蜘蛛の糸

森川咲紀子

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 結局俺は大方の予想通りK大に落ち、滑り止めだったS大に進学した。またも母親は半狂乱になったが、俺はもう小さく、孤立無援だった小学生時代とは違うのだ。
 母親からありとあらゆる言葉で罵倒されたあの晩、俺は『いつも通り』悠也の部屋にいた。
 2階まで響くほどの金切り声だったから、悠也も一部始終は知っているようだった。無言の俺に、悠也も何も言わずただ抱いていてくれた。
 不意に顔を動かすと、悠也の温かい頬に触れた。
 温かい、柔らかい頬だ。
 俺は更に頭を動かすフリをして、悠也の頬にキスをした。
「え…」
 悠也は真顔で俺を見ていた。
「今のは…偶然?」
「偶然じゃないよ」
 今度は唇に噛み付くようにキスする。足元がふらつく悠也の身体をそっと抱えてベッドに寝かせた。そして俺はその上に覆い被さる。
「兄さん…?」
「悠也、お願い。助けて…」
 呟いて、彼を抱きしめる。
 そう言ったら、悠也は逃げられないだろう。


 そして俺は有り体に言えば弟を犯した。


 射精した虚脱感でまだ頭がボーッとしていた。ベッドの縁に座る俺に、悠也はふわりと後ろから抱きしめてきた。
「兄さんが楽になるならまたこういうことしてもいいよ」
 弟は悪びれる様子もなくそう言った。
 自分がしておいてなんだが、事の重大さなんて全く考えてないんだろうな。
俺は悠也のことを見くびっていた。そもそもずっと見くびっていた。
「いや、最悪だろう。兄弟で、しかも男同士だなんて。母さんにバレたら俺たち本当に殺されるかもね」
 俺は乾いた笑いを浮かべた。
 まあそれで死んでももう良いかもしれない、とさえ思っていた。
「大丈夫だよ。兄さんは俺が守るから」
「…はは、お前にそんなことはできないよ」
「いや、俺はできるよ」
 彼らしくない断定口調。
 何か強烈な違和感を覚える。
 ふと振り向くと、弟は不敵な笑みを浮かべていた。
「…どうした?悠也?」
「俺だけが兄さんを理解してあげられる」
「…何を言ってるんだ?」
「兄さんのこと本当にわかってるの俺だけだから」
 それはしっかりと、不気味な程に確信に満ちた言葉だった。
 大体あの自己肯定感が低い悠也が何かをこんなに自信満々に語ること自体がどうかしてる。
 何かが、何かがおかしい。
「…他人のこと、理解できたなんてそんなに軽々しく言わない方が」
「学校だけじゃなく親やご近所の人にまで良い顔してるのに裏じゃ弟にこんなことしてるなんてね」
「……」
「そんなこと、言えるわけないよね」
 俺を慰める時と同じ、優しい声。しかし内容は恫喝だ。
 俺は見くびっていた。
 悠也のことを見くびっていた。
 俺は悠也を計画通りに嵌めた。可哀想な兄だと思わせることに成功した。それで彼を全てコントロール出来た気になっていた。けれどそれは、俺の大きな思い上がりだったようだ。
「母さんどころじゃない。友達も、近所の人も塾の奴らもみんな、兄さんのことを軽蔑するだろうね」
 こいつは、これが狙いだったのか…⁉︎俺は弟を睨みつける。
「でも俺は軽蔑しないよ。周囲のどんな人にも良い顔をしてるのに血の繋がった実の弟にだけ憂さ晴らしの為に犯したりするような、そんな兄さんのことを、俺は軽蔑したりしないよ」
 今視界に入っている弟の生温い笑顔も、過剰に優しいその声色も、発した言葉と噛み合わなさすぎて頭がおかしくなりそうだった。
「…悠也、何がしたいんだ。何が目的だ」
「別に何も目的なんかないよ。兄さんをゆすろうとも思ってない。俺はただ、兄さんの唯一の理解者でいたいだけ」
「そんなわけないだろう…」
「本当だよ。俺だけは兄さんが本当は冷たくて非情な人間だってわかっても見捨てたりはしない。俺は他の人と違って善人だから兄さんを好きなわけじゃない。そういう兄さんの狡くて人間くさいところも含めて好きだよ」
 嘘だろう。狡くて汚い人間なんて愛してもらえる筈がない。
 本心ではそう思っていたが都合のいい悠也の言葉は麻薬のように俺の脳を麻痺させた。その蕩けるような甘い言葉は徐々に俺の意識を侵食していく。
「俺はたとえどんな兄さんでも愛するよ」
 悠也は言って、俺の唇にキスをした。
 包み込むような優しいキスだった。
 思考が、止まる。
 
