プルートーの胤裔

くぼう無学

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拈華微笑

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「おい瑞希、いつまでそこにいるつもりだ、早くこっちへ来い」
「瑞希?」
 思いも寄らないその名前に、わたくしは半分椅子から立ち上がった。
「やさしさがない、こっちは病み上がり」
 マニッシュショートの髪型に、ぴったりのブルースキニーを履いた、いかにも若者らしい女性が颯爽とこちらのテーブルまで来る。
「宮國さん……」
 美咲は、それ以上の言葉が出なかった。わたくしは、瑞希と呼ばれた女性を指差して、
「お、おい、敷島、これはどういう事だ? 宮國瑞希って、四週間前に死んだはずだろ? 天道葵の身代わりにされて、車の中で火を点けられて。新聞の記事では、即死の状態だったって」
 加藤の座っていた椅子を引いて、背もたれに右腕をひっかけ、瑞希は男の子のようにあぐらをかいた。
「勝手に殺すな」
 敷島は思わず笑って、
「宗村、君はなんて素直で、いい奴なんだ。地方紙のガセネタをまんまと信じて、こちらの思惑どおりに驚いてくれる」
「ガセネタ⁉」
 肩まで両手を上げて、同じく驚いた美咲と顔を合わせた。
「氷室は晦冥会を捨てて新宗教を派生させるシナリオを書いた」
 アメリカ人がジョークを言う時のように、オーバーに両手を広げて、
「巽は〝究極の合理性〟で国家の権力を買収するシナリオを書いた。そしてこの敷島レナは、絶体絶命のピンチから宮國瑞希を救出して、不知火への報復のシナリオを書いた。
『十二月十三日未明、一台の車が炎上、消防隊によって直ちに鎮火。車内から男女の遺体が見つかった』新聞のこの記事は、その後の不知火の足取りを把握しやすくするために、俺が捏造したガセネタだ。美咲も、悪かったな。ペンションの中で自然なふるまいが求められたから、最後まで君には明かさなかった」
 わたくしは、まさに狐につままれる思いだった。
〝警察の人は、始めっから、捜査なんてする気がなかったんです〟
 生前の高田は、警察の事情聴取について、強い不信感を抱いていた。
〝天道さんの自殺について、事情聴取を受けていて、なんて言うか、ただ単に、手際よく、事件を処理したいだけなんだって〟
〝警察も何だかおかしいんだ〟
 岸本も同じ感想を持っていた。
〝不機嫌な様子で、携帯電話越しにしきりに抗議していた〟
 確かに、ここへ来たばかりの聞き込みでは、警察の不審な態度について、みんなわだかまりが残っていた。それは、実は、以下のような背景があったのではないだろうか。
 地方紙の紙面に、ガセネタが報道された。これにより、警察の事情聴取において、警察と関係者の間に、被害の軽重から来る温度差のような物が生まれた。それを埋め合わすのに、刑事たちは大変苦しんだ。天道葵と思しき救助された女は、奇蹟的に一命を取りとめた (救出活動に参加した消防団の話は正しかった)。にもかかわらず、一般市民の間では、敷島のガセネタ報道によって、天道葵は即死だったとされている(今の今まで、わたくしはこれを信じていた)。この、警察と一般市民との認識の乖離が、事情聴取の中で大きな違和感として残り、関係者の間で不評、不信感に繋がった。
 あぐらを組んだ瑞希の足に、視線を誘われながら、
「どこからが本当で、どこからがガセなんだ?」
「新聞に掲載された内容が、ガセだ」
 前髪をつまんで、毛先を見つめながら、敷島。
「四週間前、心中事件によって、天道葵と木原正樹の二名が焼死した」
「ガセだ」
 わたくしは眉をひそめて、
「心中事件は、実は、天道葵の方が奇蹟的に助かって、焼死したのは木原だけだった」
「それが真実だ」
