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79話 『ただいま、と言える場所』
しおりを挟む診察室を出ると、朝よりも陽射しが強くなっていて、眩しさに思わず目を細めた。十月の風が、わずかに冷たさを含み、病院のエントランスをゆっくりと吹き抜けていく。
街はいつものように動いているのに、不思議と、俺たちのまわりだけ時間の流れが違って感じられた。
隣では綾明さんが、手を繋いだまま歩幅をぴたりと合わせてくれて。その何気ない仕草が、今はひどく胸に沁みた。
無言のまま外に出ると、綾明がふと立ち止まった。
「……水都」
名前を呼ばれて顔を上げると、綾明さんの瞳に、濡れた優しい光が宿っていた。
「全部、現実で……すごく怖いことだと思う。でも、だからこそ、一緒に乗り越えたい。僕は、君と。君の身体と、君の命とーーそれから……」
繋いでいた手に、綾明さんがそっと力を込める。
「君のおなかにいる、この小さな命と、瑞希と。全部、まるごと一緒に生きていきたい」
その声は、まっすぐで、静かで、あたたかかった。
元使用人で、没落した家の出で。何も持っていない俺に、綾明さんは、こんなにも真剣に、向き合ってくれる。
この人を、俺も心から愛している。だからこそ、耐えていた本音が、堰を切ったように零れ落ちた。
「……俺、こわいよ……すごく、こわい……」
涙が頬を伝う。
「身体のことも……赤ちゃんのことも……この先どうなるかも……全部、分からなくて……不安で……」
喉が詰まって、言葉を絞り出すのがやっとだった。
「……でも、綾明さんが、そばにいてくれるから……俺、ちゃんと頑張りたい。この現実から逃げたくないって……今、本当に、そう思ってる」
「水都……」
その瞬間、綾明さんがふわりと俺を抱きしめた。背中にまわった腕が、すべてを包み込むように優しくて。
この人なら、何も言わなくても、全てを受け止めてくれる。そう、思えた。
「大丈夫。僕が、必ず守るよ」
囁かれた言葉に、ぎゅっと目を閉じる。胸の奥に、ひとつの決意が生まれた。
ーーこの命を、大切に育てたい。
この人と、一緒に未来を選び取っていきたいと、強く思った。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
扉が静かに開いて、見慣れた屋敷の空気が頬を撫でる。秋の匂いが少しだけ混じったそのぬくもりに、なんだか少しだけほっとした。
リビングの奥から、小さな笑い声が聞こえた。
「だあっ! きゃっ、あ~~っ!」
瑞希だ。
きっと、菫さんと遊んでいるのだろう。少し遅れて、おもちゃのにぎやかな音と、菫さんのやわらかな声が重なる。
「おかえりなさいませ、お二人とも」
リビングに入ると、菫が顔を上げて微笑み、手を止めた。
瑞希は床に座っていたかと思うと、俺たちの気配に気づいたのか、小さな手足をばたばたさせて、ハイハイでまっすぐこっちに向かってきた。
「……あっ、来てくれてる!」
思わず笑ってしゃがみ込む。瑞希が目の前にたどり着くと、両手でぎゅうっと俺の服を掴んだ。
「まあ~~っ!!」
「ただいま、瑞希」
ふわりと抱き上げたその体は、あたたかくて、やわらかくて、間違いなく『今』を生きている命だった。
隣で綾明さんが、そっと小さな頭に手を添える。
「……瑞希、いい子にしてた?」
「ぱあ~~っ!」
「水都!! 聞いた?! ぱぱって言った……!」
「聞いてた!! 瑞希、すごいぞ~~!」
瑞希は「あばっ!」と何か言って、にこっと笑った。
……笑ってくれる。それだけで、気持ちが救われる。
瑞希を抱いたまま、リビングのソファに腰を下ろして、ゆっくりと息を吐いた。
「ねぇ、綾明さん」
名前を呼ぶと、すぐに隣に腰を下ろしてくれる。その距離が、何よりも心強い。
「俺、さっきも散々怖いって言ったのに、やっぱり怖さは消えなくて。今も、ちゃんと治るのか不安でいっぱいで……」
でも。
腕の中に瑞希がいて、隣に綾明さんがいて、奥では菫さんが静かに気を配ってくれていて。
「……怖いけど、みんながいるから、頑張れるし、頑張るよ……!」
言葉にした瞬間、胸の奥があたたかさで満ちていった。綾明さんは静かに微笑んで、俺の肩に手を置いた。
「うん。……乗り越えよう、水都。僕たち、家族で」
肩がぎゅっと抱き寄せられた。
「おかえり、水都」
耳元で囁かれたその声は、どこまでも優しくて。俺と瑞希の存在を、丸ごと包んでくれている気がした。
「ただいま、綾明さん」
涙を浮かべて笑う俺の額に、綾明がそっと口づける。
「……瑞希も、ただいま」
そう言って、綾明が瑞希の額にも優しくキスを落とす。そのぬくもりが、心の奥にじんわりと沁み込んでいく。
夜は静かに降りてきていて。そのあたたかさは、確かに光となって、俺たちを照らしていた。
それは、家族として生きていくための、あたらしい夜の始まりだったーー。
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