恋が下手な私が新社長に恋をした

yuzu

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葛藤

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 カツ、カツ、とヒールの音が静かなフロアに吸い込まれていく。

 まだ誰も出勤していない、無機質なオフィスの空間。清掃のあとのわずかな洗剤の香りが漂う中、私は一人、デスクに向かって歩いていた。

 (——何をやってるんだろう、私。)

 椅子に腰を下ろすと、冷たいレザーの感触が、今朝までのぬくもりを思い出させた。

 小さく息を呑み、私は慌てて背もたれに体を預ける。

 あれが夢だったら……そう思いたいのに、肌に残る記憶がリアル
だと自覚させる。

 社長と、社員。立場も、責任も、まったく釣り合わない……それに婚約者の優香さんと、もうすぐ結婚するのに。

 なのに、私は——

 自分からキスなんてして……しかも、そのまま……

 「……どうしよう、これから。」

 思わず口に出してしまい、はっとして周囲を見回す。けれど、まだフロアには誰もいなかった。

 胸を撫でおろすと同時に、息苦しさにため息をついた。

 問題は、何も解決してない。

 「……ほんと、最低」

 溢した言葉とは裏腹に、火照る頬を両手で仰いで冷まそうとするけれど、心拍数は収まらない。

 ——仕事で一日中一緒……。

 そう思った瞬間、心臓が跳ねた。今朝のぬくもりと、彼の低く甘い囁きが脳裏に蘇る。

 『真那、好き』

 思い出せば出すほど自己嫌悪と羞恥が波のように押し寄せてくる。

 なのに、昨晩の事に幸せを感じる自分を完全に否定することもできなくて……

その時、誰かの靴音が響いて、私は背後を振り向いた。

 そこに立っていたのは、美和だった。

 「……八坂さんに、聞いたよ」

 その一言で、背筋が凍った。

 顔を上げると、美和は悲痛な表情でまっすぐ私を見下ろしていた。
 いつも明るくて朗らかな彼女とは、別人のようだった。

 「何考えてんの?」

 静かな声。けれど、怒りと失望がはっきりと込められていた。

 「え……」

 私は言葉に詰まった。美和は一歩、机のすぐそばまで近づいてくる。

 「振ったって、ほんと? 真那から?」

 「……うん」

 頷くと、美和の表情がさらに険しくなった。

 「意味わかんない。あんなに大事にしてくれてたじゃん。八坂さん、ずっと真那のこと真剣だったよ。……それ、わかってたよね?」

 胸がぎゅっと痛んだ。でも、何も言い返せなかった。

 「ねえ、何がしたいの? 社長とどうにかなりたいわけ? あの人、もうすぐ結婚するんだよ? ……わかってて動いてるなら、本当に最低だよ」

 その言葉に、私の中で何かが止まった。

 「……ちがっ」

 「違う? 何が? 気持ちが揺れてた? ふざけないでよ。そうやって“どっちつかず”で誰かを振って、他の誰かの背中に逃げるなんて、ズルすぎるよ」

 私は拳を握りしめた。美和の言葉が痛い。でも、それ以上に正しい。

 「美和……ごめん。でも私、本当に悩んでて……どうしていいかわからなくて……」

 「悩んでたら、人を傷つけていいの? そんなの言い訳にしか聞こえないよ」

 美和の目が潤んでいるのに気づいて、息が詰まった。

 「……あんたが誰を選ぶかなんて、私にはどうでもいい。でも、せめてちゃんと向き合って。無かった事にしないで。」

  ふたりの間に、沈黙が落ちる。

美和の瞳は、怒りとも、哀しみともとれる、複雑な感情を映していた。

 「……じゃないと……」

 私は息を詰めた。美和の目が、どこか遠くを見ている。

 「じゃなきゃ私……何で……」

 言いかけて、彼女は唇を閉ざす。視線が宙をさまよい、言葉の出口を探しているようだった。

 「酷いよ、真那。」

 問い詰めるような口調。でも、その奥にあるのは、戸惑いだった。

 言葉を返せなかった。美和がこんなふうに感情をぶつけてくるなんて、想像もしていなかった。

 「私も……気づいてほしかったのかもしれない」

 ――もしかして、美和?

 美和は、私を見ずに呟いた。

 「……言いたかったのは、それだけ」

 その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ――まさか、美和……。

 彼女は、私の方を見ようともしないまま、かすかに唇を動かした。

 「……言いたかったのは、それだけだから」

 静かな声だった。けれど、その背中には、どうしようもない哀しみが滲んでいた。
 引きとめる言葉も見つからず、私はただ立ち尽くすしかなかった。
 彼女が抱えていた想いの深さを思うと、胸の奥が痛くてたまらなかった。



 
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