 窓の外、カーテン越しに、車のヘッドライトのような光が射して、右から左へと動いた。祠に面した窓だ。
 沈黙を破って、横から美咲が口をはさむ。
「宮國さんは当時、この地に訪れて行方不明人の捜索業務に当たっていた。そして、捜していた不知火の足取りをつかみ、山中にある晦冥会の祠で、不知火忍という名を口にした」
 大きく足を組み直して、敷島は、
「そこは間違いない。背後から本名を呼ばれた不知火は、自分の素性を暴いた何者かに、強い危機感を抱いた。危機感は、本能的に相手をねじ伏せ、そのまま瑞希を祠へ幽閉した。そして、瑞希の本当の目的と、STGの社員だという身分も分かり、そこで不知火は、祠の扉の暗証番号を解読すれば、自由を約束すると、解放の条件を提案した」
 台本の読み合わせをするように、美咲は後を継いで、
「それから宮國さんは、扉の暗証番号、ウランとプルトニウムの元素記号の組み合わせによって、扉を開錠して見せたが、すぐにまた施錠、扉は開けるな、ここから立ち去れ、こう相手の身の安全を熱望した。これを受けて不知火は逆上、宮國さんは数回殴られて、その場に転倒、相当な被爆もあって、意識を失った」
「そこが違う」
「どこが違うって?」
 わたくしはテーブルに身を乗り出した。
「瑞希は意識を失った、というのではなく、失った〝ふり〟をした、という事だ。天道と木原の心中自殺に、自分の体が使用されること、それを意図して」
「ば、馬鹿な!」
〝バン〟とテーブルを叩いて、瑞希に人差し指を突きつけた。
「彼女は祠に幽閉されていた。それなのになぜ、天道葵と木原正樹の心中自殺の計画を知っていたんだ? 不知火がわざわざ、お前の体を心中事件に利用する、だなんて言うわけがない」
 敷島は、明後日の方向を向けて、
「瑞希、どうやら納得がいかないらしい、説明してやってくれ」
 わたくしの突きつけた指に、より目になった瑞希、いかにも物臭そうに、かりかりと頭を掻いて、
「簡単な話。不知火は、扉の暗証番号を解くために、した、あたしの晦冥会の質問に答える中で、当時の不知火脱獄計画の主犯である木津毅、そいつをなぜか蛇蝎のように嫌っていた。〝あんな奴〟こう言って、足手まといであるかのように顔をしかめていた。それは一つの違和感としてあたしの目に映った」
 違和感? 少なくともわたくしは違和感がなかった。
「木津毅は、一年半前、氷室の暗号を受け取って、直ちに禁牢施設へ急行、不知火が幽閉された永久瞑想の間の鍵をあけた。煙幕の中を疾駆して、危険をかえりみず、自らも逃亡の道を選んだ木津は、不知火にとって恩人と呼べる存在。その後は晦冥会から逃亡、それっきり、木津は東北、不知火は北陸、ふたりは方々へ散って、それから一年半、完全なる雲隠れの生活に入った。その間の仲間との連絡はご法度、という暗黙のルールがある中で、いったいどうやって不知火が木津を嫌うストーリーが存在したのか。
 そこであたしは、この件について一つの仮説を立てた。その仮説とは、ひょっとしたら今、木津がこの地に来ているのではないか、というもの。バイフーは、すでに二名ほど不知火の返り討ちに遭っている。となると木津なんて、まんまとバイフーに追われて、各地を転々と逃げ惑っていてもおかしくはない。次々に暗殺者が忍び寄って来て、木津は、最終的にどうしたか。その結果は一つしかないように思う。それは、命からがら不知火に泣きつくというもの。新しい偽名を使って、ペンションに逃げ込んで、寄らば大樹の陰、といった調子で。だから不知火は、彼の事をお荷物のように言って、たいへんうっとうしく、顔をしかめた」
 瑞希の話に聞き入ってしまって、全く異論が浮かばない。
「あたしはその仮説を実証するため、不知火に、ペンションの宿泊名簿の写しを頼んだ。暗証番号を解くためだと言ったら、不思議がらずに持って来てくれた。その名簿の宿泊者たちの情報を見て、あたしは、短期間滞在している一人の男に目をつけた。それが木原正樹」
