蜘蛛の糸

森川咲紀子

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 どんなに忙しくても塾でも部活の後でも急いで帰るのは俺の日課だ。
「ただいまー」
 玄関に、踵の潰れたニューバランスはない。弟はまだ帰っていないようだ。
「母さん、悠也は?」
「まだ帰ってないのよ。今日はバイトじゃないのにきっとまたゲーセンで遊んでるのよ。全くあの子は…」
「もうご飯炊けたんじゃない。夕飯の準備、手伝うよ」
 …これで準備完了。俺は意地の悪い笑みを浮かべる。
 そして、案の定夕飯の片付けも終わった七時半頃に悠也は帰ってきた。
 玄関のカギを開ける音がして、ドタドタと廊下を歩く音がする。俺はすかさず居間から声を掛ける。
「帰ってきたなら『ただいま』くらい言いなよ」
「うるせーよ」
「夕飯に間に合うように帰って来いって母さんも言ってるのに」
「あーもううるさいうるさい」
「そんなつまんない反抗でプライド満たしてないでやりたいことでも見つけたら?」
「………」
 悠也は顔をしかめるとあっという間に階段を上って、自室にこもってしまった。多分ゲームでもやるのだろう。
「お兄ちゃんの忠告もきかないなんてなんであんなになっちゃったのかしら」
 母はブツブツ言っていたが、俺にとってはどうでも良かった。
 『絶対的正論』にあいつは手も足も出ない。
 俺の唯一の楽しみは弟に声をかけるあの瞬間だ。
 正直俺がどう忠告しようと悠也は態度を改めないだろうし、むしろ火に油を注ぐだけだろう。けれどそんなこともどうでも良い。声をかけた瞬間から反発するまでのその一瞬、あいつは悲しい顔をする。そのどうしようもなく傷付いた悠也の顔を見ると、俺は安心するんだ。
 イライラしている時、疲れてる時、俺は悠也を追い詰める。あの子の傷付いた顔を見て、俺は自分のペースを取り戻す。
 俺はそのためにどんなに忙しくても、可能な限り弟より早く帰る必要があった。
 俺は弟から嫌われているだろう。
 当たり前だ。いちいち細かいことを言う兄なんて嫌われて当然だ。
 けれど、あいつを傷付けて良いのは俺だけだ。そう思うことだけが、俺が自分を認識できる唯一の方法だった。



 俺、佐々木悠人の朝は早い。
 いつも通り6時の目覚ましで起きる。
俺はひとまずジャージに着替えて外に出る。家の裏の物置にある箒を取って、通りを掃き掃除するのだ。大抵斜向かいの小笠原のおばさんが先に掃除をしている。
「おはようございます」
「あら悠人くんおはよう。今日も早いのねぇ」
 しばらく無心で掃除をしていると、気付いたら小笠原のおばさんは俺の真横にいた。
「悠人くん、ちょっと教えて欲しいんだけど」
「どうかしたんですか?」
「携帯で撮った写真を焼き増ししたいんだけどやり方がわからないの」
「今コンビニとか写真屋の機械で焼き増しできますから。僕の時間がある時に一緒に行きましょう」
「あらそう?助かるわ~。もうそういうの私たち全然わからなくて」
「うちの母もそうですよ。スマホの設定とか代わりに僕がやってます」
 俺はにこやかに笑う。
 小笠原さんと焼き増しに行く日程を決めて、別れた。話しているうちにいい時間になってしまった。六時半に家に戻る。それから、朝食と支度を済ませて七時半前には家を出る。
 高校には三十分程で着く。八時頃だとまだ誰もいないので、教壇の花瓶の水を換えておく。これが終わったら、あとは誰かが来るのを待つだけだ。大抵一番乗りは元サッカー部の能村なので、適当に話をしていればあっという間に授業が始まる時間になる。
 学校が終わっても何だかんだとすることはある。部活はもう引退してしまったのですることはないが、たまに練習に顔出すこともあるし、生徒会の後輩から細々した相談やら雑用を頼まれることもある。近所のおばさんたちの雑用もある。そしてそこに塾が入る。 
 俺は何をしているんだろうな、としばしば思う。
 気付いたら他人の為に走り回るような生活になっていた。
 人の為になってればそれで良い。自分のことなんてどうだって良い。そもそも、最初から自分なんて、無い。
 そうでもしなければ、俺は赦して貰えない。


