を含む兄弟は、結婚して家を出ていたので、強く言えることでもなかった。
親父一人が上機嫌で、山奥に買った別荘地に祈り園を建てる決意をする。祖父が念願し、果たせなかった夢だ。
建築に一番深く係わったのは、最初に親父を疑っていた長男君であった。教会に来て結婚した彼は、夫婦で、冬には雪が五〇㎝は積もることもあるその山に最初はテントで、後、近くに放置されていた小屋で、泊まり込みで祈り園の建設に勤しむ。日曜日だけ、山を下りて来て、教会の礼拝に参加するという状態だ。
建設には延べ二年、親父の計算では材料費に二千万かかったとされているが、どうやら長男君が身銭を切って資材を購入したこともあったらしく、実際には二千万以上かかったようである。長男君夫婦の生活費は、献金から支出されていたのだが。
出来上がった祈り園は、わりと大きな建物となり、韓国や日本国内の牧師を呼んで、祈祷会などが行われたりした。
園の管理は、長男君夫婦に任され、彼らは園に住んだ。彼らはそこで、建設会社を運営することになる。
その事業も上手くいき軌道に乗り、教会ともども順風に見えたある日、彼は「牧師は牧師に相応しくない。」と言い出す。そして、祈り園を乗っ取り、他の教会と手を結ぶこととなる。
最初に教会に来た婦人は、長男のふるまいに、いたたまれなくなって教会を出、住み付いていた他の人々も教会を離れ、近くに越してきていた人々も一斉にいなくなった。
教会は誰もいなくなり、当然献金という収入も無くなり、年金だけではとても生活できないので、親父はまた仕事を始めることとなる。八〇歳を過ぎた段階まで。
親父の教会にそんな問題が発生する前に、僕は家族と広島を離れた。
その数年後に婦人の長男が反乱を起こし、祈り園を乗っ取る。
土地の名義は、親父のままであるから、不動産税は、親父にかかることになる。親父は、何度も出向いて立ち退くように説得したが、聞き入れられない。
訴訟沙汰にすれば、問題はすぐに解決したろうに、何故か親父はその選択肢を使わない。内容証明郵便でも定期的に送り続ければ、権利の失効も無いだろうに、それもしない。
毎年無駄な不動産税を納め、無駄な抗議に行くだけである。
一五年近くが過ぎて、僕が広島に戻って兄と相談し、その土地を彼らに買ってもらうことを提案し、実際にそうして、祈り園の問題は、嫌な解決を見た。
親父もすっかり弱り、仕事を継続することも出来なくなっていたので、実家と祈り園の不動産税の支払いは痛手だったのだ。
こうして、我が家は、祖父の願いだった土地、祈り園を失う事となった。
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