「ちょっと、待ってくれ。どうして名簿を見ただけで、木津が木原だと」
 わたくしの素朴な質問に、瑞希は右手で顔を覆って、まるで馬鹿な子供を相手するように、
「これから話すから。宿泊者名簿は、旅館業法によって、正しい氏名と住所を記載しなければならない。万一法定伝染病に関わる客が宿泊した場合、その追跡ができるよう、特に食品や温泉を扱う宿泊業に対して、保健所はとにかく口うるさい。ペンションの場合でも、衛生上の管理義務が生じ、これらを遵守しているからこそ、旅館業の許可を得ている。だから木津も、宿泊者名簿に氏名と住所を書かないわけにはいなかい。偽名は簡単、適当に嘘を書けばいい。住所は、まあ、やや面倒であっても、適当に、何とかそれらしく書ける。そこへ来て郵便番号は、難しい。木津は、どうやら馬鹿な男だった。郵便番号までも適当に書いた。〝537―0021〟郵便番号の上二桁は地域番号と言って、都道府県を表す。東京都は10から20、滋賀県は52、だけど53なんて、割り振られた都道府県は存在しない。宿泊者名簿に記載された客の情報の中で、木原正樹だけが、架空の郵便番号を書き残していた」
 敷島は長い髪を手ぐしで梳いて、つかんで、髪の毛で遊んでいる。敷島のやつ、とんでもない優秀な部下を抱えていやがる。瑞希は頬杖をついて、
「これを受けて木津毅は、木原正樹という偽名を使って不知火の働くペンションに宿泊している可能性が高くなった。天道葵という存在の不要性、木津毅という足手まといで邪魔な存在、二人を同時にこの世から消したい、こう不知火は、あるいは氷室は、考えるはず。そして、極めつけとなったのが、こっそりあたしの髪の毛を集めている事だった。これが、これから起きようとしている、謎の心中事件を明白に物語っていた。
 不知火は、天道葵と木原正樹を同時に消す、それは心中自殺というかたちが都合よく、さらに身元が判明しづらい、焼身自殺が最も効率的。意識のないあたしと、睡眠薬で眠らせた木原、この二人の体を車に乗せて、灯油を撒いて、火を放つ。恋人同士の心中自殺。その後で、毛根鞘のDNA型鑑定用に、住み込みの自室にあたしの髪の毛をばら撒く、遺体の歯牙鑑定用に、歯科治療データのすり替えを行い、死後歯科データのスクリーニングによって、あたかも天道葵が死んだように見せかる」
 わたくしは、瑞希からこのような説明を受けて、心から納得した。その上で、次のような質問をした。
「でも、どうして君は、一人だけ生き残る事が出来たんだ? 灯油を撒いて、火を放った、八熱地獄のような車内で」
 この質問に対しては、敷島の口から回答があった。
「不知火は車内に火を放った。その瞬間、瑞希は、ドアが開かない、サイドガラスも動かない、逃げ場がない事を確認した後、耐火耐熱素材のジャケットのチャックを下ろして、頭まですっぽりかぶって、後部座席の足元にうずくまった」
 わたくしは口を開けて、なにか言おうとして、それでも、言葉にはならなかった。敷島は続けた。
「晦冥会の祠の中で、瑞希はきっとこう思ったはずだ。不知火忍から逃げられるチャンスは、木原と自分が焼身自殺を仕掛けられるその瞬間しかないと。焼身自殺を仕掛ける瞬間には、二人が心中自殺をしたと見せかける関係上、手首の結束バンドが外されるだろうし、火を放った不知火は、目撃者の発生を恐れて、即刻現場から立ち去る。逃げるなら、この時しかない」
「だけどさ」とわたくし、
「耐火耐熱のジャケットをかぶって、後部座席の底へうずくまって、それで、どうする? 火の手に気付いた近隣住民が、消防へ通報、消防車両が五分で駆け付けたとして、少なくとも十分以上は炎と煙の車内に閉じ込められる事になる。車内に充満した煙を吸っただけでも、窒息死してしまう」