 翌日。担任の先生から呼び出された。また何か雑用かな、と思っていたが、表情から察するにそうではなさそうだった。
「人がいない所の方がいいな。指導室遠いから、応接室で話すか」
「あ、はい」
 ソファに座ると、先生は重い口を開いた。
「進路のことなんだが…」
「はい」
 机の上に広げられたのは先日の実力テストの結果だった。
「やはり志望校変える気ないのか?」
「はい」
「うーん…でも今のK大はなぁ…一番難易度低いって言われてる文学部でもちょっと厳しいんだよなぁ…」
「…でも、K大に行くのが僕の夢なんです」
「まぁ気持ちはわからないでもないんだが…勉強するだけなら何もK大じゃなくて良いわけだし…」
「でも…どうしてもK大じゃないとダメなんです」
 俺は感情を込めないでそう繰り返す。
「今の成績だったらM大くらいにしておけば…」
「すみません、こればっかりは先生に何度言われても、考えを変える気はありません」
「本気で狙うんなら、全科目平均二十点は上げないと厳しいんだぞ?。佐々木なら部活でキャプテンもやってたし、生徒会もやっていたから内申はつく。指定校でM大って言う方法もあるし…」
「先生、本当にすみません」
 もう話は聞かないで部屋を出た。
 先生、すみません。正直、これ言われるの初めてじゃない。塾の先生にも散々言われてる。正直自分でも無理だと思ってるんだ。塾に行っても、いくら自習しても、もう天井にぶつかってるみたいに成績が全く伸びない。他人に言われないまでも、自分が一番良くわかっている。M大でも十分だろうって本心では思ってる。
 けれど、それは母が許さないだろう。


 俺は中学受験に失敗している。受験したのはK大附属。母方の一族は皆K大出身で、母はK大に特別な思い入れがあった。当初、俺と悠也の二人ともK大に通わせるつもりだったようだが、悠也は買い与えられた教材や塾通いも全て拒否した。あまりに徹底して拒否したので母は
匙を投げたのだ。結果、勉強の成果を求められるのは俺の役割になった。公立の小学校に通っていた俺の成績は常にトップ。模試でもずっとA判定だった。塾の先生も、母も、皆受かると思っていた。
 しかし、当日。会場で答案用紙を前にして。頭が真っ白になった。心臓がバクバクと壊れそうなくらい速く打っていたのがわかった。鉛筆を持つ手は側で見てもわかるくらいガタガタと震えた。冷や汗が止まらなかった。問題文も全く頭に入ってこない。こんなふうにならない為に、散々準備したはずなのに。模試だって何度も受けたのに。俺はプレッシャーに押し潰されていた。答案は結局白紙だった。
 滑り止めは受けていた。しかし、納得しなかったのは母だ。K大附属に落ちたという事実が受け入れられず、あの時の様子はほぼ半狂乱だったと言って良い。
「絶対受かるはずだったのに!どうしてこうなったの!」
「何かの間違いよね?そうなんでしょう、悠人!」
 父が暴れる母を押さえつけるその様は言うなれば地獄絵図だった。その間にも自分に投げつけられる呪いのような言葉。五年生だった悠也があまりの惨状に泣き出すくらいだった。
 多分、あの瞬間に自分の心は壊れたんだと思う。
 俺は母さんや父さん、悠也を辛い目に遭わせる悪い子供なのだと。
 悪い子供なのだから、赦される為に何かしなければならない。人より優れなければならない。
 結局、俺はそのまま地元の中学に通うことになった。俺はあの失敗を取り戻そうと、文字通り何でもやった。部活、生徒会、自治会の手伝い、学童クラブの子供と遊んだり、とにかく何でもした。
「佐々木くんは本当に頑張り屋さんね」
「エライわね、悠人くん」
 他人は俺をそうやって誉めた。
 これだけやれば、俺の失敗は取り返せたかな?
 失敗を取り返す為だけの人生。
 全力疾走しているのに、更に走れと言われているようだ。
 他人から評価されればされる程、俺はますます空っぽになっていく。



