蜘蛛の糸

森川咲紀子

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 いつもいつも、俺は『佐々木悠人の弟』でしかない。
「あなたあの悠人くんの弟なのね…お兄さんT大附属行かれたでしょう?」
 そう言ってきた担任の教師。
「良かったらお兄さんに渡してもらえないかな?」
 そう言ってバレンタインのチョコを押し付けてきたクラス1美人の女の子。
 その地域に住んでいるなら知らない人はいないくらいのちょっとした有名人、それが俺の兄悠人だ。
 勉強も運動も人望も性格も、俺は何一つ兄さんに敵わない。
 俺はそんな兄さんが、大嫌いだ。


 放課後、俺はいつものように友達の圭介とゲームセンターにいた。
「おっしゃ!鬼クリア!」
「ほんと好きだよなー太鼓の鉄人」
 圭介は空いている椅子に座り、やれやれといった様子ではしゃぐ俺を見ていた。
「そりゃバイト代ほぼ注ぎ込むくらい練習してるし!圭介とは違うんだよ」
「こんなんにバイト代注ぎ込むとかマジバカすぎる、ひくわー」
「課金でバイト代注ぎ込む方が余程バカだろ!俺は太鼓が上手くなるよう努力してるからいーの」
「努力はいいけどどんな練習したらあんなになるんだよ…俺最近お前が何やってるか見てもわからんし」
 呆れ顔の圭介に俺は得意げに答える。
「ばーか、んなもんひたすら練習だよ。そうすると音を聞いて、というより体が先に動くようになる」
「なんだその達人の極意的な」
 圭介はケタケタ笑っている。
「ま、他の才能兄貴に全部取られちゃったからさ、せめてゲームくらいはねー」
「でもさ、お前の兄ちゃんホントにそんなカンペキ超人なの?同中の奴らみんな言ってんだけど実際お前から話きいたことないよな」
「………」
 嫌な話の流れになってしまった。
 俺は出来るだけおどけた調子で喋り始めた。
「信じるも信じないもあなた次第です、と前置きした上でだけどな」
「おう」
「教室の金魚の世話毎日したり、飼育小屋の掃除したり、クラス委員とか率先して引き受けたり、近所の自治会の掃除とかイベントも手伝ったり、もちろん成績も良いし、部活はキャプテンだし…」
「…そらーヒクぐらいカンペキ超人だな」
「だろー?だから俺はゲーマーの超人を目指すことにした」
「いやいやむしろ太鼓の鉄人目指すべきっしょ」
「俺鉄人目指して頑張るわ」
 …

 圭介とのテキトーな会話を終えて俺は一人ゲーセンを出た。
 辺りは薄暗い。ゲーセンから家までは自転車で20分。もう20分したら、俺は家に着いてしまう。
 兄さんのことはあまり話したくない。というより口にしたくないと言った方が正確かもしれない。できれば俺の視界に映したくないし、俺の世界に入ってこないで欲しい。
 今日、圭介に兄さんのことを話しただけなのに自分の領域に侵入されたような気がして酷く不愉快な気分だった。
 そもそも、俺が何故ゲーセンで時間を潰しているかというと、家に帰りたくないからだ。バイトも家にいない為の口実だ。まぁもっとも遊ぶにはお金がかかるから、これは100%そのせい、とは言えないんだけど。
 とにかく理由をつけて、俺はなるべく家に寄り付かないように努力していた。
 自転車をダラダラ漕いでみたが、結局家に着いてしまった。そんなに嫌なら家出するとかバイトフルに入れるとかもっと方法あるんだろうけど、俺は自分がしんどいのも嫌なのだ。
 家に帰ると、夕食は終わっていたようで、母親は台所で洗い物をしていた。俺は無言で廊下を通り抜け、階段を上がろうとした。
「悠也」
 俺を射抜く冷たい声。
「今日はバイトじゃないんだろ。早く帰ってたまには母さんの手伝いでもすれば」
「………」
 俺は、声の主を睨みつける。
 居間のソファーに座る、そいつがカンペキ超人と名高い兄の悠人だ。
 父に似た端整な顔立ちに、俺とは違うサラサラな髪。勉強している筈なのに俺と違って視力も良い。運動しているから体も適度に筋肉質…。兄はルックス的にもいわゆる勝ち組だった。
 普段他人にあれだけ愛想を振りまいている兄が、顔の筋肉が全て死んでしまったのかと思うくらいに無機質な表情を俺に向けている。少なくとも兄弟を見るそれではないだろう。
「もう二年の二学期なんだから受験勉強始めたら。遊ぶためだけならバイトも辞めた方が良いよ」
 こいつの正論にはヘドが出る。
「お前には関係ないだろ」
 俺は一言だけ返して階段を上り、自室へ入る。
 
