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余韻 春馬side
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その問いに、思わず息を呑む。彼女の口からその名前が出るとは思っていなかった。
見透かされていた。
「オンナの勘って、鋭いのよ」
苦笑混じりに言ってから、優香は視線を逸らす。唇の端に浮かぶ微笑みが、わずかに寂しげに揺れた。
「ねえ、春馬」
その声色が変わった。少し甘えるような、けれど芯には緊張が張り詰めた響き。
「……春馬は、私から離れていかないよね?」
その問いかけが、胸の奥に重く沈んだ。
──答えは、決まっているはずだった。
優香は、俺の婚約者だ。俺が守ると決めた女性。一生かけて償うと決めた。だから、彼女から離れるなんて──許されない。
俺は、そっと彼女を抱きしめた。
小柄な身体が、腕の中でわずかに震えていた。その細さが、儚さが、俺の責任の重さをより強く感じさせた。
「離れないよ。……そばにいる」
その言葉は、自分に言い聞かせるような響きだった。けれど優香は、安堵したように頷いた。
しばらく、互いに言葉を交わさず抱き合っていた。時計の針の音が、やけに耳に残る。
「ねえ……キスして」
拒む理由なんて、俺にはなかった。優香の願いに応えるように、ゆっくりと顔を寄せた。
けれど──唇が触れるその刹那、脳裏に浮かんだのは小鳥遊の横顔だった。
あの時の、何かを言いかけてやめたような彼女の表情が、鮮やかに浮かぶ。名残惜しそうに揺れた瞳と、手放されたぬくもり。
重なる唇の感触の奥で、自分が誰に向かって心を伸ばしているのかを、痛いほど自覚していた。
優香の手が、俺のシャツの裾を握る。
「春馬……」
「行かないよ。俺は、ここにいる」
その言葉もまた、自分自身を縛るための鎖のようだった。
彼女を泣かせたくなかった。傷つけたくなかった。誰かを不幸にすることでしか進めない恋など、選べるはずがない。
一度離した唇を、もう一度ゆっくりと近づけると、優香は合わせるように瞳を閉じた。
俺は優香を安心させるように触れるように、
そっと彼女の唇にキスをした。
間接照明の柔らかな光が優香の儚げでしっとりした顔を映し出す。
優香がゆっくりと指先で背中をなぞり、肩からシャツを滑らせるように床に落とした。
ーーぎしっ…
そのまま優香に押されるように倒れた俺は、
軋む音を立ててソファに沈んだ。
「……優香。」
脳裏に浮かぶ小鳥遊の顔と、部屋に漂うケチャップの香りが心を抉る。
ゆっくりと瞳を伏せながらもう一度、唇を重ねようとする優香の肩を押し戻した。
「……ごめん。」
優香はきっと傷ついた表情で俺を見つめている。そう思うと直視したくなくて、ソファから起き上がってそのまま俯いた。
張り詰めた空間に、小さく「そっか。」と、囁く優香の声がやけに響く。
静かに床に落ちた服を拾い上げ、手早く身支度を済ませた優香は無言で玄関にかけて行き、ハイヒールに手をかけた。
「……送ってくれないの?」
痛々しいくらいきれいな笑顔を作って振り向いた優香は、優しさのカケラを探すようにそう言った。
「ごめん。タクシー、手配するから。今日は……。」
視界の端に映った優香は今にも泣きそうな表情を浮かべ、「わかった、疲れてるのにごめんね。」と呟き、駆け出すようにして玄関を飛び出していった。
追いかけるのが正解だと、わかってる。
傷つけた。きっと泣かせた。
それでも……それでも今夜だけは、自分に嘘をつけなかった。
見透かされていた。
「オンナの勘って、鋭いのよ」
苦笑混じりに言ってから、優香は視線を逸らす。唇の端に浮かぶ微笑みが、わずかに寂しげに揺れた。
「ねえ、春馬」
その声色が変わった。少し甘えるような、けれど芯には緊張が張り詰めた響き。
「……春馬は、私から離れていかないよね?」
その問いかけが、胸の奥に重く沈んだ。
──答えは、決まっているはずだった。
優香は、俺の婚約者だ。俺が守ると決めた女性。一生かけて償うと決めた。だから、彼女から離れるなんて──許されない。
俺は、そっと彼女を抱きしめた。
小柄な身体が、腕の中でわずかに震えていた。その細さが、儚さが、俺の責任の重さをより強く感じさせた。
「離れないよ。……そばにいる」
その言葉は、自分に言い聞かせるような響きだった。けれど優香は、安堵したように頷いた。
しばらく、互いに言葉を交わさず抱き合っていた。時計の針の音が、やけに耳に残る。
「ねえ……キスして」
拒む理由なんて、俺にはなかった。優香の願いに応えるように、ゆっくりと顔を寄せた。
けれど──唇が触れるその刹那、脳裏に浮かんだのは小鳥遊の横顔だった。
あの時の、何かを言いかけてやめたような彼女の表情が、鮮やかに浮かぶ。名残惜しそうに揺れた瞳と、手放されたぬくもり。
重なる唇の感触の奥で、自分が誰に向かって心を伸ばしているのかを、痛いほど自覚していた。
優香の手が、俺のシャツの裾を握る。
「春馬……」
「行かないよ。俺は、ここにいる」
その言葉もまた、自分自身を縛るための鎖のようだった。
彼女を泣かせたくなかった。傷つけたくなかった。誰かを不幸にすることでしか進めない恋など、選べるはずがない。
一度離した唇を、もう一度ゆっくりと近づけると、優香は合わせるように瞳を閉じた。
俺は優香を安心させるように触れるように、
そっと彼女の唇にキスをした。
間接照明の柔らかな光が優香の儚げでしっとりした顔を映し出す。
優香がゆっくりと指先で背中をなぞり、肩からシャツを滑らせるように床に落とした。
ーーぎしっ…
そのまま優香に押されるように倒れた俺は、
軋む音を立ててソファに沈んだ。
「……優香。」
脳裏に浮かぶ小鳥遊の顔と、部屋に漂うケチャップの香りが心を抉る。
ゆっくりと瞳を伏せながらもう一度、唇を重ねようとする優香の肩を押し戻した。
「……ごめん。」
優香はきっと傷ついた表情で俺を見つめている。そう思うと直視したくなくて、ソファから起き上がってそのまま俯いた。
張り詰めた空間に、小さく「そっか。」と、囁く優香の声がやけに響く。
静かに床に落ちた服を拾い上げ、手早く身支度を済ませた優香は無言で玄関にかけて行き、ハイヒールに手をかけた。
「……送ってくれないの?」
痛々しいくらいきれいな笑顔を作って振り向いた優香は、優しさのカケラを探すようにそう言った。
「ごめん。タクシー、手配するから。今日は……。」
視界の端に映った優香は今にも泣きそうな表情を浮かべ、「わかった、疲れてるのにごめんね。」と呟き、駆け出すようにして玄関を飛び出していった。
追いかけるのが正解だと、わかってる。
傷つけた。きっと泣かせた。
それでも……それでも今夜だけは、自分に嘘をつけなかった。
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