「ふぅー…」
 問題集をやっていたものの、集中が途切れてしまったらしい。俺は体を大きく伸ばすと、問題集を閉じて、タブレットで英語のスピーチ動画を見ることにした。だがこれも頭に入ってこない。諦めて、引き出しに入っているノートを取り出した。
 隣の部屋からはうっすらゲームの音楽が聞こえてくる。
「…いいな…」
 不意をついて出た言葉だった。
 いやいや。俺は別に悠也のことなんか羨ましくない。…はずだけど。
 俺もあの時、最初の段階で悠也のように勉強を拒んでいたらどうなっていたのだろうか。少なくともここまでは苦しくなってない、かな…。
 悠也も実際手がつけられないほど勉強ができないのかといえば、別にそんなことはないのだ。ただ、俺との比較と、弟の普段の素行の悪さのせいで、実際以上に悪く見えているのは確かだ。
 弟も塾に行かなかった割には都立の中堅校に入学してるし、家族への態度が少し悪いだけで、世間に迷惑をかけているわけではない。バイトもゲーセンで遊ぶのも帰りが遅いのも普通の高校生と考えてみたら世間並みだろう。我が家が異常なだけで。あいつが必要以上に悪ぶっている、というのが正しいか。
 正直弟と俺にそこまで大きな能力差があるとは思っていない。そもそも同じ遺伝子から出来てるのだ。お互いのポテンシャルはそこまで大きな差はないはずだ。
 だから俺は一つの可能性を考えていた。あいつは『不出来な弟』に甘んじているだけなんじゃないのか。小学校一年くらいには既に勉強を放棄していたことを思うと、生まれついての要領の良さがあるように思えてならない。
「………」
 結構雑念が入ってしまった。
 俺はノートに今日の出来事をサッサと書いて、引き出しにまたしまった。

 
 今日は日曜。朝から自治会のお祭りの手伝いなので、早々に家を出た。会場は近所の公園だ。
 テントの下で陣頭指揮にあたっている自治会長の村中さんに挨拶する。
「おはようございます、今日はよろしくお願いします」
「悠人くんいつもすまないね!さっそくステージの設営の方回ってくれないかな?松田のとこの次男坊が仕切ってるはずだから」
「わかりました」
 ちなみに、村中さんは祖父母と同じ年代なので、『松田のとこの次男坊』と言っても俺の両親と同世代だ。そんなわけで松田さんに挨拶して、ステージ設営用の鉄パイプやらを運ぶ。
「悠人くんいつも悪いわねぇー!」
 里中さんが豚汁片手にやってきた。
「1人でも若けぇのがいると助かるよ!」
 松田さんも機材を抱えながら嬉しそうに言う。俺は120%の営業スマイルでそれに応える。
「僕も好きでやってるんで。次はそれ持って行くんですよね?」
「おう、頼んだよ!」
 みんなニコニコと嬉しそうだし楽しそうだ。お祭りの準備なんてほぼボランティアだし、日当なんて本当に気持ち程度だ。そんな中で、俺みたいな若いのがいると助かるらしい。
「今度は悠也くんも連れて来なよ」
「そうそう、若い子がいればおばちゃんたちもっと頑張っちゃうから!」
「…弟は、僕と違ってなんか忙しいみたいで…」
 もっとも、時間があった所で悠也はこういう場には絶対来ないだろう。何しろ丸一日拘束されて三千円じゃ普通に考えたら割に合わない。
 11時。お祭りが始まった。出店に子供たちが行列している。ステージではカラオケ大会も始まったらしい。俺は少し離れたベンチに座り、祭りの様子を眺めながら焼きそばを食べていた。
「悠人さんこんにちはー」
「こんちはっ!」
「こんにちはー」
 学童クラブの子供たちだった。
「何してるの?」
「焼きそば食べてるんだよ」
「焼きそばおいしい?」
「僕ね、綿あめ食べたよ!」
「早く学童来てよー今度サッカーのトラップ教えてくれるって言ってたじゃん!」
 子供たちは矢継ぎ早に喋る。
「わかったわかった、なるべく早く行くからな、それまでちゃんとサッカーの練習してるんだぞ」
「はーい!」
 彼らが立ち去るとあっという間に静かになってしまった。
 こんなに賑やかなのに。
 こんなにたくさん人がいるのに。
 俺は一人なんだな。
「悠人くーん!」
 ステージの方で村中さんが呼んでいる。機材のトラブルかな。俺は気を取り直してステージの方に向かった。