 『無敵で完璧』な俺の兄さん。
 『絶対に超えられない』俺の兄さん。

 俺が勝てる要素なんか一つもない。
 まともにやればやるほど、兄に敵わないって思い知らされるだけ。兄より劣ってるって思い知らされるだけ。そんなのとっくに判ってる。ただ、感じないようにしてきただけだ。知覚したらそれはあっという間に激しい痛みになってしまうから。
 生きる為に、俺はその痛みを無視している。
 
 兄はああやって俺の顔を見るとダメ出しをしてくる。母親がそれを見て何も言わないのを判っているからだ。もし、母親が非難したならそんな真似はしないだろう。兄はそうやって全てを計算している。自分の評価を落とすようなことは決してしない。
 俺へのダメ出しは兄にとって、自分の評価を落とさず尚且つストレス発散が出来る、気晴らしとしてはうってつけの行為なのだろう。
 俺としては大迷惑なのだが。
 こんなことがもうずっと繰り返されている。兄の受験勉強が始まった去年の秋からは以前にも増して酷くなっていった。
 


 一学年しか違わない兄に対して小さい頃こそ対抗心を持ったものの、わりと早い段階で俺はプライドを捨てた。確か小学一年の頃だったと思う。それから俺はポケモンマスターを目指して日々DSに勤しむようになる。
 当時、兄は俺にも優しかった。
 お菓子分けてくれたり、勉強教えてくれたり、普通に優しい兄だった。
「3/4と1/3を足すには分母を同じにして…」
「兄ちゃんの言ってることわかんねぇ!」
「わかんない、か…。ごめんな、悠也」
 酷いことを言っても困ったように笑うだけで、怒ったりはしなかった。小学校低学年の頃だったと思うと本当にできた兄だった。
 そんな優しかった兄に変化が起きたのは小学六年の冬だった。中学受験に失敗したのだ。
「絶対受かるはずだったのに!どうしてこうなったの!」
「何かの間違いよね?そうなんでしょう、悠人!」
 母親からヒステリックに詰られてるのを見るのは子供心にすごく怖くて嫌だった。側で見ていた俺がそう思うのだから、当人はもっと怖かったのではないだろうか。
 もっとも、俺にしてみれば『早々にドロップアウトした俺の代わりに親の期待を一人で背負わせてしまった』という罪悪感もないわけではなかった。
 ともあれ、それを機に兄は少しずつ変わっていってしまった。
 地元の中学に入ったが、近所の自治会の手伝いや生徒会の役員を引き受けたり、兄は露骨に偽善的になっていった。
 時には、通行人の老人の荷物を背負ってあげることさえした。
「今時珍しい感心な子だねぇ」
と、老人は感激していたが、実際、今時そんなことをするようなお人好しは存在しない。
 目の前にはただ他人に良く思われたいという一心だけで行動している、一見利他的だが限りなく利己的な男がいるだけだ。