 大きく両手を広げた敷島、そのまま頭の後ろで指を組み合わせて、
「そうだな。宗村の言う通り、そのままでは、瑞希は煙を吸って中毒死するだろう。そのとき敷島レナが助けに来なければ、な」
「え?」
 わたくしの視線を受けながら、敷島は続けた。
「雪空のもと、明々と燃えさかる一台の車、俺は瑞希の名前を叫んで、緊急脱出用ハンマーを振りかざすと、後部座席のサイドガラスを割った。そして、吹き出す煙に体を突っ込んで、瑞希の体を探し出すと、そのまま彼女の体を抱いて、車外へと引きずり出した」
「心中自殺の現場に、君が? え?」
「心中事件の身代わりにされようが、どんなひどい目に遭わされようが、とにかく一回、秘密の祠から出さえすれば、瑞希には勝機があった。勝機、それは、必ず俺が助けに来てくれるという、確信。だから、意識を失ったふりをした。
 おっと、慌てるな、順々に説明する。ではなぜ瑞希は、必ず俺が助けに来るという確信があったのか。それは、瑞希が行方不明になって、俺が血眼になってその行方を追っているという事を、疑わなかったからだ。瑞希は担当業務の初日、ここ、M高原の周辺を歩いて、聞き込みしたのを最後に、所在が分からなくなった。必ず、我われSTGは、その情報収集能力の総力を挙げて、瑞希の足取りを追うはず。駅や観光地のライブカメラの映像や、市の防犯カメラの映像、交通機関の乗客数のデータ、ドライブレコーダーの映像、宿泊施設の宿泊者名簿、インターネットから得られるありとあらゆる情報を収集し、瑞希及びそれに近い女性に該当するデータを全て洗い出す。だが瑞希は、晦冥会の最高機密の祠に監禁されている。民間企業の、社会的規範に縛られた俺たちは、手も足も出ない事が分かって来る。そこで俺は、STGの取締役としてではなく、一個人として、単独行動に出る。瑞希の足取りを追うのではなく、考え方を変えて、こちらから打って出る。岸本のペンションでバイトをしている天道葵、そいつに目をつけて、彼女の行動を徹底的に監視する。天道が瑞希の失踪と深く関わっている事は、割と早い段階から分かっていた。瑞希が捜索業務にあたっていた行方不明者、その相手とは、不知火忍であり、そいつは晦冥会から逃亡中で、天道葵という偽名を使っていたのだからな。祠の外の世界で動いている、俺たちの動きは、瑞希の想定の範囲であり、四週間前の深夜、天道と木原が車に乗って出て行く、それを俺が見張っていて、尾行して、心中現場の近くから待機している。そして、車内が発火したと同時に、必ず俺が助けに来てくれる、瑞希は俺のやり方に詳しかったし、それを確信して疑わなかった、という事だ」
 宮國瑞希の命が助かった経緯、その敷島の告白に、わたくしは圧倒されていた。その様子を眺めて、敷島は、
「瑞希の救出には成功した。しかし、耐火耐熱のジャケットにくるまっていたとは言え、瑞希は高熱の中で煙を吸い、ぐったりして、俺の呼び掛けにも答えられない意識不明の状態だった。消防車両と救急車、それに消防団が押し掛けて、瑞希はN県立中央病院に救急搬送された。ERでは重症と診断され初期治療が行われて、すぐにICUへ運ばれた。複数科での管理が必要と判断されて、そのまま警察の管理下のもと入院となった、本件の重要参考人として」
「N県立中央病院? あー、それじゃあ昨日、石動刑事に連れられて、お見舞いに同行した病室、そこで意識不明の状態で病床にあった女性って」
〝第Ⅲ度熱傷及び気道熱傷。彼女はバイフーの卑劣な放火によって焼死しかけたのです〟
「瑞希だ」
 わたくしはハッとして、昨日、心中自殺の現場で発見した、リップストライプ構造のカーキ色の生地を思い出した。ライターの火であぶっても、容易に燃えない、今にして思えばそれは、耐火耐熱のジャケットの一部で、さらに瑞希のベッドサイドの床頭台に、病人の私服として畳まれた、ジャケットの一部だった。