 その後、撤収も手伝って家に戻ったのは八時過ぎだった。玄関にスニーカーがない。まだ悠也は戻っていないらしい。俺は上着をソファに置いて、どかっと座った。
「疲れた~」
「ご苦労様」
 母はそう言ってコーヒーを注ぐ。
「悠也は?」
 俺はわかっているのに聞く。
「まだ帰ってないのよ。あの子、夕飯いらないなら連絡頂戴って言ったのに」
「もうバイト終わってるはずだよね。ちょっとラインでも電話でもすればいいのに」
「ホントよ。悠人はちゃんとしてるのに…」
 母の怒りの導火線に火をつける。準備完了だ。
 母の愚痴に付き合っていると、玄関が開く音がきこえた。声をかけようとしたけど悠也はあっという間に階段を上って自室に入ってしまった。
 母の方を見遣ると、何か言いたげな表情で俺を見ていた。一言言えってことだろう。
 俺は静かに階段を上り、ゆっくりとドアをノックした。
「悠也、夕飯いらないならそう言えば良いだろう?急だったならラインでも良かったのに。母さん怒ってたよ」
 扉一枚隔てていても伝わるくらいの冷たい沈黙だった。きっと憮然とした表情を浮かべているのだろう。
 不意に部屋のドアが開いた。あまりに急だったので、俺は思わず仰け反る。
 弟は部屋から出るなり文字通りブチ切れた。 
「いい加減にしろよ!お前の偽善者ぶったご忠告はもうウンザリなんだよ!」
 フルスロットルでキレる程致命的なことは言っていないはずだ。夕飯の話だけでどうしてこんなに怒っているんだ…?俺は目の前で起きていることが理解できなかった。
「偽善者?…ちょっと何言ってるかわからないんだけど」
 努めて冷静に返したつもりだった。けれど、弟の怒りは止まる気配がない。
「お前が偽善者じゃなかったら何なんだよ!!家の中や学校だけじゃ飽き足らず街中でまで人助け!そうやっていい子ちゃんぶって誉められればお前の人生満足なのかよ!?」
 …なるほど。『偽善者』、か。側から見たらそう見えるんだろうな。
 俺は自分が責められている筈なのに妙に落ち着いていた。自嘲的ですらあった。俺が偽善者だって?俺自身がとっくにそんなこと気付いてたよ。お前に言われなくてもね。
 俺は他人事のように答える。
「…誉められたいからやってるんじゃないよ」
「んなわけねーだろ!お前は自分の評価に結び付かないことはしないから!それも的確に!だから母さんに良い顔はしても俺のことは見下してけなすんだろ?」
 全く、君はどうしてこう言われたくないことを『的確に』突いてくるんだろうね。自分の弟ながら、感心してしまう。
 但し母に良い顔をしているのは事実だが、悠也を見下してけなしている、と言うのは正確ではない。
「赤の他人には親切にできても実の弟には少しも親切にできないっていうのかよ?そんなんマトモじゃねーよ!」
 ああ、君の言う通り、俺はとっくにまともじゃないんだろうな。
 今まで無視してきた都合の悪い事実を突きつけられる。
 そう、まともじゃない。もう壊れてたんだ。とっくに…。
 これまで耐えてきていた自分が軋む音がする。
 俺は微かに平静を失いつつあった。
 それでも弟の攻撃は止まらない。
「あんたいったい何がしたいんだよ?貼り付いた気持ち悪い笑顔で他人に媚びて」
 ああ、俺は他人からはそこまで滑稽に見えていたのか。
 もう何を取り繕ったって。
 もう何を頑張ったって。
 俺は赦してもらえないんだ。
「あんたそんなんで生きてて楽しいか?」
 悠也が言い終わらないうちに、俺は平手打ちしていた。
「ってぇ…」
 弟が小さく呻いてる。
 完全に無意識だった。
 ほぼ反射に近い。
 俺自身も自分の手が動いたことに動揺していた。
『生きてて楽しいか?』
 本当に。どうしてこんなに言われたくないことを言ってくるんだろう。
 楽しいなんて思ったことなんかないよ。俺の人生何にもないんだ。
 もう、何にもないんだ…。
 言いたいことを言った弟はすごい勢いでドアを閉めた。
 俺も、なんとか自室に戻る。
 机に向かうけど思考がバラバラで何もまとまらない。
 