 俺は重苦しい溜息をついたが、気を取り直してPS4の電源をつける。こんな時はゲームでもして頭を空っぽにするに限る。


 今日は日曜日。俺は朝からバイトだった。朝食はパンだけで軽く済ますつもりだったが、食卓には俺と母親の二人だけだった。
「…兄さんは?」
「町内会のお祭りの準備手伝うってもう出かけたわよ」
 そりゃまたご苦労なことだ。
 俺は母親の言葉に返事をするでもなく、コーヒーを流し込む。
「今日の夕飯は?…悠也、悠也!」
 母親の制止も聞かず俺は上着を羽織って家を出た。
 バイト先のスーパーまでは自転車で5分くらいだ。途中、公園に差し掛かる。町内会のお祭りの会場はこの公園だった。広場ではご近所のオバさん軍団が豚汁だのおでんだのを仕込んでいて、オジさんたちはステージの設営に勤しんでいるようだった。そんなオジさん、オバさんたちに混じって兄も機材を運んだりしていた。
「悠人くんいつも悪いわねぇー!」
「1人でも若けぇのがいると助かるよ!」
「僕も好きでやってるんで。次はそれ持って行くんですよね?」
「おう、頼んだよ!」
 キラキラの笑顔を浮かべて答える。そんな表情されたらこんな好青年はいないと誰もが思うだろう。
(俺には無茶苦茶性格悪いのに)
 しかし、じっくり見ていると称賛されている時間より圧倒的に一人で作業している時間の方が長い。
 思ったより効率悪くね?
 そんな疑問は浮かんだが、ひとまず気を取り直して俺はバイト先に向かった。



 バイトはスーパーの品出しだ。品物をひたすら出すというまぁ単調な仕事だ。
 俺は今日もひたすらバックヤードの品物を出している。
「ササくんそれ終わったら次日配の平台よろしく」
「わかりました」
 今指示を出したのが俺の上司…というか食品部門のチーフである。
 30半ば、独身、彼女なし、毎日「不労所得で生活したい」と言ってる完全なるダメ社員だ。
「平台終わった?早いねぇ~さすがササくん」
「あざっす」
「仕事早いよね~ヘタな大学生よりよっぽど使えるよ」
「…そうっすか?」
 俺はチーフのテキトーなお世辞をテキトーに受け流す。
「まあそういう子がいるから俺がラクできるんだけどね」
「チーフに楽させるため仕事してるんじゃないです…」
「じゃあ何の為?」
「お金ですかねー」
 俺は品物を台車に積みながら淡々と答える。
「お金、ねぇ…夢がないなぁ」
「…不労所得で生活したいとか言ってる人に言われたくないです」
「うっ、それを言われると厳しい」
 そう言いながらチーフはバックヤードを出てこうとする。
「あれ、帰るんですか」
「だって時間だし。もう養老の滝開いてるから」
 と、悪気なく言う。忙しかろうがなんだろうがこの人は時間通りに帰る。
「……呑むのホントに好きですよね」
 俺が半ば呆れながら言うと、
「俺の血は日本酒だからね」
 そう言ってくたびれた歩調で出て行ってしまった。
 うっすらと、ああいう大人にはなりたくないなと思ってはいる。ゆるいし、怒ったりしないから良い人ではあるんだけど。
 
 
 その日もバイトの後、圭介を呼び出して夕飯はマックで食べた。
 家に帰ると兄と母親が居間にいるようだった。俺はさっさと二階に上がる。さて、ゲームでもするかと思っていたらおもむろにドアをノックされた。
「悠也、夕飯いらないならそう言えば良いだろう?急だったならラインでも良かったのに。母さん怒ってたよ」
 兄だった。言い方はあくまでも優しい。けど、如何にも演技じみていた。大体こんなしょうもない忠告が何になるって言うんだ。
 瞬間、今朝見かけた公園での会話シーンがオーバーラップする。俺にはあんな笑顔向けないのに。俺にはあんな優しい言葉かけないのに。俺にはあんな気を遣ったりしないのに。
 俺は全身が総毛立つのを感じた。
 力任せに部屋のドアを開ける。間近に立っていた兄は開くと思っていなかったのか、少し面喰らった顔をしている。
「いい加減にしろよ!お前の偽善者ぶったご忠告はもうウンザリなんだよ!」
「偽善者?…ちょっと何言ってるかわからないんだけど」
「お前が偽善者じゃなかったら何なんだよ!!家の中や学校だけじゃ飽き足らず街中でまで人助け!そうやっていい子ちゃんぶって誉められればお前の人生満足なのかよ!?」
「誉められたいからやってるんじゃないよ」
「んなわけねーだろ!お前は自分の評価に結び付かないことはしないから!それも的確に!だから母さんに良い顔はしても俺のことは見下してけなすんだろ?」
 はじめはいつものように無表情で聞いていた兄の顔に、微かに感情が滲んでるような気がした。
「赤の他人には親切にできても実の弟には少しも親切にできないっていうのかよ?そんなんマトモじゃねーよ!」
 一度吐き出した本音は止まらなかった。
「あんたいったい何がしたいんだよ?貼り付いた気持ち悪い笑顔で他人に媚びて」
 止まらなかった。
「あんたそんなんで生きてて楽しいか?」
 言い終わるか終わらないかで。
 平手打ちが飛んできた。
「ってぇ…」
 兄さんは怒ってもいなかったし、いつものように無表情でもなかった。ただ少し、悲しそうだった。
 壊しそうな勢いでドアを閉めると、俺はそのままベッドに突っ伏した。