「そういう事か」
〝石動さんでしたら、昨日の総合病院にいます。つい先程、バイフーの被害女性の意識が戻ったそうです〟
 不知火の放火の後で、羽賀は、石動刑事の不在をこう説明した。
「四週間も意識障害にあって、ほんの今日の午後、彼女は回復して、そしていま、俺の隣に座っている。ああ、何だかしっくりと来た。消防団が見た生存者の件も、すっきりした。敷島は、一週間前、岸本から相談されるもっと以前から、この事件に関わっていたという事か」
 頭の後ろで手を組んだまま、敷島は、ゆっくりとわたくしの顔を見据える。
「君もな」
「へ?」
 そこで割って入って来る美咲。
「あの、敷島さん、ガセネタの件なんですが、地方紙の紙面に、嘘の記事を掲載するだなんて、よくそんなの警察が許可しましたね」
 ニタニタと妙な笑みを浮かべて、敷島、
「しないさ。するわけがない」
「ええっ!」
 美咲の驚いた声に、向かいのテーブルの、話し込んでいた加藤が振り返った。
「報道機関にウソの情報を流す、そんな事、県公安委員会の管理下にある県警が許したら、重大な問題になる。あいつら、ああ見えて公務員だから、仕事は固い。クソ真面目で、まったく融通が利かない。そのくせ、自分たちに都合の悪い事には、知らぬ顔の半兵衛というやつさ。だから今回、その特性を逆手にとって、俺の独断と偏見で、虚偽報道に踏み切った。消防士が出動した自損放火とは言え、地方も地方の小さな心中事件、火災の映像が撮れなかったテレビ局は、一切取材はなし。それでもたった一社、M新聞社の新米記者が、心中現場に顔を見せたから、そいつをつかまえて、事実とは異なる情報を教えてやった。俺が警察の関係者だと口にしたら、そいつは喜んでメモを取り始めた。こうして捏造された記事は、朝刊の隅に掲載されて、地域の住民、そして不知火忍に捏造された情報を与えた。一部人間の間では、取材ミスだと新聞社に問い合わせがあったらしいが、もう遅い。警察はその立場上、一連の捏造報道については、いっさい触れず、天道葵の二つの安否について、不問に付すという対応に徹した。もしもの時は、初めから虚偽であることを認識した上で、架空の報道を広めた、この俺に全責任を負わせ、警察の体裁は守られる。それでいて、不知火の行方は追いやすくなる、とまあ、こんな道筋をつけてやったのさ。被害者には遺族はおらず、ガセネタに対して抗議してくる者は一人もいなかった。刑事たちも、俺のやった事に対して、紛糾する者はいるが、こうでもしない限り、犯罪歴史史上最悪の不知火忍を捕まえる事ができないと、本心では認めていた」
「なるほど、それによって世間一般的には、天道葵という女性は心中自殺で死んだ。晦冥会にとっては、不知火忍は逃避行のすえ焼身自殺という末路を迎えた、というガセネタが広まった、というわけか」
 深く納得するわたくしの隣で、瑞希は、顔をそむけて、大きなあくびを見せた。そんな事にはお構い無しの敷島、平気で話を続ける。
「こうなると不知火は、たいへん動きやすくなる。晦冥会のバイフーや、刑事たち、ペンション関係者らは、天道葵という存在が亡くなったものとして、全く意識しなくなる。いわば、透明人間にでもなった気でいたはずだ」
〝犯人は今や自分が透明人間にでもなった気でいる。犯人として誰からも意識されない透明な状態なのだから、今や君たちの回りを自由に行動している〟
 敷島は昨夜、こう電話口で言っていた。わたくしは、あーなるほどと手を打ち鳴らして、
「そして、氷室の命〝巽降ろし〟の計画の、次のステップに駒を進めた、というわけだな。ああ恐れ入った。君は今回の一件を、囲碁に例えていたが、まさにその通りだ。碁盤はこのペンション、君は遥か遠隔の地から、見えない棋士、不知火忍と競り合いを繰り広げていた。なかなか君が姿を現さない事で、不知火の石の働きが悪くなり、無理手が増えて行った。本当に、俺みたいな凡人にとっては、君の話について行くだけで精一杯、囲碁で言えば俺なんか、カス石のような存在」
