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100話 『やさしい死神の手を握って』
しおりを挟むサイレンの音が遠ざかる中、僕はただ、水都の手を、ぎゅっと握りしめていた。
救急車の中で何を話したのか、もう思い出せない。ただ、酸素マスクを当てられた水都の顔が、あまりにも静かで、それが、怖かった。
「大丈夫……大丈夫だから、水都。ね、大丈夫だよ……」
そう言うしかなかった。
必死に繰り返して、祈るように手を握って、それでも心はどこか沈んでいく。手のひらにまだある水都の体温が、今にも消えてしまいそうで、怖くてたまらなかった。
病院に着くとすぐに、スタッフたちが水都を処置室へと運んでいった。僕の手元には、脱がされたばかりの水都の上着だけが残った。
……なんで?
つい、さっきまで、笑っていたじゃないか。雛人形が可愛いって、瑞希が喜んでいたって、家族って、幸せだって……言っていたのに。
あんなふうに、嬉しそうに笑っていたのにーー。
「坊ちゃん……!」
振り返ると、菫が駆け込んできた。腕の中に瑞希を抱え、ベビーカーには明織がいて。息を切らしながら、僕を見つめた。
「水都さんは……?」
「処置中……まだ、わからない」
声が震えた。笑おうとしたけれど、顔がひきつっただけだった。菫はそれ以上何も言わず、ただ僕の隣に座ってくれた。
「まんまは? おひなしゃんは?」
瑞希の小さな声が、やけに胸に響く。屈託のないその表情が、今はあまりにも残酷で。唇を噛み締め、瑞希の頭を撫でた。
「……お雛さんは、また今度ね」
ーーこの子たちは、まだ、何も知らない。
目の前にある日常が、壊れてしまうかもしれないなんて、思いもしていない。当たり前のこの幸せが、明日も続くと信じている。
……だからこそ、怖い。
こんな無垢な世界が、壊されてしまうなんて。
ーー許せない。
そんな未来を、僕は絶対に許せない。守るって、決めたんだ。水都と、瑞希と、明織とーーこの家族を。
「藤浪綾明さんですか?」
唐突に呼ばれ、顔を上げる。処置室の扉から現れた医師が、落ち着いた声で僕を見た。
「ご家族の方ですね。検査の結果についてお伝えしたいことがあります。こちらへ」
菫がそっと、瑞希の手を握る。僕は黙って頷き、診察室の扉を開けた。
機械の音もない、静まり返った診察室は、壁掛けの時計の針が、大きな音を響かせていた。医師が、一枚のCT画像を取り出し、ゆっくりと話し始めた。
「水都さんは……過去に子宮の手術を受けられていますね。その際に説明があったかと思いますが……今回の呼吸困難の原因は、肺への多発性の転移によるものです」
……転移。肺。多発性。
一語一語が、氷みたいに冷たく胸に降ってくる。
「状態としては……かなり厳しい状況です。呼吸器にすでに影響が出ており、今後は症状の進行と共に体力の低下が予測されます」
「……助かる可能性は?」
「……申し訳ありません。根治は、もう……難しいです」
静かに、しかし容赦なく告げられる現実に、世界が、音を失ったようだった。
それでも僕はまだ信じられなかった。そんなはずはない。今朝、水都は笑っていたんだ。雛人形を並べて、子どもたちと話して、僕に「幸せだ」と、言っていて。
それが、終わってしまう?
ーーそんなの、嘘だ。
「延命治療という選択肢はあります。ただし、それも数ヶ月……半年ほどが目安となるかと……。もちろん、ご本人とご相談のうえでの判断になりますが……」
半年。
……あと、半年。
たった、それだけ。
言葉が、胸の奥へ重く沈んでいく。
「……会えますか、水都に」
「はい。意識はあります。落ち着いて、短時間でお願いします」
立ち上がる足が、ひどく重かった。けれど、今すぐに水都に、会わなければならなかった。
水都の手を、もう一度、この手で、握るためにーー。
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