 月曜の夕方、バイト先。
 俺は黙々と品出し作業をしていた。
「今日具合でも悪い?」
 バックヤードに帰ってきた俺の様子を見たチーフがそんなことを言ってきた。
「いえ、全然」
「なんか溜息ばっかついてるから辛いのかと」
 露骨にテンション低いのが出ていたらしい。
「はは、俺よりやる気ないチーフに言われたくないっす」
「失礼な。ササくんよりは仕事してるよ?朝8時からいるんだから」
 俺がいつも通り軽口を叩くと、チーフは口を尖らせてプリプリしてる。
 しかしそんなことより、少し気になった。
「…チーフは兄弟いますか?」
「年の離れた兄が」
「お兄さん優しいですか?」
「優しいって…考えたことないなー…うーん…」
「考えたことないってどういうことですか?」
「うち7歳離れてるからね、なんか優しくされたとかいうより絡んだ記憶が殆どない」
「………」
 絡まなくて済むなら俺はその方が羨ましいけどなぁ。気を取り直して本題に入る。
「…兄貴一個上なんですけど、なんか外ヅラすごい良いのに俺にだけ冷たいんですよねー」
 何気なく言ったつもりだったけど、チーフはビー玉みたいな瞳を向けて黙っている。
「…俺、変なこと言ってます?」
「いや、ササくんは年の割に要領良いというか人を喰ったようなところあるなと思ってたけど案外年相応なんだなと思っただけです」
「地味にディスるのやめてもらえますか」
「ああ、そういうつもりじゃなかったんだけどごめんごめん」
 チーフはいつものくたびれた感じで謝るが。
「でもさ、『俺にだけ冷たい』って思うってことは、『本当は優しくして欲しい』ってことだよね」
「え」
「もっと言えば『兄弟なんだから優しくするのは当たり前だ』ってササくん自身が思ってるってことでしょ」
「そんなことは…」
 俺が取り繕おうとしても、チーフはスタスタ歩いて行ってしまう。
「そういう意味で『年相応』ってことさ」
「どこ行くんですか」
「タバコー」
 そう言って覇気があるとは言えない足取りでバックヤードを出て行った。
 全く誤算だった。普段ぼんやりしてるチーフからあんな斬れ味鋭い答えが返ってくると思わなかった。
『本当は優しくして欲しい』?
『兄弟なんだから優しくするのは当たり前だ』?
 俺がそんなこと思ってるって?
 バカバカしい。
 俺は他人に過度に親切な兄貴を許せないだけだ。
 『無敵で完璧』な俺の兄さん。
 『絶対に超えられない』俺の兄さん。
 俺なんか価値がないっていつも思い知らされる。
 そんな兄を嫌いになる権利くらい、俺にもあるだろう。



 ちょっともやもやした気分のまま帰宅したが、今日はすんなり二階に上がることができた。兄がいなかったからだ。月曜は塾の日で、10時を過ぎてるのにまだ帰っていないようだ。
 今日は残念ながらゲームをする気力がない。せめて実況を見ようとタブレットを探す。大抵居間に置いてあるのだが今日は見当たらない。
「母さんiPadどこ」
「悠人じゃないの?英語のスピーチ動画見てたし」
 理由までイヤミだなと思いながら、特にリアクションせず兄の部屋に向かう。
 兄の部屋は俺と同じ六畳のフローリングだ。ゲーム機とソフトが散らばっている俺の部屋と比べると、部屋まで整然としている。参考書と文豪の名著が本棚にこじんまりと収まっていて、机の上も毎日勉強しているわりには片付いていた。その机の上には一冊のノートが置かれていた。
 授業のノートかと思っていたが、よく見ると、日付が入っている。
 日記だった。
(マジか…)
 俺は思わずノートに目を走らせる。
 綺麗ではないが几帳面でまとまりのある字。こんなものつけてたのかよ…
 俺は罪悪感はあったものの興味半分でノートのページを繰る。

