109 / 122
109話 『小さな箱に詰めるもの』
しおりを挟む縁側に座ると、陽射しが木漏れ日になって降り注いだ。夏のはじまりの光は、どこか柔らかくて、細い肩を優しく撫でているようだった。
水都は淡い水色の浴衣に着替え、膝にタオルケットをかけたまま、縁側の柱へもたれていた。
庭では瑞希と明織が、声を上げて遊んでいて。その様子を見つめながら、水都は静かに微笑んでいた。
「……風、気持ちいいね」
掠れた声だった。
でも、その声はどこか澄んでいて、美しかった。僕は水都の隣に座り、彼のために淹れた冷たい麦茶のグラスをそっと手渡す。
「無理、してない?」
「してないよ。ただ……ちょっと歩くと、すぐ疲れちゃって。……ごめんね、情けないな」
水都は笑いながら受け取ったけれど、その手は微かに震えていた。
「ううん、謝らないで。水都がそこにいてくれるだけで、僕は十分なんだ」
水都の髪をそっと撫でる。陽射しが触れて、その髪がきらきらと揺れた。
庭の方で、瑞希が転び、明織がそれを見て笑っている。水都はその光景に目を細め、眩しそうに瞬きをした。
「……あの子たちに、もっといろんなものを見せてあげたいな」
その呟きを聞いて、ほんの一瞬、視線を落とす。そして、ポケットに忍ばせていた小さなメモを取り出しながら、そっと言葉を継いだ。
「……水都」
「ん?」
「海の近くに、避暑用の別荘があるんだ。昔、父が使っていた場所で、今は誰も使ってないんだけど……」
言葉を一度切って、水都の手を取った。冷たくて、でも確かに生きているそのぬくもりに、指先が震える。
「……水都の誕生日、そこで過ごさない? 君と、子どもたちと一緒に。最後の夏を、最高の思い出にしたいんだ」
水都は、目を見開いたまま、しばらく黙っていた。やがて、ひとつだけ瞬きをして、視線を空に向けた。
「……うん、いいね。それ」
ちりん、と風鈴が鳴る。蝉の声が、遠くの木々に紛れて響いた。
「海、見たいな。広くて、青くて、果てのない場所。……それに、初めて二人で旅行に行ったところも海だもんね」
「瑞希と明織にも、見せてあげよう。パパとママの、思い出の場所だって、話してさ」
水都は、こくんと静かに頷き、僕の肩へ、そっと寄りかかった。
「……じゃあ、準備、手伝えないけど、任せるね」
「うん。全部、僕がやる。君は……ゆっくりしてて」
肩に寄せられたその体温は、前よりも少しだけ冷たくて。けれど、胸の奥は不思議なほどあたたかかった。
この日差しも、風も、音も。
何もかもが、記憶に焼きついていくようだった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
*
旅支度が進むリビングの片隅で、俺は大きなクッションにもたれて、穏やかに笑っていた。
目の前では、綾明さんがスーツケースを広げ、子どもたちの服や日用品を丁寧に詰めている。
瑞希と明織が騒ぎながら「これ持ってく!」と、おもちゃをねじ込もうとしていて、それを見ているだけで、自然と笑みが溢れた。
「……それは、いらないかな、瑞希。海にプラネタリウムは持っていけないよ」
「えぇ~~?! やだ~~~っ」
「まぁ、いいんじゃない?」
「綾明さんは甘いんだって」
瑞希が大げさに地団駄を踏んで抗議する。明織がそれを真似て転んだ。なんだかその姿が、おかしくて。くすっと笑って、小さく咳をひとつ溢した。
「大丈夫?」
綾明さんがすぐに顔を上げた。俺は笑って頷きながら、胸に手を当てる。
「うん。……ちょっと、息が上がっただけ。でもね、胸がきゅうってする」
「痛いの?」
「ううん……なんかね、楽しい気持ちでいっぱいになってるの。不思議でしょ?」
綾明さんは何も言わず、ただそっと俺のそばへ来て、膝をついて手を握ってくれた。
「明日出発したら……もう、後戻りできない」
「うん、知ってるよ」
「君が笑ってくれるなら、僕は……何度でも、前に進める。怖いのは、君が笑わなくなることだけだ」
「……綾明さん」
指先に力を込めて、ぎゅっと握り返す。そのぬくもりに、胸が締め付けられた。
「ねえ、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「もちろん。なんでも言って」
ゆっくりと視線を外へ向ける。夕陽が落ち始めた庭は虫の音が、静かに遠くから届いていた。
「旅行に行く前に……屋敷で、ひとつだけ思い出を作りたい。……思い出に抱いて欲しいと思うのはだめ?」
綾明さんは、一瞬だけ泣きそうな顔をして、それでも笑った。けれど綾明さんは、涙を見せなかった。
「……ダメじゃない。抱くよ、水都。君が覚えていられるように、何度でも。全部、僕の中に刻ませて」
俺は、目を閉じて、微笑んだ。
「ありがとう、綾明さん。……俺、幸せだよ。すごくーー」
9
あなたにおすすめの小説
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる
虹湖🌈
BL
死にたかった僕を、生かしたのは――あなたの声だった。
滅びかけた未来。
最後のオメガとして、僕=アキは研究施設に閉じ込められていた。
「資源」「道具」――そんな呼び方しかされず、生きる意味なんてないと思っていた。
けれど。
血にまみれたアルファ騎士・レオンが、僕の名前を呼んだ瞬間――世界が変わった。
冷酷すぎる彼に守られて、逃げて、傷ついて。
それでも、彼と一緒なら「生きたい」と思える。
終末世界で芽生える、究極のバディ愛×オメガバース。
命を懸けた恋が、絶望の世界に希望を灯す。
【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜
みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。
自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。
残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。
この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる――
そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。
亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、
それでも生きてしまうΩの物語。
痛くて、残酷なラブストーリー。
春風の香
梅川 ノン
BL
名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。
母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。
そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。
雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。
自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。
雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。
3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。
オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。
番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!
