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46話 『袋の中から溢れる未来』
しおりを挟む穏やかなピンク色の壁紙が、優しげに空間を包んでいる。だけど、その温もりすら、今の俺には居心地が悪かった。
女の人ばかりのこの空間に、男の俺が1人でぽつんとここに立っているのが、どうしようもなく浮いて見える。受付カウンターに並ぶと、優しい表情をしたスタッフが俺に声をかけた。
「お名前をお願いします」
「……鷹居水都です……あの……初めてきたんですけど……」
「……鷹居、さんですかね……?」
俺の名前を聞いて、僅かに声のトーンが変わった気がして、胸の奥がざわつく。その後、慌ただしくパソコンを操作しながら、「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へと消えていった。
「……なにかまずかった? 父姓の方が良かった、とか……?」
思い返す、昔の記憶ーー。
俺の母親は、物心がつく前に亡くなった。父親はそのあと、まるで俺なんていないかのように、何もしてくれなかった。
そんな俺を育ててくれたのが、母の姉ーー叔母夫婦だ。
母の家系は、代々『婿を取って家名を継ぐ』伝統がある。母も、叔母も、それぞれに婿を迎えて、名字を守ってきた。
だから、俺の名字も、育ての親である叔母夫婦のもの……とはいえ、名字は母の時から継続しているようなもの。
戸籍上は、新しい家族として迎えられた形だけれど、正直、内心は複雑だった。
そう、俺は、もうずっと、この名字で生きている。
なのにどうして、たった一言、名乗っただけで、こんな反応をされるんだよ。そんなに『鷹居』に何かあるの? ねぇ、誰か教えてよ。
目線を落とし、Tシャツを裾をぎゅっと握り、スタッフが来るのを待つ。しばらくして、年齢を重ねた優しい顔立ちの女性が、姿を現した。
「……水都くんかい? 待たせたね」
「?? ……はい」
「こっちだよ」
案内されるまま、奥へと進む。ある診察室の扉が静かに開き、中へ誘導された。カーテンの隙間から柔らかな陽の光が差し込み、不安な気持ちが少しだけ、ほぐれたような気がした。
診察が一通り終わると、白衣の袖を整えながら、目の前の医師はにっこりと微笑んだ。
「君のお母さんもよくここへ来ていた。あの時の子がこんなに大きくなって……」
「そう……なん…ですね……あの……結果は……」
「……オメガ反応、出ているよ」
その言葉に、一瞬、時が止まった。オメガ反応……? それって? 医師は穏やかに、でもはっきりと続けた。
「妊娠、おめでとうございます」
心臓が跳ね上がった。でもこれは喜びじゃない。ただの混乱と、どうしようもない恐怖。頭の中にあるフレーズが刺さる。
ーーできてしまった。
ふと、綾明の顔が浮かぶ。『ちゃんともらってよ』あの誕生日旅行の夜、そう、綾明さんに言った。だけど『使用人の自分が、綾明さんの子供を?』
そんなの、受け入れてもらえるはずがない。白峰の言葉が脳裏に蘇る。俺は、格式も財力もない、ただの使用人だ。こんなの……どうするんだ……?
「……ありがとうございます」
掠れた声でそう言って、立ち上がる。手元に渡された、妊娠確定の診断書と、母子手帳の案内……それが、妊娠を現実だと余計に突きつけてくる。
病院から受け取った書類の入った紙袋を持つ手が震え、袋の紙がカサカサと擦れたーー。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
屋敷に戻ったのは、日が暮れかけた頃だった。玄関ホールへ入ると、すぐに綾明が俺を出迎えた。今日、夜に帰ってくるんじゃなかったの……?
「水都……! 1人で病院に行ったと、菫さんから連絡が来て」
羽織もせず、ネクタイも緩めたまま、綾明は走るように俺の元へ来た。俺は咄嗟に紙袋を後ろへ隠す。
綾明の視線が一瞬だけ、俺の手元を掠めた気がして、心臓がぎゅっと縮こまる。
「あ……えっと……ちゃんと菫さんの許可を頂き……」
「……あんまり1人でどこでも行っちゃダメだよ」
「……うん」
顔を上げて、綾明を見ると、綾明が俺に触れようと手を伸ばした。思わず、その手を防ぐ。
「あっ…嫌だった……? ごめんね」
「…ちがっ……そんなんじゃ……っ…」
「いいんだ。気にしないで。今日は産婦人科に行ったのだろう? どうだった?」
綾明が薄く微笑み、俺を見つめる。綾明さんは俺のことを心配している。だから、きっと、今日も予定より早く帰ってきたに違いない。けれど、その優しさが今は、痛い。でもやっぱり……。
(言えない……)
「……ただの……体調不良、だった」
頬がひきつる。吐きそうになるのは妊娠のせいじゃない、罪悪感のせいだ。綾明はそんな俺の様子を見て、疑いの目を向ける。
「本当に?」
「……オメガはホルモンのバランスとか崩しやすいからね! そういうので疲れやすかったり、体調不良になったりするみたい!」
「……そうなんだ、良かった……」
心なしか少し残念そうにしているようにも、見える。いや、都合よくそう見ようとしているだけかもしれない。
綾明の目を誤魔化すように、わざと明るく振る舞う。そして、話を逸らしたくて、片手で綾明のシャツを掴んだ。
「どうしたの?」
「…えっと……その……」
「何かあったら、ちゃんと言うんだよ」
「……はい」
綾明が俺を見つめ、柔らかく笑うと、優しく口付けた。でもその視線は俺ではなく、どこか違うところを見ている気がした。
「……水都」
「なに?」
「……やっぱりなんでもない」
その言葉の奥に、何かを押し殺すような気配を感じた。まるで、俺と同じようにーー。
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