恋が下手な私が新社長に恋をした

yuzu

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優しく抱きしめて

1.

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 時計の針は、すでに何周も回っていた。

 会議室でのやりとりのあと、私は自席に戻り、ただ椅子に座っていた。
 メールを開いたつもりだった。書類に目を通していた気もするし、誰かと電話で話したような気もする。
 
でも、何ひとつ覚えていない。

 自分が今日、何をしたのか。
誰と話したのかさえ、わからなかった。
 ただひとつわかっていたのは、何も前に進まなかったということだけだった。

 オフィスの灯りはほとんど消え、静まり返ったフロアに残っていたのは私だけ。
 PCの画面には薄暗いスリープの揺らぎ。
 スマートフォンの画面には、未読の通知が並んでいる。

 でも、それを開く気にもなれなかった。

 誰かとつながるのが、怖かった。

 ゆっくりと立ち上がり、鞄を肩にかけて、出口に向かう。

 自動ドアが滑るように開いた瞬間、外の夜風が一気に体を包み込んだ。

 ——帰ろう。何も考えずに、ただ布団に潜り込めばいい。

 そう思いながら、一歩踏み出したときだった。

 視界の端に、ひとつの人影が映った。

 オフィスの前のベンチ。そこに、誰かが座っていた。

 首を軽くうなだれて、スマートフォンを手にしたまま、動かずにじっとしている。

 街灯に照らされたその人は……。

「……八坂さん?」

 驚きと戸惑いの混じった声。

 その声に、ベンチの影はピクリと動いた。

 顔を上げた八坂さんが、すぐに立ち上がる。
 次の瞬間、彼は迷いなくこちらへ駆けてきた。

「小鳥遊さん……!」

 その呼びかけが夜の空気を震わせ、胸の奥にじんと染み込んだ。

「……よかった……ほんまに……」

 目の前に立った八坂さんは、まっすぐに私だけを見ていた。

「今日、昼に電話したとき声、変やったから。いつもと違ってた気がして」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「それ、ずっと気になって……連絡しても既読にならんし、アポもないのに会社の中には入られへんし……内木さんに聞いたら残業してるゆうから待ってました。」

 言葉は静かだったけれど、その一つひとつが、まるで小さな灯のように私の心に触れてくる。

 私は、何も言えなかった。
 ただ、目の奥がじんわり熱くなって、息を吐くたびに涙がにじみそうになる。

「ごめんなさい……心配、かけちゃいましたね……」

 ようやくしぼり出せた声は、涙を堪えるように震えていた。

 けれど、八坂さんはすぐに首を振った。

「俺が勝手に来ただけやから……でも、会えて、ほんまによかった」

 八坂さんの言葉に、張りつめていた何かが音もなくほどけていった。

 体の奥に重く沈んでいた感情が、ふいに浮かび上がる。

 寂しさも、悔しさも、惨めさも——全部、自分でもどう扱っていいかわからないほどに溢れて……そんな姿を誰にも見せたくなかった。

 でも今、目の前にいる八坂さんには、それを隠せなかった。

「……っ……」

 喉の奥が熱くなり、何かが堰を切ったように、ぽろぽろと涙が頬を伝った。

 何かを言おうとしても、言葉にならない。
 涙の音だけが、夜の静寂の中でこぼれていった。

 八坂さんは何も言わずに——静かに、一歩近づいて

 そして、ためらいなく、でもそっと、私の肩を抱き寄せた。

「誰かの代わりでいい。俺のそばにいて。たくさん笑かすし、大事にする。」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が決壊したように、涙がぶわっとあふれた。

 止めようとしても、止まらなかった。

 まるで、今まで張りつめていたものがすべて音もなくほどけていくようだった。

「……八坂さ……」

 声を出すだけで、苦しいほどあふれる涙を拭い、そっと八坂さんから離れると静かに頭を下げた。

「ごめんなさい……私、あなたにそんなふうに言ってもらえるような人間じゃないんです」

 少しずつ、声が震え始める。

「元カレと別れたばかりで……まだ整理できてなくて……なのに社長に気持ちが揺れて……軽過ぎて嫌になる」

 涙で視界がぼやけて、うまく八坂さんの顔が見えなかった。

「でも……結局、なにも伝えられずに終わって、それでも……まだ、ちゃんと終われた気がしなくて……」

 私はかすかに笑った。けれどそれは、自分に呆れたような、やるせない笑みだった。

「そんな自分が……誰かの…八坂さんの隣に立つなんて……」

一瞬呼吸を置いて、拭っても溢れる涙をもう一度拭いた。

「……八坂さんに幻滅されたら、私、たぶん……耐えられないです」

 そう言って、泣きながら笑った……

 その瞬間だった。

 八坂さんが、何も言わずに、咄嗟に私を抱きしめた。

 強くもなく、弱くもなく、でも決して離さないような、あたたかくて真剣な抱擁だった。

「……そんなことで、幻滅なんてするか」

 耳元で、小さな声が落ちた。

「泣いて、迷って、自分の弱さをちゃんと見せてくれる小鳥遊さんを、俺は……もっと大事にしたくなる」

 その言葉に、胸の奥がぐしゃぐしゃに崩れていく。

「……いつか必ず、小鳥遊さんに“好き”って言わせてみせます」

 少し笑いながらそう言った八坂さんの顔が迷うように近づいてきて、私は瞳を閉じた。





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