 なんてことだろう。
 俺は弟を嵌めたつもりで、俺自身が嵌っていたんだ。
 俺に対するあいつの思いを図り違えていた。俺はあいつのことを見くびっていたし侮っていた。あいつの思いは良くも悪くも重すぎて深すぎる。

 

 今日も親が寝静まったのを確認して、俺は悠也の部屋に行く。
 俺は何故悠也と、セックスするのだろうか。自分の性欲?憂さ晴らし?正直わからない。けれどあいつの身体は心地良かった。
 悠也は俺が部屋に入ると寄りかかってきてキスをする。俺がするのとは違う、溶けるような優しいキスだ。
 そして囁く。
「兄さん、愛してるよ」
 狡猾で醜い本性の俺を受け入れるのは悠也だけなのだ。俺は獣のような荒々しいキスを返すとあいつをベッドに押し倒した。
 もう戻れない。
 心地よく優しい毒に身を埋めながら俺は滅びの時を待つしかなかった。



************************************

 秋から、兄と俺の秘密の行為は続いていた。年が明けて大学入試が始まっても、それは変わらずに続いた。
 兄さんは疲れた頃にやってきて、俺の体を抱きしめる。それで気が済むなら良いと思ってた。
 本命の試験が終わった夜。兄さんはいつものようにノックし、俺の部屋に入ってきた。ドアを閉めるとすぐ寄りかかってきたが、その体には力がない。グッタリと本当に疲れ切っていたようだった。俺は兄さんの頭を優しく撫でて、
「お疲れ様」
 と囁いた。俺の体に回した腕に、力が入る。
(苦しい…)
 兄の手は肩から背中に這うように滑り落ちていく。
(あれ…?)
 それは相手の感触を確かめているようで。まるで…
(マジで…?)
 女に触れる時のようだった。
 俺は気が付かないフリをして、その場をやり過ごした。
(…疲れてたから、だよな)
 自室に戻ってからも、自分に何度もそう言い聞かせた。
 ねちっこく身体に滑らせた手は、友達や家族に対する触れ方ではなかった。
(疲れてる時はそんな時もある…のかな)
 ベッドに体を投げ出す。
(俺の考え過ぎかな)
 色々と思いつく限りの言い訳を繰り返していたが、俺は薄々気付いていた。
 最初に抱きしめてしまった時点で、いつかこうなるのは時間の問題だった。


