恋が温まるまで

yuzu

文字の大きさ
53 / 60
磯崎美優の要求

1

しおりを挟む
「着替えたいから、一旦帰ります。」

 そう言って、田上さんと改札口で別れたあとも、しばらく私はホームのベンチから動けずにいた。

 電車が目の前を通り過ぎても、まるで他人事のようだった。風圧で髪が揺れる感覚だけが、今の私を現実に繋ぎとめている。

 頬に残る微かな熱に手のひらを添える。火照っているのは、厚着をしているからじゃない。

 さっきまで彼と並んで歩いていた駅までの短い距離が、まるで映画のワンシーンのようで――静かで、穏やかで、夢みたいだった。

 ……こんなふうに人と別れるのが名残惜しいと感じる日が来るなんて。

 その時だった。カバンの中でスマホが短く震え、通知音が鳴った。

 夢見心地の時間に終止符を打つような音だった。

 何気なく画面を開くと、表示された名前に心臓がわずかに跳ねる。

 磯崎美優――。

『話があります。出社前、オフィス裏の公園のベンチでまってます。』

 文字を追った瞬間、胃のあたりに重たく冷たいものが沈んでいくのを感じた。

 ……予感は、悪い方にしか働かない。

 わざわざこんな時間に、“話がある”
 なんて、どう考えても、昨晩の事だ。

 ただでさえ、今日はいろんなことがありすぎた。

 田上さんと過ごしたあの時間が、奇跡みたいに柔らかで温かかったからこそ、今はこれ以上、心を乱されたくない。

 でも。

 無視は……できなかった。

 私の中にある“まだちゃんと向き合っていない何か”が、静かに背中を押す。

 ためらいながらも、画面に指を滑らせて返信を書く。

『わかりました』

 たったそれだけ。

 送信ボタンを押したあと、私はしばらくスマホを見つめたまま動けなかった。

 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜

yuzu
恋愛
 人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて…… 「オレを好きになるまで離してやんない。」

好きな人の好きな人

ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。" 初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。 恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。 そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

表は地味子、裏の私は人気モデル

桜夜
恋愛
 咲城 葵、17歳の高校生2年生。  私立ーー桜ヶ丘学園に通う生徒である。  学園は所謂お金持ち学校であり、その中で日本三大財閥、咲城財閥の直系にあたる娘なのが葵である。日常生活から人々に注目されており、そんな生活が嫌になる。  そのため、葵は咲城財閥の娘とバレないように変装し、名前を変える。  しかしーー彼女は裏で高校生モデルをしていた。  モデルでも素性は隠しており、知るものは一部の人間のみ。  そんな彼女がモデルをしていた理由は………だから。  しかし、ある日突然、彼女を探すもの達が現れる⁉︎  果たして彼女は、平穏な日々を送ることができるのか⁉︎  なるべく誤字、脱字が無いよう気をつけていますが、もしありましたら教えていただけると嬉しいです。

貴方なんか大嫌いです。

雪戸紬糸
恋愛
楡崎ひなの(24才)は、途中入社の新人事務員。高校卒業と同時に入った前の会社は、ブラックだった。なんとか抜け出して、今の会社にはいったはいいが、上司と反りが合わない。あんな毎日がお通夜みたいな顔をしてる上司と、まさかこんなことになるなんて思っても見なかった。すれ違いながらも、心を通わせていく二人を是非ご覧ください。

その愛、運命につき

yuzu
恋愛
 挙式当日、夫となる筈の婚約者と妹に裏切られ、両親に助けを求めたけれど妹の味方をされてしまう。  式場から飛び出し、自棄になって酒場で飲んだくれていると、王家グランフォールの使いに馬車に乗せられてしまう。誘拐だとさわぐ主人公リュシエル。けれ王宮についてすぐ、女王から生き別れの娘だと告げられる。

離した手の温もり

橘 凛子
恋愛
3年前、未来を誓った君を置いて、私は夢を追いかけた。キャリアを優先した私に、君と会う資格なんてないのかもしれない。それでも、あの日の選択をずっと後悔している。そして今、私はあの場所へ帰ってきた。もう一度、君に会いたい。ただ、ごめんなさいと伝えたい。それだけでいい。それ以上の願いは、もう抱けないから。

フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。

処理中です...