【8月6日
 今日は氷川神社のお祭りの手伝い。子供たちが楽しそうで頑張った苦労が報われる。

 8月11日
 夏期講習で受けた模試が返ってきた。志望校のランクを落とした方が良いんじゃないかと森先生から忠告される。

 8月18日
 部活の後輩に差し入れを持っていく。喜んでくれたようで良かった。夜からは塾。先生と相談して古典を重点的に受講する方針になった。

 8月21日
 水泳部の中井からプール清掃の手伝いを頼まれる。びしょ濡れになったけどなんだか楽しかった。

 9月1日
 今日は始業式。使われていない第二音楽室の清掃と、職員室の壊れた椅子の修理を頼まれる。

 9月9日
 部活の後輩の練習に付き合う。一日くらいなら勉強の支障にはならないだろう。

 9月13日
 近所の小笠原のおばさんのパソコンが故障したと言うので見に行ってみたらLANケーブルが抜けてるだけだった。こういうこともある。

 9月17日
 今日は松井さんの御用聞きでスーパーと薬局に買い物に行く。塾には間に合ったから良かった。

 9月28日
 今日は一年生の女子から告白されてしまった。受験勉強が忙しいから、と断った。

 10月7日
 先日の実力テストの結果が返ってきた。担任から指定校推薦を勧められるが断った。】

 日記は淡々と、あまり感情を込めず書いているようだった。しかしリア充みたいな日記じゃないか。聖人君子の兄らしい。告白されてるのに取り合わないとかどこまで贅沢なんだ…。
 俺は心の中で悪態をつきながらページをめくる。
 10月8日。昨日の日付。
 これまでの筆跡と違って、荒く書き殴られていた。

【10月8日
 どうしてこんなに頑張ってるのに誰も認めてくれないんだろう】

 俺は目を疑った。
『どうしてこんなに頑張ってるのに』
『誰も認めてくれない』
 何故兄がこんなことを書く必要があるんだ? 
 兄さんは完璧な筈だろう?
 人助けとか努力とか、そういうこと自然にやっちゃうんだ。俺とは違う。
 昨日は。町内会のお祭りの手伝いをしていて、それから俺と口論になった。そんな日に、お祭りでもなく、俺を呪う言葉でもなく、自分を責める言葉を吐き出すように書き殴っていた。
 
 ひょっとして、本当にわかってなかったのは俺の方じゃないのか…?
 
 偽善でも計算でもなく、本当にただ誰かに認めてもらいたいだけだったとしたら。精一杯全て頑張った結果こうなってるのだとしたら。
 そんな筈はない。
 兄さんは何でも持ってる筈だ。勉強も運動も人望も性格も、全て持ってる。これ以上他に何が欲しいっていうんだ?
 でも、…
 俺はもう一度書き殴られた文字に目を落とす。助けを求めるような切羽詰まった筆跡。
 兄さんも、足掻いていたっていうのか…?



 俺が部屋に戻ると、ほどなく兄も帰宅したようだった。
 あの日記のことを頭の中で色々と整理していたが、10月8日の日記以外で気になったことと言えば、兄の勉強は決して上手くいってはいないということだった。
 家にいる時は必ず机に向かっているし、塾にも行ってる。T大附属は私立でも上位校だ。勉強が嫌いで、なんとか中の中くらいの都立高校に引っかかった俺とは違う…そう思っていた。
 そう思っていたけど。
 本当は、『俺が思うよりすごくはなかった』んじゃないのか。
 そして、何よりそのことに兄さん自身が気付いてしまってるとしたら。
 兄はかなり無理しているのではないか。
 本当はもう限界なんじゃないのか。
 確かにT大附属は上位校だがそれより上の学校もまだある。学校や塾でテストすれば自分より頭の良い奴なんていくらでもいるということに気が付くだろう。
 そもそも、兄は中学受験で失敗している。そこで俺みたいに、勉強なんて捨ててしまえば楽だったのに。兄は周囲への期待にそれでも応えようとした。応えようと努力し続けた結果がこれだ。
 全て持っているように見えるのに、本人は全く満たされていない、幸せでない。そんな生き方って、辛いだろうな。
 あれだけ激しく嫌悪していた兄に対して、俺は同情していた。
 