 敷島は、男性棋士に勝ち越した、天才女流棋士のように、不敵な笑みを浮かべて、
「そうでもない。君の事を俺は、四方に睨みを利かせる〝天元〟に例えた。そこを君はまだ分かっていない。君のその存在の重要性が」
 話の途中、椅子を蹴って、瑞希は立ち上がった。乱暴で、いかにも何の前触れも無かった。
「イラつく」
 もどかしそうに、大きく前髪を掻き上げて、わたくしの眼前に立ちはだかった。そして左手を振り上げて〝ぴしゃり〟、わたくしの頬に平手を食らわせた。
「宮國さん!」
 思わずテーブルに身を乗り出す瑞希。刑事たちの話し声が止まる。両手で頬を押さえ、わたくしは痛みに言葉を失う。
「ずっと我慢していたけど、無理。一発あんたをぶん殴らないと、こっちの気がすまない」
「瑞希」
 目を閉じて、左右に首を振って、静かに窘める敷島。
「ってえ、いきなり何するんだ!」
 ガタンと椅子を飛ばして、わたくしは対抗して立ち上がった。
「痛い? なら良かった。その痛み、覚えておくこと。それだけ太古秀勝に似ているんだから、その分、埋め合わせてもらう。あたしはね、あのクソ男に、腸わたが煮えくりかえる思いなんだ」
 ペッと唾を吐きかけるように、言って、ドスドスとむかっ腹の足音を立てて、食堂から出て行った。
「瑞希!」
 思春期の娘を呼び止めるように、敷島は鋭く呼び止める。
「ッたあ。敷島ぁ、なんで俺はビンタされなきゃならないんだ!」
 口の中を舌でなめ回した。あまりの痛さに、口の中を切ったと思った。
 敷島は深いため息を吐いて、
「すまんな、宗村。瑞希は、正義感の塊だ。ましてまだ青い。彼女は太古秀勝という男を調べて、彼が女の敵のような存在だと知った。曇り無き、清々しい目に映った彼の姿は、決していい大人ではなかったようだ。瑞希は、太古秀勝のバックグラウンドを調べている中で、その純心に激しい軽蔑を感じた」
「だから、それは俺ではなく」
 敷島は手のひらを上げて、わたくしの反論を制した。
「いや、瑞希は、君の中にも同じものを感じ取ったのかも知れない。なぜならあいつは、ずっと君に会いたがっていた。本件のキーパーソンである君に、な。強い興味を抱いて、実際に会ってはみたものの、その興味はあっけなく裏切られた、そんな感じかも知れない」
 わたくしは、相手から訳も無く嫌われた、歯がゆさ、もどかしさがあった。それはまるで、満員電車で痴漢に間違われる気分だった。抗議しようにも、どいつもこいつも何一つ根拠がない事に、空しさを痛感して、むっつりと頬を膨らませて椅子に座った。
 そこへちょうど、慌ただしく食堂に入って来る女性の姿。冷えたファーストダウンの襟を立て、食堂の室内を広く見渡す、羽賀刑事だった。
「すいません、久慈理穂さんの保護者の方はおられますか?」
 羽賀は、中学生の少女と一緒で、緊急を要していた。わたくしは、その少女の顔を見て、思わず椅子から立ち上がった。
「りお!」
 羽賀が連れて来た少女とは、透視能力者で、わたくしと美咲、それから不知火の命を救った、久慈りおに間違いなかった。
〝おじさん、すいません。わたしちょっと、失敗しちゃったみたいです〟
 力を使い果たした顔に、何とか笑み作る。
〝決してわたしの後を追い掛けたりしないで下さい。しばらくわたし一人でいれば、なんとかなりますから〟
 命を懸けた美咲の透視、それを使っての〝ちょっと〟失敗、闇の世界からやばい奴に追われて、最悪の状況から帰還した、小さな英雄。いまわたくしが一番会いたかった、それこそ会って抱きしめて感謝を伝えたかった、久慈りおとの再会だった。
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