 兄さんの合格発表の日も、俺にとっては特別な日でもなんでもなかった。フツーに学校へ行き、帰りには圭介とゲーセンで遊んだ。
 家に帰ると母親が金切り声を上げている。テーブルの上に置かれた薄い封筒を見るまでもなく、志望校に落ちたことがわかった。兄さんは悲しむでも怯えるでもなく、全く無表情のまま空を見つめていた。
 俺はそんな兄を尻目に二階に上がる。
 可哀想な兄さん。俺みたいに全部捨ててしまえば楽になるのに。
 気が狂いそうになる母親の声が止むと、静かに階段を上る音がしてきた。
 軽くノックの音がして、俺はドアを開ける。兄さんはさっき居間で見たのと同じ、人形のような無機質な表情だった。
(こんなになるまで我慢して…)
 俺は何も言わずそっと兄さんを抱きしめた。
(可哀想…)
 どれくらい長い間そうしてたのだろう。
 兄さんは急に動いたかと思うと、俺の頬にキスをした。
(…!)
「え…」
 呆然としながらも、俺はどうにか言葉を吐く。
「今のは…偶然?」
 すると兄はさっきまでの無表情が嘘のように目を細めた。
「偶然じゃないよ」
 今度は触れるだけのキスとは訳が違う、深い、深いキスだった。こんなエロい感覚知らない。俺の頭は未体験の刺激に真っ白になった。体に力が入らない。膝の力が抜けそうになってよろめく。バランスを崩した俺を支えて、兄は自然な動きで俺をベッドまで運ぶ。
 マズい。何だこれは。
 頭の中では完全に警報が鳴り響いていた。そのまま続けたらマズい。
 マズいのはわかっていたが。
 短時間に色々なことが起きたせいで、正常な判断力はその時点で既になかった。俺は抵抗しなかった。
 俺をベッドに寝かすと、兄はのしかかってきた。
「兄さん…?」
「悠也、お願い。助けて…」
 か細い声でそう言ってあの人は俺を抱きしめた。
 そんなことを言われたら、俺は兄さんが何をしても、もう抵抗できないだろう。
 あの人はもう一度、ゆっくり俺にキスをした。頭が真っ白になる。気がつくとシャツやズボンを脱がされていた。
 画面の中でしか見たことのなかった行為を今まさに目の当たりにしていた。そしてそれを他ならぬ自分自身で体感していた。熱い異物が自分の中に入っていくのがわかる。
「が……!」
 思わず声が出そうになったが、俺の口には脱いだ肌着が突っ込まれた。無理無理入ったのを確認すると、兄は滑稽な様子で腰を揺らし始めた。
 痛みで声が出る。喉から声を出そうとして力を入れ過ぎて、ガラガラになってきていた。
「!…んんんん!」
 もしかしたら途中で止めるだろうか。
 一瞬甘い期待が頭をよぎったが、次の瞬間それは心底ないだろうと思った。あの人が俺を見下ろす視線は俺ではない、ヤリ捨てした女でも見るような冷えきった視線だった。
 ひとしきり暴れた俺は疲れて脱力した。痛い、それしか考えられない。混濁した意識の中で薄っすら視界に映るあの男を俺は動物のようだと思った。

 程なくして行為は終わった。
 鈍いが強い痛みと叫ぼうとして痛めた喉のせいで俺はぼんやりとしていた。汗が段々と冷えて気持ち悪かった。
 
 高尚だと思っていた。
 期待に応えようと頑張るなんて可哀想だと思っていた。
 俺には遠過ぎる理想の兄だと思っていた。
 そんな兄さんを理解できるのは俺だけだと思ってた。
 さっきまでは。
 俺を無理矢理犯した兄は高尚でも可哀想でも何でもなかった。
 ただの俗物だ。
 兄に抱いていた憧憬が、スッと覚めるように消えていくのを感じた。
 行為の最中に俺を見下ろしたその表情は、およそ愛情や肉親に対するそれではなかった。
 俺は可哀想な兄さんを理解できる唯一の人間だと思っていた。しかしそれは俺の思い違いだった。
 聖人君子のように振舞いながら俺をどうでもいい売春婦のように扱った。
 『優秀な兄』が聞いて呆れる。
 『優等生』が聞いて呆れる。
 『カンペキ超人』が聞いて呆れる。
 兄はただのつまらない俗物だ。
 醜悪で、冷酷なくだらない人間だ。
 寒気を感じて身震いする。


 けれど、その冷たくて狡い兄さんを知っているのはこの世で俺だけだ。
 

 俺はできるだけそっと兄を抱きしめた。
「兄さんが楽になるならまたこういうことしてもいいよ」
 兄は小馬鹿にしたような表情で振り返った。
 いいよ。今は優越感に浸っていればいい。もうすぐ本当の姿を突き付けてあげる。俺は薄い笑みを浮かべた。

《終》
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