 その日、俺はゲーセンに寄らず、まっすぐ家に帰った。母親も、兄もまだいない。居間でスマホをいじってると、玄関が開く音がした。
 俺はソファ越しに振り返る。兄は俺の姿を見て少々驚いているようだった。
「…珍しいね、お前がこんな時間にいるなんて」
「俺、兄さんに聞きたいことがあるんだ」
「何?急に」
 兄さんは先日の口論がまるでなかったように振る舞う。
「兄さんは勉強辛くないの」
「…なんでそんなこときくの」
「あ、俺は勉強嫌いだけど、兄さんはなんか、ずっと頑張ってるから」
 質問に質問で返されると思ってなかったので少し狼狽える。
「辛くはないよ。母さんも喜んでくれるし」
「母さんはどうでもいい。兄さんは、どう思ってんの」
 兄はまともに俺の方を見据えてきた。
 視線に見下すような冷たさが入り混じる。
「…質問の意味がわからないな。それきいてどうしたい?」
 ああ、言いたいこと言うって難しいな。
「兄さんも自分のしたいようにすれば良いじゃん。母さんがどうとかじゃなくて」
「僕は僕がしたいようにしてるし、それをお前にどうこう言われる筋合いはないけど」
 俺が言葉を吐けば吐くほど、兄は態度を硬化させていく。
 違う、違う。俺が言いたいのはそんなことじゃなくて。
「兄さんは十分頑張ってるよ!」
「………」
「だから、そんな、自分を犠牲にしてまで頑張らなくていいと思う」
 勇気を振り絞って叫んだ本音だった。
 余計なお世話だって言われるかな。
 それとも、冷たい表情で見下されるだけかな。
 しかし、答えは予想外のものだった。
「…俺、ちゃんと頑張れてるのかな…?」
 兄は俯いていた。声も微かに震えている。
「兄さんは一番頑張ってるよ」
「俺が見てきた兄さんは少なくともそうだったよ」
 瞬間。兄は倒れこんできた。いや、抱きしめてきた。
「ありがとう…」
 いつもの兄からは想像もつかないようなか細い声で呟いた。
 制服のシャツ越しに兄の体温が伝わる。ああ、一応血が通ってたんだ。カンペキ超人の兄はサイボーグでもコンピュータでもなく、俺と同じ人間だったんだ。脳が弛緩してぼんやりとしていた。
 ほっとした表情を浮かべている兄の顔を見て、俺は確信した。
 兄さんのことを一番理解できるのはこの俺だ。母さんでも他の誰でもない、この俺だ。
 何でもできる俺の自慢の兄さん。
 俺は兄さんみたいになりたかったんだ。
 そんな自慢の兄さんの一番の理解者はこの俺だ。
 俺が一番兄さんをわかってあげられる。俺が一番…



 
 あれから。
 俺の日常は変わらない。
 変わらずにバイトに行き、ゲーセンに行って圭介と時間潰して。
 兄さんは相変わらずあちこち走り回っている。
 唯一変わったのは。
 
 コンコン。俺の部屋をノックする音。
「何?」
 俺がドアを開けると、兄は疲れた顔でもたれかかってきた。
 俺はそっとドアを閉める。そして自分よりも大きい兄の体をきゅっと抱きしめる。
「兄さんは一番頑張ってるよ」
 疲れ切った顔に、少しだけ血の気が戻る。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 それが終わると、兄は何事もなかったように部屋を出て行く。
 どうやらそれがガス抜きになっているようだった。
 まあガス抜きでも何でも良い。
 兄さんのことを一番わかっているのは俺だから。
 兄さんが少しでも救われるなら、俺はこういう役回りで良い。
 『無敵で完璧』な俺の兄さん。
 『絶対に超えられない』俺の兄さん。
 無敵じゃなかったけど。
 完璧じゃなかったけど。
 俺にとっては自慢の兄さんだ。
 
 兄さんのことを一番わかっているのは俺だから。
 他の誰にもこんなことはできない。
 兄さんを理解できるのは俺だけだ。
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