 俺は誰の為に頑張ってたのだろう。
 何の為に頑張ってたのだろう。

 ノートに文字を書き殴る。
 
 俺には、何にもない。



 翌日。俺は普通に悠也と顔を合わせずに家を出た。そして極めて普通に友達と話し、先生の用事を手伝い、家に帰った。いつもの習慣通りに動いただけで、俺の意思はそこにはない。それくらい何も考えなくても毎日の生活が送れてしまう自分を、改めて虚しいな、なんて思ってしまう。
「ただいまー…」
家の明かりは点いていたが母のパンプスはなく、代わりに踵の潰れたスニーカーがあった。
 居間を見ると、ソファに座る悠也と目が合った。
「…珍しいね、お前がこんな時間にいるなんて」
 俺は努めて冷静に言葉を吐く。
「俺、兄さんに聞きたいことがあるんだ」
 悠也は昨日と打って変わって穏やかな印象だ。
「何?急に」
「兄さんは勉強辛くないの」
 今度は土足で踏み込んでくるのか。
「…なんでそんなこときくの」
「あ、俺は勉強嫌いだけど、兄さんはなんか、ずっと頑張ってるから」
「辛くはないよ。母さんも喜んでくれるし」
 俺は普通に返したつもりだった。
 いつものように何も考えずに。
「母さんはどうでもいい。兄さんは、どう思ってんの」
 …やっぱり的確に痛いところを突いてきている。こいつもう一回ケンカしたいのだろうか。俺は冷静に返しているつもりだったが、刺々しくなっていくのも感じていた。
「…質問の意味がわからないな。それきいてどうしたい?」
「兄さんも自分のしたいようにすれば良いじゃん。母さんがどうとかじゃなくて」
「僕は僕がしたいようにしてるし、それをお前にどうこう言われる筋合いはないけど」
 また平手打ちされるかな。俺はそう思いながら構えていた。ところが、弟の言葉は予想外のものだった。
「兄さんは十分頑張ってるよ!」
「………」
「だから、そんな、自分を犠牲にしてまで頑張らなくていいと思う」
 俺は震えていた。
 思わず顔を俯かせる。
「…俺、ちゃんと頑張れてるのかな…?」
 声が上ずる。
「兄さんは一番頑張ってるよ」
「俺が見てきた兄さんは少なくともそうだったよ」
 俺は悠也のその言葉に、思わず彼の身体を抱き寄せた。
「ありがとう…」
 こんなに単純でありがとう。

 
 あれから。
 俺の日常は変わらない。
 変わらずに朝の日課をこなし、学校では便利屋同然に働き、放課後は塾へ行く。家に帰れば母のご機嫌をとる。何も変わらない。
 唯一変わったのは。
 
 俺は弟の部屋をノックする。
「何?」
 悠也は穏やかな顔で俺を迎える。
 俺は安心して彼にもたれかかる。
 パタン…
 彼はゆっくりとドアを閉めた。
 この瞬間、この部屋は世界から切り離された。
 俺が心置きなく彼にもたれかかると、悠也はそっと腰に手を回して俺を抱きしめた。
「兄さんは一番頑張ってるよ」
 悠也の柔らかな言葉で、俺は平静を取り戻す。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 ギュッと、抱きしめる腕の力が強くなる。大事にされるってこういうことなんだろうか。悠也が本当のところは真っ直ぐで心が優しいということが本当に良くわかる。
 一連の『儀式』が終わると俺は何事もなかったように自室に戻る。

 本当に悠也は素直な弟だ。
 俺は椅子に座って日記帳を広げた。
 これは賭けだった。
 いつか悠也がこの部屋に入り、この日記帳…俺の秘密を知ったらどう行動するのだろうか。単なる好奇心だった。俺はいつかくる(かもしれないし、こないかもしれない)その日の為にコツコツと日記をつけ続けた。
 あの時、居間で話していた時。悠也の突然の変貌、そして不自然な質問。俺は確信した。あいつが日記を見たことを。声が震えたのは悠也と分かり合えて嬉しかったからではない。彼が俺の策略に面白いほどピタリとハマって想定通りの反応をしたからだ。
 まったく、本当に素直で可愛い俺の悠也。こんなに飽きない玩具誰にも渡したくない。誰かに取られるのだとしたら、俺は玩具を壊すことを選ぶだろう。
 あれは俺だけのものだ。
 悠也を壊して良いのは俺だけだ。
 
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