36.8℃
月波結
BL
高校2年生、音寧は繊細なΩ。幼馴染の秀一郎は文武両道のα。
ふたりは「番候補」として婚約を控えながら、音寧のフェロモンの影響で距離を保たなければならない。
近づけば香りが溢れ、ふたりの感情が揺れる。音寧のフェロモンは、バニラビーンズの甘い香りに例えられ、『運命の番』と言われる秀一郎の身体はそれに強く反応してしまう。
制度、家族、将来——すべてがふたりを結びつけようとする一方で、薬で抑えた想いは、触れられない手の間をすり抜けていく。
転校生の肇くんとの友情、婚約者候補としての葛藤、そして「待ってる」の一言が、ふたりの未来を静かに照らす。
36.8℃の微熱が続く日々の中で、ふたりは“運命”を選び取ることができるのか。
香りと距離、運命、そして選択の物語。
【完結】初恋は檸檬の味 ―後輩と臆病な僕の、恋の記録―
夢鴉
BL
写真部の三年・春(はる)は、入学式の帰りに目を瞠るほどのイケメンに呼び止められた。
「好きです、先輩。俺と付き合ってください」
春の目の前に立ちはだかったのは、新入生――甘利檸檬。
一年生にして陸上部エースと騒がれている彼は、見た目良し、運動神経良し。誰もが降り向くモテ男。
「は? ……嫌だけど」
春の言葉に、甘利は茫然とする。
しかし、甘利は諦めた様子はなく、雨の日も、夏休みも、文化祭も、春を追いかけた。
「先輩、可愛いですね」
「俺を置いて修学旅行に行くんですか!?」
「俺、春先輩が好きです」
甘利の真っすぐな想いに、やがて春も惹かれて――。
ドタバタ×青春ラブコメ!
勉強以外はハイスペックな執着系後輩×ツンデレで恋に臆病な先輩の初恋記録。
※ハートやお気に入り登録、ありがとうございます!本当に!すごく!励みになっています!!
感想等頂けましたら飛び上がって喜びます…!今後ともよろしくお願いいたします!
※すみません…!三十四話の順番がおかしくなっているのに今更気づきまして、9/30付けで修正を行いました…!読んでくださった方々、本当にすみません…!!
以前序話の下にいた三十四話と内容は同じですので、既に読んだよって方はそのままで大丈夫です! 飛んで読んでたよという方、本当に申し訳ございません…!
※お気に入り20超えありがとうございます……!
※お気に入り25超えありがとうございます!嬉しいです!
※完結まで応援、ありがとうございました!
【完結】番になれなくても
加賀ユカリ
BL
アルファに溺愛されるベータの話。
新木貴斗と天橋和樹は中学時代からの友人である。高校生となりアルファである貴斗とベータである和樹は、それぞれ別のクラスになったが、交流は続いていた。
和樹はこれまで貴斗から何度も告白されてきたが、その度に「自分はふさわしくない」と断ってきた。それでも貴斗からのアプローチは止まらなかった。
和樹が自分の気持ちに向き合おうとした時、二人の前に貴斗の運命の番が現れた──
新木貴斗(あらき たかと):アルファ。高校2年
天橋和樹(あまはし かずき):ベータ。高校2年
・オメガバースの独自設定があります
・ビッチング(ベータ→オメガ)はありません
・最終話まで執筆済みです(全12話)
・19時更新
※なろう、カクヨムにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる