恋が下手な私が新社長に恋をした

yuzu

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怒りと悲しみ

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英介は今にも泣き出しそうな悲痛な表情で目を細め、きつく抱きしめて、噛みつくようなキスをした。

 漏れる吐息を絡めとるように繰り返されるキスに、息を逃そうと喉を震わせ、意識が朦朧としていく。肺の中の空気が足りない。指先が英介のシャツを掴んでいた。
 ようやく離れた唇からは、甘く熱を帯びた息がこぼれた。
 沈黙が車内を包む。
 英介は黙ったままハンドルを握り、ワイパーの動きだけが、一定のリズムで静かに響いていた。雨は強くなり、窓を叩く音が激しさを増していく。まるで、ふたりの間に残るわずかな言葉の余地すら消していくように。
 さっきのキスの余韻が、まだ唇に残っている。少し腫れぼったくなった唇を、無意識に舌先で舐めた。
 あの瞬間、英介の目に浮かんでいたもの——怒り、悲しみ、それとも諦めに近い感情——そのすべてを受け止めきれず、ただ目を閉じることしかできなかった。彼の感情の重さに押し潰されそうで、胸が苦しかった。
 英介は一度だけ、深く息を吐いた。
 静かな車内にこだまするように、その溜息が心に響く。胸が締めつけられるようだった。
 車は暫く走ると、見慣れたマンションの前に停まった。雨はまだ降り続けていて、街灯の光が濡れた路面に反射している。
 無言のまま助手席のドアが開けられる。
 ためらいながら足を地面に下ろすと、冷たい雨粒が肌を打った。湿ったアスファルトの匂いと、雨独特の土の香りに包まれる。ドアが閉まる音が背後で響き、ふたりの距離が、再び空気のように透明で見えないものになった。
 エントランスに入ると、濡れた髪が肩にまとわりつき、首筋を伝う冷たい雫が背中を這った。ヒールの底が小さく水をはじき、タイルの床に湿った足跡を残していく。
 英介は一言も発さず、少し前を歩く。その背中は、いつもより少しだけ丸まって見えた。その背を追いながら、胸の奥がじわじわと痛むのを感じていた。言いたい言葉は喉元まで上がっていたのに、形にならなかった。ごめんなさい、と。どうすればいいのか分からない、と。どちらも、今は言えなかった。
 エレベーターは、チンッという軽い音とともに扉が開いた。
 無言のままふたりで中に乗り込む。狭い空間に、雨に濡れた体の熱と冷気が交錯する。鏡張りの壁には、疲れた顔をしたふたりの姿が映っていた。
 扉が閉まる瞬間、英介が悲しげな視線を投げかけた。その瞳には、まだ消えない不安と、それでも手放したくないという執着が混ざり合っていた。
 「……まだ、怒ってる?」
 その声は、思っていたよりもずっと静かで、弱々しかった。普段の英介からは想像できないほど、脆い響きだった。
 「怒ってないよ……けど」
 英介が一歩、こちらへと近づいた。背が自然と壁へ押される。冷たい鏡の感触が、濡れたブラウスを通して背中に伝わった。
 瞳が合った瞬間、彼の手がそっと頬に触れた。冷たい指先だったけれど、その温度がかえって切なさを帯びていた。まるで、触れなければ消えてしまうものを確かめるように。
 「……けど、今日は帰さへんから」
 
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